2022年9月19日

B-2

 

 彼女のつむじから、ふわりと花の香りが漂う。柔らかい肉の重みが、ジョニーの上半身に緩やかにかかる。
 抱き止めようとして背中に触れたとき、その身体があまりにも薄っぺらいことに気づいて、何か触れてはいけないものに触れてしまったかのような罪悪感が彼の胸にのぼった。肩身ひとつ取っても、ジョニーより一回りも二回りも華奢だった。だから彼はそのままの姿勢で、女の子が自分から立ち上がるまで待った。果たして、彼女はたっぷり五秒の後にジョニーの胸から小さな頭を上げた。その、自分を見上げてくる彼女の顔を見て、ジョニーは今まで体験したことのない奇妙な感覚に囚われた。
 彼女はとてもきれいな女の子だった。ジョニーはまず、優美な青色を湛える二つの虹彩に目を奪われた。それらは小さな海をそのまま瞳の空間に映し取ったかのように深く、透き通っていて、夏の強い日光を浴びると星の光度できらめいた。瞳に吸い込まれていたジョニーの意識はやがて拡散し、彼女の小さな顔や、細っこい身体全体に及んだ。青白い瞼はくっきりとした二重と長いまつげに縁取られ、鼻はつんとすましていて、唇はまるで水辺にほころぶ桃色の花弁のように薄く、繊細な血色に色づいている。濡羽色の艶やかな髪が編まれて肩のほうに流してあるのが清楚だった。丸い顎から細い首筋へかけては特に透き通るほどに白く、その色は快晴の日の満月の輝きを思わせた。黄色い小花を散らしたワンピースから伸びた手足も細くて、思わず折ってみたくなるほどだった。何もかもが精巧な人形のように上品で、小さく、可愛らしくて、爪でこづいただけでも壊れてしまいそうに見えた。
 ジョニーは彼女に見惚れた。喉は呼吸を忘れ、心臓ですら鼓動を打つことを忘れた。
 女の子はしばらくぼんやりとジョニーを見上げていたが、いくつかの瞬きのあと、慌てて立ち上がりジョニーから離れた。すっかり狼狽えた様子で頭を下げられ、ジョニーの方にもようやく正常な思考が戻ってくる。
「受け止めてくださり、ありがとうございます」
 訛りも淀みもない、美しいキングスイングリッシュだった。ジョニーも、夏の間に遠ざかりかけた英語語彙を引き摺り出して彼女に応える。
「気にしないで。怪我はない?」
「はい、おかげさまで」
「それはよかった。でも、なんだってあんなに急いでいたんだい?」
 ジョニーがそう尋ねると、彼女はにわかに顔を赤くし、口籠った。所在なさげにおさげの結び目を触りながら、視線を足先に泳がせる。
「その……実は、家族と逸れて迷子になってしまったんです」
 十七にもなって、恥ずかしいですよね、仕方なさそうに微笑む彼女はフェルメールの絵画よりずっと可憐だ。
 マクエダ通りは、比較的開けた明快な道路になっているが、そこから一、二本裏に入れば旧市街の複雑な迷路が待ち受けている。彼女は地元の人間というふうでもないし、一人で歩けば迷ってしまうのも仕方がないだろう。
「そうだな、もしよかったら、僕も一緒に君の家族を探してもいいかな。きっと、君のガイドがわりくらいにはなれると思うんだ」
 それは困っている女の子を放っておけないというおせっかい心や、ジョニーがいま現在非常に退屈しているということに起因する決断ではあったが、何より、彼は彼女の手を今離してしまうにはあまりにも惜しいと考えていた。彼女ともっと話したい、彼女のことをもっと知りたい、わけもなく湧き上がってくる感情にジョニーの奥手な部分は簡単に押し流されてしまったのだった。
「本当ですか! よろしくお願いします!」
 女の子は嬉しそうにジョニーの手を握り、「……あっ」すぐに自らの大胆な行為に気づき、恥じらって指を解いた。
「ごめんなさい。でも、とても嬉しいです。地図も標識も読めなくて、どうしたらいいものかと途方に暮れていたので……」
「そういうことなら任せて。きっと君を家族のもとに送り届けるよ」
「頼もしい。ありがとうございます」
「僕はジョニー。君の名前を聞いても良い?」
 彼女は慎ましくはにかみ、
「百合子といいます。不動百合子です」

