サテライト


 サテライトはあしたにも沈むだろう。
 大雨がやってくる。初夏特有の湿った潮風をたっぷりと吸い込んで、重たく身体を揺らしながら雨雲の渦がやってくる。サテライトは、海の向こうのシティとはちがって道路一つも整備されていないから、十年かけて内側から崩されてきた土の地盤は今度こそ耐えきれない。クロウたちと育ったハウスや、沿岸地帯に立ち並び、茶味がかった灰色の煙を排出する工場の群れ、人々がより集まって暮らすブルーシートの家、すべてが飲み込まれていく。海流のむこうに、シティ住民の安寧に……。
 ソファで仰向けに寝ていたジャックは、なんてことのないシティの天気予報をがなりたてるジャンクのラジオを、思い切り壁にぶつけて叩き割った。機械は鉄筋の壁にひしゃげ、床に転がって破壊された。午前一時の粛然に、金属同士が触れ合う音が伝播する。骨の空気穴ひとつひとつにまで響くような音だ。
 午前一時。ジャックのアジトは海抜25mほどの場所にあり、住民が少ないのはいいが、こういった緊急事態になると不便することも多い。そういうわけで、雨が降りはじめる前に丘の上にあるクロウのねぐらに移動することになっている。ラジオの死骸を明かり取りのまどから闇の中に葬り、ジャックはアジトを出た。
 空はまだ暗い。ガスや塵が月を隠し、星はない。人々の不安や怨嗟の声がうずになり、囂囂と音を立てている。
「よお。お疲れさん。スープができてるぜ」
 クロウは、降りはじめた小雨に濡れたジャックを笑顔で迎えてくれた。
 室内では、クロウを頼ってやってきたらしいサテライト住民たちが、空き缶の中で焚かれる火の周りに集まっていた。彼の住処はちいさな映画館の廃墟を改造したもので、高さこそないものの、たくさんの人びとを収納してあまりあるほどの広さと大きさを持っている。客室がわりのホールを抜け、クロウのねぐらになっている奥の管理人室に入ると、スープのあまい匂いが鼻の中になだれ込んでくる。
「大変だっただろ、ここまで」ステンレスのカップにスープを注ぎながらクロウが言う。
「あれくらい大したことではない」
 ジャックは、一丁前に自分の心配をしてくる年下のクロウにむっとして、ぶっきらぼうに答えた。本当は、足に縋りついてくる人びとを振り払うのにかなり苦心したのだが。クロウはジャックの癇癪には慣れっこなので、
「そうかよ。まあお前のことだからぜんっぜん心配なんかしてないけど」
「嘘をいえ。俺のことが心配で夜も眠れなかったのではないか?」
「それはなぁ、お前、お前がいつ馬鹿やらかしてセキュリティに捕まるかの心配だよ」
「何⁉」
 暴れるジャックの手元でスープが跳ね上がり、クロウは慌てて飛び退いた。
「馬鹿野郎、あっつあつの出来立てなんだぞ!」
「あっつあつの……」
「そうだ。たかがスープだけど、あっつあつのを頭から被れば大変なんだからな。前それで大変なことになっただろ、ほら、あの時ゆう………………、ゆ、遊星が……」
 とたんに、クロウは口をつぐんでしまう。
 ジャックと彼の海馬のあいだで、白いカーテンが何枚も折り重なって風に揺れている。その、繊維の向こうがわに、養母にこっ酷く叱られるジャックとクロウの姿が見える。そして……その隣で困ったように笑っているのは、仲が良かったもう一人の友人の、
「遊星は?」
 にわかに激しさを増した雨が、磨り硝子の窓を打つ。黒く濁った水が、サテライトの土地に侵入し蹂躙していくのが、なぜだかジャックには手に取るようにわかった。

 遊星という男がいて、クロウの一つ上、ジャックの一つ下の歳でハウスでもよく一緒に行動していた。サテライト住民が行えば極刑となるシティへの渡航を、三人で実現させようと息巻いた少年時代があった。
 ジャックが十二の時、国営工場の研修生として選ばれていたはずの遊星は消えた。それから音沙汰もなく、ジャックやクロウがサテライト中を駆け回って探しても、彼の足跡ひとつ見ることはなかった。煤けた空気を揺るがす就業の鐘。子供ながらに深い悔しさを手のひらに握り込んでその日は遊星の捜索を断念したが、その後、こんにちに至るまでに、ジャックは二度ほど遊星に遭遇している。
