2022年9月18日

 

B-1

 


 ジョニーは今まさに身繕いを終えるところだ。まだしっとりと湿った上半身を、下ろし立てのシャツで包んでしまえば出来上がりだ。のんびり屋の祖母が通院の予定を思い出してから今に至るまでの二十分の間に、彼は実に迅速かつ手際よく自らの身なりを整えてきた。シャワーを浴び、バスタオルで身体を吹くのもそこそこにドライヤーをセットして髪を乾かし、グリースで後ろに撫で付けた。洗面台横のガラス棚から迷いなくアトラス社のオーデコロンを選び、手首と腹にそれぞれ一吹きずつふりかけた。若いセコイアのような長い足は黒のパンツでエレガントに引き締め、腰回りはレザーのリングベルトで飾った。
 彼はハンガーからシャツを外す前に、姿見の前にやってきて一度自分の身体の隅々までを検分した。十九歳の青年の輪郭はたくましく、磨かれたばかりの鉱石さながらの重々しさと鋭さに漲っていた。剥き出しになった体幹はよくなめした革を張ったように滑らかで美しい筋骨に覆われ、軽く動かすと鞭のごとくよく撓る。覗き込んだ顔はラテン民族らしいエキゾチックな魅力に満ち溢れ、特に少し垂れたまなじりなどは、彼という人間の印象をやさしく柔和なものにした。有り体に言って、彼は魅力的な男だった。
 皮膚にニキビひとつないことを確認すると、彼は満足し、ようやくシャツに手を伸ばして袖を通した。糊の効いた真っ白なオックスフォード生地は、彼の雄牛のような肉体の凹凸によく馴染んだ。最後に再び棚を開け、お気に入りのスポーツウォッチを左手首に嵌めて、鏡の中の自分に向かってウインクする。それで支度はおしまいだ。
「ジョニー、ジョニー」
 階下から、ようやく重い腰を上げたらしい祖母の呼ぶ声がする。
 彼はゆったりとバスルームを出て、長身を縮めるようにしながら狭い階段を降りた。祖母はソファの上で彼女の手提げの中身を確認していた。
「おばあちゃん。準備はできてるよ。なにか手伝うことはある?」
「いつもありがとう。それじゃあ、部屋から杖を取ってきてくれるかしら」
 祖母はこの数年で急に老いて、最近では杖がなければ数十歩歩くこともままならないほどだった。ジョニーがこの家に滞在するのは毎年夏季休暇の間に限るが、大学に進学し、春季休暇の期間も伸びた分もっと顔を出してやらなければ、と彼は思っていた。
 帽子を被り、杖を右手に収めた祖母を伴って彼は家を出た。
 外はすっかり夏の陽気だ。海から吹く湿った風に、オリーブの硬い葉がそよぐ。青以外の色を漉してしまったかのような空には雲ひとつない。ゆるやかな下り坂を覆う煉瓦は陽気に焼かれてすっかり乾燥していたし、高草の茂みは手がつけられないほど伸び切ってしまっている。彼はたまらずサングラスをかけ、日傘をさして祖母の方に傾けた。
 モンレアーレの街から、祖母のかかりつけがあるパレルモまではプルマンという長距離バスで移動する。チケットを切り、冷房の効いた車内に乗り込んだ彼は、やっと人心ついた気分でため息をついた。プルマンは二人を乗せるとすぐに発車し、祖母は揺られて五分もしないうちにジョニーの肩で眠りについた。彼は唯一の話し相手を失い、すぐに退屈した。窓に額をピッタリとくっつけ、代わり映えのない田舎の景色を眺める。
 モンレアーレでの日々は相変わらず退屈だ。刺激に欠けていた。到着してからしばらくのうちは、一年ご無沙汰していた近所の住民に挨拶をしたり、パレルモやチェファルーに足を伸ばして土産物を買い込んだりしたものだが、それにもすぐに飽きがやってきた。大学の友人たちはみな夏の道楽に忙しく、電話をかけてももっぱら留守番電話につながった。街を歩くおしゃれな女の子たちに声を掛けることもなかった。女の子たちの方では、ハンサムな彼を振り返り噂話の一つや二つたち起こることも珍しくなかったのだが、彼自身が純朴な質であるせいで、見ず知らずの異性をデートに誘うなんて発想にそもそも至らないのだった。きちんとした出会い、きちんとした交流を経てやっとデートなり食事なりに誘うことができるのだ、本気でそう思っていた。結局、彼の無聊の慰めは、友人のパラドックスに会いに行くことくらいにとどまった。
 パラドックスは祖母が通う診療所の息子で、地元の大学に通う医学生だ。気難しく、怒りん坊で、疑問や不満があるとむっつり黙り込んでしまう難儀なやつだが、努力に裏付けられた秀才で、こと医学に対しては誰よりも真摯だった。なにより、どんなに忙しくても顔を出せば手を止めて話を聞いてくれる彼の生真面目でお人好しなところをジョニーはとても気に入っていた。
 今日は土曜日。多忙な医学生といえども、休日くらいは羽を休めたいものだろう。祖母が検診を受けている間、彼をジェラテリアに誘って日頃のよしなしごとを聞いてもらおう。そうして、もし彼にも不満や鬱憤が溜まっていたら、仕方がないから聞いて慰めてあげよう。ジョニーはそう思っていた。いたのだが。
「悪いけど、息子は今日外に出ていてね」
 世話になっている祖母のかかりつけ医、パラドックスの父親のそんな一言で、ジョニーのその日の予定はみんな白紙になってしまった。彼は一人パレルモの雑踏に放り出されることとなった。
 パラドックスは退屈している友を放って一体何をしているのだろう。拗ねて唇を尖らせながら、観光客でごった返すマクエダ通りを手持ち無沙汰に歩く。ロマネスクの色を強く残した宝石のような街並みも、活気あふれる市場も、荘厳たる大聖堂、快く蹄鉄を響かせる馬車も見古してしまって新鮮味がなく、それが輪をかけてジョニーを面白くない気分にさせた。露店で牛の肺バーガーを買ったが、暑さもあいまって口の中でパサつくのですぐに飽きてしまう。
 なんて災難な日なんだ、ジョニーはため息をつく。だが、のちの彼は、今日という日を振り返ってこんなふうに言うようになる……「運命の日だ。僕という人間が生まれた、人生二度目の誕生日だ」。
 あてもなく、だらだらと歩いていると、不意に目の前の人垣がふっとひらけたような感じがした。感じがしただけで、実際には錯覚だったのかもしれないが、ともかく、そのときのジョニーはそんなふうに思った。その中から、一人の女の子が、ジョニーの前に躍り出た。かと思えば、石畳の欠けた部分にサンダルのつま先を引っ掛け、こちらに向かって勢いよく倒れ込んできた。
 ジョニーは思わず、彼女のことを胸に受け止めていた。