 果たして、百合子の家族はマクエダ通りから一本外れた大通り、ローマ通りの群衆の中から見つかった。
 彼らは食いしん坊の末娘が食べ物の匂いに釣られたのではないかと飲食店の集まるエリアを訪ね歩いていた。最初にこちらに気がついたのは、ジョニーと同じくらいの歳の頃の青年だった。男らしくがっしりとした体型をしていたが、青みがかった瞳の色やいやらしいところのない清純な顔立ちは彼女に生写しだった。彼は行き交う人々の間を器用にすり抜け、短く切り揃えた黒髪をくしゃくしゃにしながらこちらにやってきた。
「百合子!」
「遊星兄さん……!」
 ジョニーの元を離れ、転がるように走り出した彼女を、青年は強く抱きしめる。「よかった。一体どこに行ってたんだ、心配したじゃないか」
「ごめんなさい。人混みに流されて、迷子になってしまったんです。でも、あちらの彼が案内してくれて」
 彼らが操る異国の言語はジョニーには馴染みのないものだったが、青年が百合子の頬を優しく撫でるのを見て、彼こそが百合子が探していた家族の一人なのだとすぐに勘づいた。
 青年は百合子の合図で背後に控えたジョニーの存在に気づき、軽く頭を下げた。お互いに手を差し伸べて握手をする。彼の手のひらは分厚く、ところどころにできた豆が硬く盛り上がっていた。
「不動遊星だ。妹を案内してくれたんだってな、ありがとう」
「ジョニー・ボレッリです。どういたしまして。お役に立ててよかったよ」
「礼になるかはわからないが、そこで買ったマジパンがあるからもらってくれ。それじゃあ、俺たちはこれで」
「あっ」
 遊星はジョニーの手のひらにマジパンのパッケージを手渡すと、もう一度頭を下げ、妹の肩を抱いてくるりとこちらに背を向けた。人混みの向こうに、兄妹とそっくりな男女が寄り添いながら二人を待っているのが見えた。百合子が首だけで振り返り、小さく手を振ってくれる。彼女の名前を呼んで引き留めようか、そんなことを悩んでいるうちに、彼らは人混みに紛れ、やがて見えなくなった。

 それからほどなくして、検診が終わったと連絡があり、ジョニーは診療所に祖母を迎えに戻った。
 帰りのプルマンの中でも、祖母はすぐに眠ってしまい、彼はすぐに手持ち無沙汰になった。その間、今日出会ったあの女の子のことを考えた。美しく、気立の良さそうな人だった。不動百合子。どんな子なのだろう。どこから、何のためにパレルモにやってきたのだろう。何が好きで、何が嫌いなのだろう。そんなことを考えているうちに、ジョニーの頭の中は彼女のことでいっぱいになってしまった。
 プルマンがモンレアーレに到着し、傾き始めた西日の中で家路を急ぐ間も、また家に着いて、キッチンにて忙しく鍋をかき混ぜている間も、シャワーを浴びている間も、ジョニーは彼女のことばかり考えていた。おかげでリゾットは底が焦げてしまったし、身体はすっかり冷え切ってしまった。心配する祖母にマジパンの包みを押し付け、ベッドに潜り込んでも、彼は百合子の面影を瞼の裏から消し去ることができないでいた。

