ばり、ばり、小さく柔らかそうな子どもの手が、包装紙を容赦なくちぎっていくのを見るのは面白い。うさぎとハートのパターン模様は無惨に引き裂かれ、絨毯の上に尻をつけて座る一陽の膝下に花びらのように積もってゆく。こういうのは、すぴーどがだいじです、とは本人の談。手早い彼女はとっとと身ぐるみを剥がすと、出てきた白い紙箱のふたを開けて中身を引き摺り出した。
はじめ、引き伸ばされた猫のようだと思ったのは、よく見れば黒い衣服だ。タイムレスなシルエットを際立たせるフレアカットと、ボタン付きクロスカラーが魅力的な、カシミヤフェルトのコートだった。古き良きメゾンのアーカイブを思わせる、クチュールらしいモダンなデザインだ。すぐさまフランスの著名なファッションブランドの名が頭をよぎり、肝を冷やすはじめ、一方純太は何でもなさそうな笑顔で、一陽の小さな肩に手を置いた。
「どう?」
「おとうさまにしては、よいです」言葉とは裏腹に、彼女は取り出したコートを丁重に持ち上げ、ソファにかけた。それから、もじもじとたたらを踏み、何か言おうと唇を動かすも、目的の挙動になかなか辿り付かない彼女だった。彼女の言葉が形をなさないうちに、廊下の方でも歓声が上がった。
「おかあさん! おかあさん! おかあさん!」
ガラスの扉をたたき開けて、廊下から飛び込んできたのは一月だ。発熱を懸念してこちらが心配になるほど、顔を赤くして、身体全体を震わせて、一生懸命母親の名を叫んでいる。
「落ち着け、どうした?」
「えっと、えっと、……えっとだよ!」
「はじめも見てくれよお、俺奮発しちゃったよ」
照れ笑いで、純太、セーターのハイネックに口元を埋もれさせる。半ば強引に腕を引かれてはじめは廊下に連行される。
玄関正面の吹き抜けの螺旋階段、その付近には、アンティークの時計やドライフラワー、季節の花を飾っておくのだが、いまはアルザスの小さなクリスマスツリーを置いていた。月の初めに子どもらが買ってきた、ブルーを基調としたボールやジュエリー、ミニリボン、金色の星、ハート、プレゼント、ワイヤーメッシュオーナメント、雪の結晶や天使の人形が小ぶりな枝葉を華やかに仕立てている。その、世界でもっとも美しいツリーの根元に、あきらかに歪な、整形し損ねた台形のようなかたちで包装紙に包まれた物体が置いてあった。上部にちょんとリボンが結んであるので、かろうじてプレゼントとわかるくらいのものだ。
「おかあさん開けて」
「自分で開けなさい」
「おとうさん!」
「自分で開けろよ、きっと大丈夫だから」
純太に諭されて、一月はようやく、しかし半泣きになりながらリボンを引っ張った。包装紙を引き裂くのがためらわれるのか、びりびりと端からゆっくり開け始めたのだが……すぐにもどかしくなって破りはじめた。現れたのは、黒のボディにグリーンのロゴの、ピカピカしたフレーム。スリムなシルエットの硬質なホイール。下方向に湾曲したハンドル。特徴的な形のペダル。ロードバイクだ、それも、純太と同じキャノンデールの!