 一度目は十三になってすぐ、工場の研修生としてジャックが選ばれた年の暮れだった。手先が器用なわけでもなく、馴れ合いを嫌うジャックは、職員のなかでも浮き、おまけに工場長にも疎まれているという噂があった。その日ジャックはあてがわれた小さな一室を抜け出し、サテライトでもとくに治安の悪いB.A.D.エリアと呼ばれる地区に飛び出していった。
 雪が降っていて、さすがのジャックでも寒さを凌ぐ場所が必要だった。迷った末に潜り込んだ原子力発電所の跡地で、ジャックはたちの悪い集団に捕まった。彼らのなわばりにのこのこと入ってきた小さなジャックは格好の獲物だった。さらに、ジャックはハウスの子供たちの中でも群を抜いて美しく、その白い肌と金色の髪は、ことあるごとに昔の歌手みたいだと持て囃されていた。罠にかかったうさぎの調理法は一つに絞られる。
 気に入りの厚手のコートはかんたんに剥ぎ取られ、賭けに勝った誰かが喜んでそれを着る。全裸になったジャックは、突き飛ばされ硬いコンクリートの床に頭を打った。視界がぶれ、抵抗すらままならなくなり、手に力が入らなくなる。男娼として生きていく前途を予感し、ジャックはせめて恐怖からは逃れようと無理矢理身を捩る。
 そして、ほぐれていくジャックの意識の糸を、誰かがぎゅうと掴んだ。
「すまないが、この男は俺に預からせてくれないか」
 星のように。遊星の青い目が、ジャックを人間の領域に引き戻した。
(なんか書く)
 ……二度目の頃にはもうジャックは十七になっていた。ハウスの子どもたちは、みな遊星のことなど忘れていた。クロウは出かける先々でいまだに遊星を探しているらしい。ジャックはそんな気分にもなれず、また首になった工場に採用を懇願するわけでもなく、ただ自らのアジトで古い酒を飲んで暮らしていた。
 その日、アジトとは反対側のF地区というところに用があり、ジャックはその帰りに大通りの市場に寄っていた。Fはシティからのゴミの中でも再利用価値の見出せない用済みのものが流れてくる埋立地であり、毒ガス濃度も非常に高い最悪の土地だった。ジャックは、そこで迷った。
 冬を越せずしてこときれた住民たちの死骸がそこかしこに転がり、腐臭吹き荒ぶ路地を彷徨って、ジャックはうっかり涙をこぼしてしまいそうになった。もう背では周りの誰にも負けないし、歳だってサテライトじゃ大人も同然だ。だが、この中にもしかして、とジャックは思うのだった。遊星がいるとしたら?
 歩き、やがてジャックの足は海の砂を踏んだ。腰から砕けて膝をつく。そのまま座り込んで、海をながめた。遊星の目の色は海の色だとむかしクロウが言ったが、実際、青くてきれいな本物の海なんて誰も見たことがない。
「おい!」
 咎めるような子どもの声が、ジャックを振り向かせた。
「お前だれ? こんなとこで何してんの?」
 ゴーグルにマスクをした、ちぢれた赤毛の少年が立っている。まだ十にも満たない子どもだろう。
「俺が何かするのにお前の許可が必要なのか?」
「泥棒だったら、セキュリティに通報する」
「俺がコソ泥に見えるか?」
「……見えないから聞いてるんだ。お前だれ?」
「俺からも聞きたいことがある。お前、迷子か? 案内をしろ」
 子どもはジャックのいうことを素直に聞いた。上背の大きい大人の男に逆らえばタダではすまないということをよく理解している。彼もまた、サテライトにねじ曲げられた被害者なのだ……、浅葱色の感傷の、広がったその裾野のあたりに、遊星のことを思い出す。
「おい。おいお前。、おい、返事をしろ」
「おれはお前なんて名前じゃない! ……なんだよ」
「このあたりに、俺と同い年くらいの青い目をした男がきていないか? たぶん、髪は黒で、機械いじりが趣味だったはずだ」
「知らない。こんなところに来るやつなんかいないよ」
「フン、そうだろうな」
「それより、ここからバスが出てるよ。一番最後の停留所でおりればC地区の端っこに出るよ」
