ScrapTrinity

 

 

 

   くず鉄の至聖三者

 

 手のひらで触れたそれを淡雪だと思った。やわらかく、冷えていて、軽く力を加えるとわずかに落ち窪む。色はそれとなく桃色を帯びた気まぐれな白色、それも、蛍光灯の灯りできめ細やかな光を放つ。腕の中に抱きしめれば消えてしまうかもしれない。

「あ……あ、あっ、っ……う」

 まだ何も知らない少年だったころ、故郷では雪がたくさん降った。とんがり帽子の小さくてかわいい家々、大きな古時計のついた木製の校舎、針葉樹の森、オパール色の山なんかが一晩のうちに真っ白に覆われて、朝日が出ると銀箔を張ったみたいにきらきらと輝いた。同じくらいの子どもたちと柔らかい地面を踏み締めて遊んだ。白く無垢な顔をした雪に、ブーツの形をいくつもつけて回った。

 あの日から、一体どれだけのことが変わっただろう。

「は、はぁっ、も……もう、ぅ、あぁっ」

 いま、メルキオルが肌に感じているのは雪ではなく女の肉体だ。つけて回るのはブーツの形ではなく口吸いの痕だ。

 眼下の彼女は痩せていて、身体の節々に頼りない骨格の気配を浮かび上がらせていたが、男に拓かれる喜びに頬や唇へ血色をほとばしらせるさまは行き過ぎなほど魅力的だった。面立ちはシンプルに美しく、高めの鼻梁や利発そうな二重の青眼、怜悧なあごなどが彫りの深い顔の上に見事な諧調を作り上げ、それも今は淫蕩の限りにぼんやりと緩んでいた。

 慎ましやかに薔薇のつぼみを持ち上げる乳房を指で掴み、ゆするようにして揉み込むと、メルキオルを飲み込んだ女陰が戸惑いを帯びて痙攣する。彼女は悲鳴を上げ、無意識に腰をくねらせて押し寄せる悦楽の地平から逃れようとする。

「逃げないで」

「っ、……ぁ、ぁん、ん……」

 あまりにも頼りない骨盤をとらえ、自らの腰に強く引き寄せる。そうすると、先端が子宮の入り口のくぼみにぴったりと嵌まり込んで卑猥な粘着音を立てた。薄い腹が男の形に持ち上がる。彼女が甘く喉声を上げて、打ち上げられた魚がするように、背中を大きく反らして震えた。強く締め上げられ、メルキオルも思わず獣の呻き声をあげる。

 絶頂が近い。

 腰を折り、髪を振り乱して泣き叫ぶ小さな顔にぐっと鼻先を近づける。さらに奥深くに潜り込む姿勢になったことで再び強い刺激が脊髄を駆けのぼったが、遂情をすんでのところで踏みとどまる。

 至近距離で、微かにふくらんだ唇が固く結ばれているのを見る。愛おしさが焼きたてのフレンチトーストから溢れる蜂蜜のごとくメルキオルの胸中に満ち、その感情は、彼を実に愚かな行為へと駆り立てた。やわらかい頬を壊れ物にするように包み、そっと唇を近づける。吐息と吐息、まつ毛とまつ毛が交わるくらいの距離まで近づいて、やにわに、小さな手のひらに素早くそれを妨げられる。

「不要です」

 火焔のような喘ぎの隙間に、彼女は確かにそう言った。

 歯を食いしばったのは、高まりすぎた性感のためか、それとも後悔のためか。メルキオルは彼女の長い脚を担ぎ上げ、思いのままに激しく腰を揺すり立てた。若い肉同士のぶつかり合う乾いた音が、二つの性器が溶け合って立てる耳まで犯すような音が、熱くこもった吐息の音が、無愛想な空調ファンの駆動音に混ざる。彼女は唇を噛み、来るべき衝撃に備えている。

 やがて彼は感極まり、先端を子宮のほぼ内側にまで押し付ける形で吐精した。

 

 彼女の膣から萎えたものを引き摺り出す。

 奥の奥に放逐されたメルキオルの精はほとんど流れ出ることなく、代わりに白く濁った膣分泌液が彼女の鼠蹊部や下腹を汚した。理性を取り戻すとともに、全身の皮膚を滝のような汗が覆っているのに気づく。腕で額を拭うと、隣から綿のハンドタオルが手渡された。

「終わりかね」

 バルタザーだ。メルキオルの前に彼女の肉体を心ゆくまで楽しんだ彼は、その精悍な長躯に白衣を羽織り、長い金髪を後ろに束ねた格好で煙草を吸っていた。

 タオルを受け取り、腕や首まわりを拭きながら頷く。

「そうか。ならば早くどいてくれ」

 メルキオルは彼の冷淡な態度にムッとしたが、急かされて渋々彼女の上から立ち退いた。

 彼はサイドチェストから記録端末と旧型の体温計を取り出して、ぐったりと枕に身を預ける彼女の傍に回った。

「カスペ」

「はい」

 余韻にほどけたままの膣口を長く骨張った指で何度か押し開き、そこに抵抗がないことを確かめると、体温計の金属部分をそっと差し込む。液晶が蛍光緑に点灯し、ブロック体の数字が、三十五度からゆっくりと値を増やしていく。

「……三十七度九分、この分なら今日はもういいだろう」

 バルタザーは満足げに頷くと、左手の記録端末を器用に操り、計測結果やその他の情報を手際よく入力した。

「今月の月経予定日は五日後だったな。それまでしばらく様子を見るとしよう」

「ありがとうございます、バルタザー。メルキオルも」

 ようやくベッドから身を起こし、息も絶え絶えに彼女が微笑む。メルキオルが床に脱ぎ散らかされた彼女の白い長衣を拾い上げ、その細い肩にかけると、小さな手が母親にしがみつくみたいにその襟口を掴んで胸の前に寄せた。顎までの長さの黒髪が俯くことで頬のほうに垂れ、彼女の表情を二人の男から隠した。

「今度こそ、うまくいくと良いのですが」

 つぶやきは果てしない不安と孤独に彩られている。

 

 この星に、もはや雪が降ることはない。雨も霧も、雷も、太陽の光でさえ、大地から失われて久しい。

 単純なことだ。技術の飛躍的な進歩とともに、人類は他者、他民族、他国に対する憎しみを深め、ある日それが堰を切って暴発した。人々は機関銃を持ち、戦車を駆り、果てにはかつての教訓を忘れ、核兵器すら持ち出してきた。地上の街は余すことなく焼き払われ、大気は有毒物質と放射能に汚染され、技術開発ですでに尽きかけていた資源も濫用されて枯渇した。それでもなお大戦は止まず、人類は欲望のままに自分以外のあらゆるものを排除しようとし、結果、あえなく種としての絶滅を迎えた。たった六年間の戦争が、五百万年超の人類の歴史に幕を引いたのである。

 略奪され、蹂躙されて全てを失った灰色の大地だけが残された。歴史の終着点。神に見放された巨大な廃墟。動植物はおろか、昆虫や微生物、細菌に至るまで、あらゆる生物を許容しない不毛の地平――海は干上がり、森は腐り果てて砂塵に埋もれ、空は永遠の曇天に覆われて奇しく塒を巻く、かつて青い水の星と讃えられたこの土地は、手垢にまみれた黙示録の一篇にその旅の収束を見出したのだ。

 先の大戦で生き残ったごくわずかな人間もこの環境に適応することはできず、一人、また一人と数を減らしていった。そうして、最終的に生き延びたのはたったの三人だった。百億を超える世界人口が、十年もかからずに三人になった。

 医師のバルタザー。科学者のカスペ。そして、尋常一様の青年メルキオル。彼らは各地を彷徨ううちに巡り合い、安息の地を求める旅の末、ここタイペイの巨大地下シェルターに落ち着いた。折りしも、国家が大戦に向けて用意していたらしいその地下空間は、幸か不幸か全く使われることなく灰燼に埋もれ、その結果ほぼ完璧に近い居住空間と研究施設、生活資源が保存されていた。