「お、お、おとうさん」
「大事にしろよ。これからはライバルだ」
ふああ、呼吸とも悲鳴ともつかない声音で一月は、憧れのロードレース選手にして父親の宣戦布告を喜んだ。何やら興奮した様子で、唇を舐めたり、手のひらをしきりに叩いたりした。
「なんですかおにいさま、うるさいです」
新品のコートにレザーブーツを身につけ、キャベツを伴って廊下へ出てきた一陽は、すっかり興奮し切った兄のタックルを受けて後ろに倒れ、フローリングに頭を盛大に打ち付けた。
ダイヤモンドキルティングのフーデッドコートを身につけた一月が、右手を父親と、左手を母親と繋いで、日本水仙の可憐に咲く雨上がりの道を上機嫌で歩く。彼の小さい足が前進するたびに、タータンチェックのフードが動くのがかわいらしい。コート姿の一陽はといえば、純太の肩に脚を巻き付け、もじゃもじゃパーマの頭を胸にしっかり抱き込んだ肩車の姿勢で、いかにも不服そうに唇を曲げていた。「おとうさまのだっこはいやだからです」本人は言うが、実際、順番を待っているのだろう、両親の手のひらの占有権が兄から譲渡されるのを。
私立山百合学院幼稚舎は、手嶋家住宅とほとんど隣同士の土地に立地する、歴史あるミッションスクールの幼稚部だ。敷地内には校舎や遊具、教会堂のほか、東伏見宮依仁親王がかつて別邸として用いていた、白い壁面の美しいカンディダ・マリアハウス、イエズス会の修道院がある。葉の落ちた銀杏並木の門をくぐれば、同様に連れ立って歩く家族連れの姿がちらほらとみられた。
「忘れ物ないか?」
「だいじょうぶ、スリッパと、保護者証だけ」
「保護者証? どこ?」
「首にかけてるの、保護者証」
「変なとこないかな」
「純太、気にしすぎ。だいじょうぶ」
「おとうさま、うごかないで! ゆれます!」
深い藍色の美しいホップサックのスーツに本皮の編み上げ靴、オートクチュールのネクタイ、金のタイピン、純然たるオイスター・パーペチュアルを左腕にはめて、純太はまるで子どものように右往左往した。額に汗を滲ませながら落ち着きなく、保護者証を裏返してみたり、後ろに固めた前髪をいじってみたり、ネクタイの結び目をひっぱったりした。家族連れの、特に母親の方が、まずスーツやアクセサリーを見て目を丸くし、顔を見てさらに息を呑み、最後全体を見渡して、一転、呆れたような微笑ましいような顔になるのがなんとも恥ずかしかった。いちばん良いシルクシャツをこの日のためにおろしたはじめも、向こうで各界の名士たちと渡り合ってきた彼に見劣りするのではないかとちらり思ったが、この様子だと、むしろ純太の方が心配だ。今に限っては、完全に服に着られている状態だった。こうした行事にまともにかかわったことがないから、仕方ないのかもしれないけれど。
ピンクのクリスマスローズで飾られた正門の前で記念撮影をした。親切な母親が申し出て、純太が持ってきた剛健なペンタックスで(彼女の細い腕にはさぞかし辛い仕事だっただろう)写真を撮ってくれた。「うちの子がね、一陽ちゃんのこと大好きだっていうんです」彼女は微笑んで、はじめにそう言った。
「そうなんですか……一陽?」
「おともだちなので」
「子どもは、あまり話すのが得意ではないんですけど、一陽ちゃんがリードしてくれるので、最近は積極的にみんなの話にも混じれるようになったと聞いています。そういうことで、すみません、一方的に存じ上げていました」
頷くはじめと、照れる一陽の後ろで、純太は感極まって泣いていた。
保育室の前で子どもたちとは別れた。二人はパッと両親の手から離れると、引扉手前の机に走っていって、各々、出席帳の今日の日付の欄にシールを貼った。親は校舎内のホールに案内され、前の方からずらりと並ぶ長椅子に、順番に座るようにとの指示を受けた。開演までは、耳と唇が触れ合うくらいの距離で、離れているあいだの子どもたちの様子について話した。月に何度かの電話だけでは足りなかった。一陽が、姫君の童話集に感銘を受け、大人びた会話の言い回しや、はじめも知らないような難解な単語を使うようになったこと。一位景品のおせちが欲しくて塗り絵コンテストに応募したら、二位の景品でかまぼこが送られてきて、悔しさのあまり声を上げて泣いたこと。初めてのピアノの発表会でも失敗して泣いたこと。それでも、彼女が泣いたり、喚いたりして理性を失うのは珍しいのだということ。一月が純太のレース映像に異様なほど熱を上げていること。ピアノの発表会で、グラドゥス・アド・パルナッスム博士を弾いて周囲を驚かせたこと。キャベツの名前がダサいと言って、新しい名前を考え中であること。十までの漢字を覚えたが、四以降の漢字に疑問を持っているのだということ。はじめが辿々しく語る一つ一つの話題に、純太は微笑し、気の利いたジョークを言った。