「私は君の惚気を聞くために呼ばれたのかね、要するに」
「惚気じゃないよ。あの子は別に僕の恋人ってわけじゃないもの……」
 ジョニーの重たいため息は、エスプレッソのまろやかな黒色の中にゆっくりと沈んでいく。
 パラドックスは、思い悩む友人のことなんか存ぜぬといった顔で、生クリームをたっぷり浮かべたアイスココアを啜りながら、もう片手でダ・ヴィンチの解剖手稿図鑑をめくっている。
「恋愛話も惚気話もそう変わらん。大体なんなのだ、そうウジウジと、思い悩むくらいならさっさとデートの一つでも取り付けてしまえ」
「連絡先聞くの忘れちゃったんだよ。名前しか知らないんだ。どこに住んでるのか、何のためにパレルモに来たのか、そもそもまだこの国にいるのかすらわからないんだ」
「大敗北ではないか」
 初めのうちは真面目に話を聞いていてくれたはずのこの友人も、一時間超に渡るジョニーの泣き言にほとほと辟易しているようだった。先ほどから受け答えが雑になってきているのは、決して気のせいではないだろう。
 ジョニーは……あれからどうしても彼女、百合子のことが忘れられず、この数日の間に何度もパレルモを訪れていた。町中を走り回り、主要な観光地や公共施設、ホテルなどを手がかりもなく探したが、彼女やその兄の姿を見ることはついぞなかった。そういうわけで、友の力を借りようとカフェテリアに誘ったのだが、当然、何か情報が得られるはずもない。憂鬱と、生クリームココアの請求書だけがテーブルに山積していくばかりだ。
「だいたい、君は奥手すぎるのだよ。兄ともども食事に誘うなりすればよかったものを」
 パラドックスはなんでもない風にそんなことを言う。彼女いたことないくせに……呟けば、切長のヴァイオレットの瞳に鋭く睨まれた。
「初対面でも、誘って良いものかなあ」
「向こうに好意的な印象を持たれているのならな。今回の場合は特に問題はなかろう」
「うん、じゃあ頑張って誘ってみる。ついでにもう一回探しに行ってみる」
「そうしたまえ」
 ジョニーは勢いよく席を立ち、元気よく店を出た。窓の向こうでパラドックスが仕方なさそうに肩をすくめているのが見える。
 二人の気に入りのカフェテリアはトリノ通りの終わりごろにあって、ジョニーはその裏を左に曲がることで百合子が家族と落ち合ったローマ通りに入った。夕方になり、人も車もまばらになってきた大通りを緩慢な足取りで歩く。やがて見慣れた十字路に出たところでふと思い立って、彼は少し寄り道をすることにした。
 棕櫚の木の立ち並ぶ細い路地を渡る。その、表通りとは異なる意趣の雰囲気に、ジョニーの胸はだんだんと高鳴ってきた。なんだか本当に彼女と再会できてしまう気がする。そしてこうした予感は、しばしば現実となって彼の前に現れるのだ。
 路地を抜け、少し開けた教会広場に出ると、右手側に小さなレストランがあることに気がついた。由緒ある館の一角を改装して作られたもので、広場に迫り出す形でオープンテラスが設けられている。その、テラス席の一つに、上品なコバルトブルーのショートドレスを着てちょこんと座っている百合子の姿を、彼は見た。
 テーブルを挟んで向かいには、同じ色のタイをソフィスティケートに締めた遊星、それから二人の隣にそれぞれ彼らの両親が座っている。四人はイワシのパスタを分け合いながら、ゆったりと、和やかに談笑していた。テーブルの左右に配置された蝋燭が、この親しく暖かな家族の様子をやさしく照らしている。ジョニーは息を詰めてその姿を眺めていた。
 会いたい会いたいと気持ちばかりはやらせて、実際彼女を前にしたとき、どんなふうに声をかければいいのか、ジョニーにはわからなかった。恋をしたことがないわけではない。女性に話しかけたり、デートに誘ったりすることも、できないわけではない。でも彼女を前にすると、ジョニーはどうにもおかしくなってしまうのだった。十九年の間蓄積してきた知識や経験は、彼女の前には何の役にも立たない無用の長物と化すのだった。
「ジョニー?」
 だから、彼女がふとこちらに気づいて、名前を呼んでくれたとき、ジョニーはあまりにもうれしくて、思わず泣きそうになるほどだった。
「ジョニーですよね? こんなところで会えるなんて」
「奇遇だね。こんばんは、百合子」
「こんばんは。ねえ、どうかこちらにいらしてくださいな」
 立ちあがろうと腰を浮かせたものの、都雅な彼女は食事の席を離れることができず、結局ジョニーを家族の食卓に手招いた。四人の視線を一身に受け、萎縮しながらも、ジョニーは百合子のそばに近づく。
「おとうさん、おかあさん、紹介しますね。こちらの方が、先日迷っていた私を案内してくれたジョニーです」
「これはこれは、ご親切に、どうもありがとう。娘がお世話になりました。立ち話もなんだし、よかったら一緒に食べて行かないかい?」
 遊星にそっくりな顔立ちににこやかな笑顔を浮かべ、使われていない端の席を示したのは兄妹の父親だ。気さくな雰囲気だが、のりの効いたワイシャツを着こなす姿にはどこか格調があった。
 ジョニーが彼の誘いに甘えて席に着くと、ウエイターがやってきてよく磨かれた銀のカトラリーを置いて行った。ちょうど左側に座っている遊星がこちらに身を乗り出し、ジョニーに手のひらを差し出した。
「また会えて嬉しいぞ、ジョニー」
「遊星、ありがとう。僕もだよ」
 再び握手をする。
「ジョニーさん、パスタはお好き? どんどん食べてね、この人ったら、調子に乗って頼みすぎたのよ」そう言ってため息をつくのは、遊星の隣に座る彼らの母親だ。小柄で、駒鳥のような可愛らしい雰囲気の人だった。向かいの父親へしかたなさそうに視線を流したかと思えば、ジョニーの取り皿に大量のパスタを盛って寄越してくる。
「ありがとうございます、大好きです。いただきます」
「無理しないでくださいね」
 右側の百合子が、一生懸命上半身を伸ばしてジョニーの耳元にそう囁いた。健気で愛らしい気遣いに、心臓が変な鳴り方をする。
 その後、母親が嘆いたとおりに、大量のシチリア料理と、上等そうなワイン瓶が二本も運ばれてきた。
「百合子はあれから君の話ばかりでね、おとうさんは気が気じゃなかったんだ。一体どんな青年がうちの娘のハートを射止めたのかとね」
 ワインを煽り、上機嫌な父親はそんなふうに娘を揶揄う。
「ち、ちがいます。私はただ、きちんとしたお礼もしないままお別れしてしまったことが心残りだっただけで……」
「今日こうして会って安心したよ。実に誠実そうな青年じゃないか。でも百合子、国際結婚は大変だぞう。おとうさんは今までたくさんのインターナショナルカップルに出会ってきたけど、みんな随分苦労してきたみたいだった」
「おとうさんってば、もう! からかわないでください!」
 顔を真っ赤にして頬を膨らませる末娘を、三人は楽しげに、微笑ましげに眺めていた。ジョニーの顔にも自然、喜色が浮かぶ。
 晩餐は楽しく愉快に進行した。ジョニーは当初の緊張を忘れ、この家族の一員になったかのように積極的に会話に参加し、同じだけ笑った。
 特に遊星とは会話が弾んだ。彼はジョニーと同じ十九歳で、工学部に通う大学生だった。
「それじゃあジョニーは今大学で電子工学の勉強をしているのか」
「うん。昔から機械いじりが好きでさ。遊星は?」
「俺は宇宙工学専攻だ。探査機の新型エンジンを開発するのが夢なんだ」
「へえ、すごい! 将来遊星の作ったエンジンが飛ぶようになるかもしれないってこと?」
「まあ、そんなものだな」
 二人はすっかり意気投合し、メールアドレスと電話番号を交換するまでに至った。彼らの議論は、百合子が拗ねて兄のデザートを食べてしまうまで続いた。