 少なくともバルタザーとカスペは、知恵と機知に富んだ研究者だった。彼らは残された技術と自身の頭脳を駆使し、ついに過去への跳躍……時空遡行を可能にした。過去に介入し、人類を絶滅させるに至った原因を改変することで滅びの未来を回避する。そのために二人は歴史の観測と技術開発に努め、メルキオルはその先鋒として何度も過去に跳び、歴史に手を加えてきた。

 しかし、そのどれもが期待する結果をもたらすことなく、三人は相変わらず終末の中を生きていた。このままでは、人類は本当に絶滅してしまう。苦慮の結果、彼らは歴史改変計画に加え、種を残すための繁殖行動に出た。具体的には、地球上にたった一人の女であるカスペに種をつけ、子供を産ませることで人間の遺伝子を後世に残そうとしたのだ。

 彼らの生存戦略は実に合理的だった。だが、そこには一つだけ問題があった。他の二人には取るにたらないことだろうが、メルキオルにとっては何よりも重要で、大切なこと。

 

 深夜、チェスに興じていたバルタザーとメルキオルのもとを、薄衣一枚のカスペが訪れた。

 彼女の、切花のようにみずみずしい身体は熱を帯びてしっとりと上気し、髪からは水滴が滴って剥き出しの胸元を濡らした。メルキオルは盤面を放り投げて駆け寄り、自らの上着でその肩を包もうとしたが、彼女はそれを左手で押しとどめて拒絶した。

「最後の月経から一週間が経ちました。そろそろ良いでしょう」

 先月の黄体期、カスペは結局妊娠することはなく、それが彼女自身を大いに落胆させた。彼女は開始から五年が経過した今、目立った進展を見せることのない二つの計画に焦りを感じはじめていた。

「了解した。こちらももう済むところだ」

「えっ」

チェックメイトなのだよ、メルキオル。私の勝ちだ」

 バルタザーの長いつま先がF8からF9にルークを進め、H9に留まっていたメルキオルのキングを追い詰めた。

 

 黴臭いシーツの上に、カスペの新雪の色をした肉体が投げ出されている。四肢は脱力し、ほの青い瞼は軽く閉じられて、その情調はまるで死体か何かのようによそよそしく、無感動だった。

 メルキオルは、伏せて置いた白い盃のような、慎ましく小さな乳房の先を、唇で探りあてて吸った。前歯でやさしく挟んだり、そのまま左右に揺らしたりすると、柔らかかった嘴はにわかに芯を持って彼の歯を押し返すようになる。乾いた皮膚が熱を帯び始める。あまりにも感じやすく、無垢な身体だ。遣る瀬のない罪悪感が、さらに男の不躾な手を急き立てるのが皮肉だった。

 押し殺され、じっとりと熱のこもった吐息が、メルキオルの豊かな髪をむずむずとくすぐる。

「唇、噛んでるの。だめだよ……」

 彼女の、薄い睡蓮の花びらのような下唇を、メルキオルは恋人にするように指で撫でた。

 解放を望んで悩ましく揺れる腰を押さえつけ、自分で膝を開くように指示をする。おとなしく差し出された陰部は、すでに淫らに開花を終え、ピンク色の粘膜に濁った膣分泌液をたっぷりと滴らせていた。外郭の部分までが陰気な夜の気配に色濃く覆われて湿っていた。

 核心を避け、すべらかな無毛の恥骨部分、鼠蹊部にできた小さなくぼみ、内腿の薄い皮膚部分などに、話しかけるようなやわらかな愛撫を施した。そのたびに、彼女のほどけきった赤椿は熟しきった花びらを持て余し、爪の先ほどの陰核をさらに充血させていった。くびれた腹が細かく痙攣し、波打つ。横たえられた腕や指先は、メルキオルの指や唇が神経の多い場所を掠めると、何か訴えかけるように握られたり緩められたりする。夕暮れ時の灯台の火が行ったり来たりするみたいだと彼は思った。

「メルキオル。む、無駄なことはやめてください。その……はやく……」

「無駄なこと?」

「生殖行為に愛撫など、私の快楽など不要です。準備は……できているのですから、あとはあなたが挿入し、精を撒けば」

 吐息混じりの甘やかな声でカスペが訴える。

 メルキオルは、隣で順を待つバルタザーと思わず視線を交わした。彼は古めかしいシェイクスピアの喜劇をつまらなそうにめくっていたが、メルキオルと目が合うと、心底嫌そうな顔をしてため息をつき、

「……中世キリスト教信者の間で行われた快楽を律した性交は、結果的に出生率を下げたという学説がある。一概に無駄なこととは言えん」

 とつぶやいた。

 カスペは拗ねたようにそっぽを向き、枕に顔を埋めてしまった。骨折り損のくたびれもうけです、くぐもった声が不平を言う。だが、股座では相変わらず細く深い陥穽が半熟の水蜜桃を思わせる中身を見え隠れさせていたし、陰核は言い逃れができないほどつんと尖っている。

 メルキオルは彼女の淫唇に舌先を滑らせ、その尖った先に口づけをした。熟れた芯を嬲り、食み、歯先で擦り合わせるように甘噛みした。彼女の悲鳴は音を失い、掠れた空気の出ていく気の抜けた呼吸音ばかり切れ切れに響いた。

 小さな手がメルキオルの頭をどかそうと躍起になって動く。腰は予期せぬ刺激から逃れようと浮き上がり、しかしすぐに抑え込まれて捩れることすらままならなくなる。

 不意に、わずかに照準がずれて、尖った犬歯が陰核の硬い芯の部分を抉った。

 細い首が生き物のようにのけぞったかと思うと、次の瞬間、痙攣が彼女の肉体を一度に駆け降りた。風が吹いて、モスグリーンの静かな湖面に広く波紋が広がるかのような、斉整たる震えだった。白魚の銀のうろこを思わせるすべすべとした背中が思い切り伸び上がり、整えられたつま先は空虚を掴むように硬く丸まる。激しい反応に呆気に取られるやいなや、メルキオルの開いた喉に、生ぬるい潮の匂いのするものが勢いよく叩きつけられた。

「あ……あっ……」

 メルキオルはそれを、動物がするように下品に貪った。舌や唇を用いて、最後の一滴までを強く吸い上げる。甘い感傷が喉奥や食道を焼く。彼女の涙声や、手のひらに感じる皮膚の熱さなどとともに、やけどの記憶は彼の官能に深く刻まれる。

「あなたは、な、なんてことを!」

 肉欲の極みから立ち戻ったカスペは、いの一番にメルキオルの頬を平手打ちにした。

「何を考えているのですか、こんな、こんなことって……」

「ごめんね」

「話になりません。バルタザー! 役割を果たしなさい!」

 彼女は怒りに震えていたが、それは彼女の中で捏造された感情だろうとメルキオルは思った。これほど深く快楽の淵に沈められたことが、おそらく、生殖のための性交しか経験のない彼女にはなかったのだ。それに気づいたとき、少しの苦味を帯びた後悔がメルキオルの若い心をよぎった。

 本を閉じたバルタザーが立ち上がり、メルキオルが去ったあとの彼女の身体にのしかかった。メルキオルは粗相をして叱り飛ばされた大型犬のごとく、大人しく二人のそばに座り、バルタザーが事もなげに彼女の膣をほぐしにかかるのを眺めた。相変わらず手慣れているが、無骨な指はどこかやりにくそうだ。

 彼がベルトを緩めると、避けがたい肉体反応に兆した陰茎が顕わになる。カスペが何か言い出す前に、それは彼女の、泥湖のぬめりを帯びた粘膜へと飲み込まれていった。彼女が無防備に喉をさらけ出し、お、ともう、ともつかない唸り声をあげる。一度高められた肉体は従順すぎるほどに快楽を受け入れ、自らの中の男にも同じ思いをさせようと動いた。

 メルキオルは、乱れるカスペの顔を覗き見ようと腰を上げた。そのとき、図らずも、彼の目はバルタザーのヘリオトローブの虹彩とぶつかっていた。三度瞬きする間の時間、二人はおたがいのまなざしに言葉以上の語らいを込め、それを交わした。やがてバルタザーが音もなく瞼を閉じた。メルキオルは傾けた顔を彼のもとによせ、その口許に軽く唇を擦り合わせた。