明かりが落ちて、開演の知らせがなされた。電子ピアノめいたオルガンの演奏とともに、天鵞絨の緞帳が上がって、青いロングワンピースに、ラッセルレースのヴェールを被った一陽が現れた。はじめはすっかり満足していた。ロイヤルブルーの生地や、レースのふちに縫い付けたビーズが星のように光るのが、華やかな彼女の登壇にぴったりだと思った。ヴェールの内側で、ゆるくうねった栗色の髪が揺れるのも、筆舌に尽くしがたく愛らしかった。
彼女が台詞を言うと、白い長衣に金の髪飾りをつけた一月が下手から現れて、折り紙の星がついた杖を回して彼女に呼びかけた。二人はしばらく見つめ合いながら演技をした。どちらにやきもちをやいたらいいかわからず、純太がはじめの隣で悶えている。
朝方の雨で濡れたコンクリートも乾き始めた昼下がり、帰宅した一月はコートを脱ぎもしないまま、引きちぎられた包装紙の上に取り残されていたバイクを、倒した。早速外に持ち出そうとして失敗したのだった。居間から純太が飛び出してきて彼を助けようとしたが、ジャケットは頭に引っかかりっぱなし、シャツのボタンも半分開けっぱなしの、酷い格好だった。なにしようとしてる?、首を傾げるはじめを振り返り、二人揃って言った。「走りに行ってくる!」
はじめも久しぶりにサイクルジャージに腕を通した。ブルーの生地にライトイエローのラインが入った、なつかしいサイクルジャージは、箪笥の奥底でひっそりと呼吸していた。ビブショーツを履き、ビンディングシューズを着け、胸元のジッパーを締めると、それだけで胸がすくような思いがした。最後、穴あきグローブに指を通すと、自然身が引き締まる。廊下に出ると、ちょうど上階から降りてきた、体操服姿の一陽と遭遇した。
「おとこのひとって、いつもこうですね」スニーカーのテープを締めて、殊勝なことを言う。
午後の光の中、盛りを迎えた薄桃のジュウガツザクラの低木のそばで、アシッドライムのキャド十三を携えて立つ純太の精悍な身体に、しばし見惚れた。硬質な黒のジャージに包まれた身体は、痩せてはいるが、硬い鉱石さながらの重々しさと鋭さが漲っている。ぎっしりと中身の詰まった肉だ。だというのに、扉を開けたはじめをすぐさま見つけて、彼は甘い笑顔で手のひらを振るのだった。
「ジャージ似合ってる。近くでもっとよく見せてくれよ」
「純太」
アプローチの階下から差し伸べられた手をとり、握り返した。かと思えば、小さな子どもにするように抱きしめられて胸が詰まった。キスをされる。細胞の一つ一つを愛おしむような丁寧な接吻が、ひでりの唇に惜しげもなく与えられる。はじめは面食らいながらも、瞬時にして、彼独特のリズムの中に取りこまれていく。きんと凍りつくような外気にあって、純太の唇は冷たい。だが抱きついた身体は燃え盛って熱い。瞼に耐えがたい熱が集まってくる。
「かわいい」
言いながら、純太はくすくす喉で笑った。
はじめは、学生時代から乗っている白にブルーのロゴのコラテック、一陽は昨日まで兄が使っていたキッズバイクに乗った。純太が先導し、はじめが最後尾を走った。正面門から西に向かってゆるやかな坂を下れば、県道二〇三号線、さらに北西へ進めば逗子海岸沿いの国道一三四号線に出る。群青色の海に向こうに遠く涼しげな富士山が見える。潮風が顔に吹き付けてくるのを気持ちよく感じた。純太は、中途で出会った、彼のファンだというロードバイク乗りのサイクルジャージに、サインをしてやったりしていた。
帰宅したあとは、交代で風呂に入り、きもち豪勢な晩餐に預かった。キャベツにも特別なドッグフード、煮干しが入ったやつだ、が与えられた。子どもたちを寝かしつけて、夜半、早急に求められた。子どもたちにそれぞれ個室を与えておいてよかった。まだ若い妻に純太がしかけた情熱的なキスは、とても、彼女たちには見せられないものだったからだ。
褥の上に黙って無害に横たわるはじめは、湯上がりでしっとりと熱を帯びた身体に、透け感のあるシルクのパジャマをそのまま着けていたが、すぐさまに脱がされた。あらわになった脇の肉にさわった指が熱くて、しぜん、呼吸も心拍も早急なものとなった。純太は寡黙に唇を結び、はじめの身体を丹念にしたくした。うなじの薄い皮膚、鎖骨、冬の冷気の中に張り詰めた乳頭、摘み上げられて白く乳が流れ出し、無骨な手のひらを汚した。へそや脇腹もくまなく撫でられた。焦ったく急かせば、六年も前に子どもを産んで、いま、淫らに濡れている狭い穴を、太い指に乱暴にほじくられる。
はじめ。甘くやさしく、この上なく愛しいものに語りかけるための声で囁かれると、興奮のあまり胸を掻き毟りたくなる。キスのために降りてきた彼の顔を見つめるとき、頬にかかった柔らかい髪をくすぐったく思うとき、切なさのあまり泣き出したくなる。「ごめん。久しぶりだから、余裕ない」純太が笑おうとして顔を歪めた。彼の大きな手でがっしりと掴まれた足首の先がじんじん痛い。その痛みにすら恍惚とするはじめは、まったくどうかしてしまったに違いないのだ。
二人のからだは、縁から少しずつ、更けゆく夜の一部と化していった。