「そうか。助かった」
 二人
 クロウのねぐらの、北向きの壁に、扉があって、ジャックはそこから地下へと降っていた。底は見えない。ただ、長らくの間ここで煮詰められたのであろう濃厚な闇が、ジャックの白くすべらかな肌まで食いつぶしていくようだった。
 クロウはかなり悪質な悪戯がバレた子どものような渋い顔をして、あっちだ、と扉を指し示したのだった。ジャックから話を聞いたクロウが遊星をここまで引っ張ってきたのは知っていたが、なぜだか今まで会う気になれずにいた。それは予感にも似た感覚だった。ジャックの無意識の谷に、遊星の最悪の末路が浮かんでは消えて、ジャックをクロウの住処から遠ざけたのだ。だが、目を背けるというのは、遊星をこの世にないものとして扱うのと同義だ。ジャックは、そう思った。
 足元が湿った風が吹いてきて、ジャックの、借り入れどきの小麦の色をした髪を巻き上げた。終わりも近い。
 ほどなくして、ジャックは地下階に到着した。管理人家族の住居として作られていたのかもしれない。てまえの扉を開けると、明るい色をしたおもちゃや、動物のぬいぐるみなどがそのまま放置されていた。
「遊星? いるのならば返事をしろ」
 廊下を歩き、ひとつひとつの扉を開けていく。むかしクリスマスにみんなで開けたチョコレートのカレンダーのように……。
「遊星?」
 返事はない。
 ジャックは突き当たりへとふらふら寄ってきた。さいごには、右手の納戸と、左手の部屋が残されている。構造から見ておそらく脱衣所とその奥に浴室があるはずだ。
 逡巡の末、ジャックは左手のドアを開けた。予想どおり、そこは脱衣所だった。旧型の洗濯機がそのまま放置されている。また、陶器の洗面台が、鏡の下で無惨に割れていた。風化した石壁を音もなく虫が上っていった。
 だが、ジャックには、そんなことに気を配っている余裕などなかった。
 ドアを開けてすぐ、顔に吹き付けてきた不愉快な匂い。アンモニアの強い匂いが、ジャックの鼻先に吹き付けてくる。
 思わず身を引いた。が、左足首に何かにぶつかり、彼の身体は後ろ手に大きく倒れ込んだ。スニーカーに、肥えた家畜を思わせるブヨブヨとしたゴムで覆われた配線が何本も絡まっている。セメント灰を大量に被っており、触ると粉が巻き上がってジャックを咳き込ませた。赤、青、黄色、配線は、浴室の方へと続いていた。
 そのまましばらく動けないでいたジャックは、ふいに、何か引っ掻くようなカリカリというような音が聞こえることに気づいた。
 なんだ?
 耳を澄ませると、それはやはり、浴室の方から聞こえてくる。ジャックは這って脱衣所の床を進み、勢いよくプラスチックの開き扉を開け放った。
 遊星は狭いところが嫌いで、地震がくると、その揺れよりもジャックやクロウと入る机の下の狭さに怯えていた。そういうとき、ジャックは、遊星の小さな手を黙って握ってやるのだった。風呂も嫌いだった。ハウスの浴槽は狭くて、誰かがそばについていてやらないと泣き出して手がつかなかった。
 強く濃密なアンモニアアポクリン汗の気配に顔を顰めたジャックは、たしかに、暗闇の中に遊星のあの瞳を見た。
 さいしょは、あのときのように怯えているのかと思った。手を握ってやろうとして、途端に明瞭になっていく視界の中に見た遊星は、ジャックを、待っていた。ジャックは、おぼつかない足取りで遊星に近づく。
 だが、そうではなかった。遊星の目は、ジャックを見ているのではなかった。その両目は自分の正面に何かがいるということを、ただ認めているに過ぎなかった。さらにいえば、自分が眺めていた風景に異物が侵入したのを、うとましくすら思っているようだった。
 どうしてそんなことがわかるのか、といわれれば、どうにも答えようがない。だが……遊星と自分には、他のなにものにもない、世界に一つだけの特別な繋がりがあるのだと、ジャックは信じていたのだ。
「遊星」
 遊星は答えない。
 ……遊星は、浴槽の中にいた、浴槽の中で、湯を張りもせず、服を着たまま、膝を抱えていた。