 ごくあっさりとした口づけだった。仄々と、ほろ苦い煙の香りがした。

「禁煙したほうがいいよ」

 メルキオルがそう囁くと、彼はぎりぎりそれとわかるくらいの微笑みを唇に蓄えてみせた。

「考えておこう」

 

 春がやってきた。

 正確には、約七九〇万秒ごとに設定された環境再現機構のサイクルが、冬から春の領域に移り変わったのだ。本当の季節のことはもう誰も知らない。外には相変わらず滅びだけが満ちている。だが、地下農園にはトマトやカブが実り、メルキオルの部屋の鉢植えのエリカも盛りを迎えて、もの寂しい鉄の要塞にささやかな彩りをもたらした。花を贈ったらカスペは喜ぶだろうか。

 その日、三人は研究室にて膝を突き合わせ、難航する計画の再編について議論を重ねていた。いまの段階では滅びの運命を孕む命であっても、できる限り犠牲を生むことは抑えたいメルキオルと、焦りに任せて極端な持論を振りかざすカスペの議論は激しくぶつかり合い、途中からは立ち上がっての口論になった。

「きみはいつもそうだ。なぜそこまで振り切った結論を出せるんだ!」

「黙りなさい! あなたの言うことなど欺瞞です、おためごかしです! 多少の犠牲を払わずして、一体何ができるというのです!」

「誰かを置き去りにして取り戻した歴史なんか、僕は認めないぞ。取りこぼして良いものなんてひとつもない、それはきみだって理解しているはずだ!」

「この意気地なし、どうしてわかってくれないのですか!」

 小柄なカスペは背伸びをして精一杯自分を大きく見せようとした。長身のメルキオルも、上から威圧をかけることで彼女の戦意を打ち負かそうとした。額がぶつかるギリギリの位置で檄を飛ばし合う二人を、バルタザーは軍用レーションのガムを噛みながらつまらなそうに眺めている。

 彼は最近清涼系のガムをたばこの代わりにあてがったらしく、こうして手持ち無沙汰になると二個も三個も口に放り込み、熱心に咀嚼するのだった。

「だいたい、僕はきみ自身のことだって不満なんだ。どうして無理ばかりして僕たちを心配させる? 歴史も大事だが、きみのことだって僕は……」

「世迷言を! あなただって、一人でなんでも抱え込もうとして……その度に私がどれだけ心揺さぶられているか、あなたは知らないのでしょうね!」

「ああ知らないさ、知るものか!」

「一人も取りこぼすなと言いながら、あなたはいつもあなた自身を勘定に入れない。私はあなたのそういうところが」

 掴みかかる勢いで息を荒げていた彼女が、たまさかに、口をつぐんで立ち尽くした。

 初め、これ幸いと持論を展開しようとしていたメルキオルも、彼女の顔色がみるみるうちに青ざめていくのを見てその異常を察した。小さな手が咄嗟に自らの口許を覆う。細い身体が平衡を見失ってくの字に折れ曲がる。全身の皮膚にはじっとりと汗が滲み、薄っぺらい肩は小刻みに震え出す。

 倒れ込む身体をすぐさま受け止めた。冷たい。

 彼女はメルキオルの腕の中で頻りに何かを吐き出そうとした。だが、長らく空になっていた胃からは何も出るものがなく、代わりに嗚咽と空咳が彼女の喉を傷つけた。

 バルタザーは、勢いよく立ち上がると、近づいてきて彼女の首筋をさわった。

「医務室に運べ」

 彼女は妊娠していた。

 

 三人で、彼女の胎に根付いた存在をたしかめた。

 全面真っ黒だったモニターに未発達の胎嚢が写り、その内部に白い米粒のようなモヤが現れて、バルタザーはそれを成長途上の胎芽であると説明した。それは遥か遠くの六等星がするように細かく萎んだり膨れたりした。すでに心臓が動いているのだ。まだ胎児にもなりきらない、本当に小さく頼りない命だった。

 メルキオルは横たわるカスペの手のひらを握りしめながら、その様子を感無量で眺めた。数々の人間の死を見届けてきたが、命が発生する瞬間に立ち会うのは初めてだった。感動とも喜びとも異なる、不定形の感情が、引き波のあとに残る潮の響鳴のように彼の臓腑を渡った。見るものすべてがすみずみまで洗われたような、乾いた心を濡れた指で優しく撫でられたような、そういう種類の気色だった。

「これが……」

 カスペは、いまだ顔面蒼白のままだったが、その瞳はようやく訪れた希望の兆しに明るく輝いている。

「人間なのですか。本当に?」

「まだ神経管の分化も始まっていない段階のものを人間に分類できるかどうか、判断に迷うところではあるが、いずれそうなるという意味では、これは確かに人間だ」

「まあ」

 眩しそうに瞬きを繰り返しながら、彼女は手のひらをまだ凹んだままの腹に当てた。「なんだか、不思議な気持ちです。うまく言葉にならないのですが、私は、とても……こんな気持ちになったのは初めてで……」

 メルキオルは、戸惑う彼女の頭を子犬にするように胸の前に抱きしめた。彼女の柔らかい黒髪が、メルキオルの顎や首にふわふわと触れた。おめでとう、非現実感に漂ったままの耳殻にそっと囁いてやる。額や頭を撫で擦り、頬にキスをしても、彼女が拒絶することはなかった。

 

 それから十ヶ月の間、全ての計画が一度凍結されることとなった。初産をむかえるカスペにとっては、継続的な健康状態の観察と心的安定の維持がことさら重要であると、バルタザーが判断したからだった。彼女は研究室から遠ざかって農園や自室などで静穏に過ごし、メルキオルやバルタザーは、その生活をよく助けた。

 初めの数週間、カスペは重い悪阻に苦しみ、食事もほとんど摂れずひねもす寝てばかりいた。普段の彼女が好んで口にする紅茶やカナダのレーションプリンなどもめっきり受け付けなくなり、ただでさえ線の細い身体は、輪をかけて痩せていった。肌や服から食べ物の匂いがして不快だから近づいてくれるなと言われたときには、ショックと不安でメルキオルまで寝込むハメになった。が、十二週目をすぎるとそれも少しずつ改善していった。

男児であれば良いのですが」

 ある日、検査台に横たわって診察を受けながら、彼女はそんなことを言った。

 モニターには、初めに見たときよりずっと大きくなった胎児が映っている。そよ風にすらあっけなく飛ばされる塵のようだったこの眇眇たる住人は、たった数ヶ月の間に確かな質量を獲得し、彼女の胎にしっかりと根付いていた。不明瞭な部分のあるエコー映像の中でも、タツノオトシゴによく似たシルエットから小さな手足や臍帯が伸びているのがはっきりと確認できる。だが、彼女はそんな我が子を横目で眺めながら、神妙な顔つきでため息をついた。

「どうして?」

 そばに付き添って一緒にモニターを覗き込んでいたメルキオルは、彼女の一言に首を傾げた。その声音がらしくもなく弱気だったからだ。

「カスペに似たかわいい子だったら、僕は男の子でも女の子でも嬉しいな」

「そういう問題ではありません。……い、いえ、そういう問題もあるのかもしれませんが」

「じゃあ、どういう問題なんだい?」

「……女児であれば、いずれ望まぬ妊娠を強要することになるでしょう」

 その発言に、メルキオルだけでなく、彼女の腹の上にプローブを滑らせていたバルタザーまでが手を止めた。

「驚いたな、君がそんなことを言い出すとは」

 そうぼやくバルタザーの顔は、目の前でミルクの盆をひっくり返された猫みたいだった。声は相変わらず平坦だったが、切長の瞳の奥で瞳孔が小さく縮こまっているのがメルキオルにもわかるほどだった。きっとメルキオル自身も同じような顔になっていたのだろう、カスペはあからさまに眉を顰めると、居心地悪そうに目を背けた。