 食事を終えてしばらくしたころ、その時はやってきた。不動夫婦が会計のために席を離れ、ほぼ同時に遊星が手洗いに行ったので、ジョニーと百合子は二人でテーブルに残されたのだ。
 さっきまで大口を開けて笑い、ふざけて冗談を言い合ったりもしたのに、いざ二人きりになると、やはりどうしたらいいのかわからなかった。ワインで適度に温められた頬や手のひらが、夜の風の冷たさを顕然と拾う。心臓ががなりたててうるさい。横目で百合子を見やれば、彼女もまた、所在なさげに指を膝の上で遊ばせながら、パンプスのつま先の上に視線を泳がせていた。
「あ、あのね」
 口をついて出た声は若干震えていて格好がつかない。それでも彼女は顔をあげ、その青く澄んだまなこでジョニーを見つめた。ジョニーもまた、目を逸らさずに彼女の顔、しわのない眉間の辺りを凝視した。
「明日、空いてないかな」
「明日……ですか?」
「うん。明日がダメなら、明後日でもいい。僕に君の一日をくれないかな」
 合点が行かない様子で、彼女は小さく首をかしげる
「君のことがもっと知りたい。僕とデートしてほしいんだ」
 恥ずかしくて情けなくて、死んでしまいそうだが、ともあれ、言えた。結んだ唇から安堵のため息が漏れる。鼻の先に、居心地の悪い熱が集まってくる。
 百合子はパッと頬を染め、小さな顎を引いて俯いてしまった。しかしすぐに再び視線をジョニーにむけ、大袈裟なところのない、無邪気なはにかみを浮かべて、小さく頷いて見せた。「もちろんです」消え入りそうな声だが、確かに彼女はそう言った。
「本当かい? 嬉しいよ、ありがとう!」
「私も……、もっとあなたのことを知りたいと、そう思っていたんです」
 そう笑う彼女の可憐なことといったら、なかった。
 ジョニーの胸の中で、幸福感と期待と高揚と不安とが、渦を巻き、もつれ合い、ぶつかり合って、彼の理性を押し流す。なんてかわいい人だろう! もう少し、遊星が戻ってくるのが遅かったら、ジョニーはきっと彼女を抱きしめて、口づけのひとつでもしていたに違いない。
 それから、彼女ともメールアドレスを交換し、両親に礼を言ってレストランを離れてからも、ジョニーのそうしたお祭り気分は尾を引いた。暗い停留所のベンチでプルマンを待ちながら、彼はパラドックスに電話をかけた。
「惚気はもうたくさんだ!」
 そう怒鳴られ、乱暴に通話を切られても、ジョニーは果てしなくご機嫌だった。