「私、何かおかしいことを言ったでしょうか」

「いや」

 らしくもなく、バルタザーは適切な言葉を探しあぐねているような様子を見せた。

「しかし、……カスペ、今回生まれるのが男児だとしても、結局は女児を別にもうけ、我々が老いたのちは彼らに生殖を行わせることになる」

「わかっています」

「我々の悲願は人類史の存続であり、君はそのことを忘れてはならない。一時凌ぎの甘い感情に惑わされぬことだ」

「ええ、ええ……」

「いいか、ゆめゆめ忘れるな。全てはより良き未来のために」

「……より良き未来のために」

 滅びのもとに集った日から何度も唱えた誓いの言葉を、二人は改めて確かめる。

 そのとき、彼女の表情に翳りがさしたのを、メルキオルは決して見逃さなかった。以前は、典礼にて福音を読み上げる侍者のように胸を張ってそう誓った彼女が、今は泣きそうな子どもの目をして、視線を泳がせて唇に言葉を乗せていた。それはバルタザーにもわかったのだろう。彼は苦い灰汁を飲み下したときの表情をして、以降むっつりと黙り込んでしまった。

 カスペの中に、今まで存在しなかった何かが芽吹いたのを、このときメルキオルは確かに感じていた。

 

 夏になってからしばらくしたころ、自動メンテナンスのためにシェルター内の電力の大部分が一度に落ちたことがあった。窓をもたない鉄の要塞は暗澹とした空気に包まれ、空調ファンがもたらす風の一陣でさえもの寂しいものに思われるほどだった。

 小さな蝋燭だけがものにほのかな輪郭を与える暗い部屋で、メルキオルは安っぽい作りのベッドに乗り上げ、シャツの前をわずかにはだけさせたバルタザーを見下ろしていた。オレンジ色の火が、彼の蚕の繭のような肌や高い鼻梁、硬く生真面目そうな曲線を描く頬、金色のまつ毛を、メルキオルの眼下につまびらかに照らし出す。手のひらで触れた肉体は、岩の上に立つ神殿を思わせる堅牢さと厳粛さをたたえ、指の腹や母指球をしっかりと押し返す。そこに雪の脆さ、はかなさはない。自然、メルキオルの口許に微笑みが駆け上がってきた。

「何を笑ってる」

「いんや。きみだって本当は怖いくせにと思ってね、博士」

「……くだらん。悪趣味だ」

 乾燥し、ささくれ立った唇を舌打ちに歪め、バルタザーは左手でサイドチェストの上を探った。もぞつく腕を掴み、シーツの上に無理やり押しつける。

「僕、ミント嫌いなんだ」

 湖を渡ってきた小舟が船着場に漕ぎ着くような自然さで、メルキオルはその可愛げのない唇に口づけを贈る。

 珍しく、文句一つなく受け入れられる。感じやすい皮膚を擦り合わせ、めくれあがった皮のひっかかりや、ツルツルとした剥き出しの傷跡の感触を楽しむ。上唇のとがった部分を前歯で軽く噛むと、仕返しとばかりに濡れた舌が歯列の内側にねじ込まれた。歯茎の内側をなぞられたと思えば、上顎の、粘膜の薄い場所をそっと撫でられる。柔らかくて温かい肉だ、思い切り歯を立てたらちぎれてしまいそうな。バルタザーには不似合いな優しい機関だった。

 同じように舌を差し出し、獣の番が身体を寄せ合うような調子で先端を絡ませ合う。戯れに舌の裏側、舌小体の細い筋を突いてみると、途端にバルタザーは喉を詰まらせ、呼吸を乱した。顔を背けられ、その拍子に彼の頬を唾液の軌道が走った。

「もういい」

「何の味もしなかった」

「禁煙しろと言い出したのは君の方だろう」

「あーあ、お酒が飲みたいなぁ……」

 ぼやいていると、不意に腕を掴まれて、視界が大きく反転した。天井と、眉尻を吊り上げたバルタザーを見上げる姿勢になる。美しい男の面高には静かな怒りがよくにあった。

「私のウイスキーを空にしたのはやはり君か」

「ほったらかしてあったの、バルタザーのだったんだ」

「ほったらかしてない。カスペに見つからないように隠しておいたのだ」

「ごめんって。ほら、許してくれよ」

 ベルトのバックルを外し、スラックスの前をくつろげると、彼は嘆息し、自ら腰を上げて協力の姿勢を見せた。長く神経質な指が下着から頭をもたげた陰茎を手早く取り出し、握り込んでは数度扱きあげる。的確に男性性の弱点を把握した動きは、メルキオルを瞬く間に亢奮の絶頂に導く。

 雑に服を脱ぎ捨て、メルキオルの上に膝で乗り上げたバルタザーのことを、まだ幼いころに両親に連れられて見上げたダビデ像のようだと思った。西洋人の特徴を色濃く受け継いだ、象牙細工のような男の身体、それが薄暗がりの中にほの白く立ち上がっている。肩や胸板、腹にかけてをしなやかな腹筋が覆い、臍下に至るその筋の一つ一つに打たれたばかりの鋼のごとく強硬な意志が満ちているのがわかる。 

 彼はため息に似た深呼吸を一つして、無防備な肛門にメルキオルの性欲をゆっくりと招き入れた。

 女の膣とは種を別にした、狷介に、かたくなに引き締まった肉だ。歯状腺のひだは敵意に満ちて、亀頭の侵入を断固として拒む。バルタザーは、そんな自らの肉体の防衛機構を完全に無視して、眉根が痛みに引き攣るのも構わずことさらに腰に体重をかけていった。およそ閨にはふさわしくない、苦痛に満ちた獣の唸りが彼の喉に起こる。

「下手だね」

「き……君と、そう変わらん、よ」

 彼は荒い吐息の間に答えた。星の色をした長い髪が垂れ幕のように流れてきて、向かい合う二人の顔を外界から隠した。

 気丈に振る舞おうとしても、彼の括約筋は痛みとひきつれに頻りに震え、額は汗でびっしょりと濡れている。事前に拡張することも慣らすこともしなかったのだから当然だ。ついに歯を食いしばりだした頬に指を当ててみる。

「痛いの……?」

 こわばった咬筋のあたりを優しく撫でてやると、バルタザーの手がそれをしっかりと握った。指先に頬の重みがゆるやかにかかる。湿った片息が、爪の先を悪戯にくすぐった。

「君に言えたことかね……」

 女のように長いまつ毛がたわやかに伏せられる。それに応えて、メルキオルも、彼の大樹の幹のような首を引き寄せた。水を打ったような静かな感動が二つの唇を再び出合わせた。永遠に行くあてのない、さみしい唇同士を。

 

 夜半、喉の渇きを覚え、メルキオルの意識は急速に覚醒した。

 寝ぼけ眼でベッドサイドを探るが、出てくるのはミントガムやその包み紙ばかりで、めぼしいものは何一つ見当たらなかった。仕方なく身体を起こし、バルタザーを起こさないようにベッドからそっと抜け出す。

 部屋付きの簡易バスルームでシャワーを浴びる。蛇口を捻ればすぐに温かい湯が流れたので、寝ている間に電力が戻ったのだとわかった。灰と獣油で作った簡易石鹸を軽く泡立て、頭から爪先までを清めた。背中を洗うときには少し痛んだ。

 食料や飲料水に類するものは、基本的にはシェルター最下層の冷凍コンテナに収められているが、その月に必要なものなどはまとめて給湯室に保管されている。彼は身体の水分をバスタオルであらかた拭き取ると、脱ぎ散らかされた衣服の中から適当なものを身につけ、部屋を出た。

 果ての見えない回廊は薄暗い。足音一つですら大げさなほどに響くので、自然足取りも忍んだものになる。

 シェルターは三人の居住スペースであると同時に、彼らが救えなかった人々の霊廟でもある。十分な火を焚くことができず、生焼けのまま弔われた遺骨が、小さな棺に納められ、この長い螺旋回廊に並べられている。だから朝も夜も関係なくここの空気は閉塞していて、空気が澱んでいる。非業の死を遂げた無辜の子ども、女、老人、人々を守るため勇敢に殉職していった男たちの無念が、呼吸するたびに肺や喉に入ってくる感じがする。

 背筋に冷たい震えが走った。シャツの胸元を掴んで自分を宥めながら早足で歩く。

 無意識に呼吸まで詰めたメルキオルの耳を、……ふと、何かの物音がくすぐった。

 人の声だ。

 メルキオルは、しばらくの間、それが誰の声であるかわからなかった。思い当たる人物はもはや地上に二人きりなのだが、そのどちらからも、これほどまでに優しい声を聞いたことがなかったからだ。

 声は、こちらがこそばゆくなるほど暖かく、慈しみに満ちて、寒々とした空気を日差しのごとく穏やかに渡った。歌うように紡がれるのは子供向けの物語のようだった。

「……こうして、世界にふたたび光がもたらされました」

 薄闇の中に、一筋、明るく漏れ出るものがあった。彼女の、カスペの部屋から差し染めた、暖かな蝋燭の灯りだった。

「それは、だれもが胸の中に持っているのに、いつのまにか忘れてしまっていた光でした。人びとは神さまにお礼を申し上げ、今度こそみんな仲よく、いつまでもしあわせに暮らしました」

 つま先についてしまうほど長い白の長衣に身を包み、安楽椅子に深く腰掛けて、カスペは軽く目を閉じていた。ほっそりとした指が、ふくらみの目立ってきた腹を何度もやさしく撫でさする。

 しばらく、メルキオルは扉越しの彼女に目を奪われていた。

 そのときの彼女は、メルキオルが知るどの女よりも美しかった。美しいという言葉では役不足ではないかと思うほど、それでも陳腐でつまらない、使い古されたこの表現でしかこの人を語ることができないのではと本気で悩んでしまうほど。今まで美しいと形容されてきたすべての人やものの、一番よいところだけを集めて輝く結晶にしたような……彼女の魅力は、そういう種類のものだった。

 もとから細く、ともすれば折れてしまいそうだった身体は、妊娠と慢性的な栄養失調でさらに痩せ細り、腹だけがたちの悪い冗談のように迫り出しているのがなんとも不恰好だった。しかし、その花顔は、薔薇やマグノリアがほころぶ一瞬の華麗、尊いものを前にして思わず膝をついたときの至上の喜びに満ち溢れ、それは皮膚細胞の一つ一つでさえ輝いているように錯覚させるほどだった。しずかな展望を見せる冷たい額、高貴に筋の通った鼻梁、頬や眦には花の色がはつかにさし、肩の長さまで伸びた髪は底なしの濡羽色に艶を帯びていた。ゆったりと下がった眉はやさしくも凛々しくほのかな弧を描き、物語を語り終えた唇は淡い余韻にかすかに白い歯を覗かせていた。彼女の美しさは、人間の想像力をはるかに凌ぐという意味でもはや非現実的だった。

 幸福が、ちっぽけで痩せぎすのこの少女を、窈窕たる聖母にたとえあげた。穢れも欲もない。人間の憎しみが滅ぼしたこの星の上で、彼女だけがいまだ清浄で誇り高く、純潔だった。そして、そうした女の美しさはしばしば不吉な予感に結びつくものだということを、メルキオルはよく知っていた。

「あ……」

 開いた扉越しに立つメルキオルを見とめ、彼女の瞳はみるみるうちにうるんできた。顔全体をかわいそうなくらいに赤らめ、慌てたように視線を泳がせる。

「その、お、お腹の赤ちゃんには読み聞かせが良いと、以前そう聞いたのを思い出して。でも絵本がなかったので、それで」

「うん、素敵だった」ほめ言葉は滑り落ちるようにメルキオルの舌を離れた。「そっちに行ってもいい?」

 とうとう俯きながらも、彼女は軽く顎を引いて肯定の意を示した。

 部屋に入ると、花や、ミルクや熟れた果物のような快い香りがした。繊細な生き物を驚かせないよう、足音を立てずに近づき、安楽椅子のそばに腰掛けて彼女の顔を見上げた。

 バルタザーがダビデ像なら、カスペはかつて祖母に連れられて訪れた大聖堂のピエタだった。果てのない慈しみが、メルキオルにまなざしを注ぐ青い瞳に満ちていた。過ぎ去りし日々の海の色だ。天性の色だ。

「手をください」

 彼女の言葉に導かれるまま、メルキオルは自らの無骨な手を差し出した。繊細な白い指が大事そうにそれを受け取り、水かき部分の薄い皮や、MP関節の出っ張りなどに触れ、やがて全く作りの異なる二種類の指は合流する川と川のように絡み合い、ひとつになった。優しい力でぎゅっと握り込まれる。手のひらが温かい。夢みたいだと思った。

「カスペ」

「メルキオル……」

「きれいだなぁ、きみは」

 ほんとうに? ささやきはほとんど遠星のおしゃべり程度だ。

「ほんとうさ」

 唇のほとりに無邪気な微笑みの波が漂う。可憐だった。

 繋がれていないもう一つの手のひらが、メルキオルの頭を犬や猫にするように撫で、ふくらんだ腹の方へそっとかたむけた。満月を孕んだみたいにまるい形が耳の皮膚に直接感じられた。思うよりずっとやわらかい。田畑を渡る晩鐘のような、ゆっくりと味わい深い鼓動が、鼓膜の奥に確かに届いてくる。

「最近、動くのがわかるようになってきたんです。小さな足の裏が……ほら」

「どれどれ」

 さらに耳や頬をまろやかな輪郭の上に近づける。

 すると、頬骨が当たっているくらいの場所に、かすかな反発があった。はじめはかろうじてそれとわかるくらいの衝撃だったが、少しの間をおいて、今度はちょうど耳の辺りを内側から勢いよく押し返されたのをはっきりと感じることができた。嬉しくて、大声で笑ってしまいそうだ。

「わ! ほんとだ!」

「でしょう?」

「ああ……何だかかわいいね」

「ふふふ」

 カスペは口許を上品に覆い、小鳥が囀るみたいに笑った。

「まだできてから五ヶ月とすこしの命なのに。子どもの成長というのは、本当にあっという間なのですね」

 切なさと取り違えてしまうくらいのほの明るい感情が、彼女と、彼女の子に向けて花ひらく。

 中世の騎士が女君主にそうしたように、握った片手のすべらかな甲に、万感の思いを込めてそっと唇を押し付けた。骨の浮いた皮膚からは甘いミルクの匂いがした。自らの胸に湧き起こる、くすぐったくなるほど切実な想い……そのさなか、一滴の黒い染みが沸き起こったのに、メルキオルは気づかないふりをする。

 

 彼女が妊娠してから二十一回目の日曜日、夏の終わり頃には、モニターに映る胎児もすっかり人間の赤ん坊らしさを帯びていた。顔立ちや外性器の形もはっきり確認できるようになり、どうやら男児であるらしいこと、メルキオルではなくバルタザーが父親であるらしいことがわかってきた。

 それでもメルキオルの決意は変わらなかった。彼女を守ること。彼女の子に未来をもたらすこと。祝福に満ちた黄金の星が彼の頭上に清冽に瞬き、その輝きは彼の顔色を明るく、誇らしげにした。

 だが、曖昧だった不運の予感は急速に膨れ上がり、ついに現実の彼らをまで黒く暗澹とした雲の中にすっかり覆い隠してしまうのだった。

 ある日の午後、三人は地下農園にいた。メルキオルはカスペを連れ、整備された遊歩道を歩いていた。秋を間近に控えて、稲穂は若緑から目の覚めるような黄金色に装いを改め、そら豆やえんどう豆は種子の気配を可愛らしいさやの中に確かに孕んていた。バルタザーが熱心に手入れをしている果樹棚には大粒の葡萄の実が鈴なりに垂れ下がり、人工太陽照明灯の強い光につやつやと照り輝いていた。

「たまには歩かないと身体に悪いですよ」

 そう言いながら手をひいてくれる彼女の腹はますます膨らんで、メルキオルに冬ごろの出産を予感させた。長く苦しい手探りの日々がようやくひとつ結実を得ようとしていることに、また彼女が心待ちにしている我が子を抱ける日が来ようとしていることに、メルキオルの心は早くも緩みかけていた。

 似合わない日除け帽子をかぶり、根菜畑に屈んで土を掘り返しているバルタザーが、あまり遠くに行くなよ、と叫ぶ。

「大丈夫です!」

 カスペが上半身を大きく伸び上がらせ、声を張り上げて答えた。その姿があまりにも健康的だったので、一瞬、メルキオルの意識は滅びのことを忘れ去り、かつての平和な日々に立ち戻っていた。そのひとときの心の隙が彼から注意力を奪い、警戒を奪い、予感を奪った。事はその、一呼吸にも満たない間に起きた。

 まず、風が吹いた。冷たい風だった。地下農園は、広大ではあるが外部に繋がらない密室であり、風など起こりようもないのだが、彼の感覚器官はたしかにそれを風だと思った。全身の産毛が俄かに逆立ち、そのエネルギーの流れの形に靡いた。

 次に、背中の毛穴が開いて、悪い予感がたっぷりと溶け込んだ汗が滲み出てきた。ここにきてようやく、彼は彼自身がこの夏の間絶えずそばに感じ続けていた不吉な予感のことを思い出した。

 繋いだ手が力無く解かれた。彼は、彼の目の前で、カスペの全身からふっと生気が抜けていったのを感じた。彼女は目を見開き、何が起きたのかわからないといった顔で自分の手足を見下ろしていた、かろうじて正気を取り戻した右手のひらが、命の形に兆した腹の上にそっとすべらされる。何度も何度もその輪郭を確かめる。やがて細い肩が震え出した。瞳に、混乱と恐怖が順番に駆けて行った。

「あ」

 細い喉からかすれた音が漏れる。

 次の瞬間、彼女は全身を虚脱に任せ、膝から勢いよく崩れ落ちた。

 メルキオルの腕の中で、彼女は両手を肩に回し、震える自分の体を必死に押さえつけた。まるでそうしていなければ心がばらばらになってしまうのだというふうに、強く、我が身を抱き抱えた。

「うそ……嫌、いや……!」

カスペ! おい、どうしたんだ! しっかりしろ!」

「あ、あああ、ああああぁ……!」

 恐怖が彼女の理性を支配した。聞くものが耐え難く思うほど悲痛な叫び声をあげて、彼女は狂おしく頭を振った。

 バルタザーが、鍬を放り投げてこちらに駆け寄ってくる。

「やめて……ああ、お願い、お願いします、やめてください……!」

 ついに暴れ出したカスペを、バルタザーと二人がかりで押さえつけた。メルキオルには何が何だかさっぱりわからなかったが、彼はすでにカスペを襲った何者かの正体を掴んでいるようだった。瞳孔を限界まで開ききった表情のまま口もきかない。顔色は哀れなほど真っ白だ。

「何が起きたんだ」

 メルキオルは彼に尋ねた。

 彼は何度も何度も言葉を詰まらせながら、かろうじてこう言った。

「診察すればわかることだ」

 

 乾いた風が、メルキオルの前髪を音もなくさらった。ばらばらになった毛先がまつ毛の上で奔放に戯れるのを、彼は感慨もなく、ただぼんやりと眺めていた。

 シェルターの外に出たのは実に五年ぶりだった。

 くず鉄の山に登り、崩壊を受け入れて原型すら失くした瓦礫を踏み分けて歩く。虚空へ腕を差し伸べるような恰好で折れ曲がった超高層展望台の廃墟や、ビル群のなれの果ての残骸、芋虫の死骸めいたスクラップのモノレール、それらを無感動に眺めながら、あてもなく破滅を彷徨い歩く。決して晴れることのない総積雲は赤黒く塒を巻き、死んだ星の汚れた大気は、完璧に管理された空調に順応した彼を激しく咳き込ませた。そうでなくとも、まだ半減期を迎えるまでに途方もない時間を要する放射性物質の群れが、無防備に晒された彼の皮膚や内臓を絶えず被曝させているはずだが、今はそれもどうということのないもののように感じられた。

 じりじりと砂をかむような時間がゆく。

 メルキオルは歩みを止めた。かつてシャンハイ・ナガサキとここタイペイを繋いでいた巨大な海上自動車道の残骸が、横転した状態で彼方まで続いている。いつの間にか湾岸地区までやってきていた。この辺りは比較的損傷が少なく、舗装された道路の跡がまだ白く残っていた。海は干上がり、潮風は永遠に止んでいた。

 かつての海岸線に向かってゆるやかな丘を降っていくと、沖の方に迫り出した岬と、その尖端に見慣れた姿が見えてきた。

 白衣を羽織り、背骨を折り曲げて座り込む背中はバルタザーのものだ。彼は滅びの地平を俯瞰しながら、紙巻きタバコをつまらなそうにふかしていた。

「こんなところにいたんだ」

 メルキオルが声を掛けてようやく、彼は緩慢に視線を動かし、背後に立つ男の姿を認知した。

「僕たち案外似たもの同士なのかもね」

「……ここは景色がいいからな」

「景色? いいかな?」

「彼女のことを任せてきたはずだが」

 痩せた横顔がメルキオルの脳裏にまざまざと蘇ってきた。彼女のことを想うと、メルキオルの胸は冷たく、凍りついたように痛んだ。

 カスペはまだ暗闇の中で一人膝を抱えている。

 あの日、彼女を診察台に縛り付けてエコーをとった二人が見たものは、すでに心肺機能を停止した胎児の姿だった。彼女が六ヶ月の間大切に育ててきた命は、光を見ることも呼吸することもないままたったひとりで死んでいった。

 母体の心身の危険を考えれば、すぐに子宮内容物の摘出手術を行わなければならなかった。泣き叫び、錯乱する彼女を鎮静剤で無理やり眠らせ、ほんの数時間前までは生きていたはずのものをキュレットで無理やり掻き出した。鋭い刃先は、胎児の発達途上の脳、皮膚、神経、内臓を、まるで蟻でも潰すかのようなたやすさで引き裂いた。術中、眠る彼女の手を握っていたメルキオルは、あまりにも凄惨なありさまに嗚咽しながら二度も嘔吐した。あのバルタザーでさえ、手術の終わり頃には真っ青な顔で涙を流していた。

 引き裂かれた肉の塊は、豚の肝臓のようにちっぽけで、矮小なものだった。

 亡骸を焼き、棺に納めて埋葬したあとの彼女は、ほとんど死んだような状態で生きた。彼女の心は、暗く底のない絶望の谷の、かろうじて残った足場に立ち尽くしていた。一度寝返りを打ったり、後ずさったりすれば、そのまま虚無の深淵に転落してしまいそうなぎりぎりの場所……メルキオルの慰めもバルタザーの叱咤も届かない、本当に本当の不毛の大地だ。

 水も食事も取らず、一人きりの部屋で彼女はみるみる痩せ細っていく。昼間は物音ひとつ立てないくせに、夜中に耳を澄ませると、深い銷魂を嘆く絶叫が幾たびも聞こえてくる。

 どうすれば彼女を暗い沼の中から引き上げてやれるのか、メルキオルにはわからなかった。

「タバコ、辞めたんじゃなかったのかい」

 バルタザーの隣に腰掛け、灰色の海底を胸の空くような思いで見渡す。

「たまにはよかろう」

「……」

「メルキオル、私は今、私の情動が恐ろしい」

 タバコの燃殻部分をコンクリートに擦り付けながら、不意に彼はそんなことを言い出した。思いもよらない彼の泣き言にメルキオルはどきりとした。

「バルタザー?」

「我々はここに集い、より良き歴史を導き出すために死力を尽くすと誓った。人類史の存続が我々三人に共通の悲願だ。我が身を犠牲にしてでも果たすべき使命だ。しかし、しかしだ、私は心のどこかで、このようにも感じている。

 ――彼女を追い詰め、傷つけてなお、救う価値が果たして人類にあるのか? 愚かにも、殺し合いと憎しみ合いの末に自滅した人類は、清らかな女の心を犠牲に選び取るほど値打ちのある存在なのか?」

「だめだ、バルタザー」

「……私は疲れたのだよ、メルキオル。この一ヶ月間、私は同じ問いを繰り返し自分に投げかけてきた。答えは出ない。我々二人に残されたのは、傷ついた友と、破滅の未来、ただそれだけだ」

 言い切ると、彼は白衣の懐から新しいタバコを二本取り出して、一本をメルキオルに投げて寄越した。

 彼の右手がフリントライターを着火させ、咥えた状態のタバコに器用に火を灯した。メルキオルもタバコを咥えて先端を彼の火種に寄せ、思い切り吸い込む。彼の火がメルキオルに移り、次の瞬間、久方ぶりの煙の味が舌先がじんわりと広がった。

「たとえカスペを置いていくことになっても、僕らは人類の歴史を取り戻さなきゃいけない……全てはより良き未来のために。そうだろ」

「だが君は彼女を愛してるんじゃないのかね」

 心の奥底に仕舞っていたものを見透かされて、ひととき、メルキオルは彼に返す言葉を失った。

「ばれていないと思ったのか」

「いや……照れるな、愛してるとか」

 何よりも重要で、大切なこと。あの女性を愛している。他でもない彼女の手のひらで温められた、ちっぽけな心で、無数の細胞の一つひとつで、魂の深い部分で、彼女を愛している。彼女の微笑み、怒った顔、拗ねてそっぽを向く横顔、羞恥に赤らんだ顔、頑固で負けず嫌いな信念、折れやすく繊細な感傷、真っ直ぐに他者を思いやる真心、メルキオルに向けられる信頼、無垢な残酷さ、大人になりきれない純真さ、口づけを受け入れぬ唇、慈愛に満ちた瞳、温かい手のひら、かわいそうな子宮。彼女のすべてを、狂おしいほどに愛している。

 彼女を、この世のあらゆる無情から包んで隠したい。彼女の心の隙をすきまなく埋めてあげたい。彼女の身体のあらゆる場所に口づけをしたい。何もせず、ただ愛しいという心をかたむけたい。

 メルキオルの中で、彼女への愛は清らかな泉のように絶えず溢れ、薄ら氷のように絶えず輝いていた。訳も理屈もなかった。ただただ愛していた。まさに至情、この滅びの時代において、彼の彼女への愛だけが本当のほんとうに聖別された神の星だった。

「そんな目をするな」

「目……」

「捨てられた飼い犬のような目だ。言葉にしなければ伝わらないぞ、あの女には」

「……僕は彼女のことを愛してる。ほんとうにそれでいいんだ、今でさえ多くのものを抱え込んでいるのに……でも、もし彼女が」

 彼は息を吸い込んで言葉を捜した。バルタザーは、ただ彼が二の句を継ぐのを待った。

「僕、彼女のことをほんとに愛してるんだ。もし彼女が、……彼女が何もかも捨ててしまって、もう僕しかいないんだって縋ってきたら……キスだってするしハグをしてもかまわない、一晩中抱いてあげてもいい、彼女が望むことだったらなんでもしてあげるよ……僕も彼女にそうしてもらう、彼女も僕が好きだから」

「それなら……」

「それから先、どうなると思う?」

 薄くちぎれた雲間から赤い光が差してきて、メルキオルのゆるやかな美しい瞳を冴え冴えと照らす。

「そうして愛し合った二人がどうなると思う?」

「……それで?」

「それで次の朝には二人とも死ぬ……きみはひとり取り残されるんだ」

 バルタザーは息をのみ、無害そうな顔をしたこの男の顔のすみずみまでを見た。引き締まった精悍なつくりの顔、だが灰色の目はやさしく、黒目がちで、どこかあどけない雰囲気さえある。

 思えばこの男は、はじめ、取り立てた才覚のないただの学生だったのだ。医師のバルタザーと科学者のカスペ、二人の隣にあって、最後の人類としての彼の価値は、若くて善良であるということだけにとどまった。それが……いつの間にそのような殊勝なことを言うようになったのか。

 メルキオルは最後の煙を吐き出し、はねるような勢いで立ち上がった。

「そろそろ戻ろう。きっと彼女が一人で泣いてる」

 難儀なものだ、バルタザーはぽつりと豆を放り出したみたいにそう言った。

 

 かの日、少年は激しい銃撃戦の中で両親とも友人とも逸れ、饐えた匂いの立ち上る廃棄物の中をひとり彷徨っていた。ドミノ状に折り重なる瓦礫や溶けてねじくれた線路のスクラップ、肋骨の浮き上がった犬の餓死死体などの中に、懐かしい面影を探して歩いた。こうして名前を呼び続ければ、いつか愛する人たちが飛び出してきて、趣味の悪いいたずらを詫びながら抱きしめてくれるのではないか……肩を抱き、すべて嘘だと、全部夢だと言ってくれるのではないか。それがただの幻想であることはわかっていた。彼らが今どこにいるのかだって。それでも、歩みを止めることはできない。

 雨が降っている。天から叩きつける冷たい飛沫が、全身を柔らかく打っている。

「子どもだ!」

 機関銃をぶら下げた若い傭兵がひとり、少年を見るや否や声を張り上げた。何か言い返すことも、受身を取ることもできないうちに、一発目の銃弾が彼の耳横の短い髪をかすかに焼いた。腰が抜けそうになる。咄嗟に踵を返し、這うようにして走り出す。二発目が彼の剥き出しの左腿を撃った。焼け付くような痛みに骨までを貫かれたかと思うと、次の瞬間、左脚全体がずんと重くなった。石や鉛をぶら下げているかのようだ。

 彼は左脚を持て余し、ついに湿った泥地の上に倒れ込んだ。全身を強く打つ。はずみで二、三度右に転がり、そのために頭蓋を狙った三発目を辛うじて免れる。が、傭兵は銃口を向けたままじりじりと少年との間合いを詰めてきていた。遠くから、落ち着き払った司令官の命令が朗々と響いた。

「我々の雇い主は、やつらの完全なる淘汰をお望みだ。一人の生き残りも出してはならない」

「承知しております」

 乾燥し、砂塵を飲み込んで傷ついた喉が、何か言い出そうとしてかなわないまま弱々しく痙攣した。代わりに空っぽの胃から消化液が逆流し彼を咳き込ませた。口の中が酸っぱい。擦りむいた腕が、撃たれた脚がひどく痛む。銃創からは絶えず血液が溢れ出し、不衛生な水たまりと混ざって濁ったピンク色に変色する。惨めだ。涙も出なかった。

 照準をぴたりと合わせた銃口が、彼の額に直接押し付けられた。今度こそ避けられまい。濃密な死の気配が、よそよそしい鉄の先端に満ちている。彼は目を閉じて、産まれる時代を間違えた自らの不運を呪った。

 ……だが、少年は、決して見放されてなどいなかった。

 次の瞬間、機関銃を抱えていた傭兵は勢いよく後方に吹っ飛ばされ、瓦礫の山に身体を打ちつけられていた。彼ははじめ、何が起きたのかわからず、腰をついた姿勢のままその様子を呆然と眺めていた。隠れていたらしい別の男たちが一斉に飛び出してきて、少年の背後へ一斉に照準を定めたが、いずれも一呼吸のうちに地に伏せ、あるいはゴミ山の向こうに引き倒されて、やがて静かになった。

 ようよう顔をあげ、彼は信じられない思いで振り返った。

 砂埃に霞む視界の中で、真っ白な長衣の裾が翻る。風に吹かれ、鴉が羽を広げたようなミディアムショートの黒髪、豊かで深い紺碧の虹彩。いかめしいライフルを抱えた細い腕。雪の日の冬薔薇を思わせるたおやかな佇まい。差し伸べられる手のひら。

 伸ばしかけて力を失った腕を力強く掴みあげられる。温かい涙が下瞼を伝って顎までを駆ける。

「大丈夫ですか」

 美しいその人のことを神だと思った。

 

 シェルターに戻った二人を出迎えたのは、一ヶ月ぶりに部屋の外に出ていたカスペだった。

 メルキオルは息を飲み、バルタザーは舌打ちをして目を逸らした。彼女は……幸福に飾られ、絶類の美に輝いていたはずの彼女は、今や見る影もなかった。全身の肉という肉が落ち切ってまるで干からびた枯れ木のようになり、目元は深い絶望に落ち窪んで、ひと吹きすれば存在ごと消えてしまうのではないかと思われるほどだった。人間の春を遠く見送った、痛々しく惨めな女の姿だった。

「どこへ行っていたのです」

「畑だよ。ほら、もう葡萄が食べごろだろ」

 震える声で問われて、メルキオルは咄嗟に嘘を言うしかなかった。

 彼女は口角を上げ、微笑みの形を作ろうとしたが、錆び付いた表情筋はうまく動かなかった。えくぼの位置がかすかに痙攣しただけだった。

 メルキオルの心に切ない渣滓が降る。彼女がこれまで見せてきた全ての笑顔が、今の彼女の見せる微笑みのなりそこないを、より暗く、陰鬱なものにみせた。彼女を守りたい、彼女の夢を……彼女を愛している……だが、このままではあまりにも哀れだ。

「メルキオル、バルタザー、ありがとうございます。二人のおかげで十分に体力を回復させることができました」

 几帳面に身体を二つに折り、彼女は頭を下げる。肩甲骨まで伸びた髪が胸の前に無造作に垂れた。

「そして、今回のことをお詫びします。私の力が及ばず、あなたたちの尽力を台無しにしたこと、申し訳ありません」

「やめてくれ。きみのせいじゃない」

「いいえ、メルキオル。これは私が招いた失態です。私が捨てきれなかった甘さに対する罰なのです。先日月経の再開を確認しました、私はいつでもあなたたちの子を妊娠することができる。今すぐ、この不始末を挽回したい……させてくれますね」

 こちらを見上げる目は不自然にうるんで揺れている。

 彼女がそのまま二人の前で服の合わせを解こうとしたので、メルキオルは慌ててその手を止めさせた。背後のバルタザーを振り返る。彼は顔を背けたまま深いため息をつき、わざとらしく肩をすくめてみせた。

「気分が悪い。私は休ませてもらう」

「僕が行こう」

 メルキオルの答えに、彼女は安堵したらしかった。緊張し、張り詰めていた眦がかすかに緩められる。

 以前、まだ子どもが生きていたころに一度訪れた彼女の部屋は、今や見る影もなかった。その荒れようはまさに空き巣にでも入られたみたいだった。かつての好ましいぬくもりはなく、代わりに息の詰まりそうな憂鬱が、部屋の四囲までを隙間なく覆っていた。

 強い消毒液の匂いが鼻をつく。デスクの上に置かれていたガラスの花瓶はひっくり返って割れ、安楽椅子は壁に投げつけられたのか脚が数本折れて傾いている。ベッドではシーツがなんらかの刃物で引き裂かれ、枕も同様にされて中のワタが飛び出ている。床には、書架に収められていた本や資料、バルタザーが処方した精神安定剤の包装シート、手作りのぬいぐるみや編みかけの毛糸のおくるみなどが、吹き溜まりもかくやとばかりに散乱していた。

 部屋のいたるところに破壊の形跡があった。だが、彼女が本当に破壊したかったのは、きっと彼女自身だ。

 メルキオルはシーツや枕を一纏めにしてデスクの上に置き、ベッドマットレスだけを残した上に腰掛けた。すぐにカスペがそばにやってきて、早急な手つきで長衣の前留めを外しはじめた。眼下で貧相な身体がみるみるうちに顕になっていく。

 臍の下まで開いたところで、ふと彼女がその手を止めた。

「……あ」

 思わず、といった様子で吐息が漏れる。

 彼女の慎ましやかな胸、その芍薬の蕾のような二つの乳頭から、白く濁った乳汁が滲んでいた。

 初め、彼女は指や手のひらで押さえつけることでその分泌を止めようとしたが、乳はみるみるうちに溢れ、とうとう乳房の輪郭から次々に滴り落ちていくまでになった。膝が白く汚れていく。手のひらから手首に流れた分が、いく筋もの帚星になって腕の方に伝う。

 彼女は言葉を失い、呼吸を失った。割れた鏡の上に立ち尽くしたような表情で、紙のような顔色で、授乳するあてのない乳の流れを見た。メルキオルは……そんな彼女を、思わず胸の中にきつく抱きしめていた。小さな頭、薄っぺらな肩。震えている。

「わ、私」

「カスペ、何も言うな」

「私は……守れなかったのですね。小さくてあたたかな、たった一つの命を……私の赤ちゃんを……!」

 絞り出すような、血を吐き出すような、苦渋に満ちた声だった。

「人類の救済だなんて、大それた理想を語れる立場ではなかった。私にそんな力はない。たった一人守ることのできないこの手に、いったい何ができるというのです」

「馬鹿なことを言うんじゃない。きみに責任なんてあるもんか」

「今でも覚えています。小さな手や足を使って、私の稚拙な物語にこたえてくれたこと……理想を語りながらほんとうは誰よりも不安だった私を励ましてくれたこと……それなのに! 私は母として、あの子をこの世に産んでやることすらできなかった! 何一つ……私にできることなど何一つない、ええ、そうですとも。どうせ何もできやしないのです、私は、私は……もし死んだのが」

「しっかりするんだ! きみを失えば、この世界は本当に終わりなんだぞ!」

 メルキオルは、畏れに震える身体を掴み、勢いよくカーペットの上に押し倒した。

 彼女は訳がわからないというふうに目を見開き、四肢を固く縮こまらせてこちらを見上げた。何も言わず、外し掛けの留め具の残りを開いていく。彼女の青白い痩躯が顕になっていく。あばらの浮いた脇、棒切れのように細い脚、無毛の恥骨。血管をすかした薄すぎる頸の皮膚、まだ妊娠線の残る平たい腹。乳頭はだらしなく行くあてのない乳汁を垂れ流し、隠し立てするもののない陰唇は、浅ましくも男の指を歓待しにわかに潤った。いつか新雪のようだと思った肌は、いま、白日の下でかたくなに凍えた締雪だ。それでも……彼女を、カスペをきれいだと思った。宇宙でたった一人の女。神の系譜を踏む最後のイヴ。

 愛している。守りたい。いつだって変わらない願いだ。 

「きみは時空遡行の原理を理解するただ一人の科学者だ。今後子どもを殖やす見込みのある唯一の女だ。もしきみが愚かにも、そのことを忘れて甘い感傷に逃げこむというのなら、僕はきみを許すわけにはいかない。友として、同志としてきみを正す。なんとしても」

「……それなら」

 薄い唇に歔欷の震えがほとばしる。

「それなら、どうしてそんな顔をするのですか」

 ふたつの瞳がにわかに潤んできたかと思うと、張力を離れた大粒の涙が下瞼に滲んで、流星のごとく顎下までを駆けた。いくつもいくつも、堪えてきたものをはじけさせたかのように、涙は彼女の痩せた頬を滑る。

 まるで嘘のように美しい泣き方だ。ほとんど顔を歪めることなく、また洟で醜く汚れることもなく、彼女はただ純粋に泣いた。涙は彼女の頬の上にあって、真珠やダイヤモンド、サファイアのように輝き、顎までいくと夢幻の感度で消えた。嗚咽のかわりに、控えめな吐息が、半開きになった唇から雪のひとひらが舞うみたいに吹いていった。優しい冬風に吹かれて、メルキオルは息を呑んだ。

 愛している。

 その唇に口づけをしてみたいと思った。大好きな彼女はどんな味がするだろう。花や、ミルクや、果物の味だろうか……もし彼女が受け入れてくれたら、そうしたら、この世全てに取り残されたみたいなさみしい身体を思い切り抱きしめて、あらゆる場所にキスをして、彼女の甘い声を心ゆくまで聞きたい。使命も誓いも全て捨てて、ただ目の前の女を愛するためだけに、自分の肉体のあらゆる部分を使って彼女と溶け合いたい。一つになりたい。触れ合った部分で魂と魂の会話をして、その中で、彼女の本当の名前を知りたい。彼女の名前。天命の星を探し、救いの再来を待ち望む信徒としてではなく、命そのものに与えられた祝福のかたち。

 その瞬間、メルキオルは自らが語ってきた全て、考えを巡らせてきた全てを忘れ、純一無雑の自我のもとに涙を流す彼女の顔を覗き込んだ。彼女の青い海の瞳は無数の星を帯びてきらめき、メルキオルの精神の深い部分までを覗き返してきた。鼻先が触れる。吐息と吐息、まつ毛とまつ毛が交わるくらいの距離まで近づく。

「ごめんなさい」

 小さな手が、寄せられた唇をそっと遮った。

 夢から覚める。はっとして、メルキオルは彼女の上から飛び退いた。恐ろしいことを……彼は安堵でため息をついた。危ないところだった。カスペを死なせることにならなくてよかったと心から思った。

「ごめんなさい……」

 彼女はそう言って再び涙を流した。

 滅びの砂漠は果てまで続いている。二人は生きなければならない。