2023/06/222

 

 

 ベッドシーツの上、瞼に陰茎を被せられながら唇を歪めてピースサインをするシルバー、バスルームのタイルの上に這いつくばって肉付きの薄い尻を見せるシルバー、シャワールームのガラスに背をついて開脚し精液まみれの恥部を露わにするシルバー、キッチンの調理台に乗り上げて、右脚だけをゴールドに掴まれて涙を流すシルバー、ゴールドと並んで床に寝そべりながら笑みともつかない表情を浮かべるシルバー、誰もいないパウロ館のサロンで窓に張り付き羞恥で耳まで赤くするシルバー、それから、暖炉の前でクッションを抱いて顔を隠すシルバー。最後の写真をポラロイドから引き摺り出してゴールドは、今まで撮影したあらゆる性交の記録を絨毯の上に並べてみた。その中に、彼が幸福そうな写真は一枚もない。
 姉が学園を去ってから、シルバーはひどく沈んでいた。やさしい記憶、ゴールド一人ではとても埋めきれない孤独、そして去り際に彼女が何も言わなかったことに対する疑念が、シルバーを塞ぎ込ませた。クリスマスミサを終え、降誕劇が終演して、学園は冬期休暇に入ったが、ふたりとも帰宅することなく寮に残った。ほとんどの生徒が出払った学園内で、ふたりは盛りのついた動物のように身体を重ねた。ゴールドは若く、情は尽きることもなかったし、シルバーだって拒むことはなかった。お互いの部屋、パウロ寮のサロン、教室、礼拝堂、学園はずれのあの聖堂、ラビリントの茂みの中。何度交わっても満ちることはなかった。そうやって日々を過ごすうちに、年を越した。
 窓の外は激しい吹雪でホワイトアウトがひどい。秋、ふたりが泳いだシュロス湖は凍り付いているだろう。裸の皮膚に寒さを覚え、ゴールドは火をたいた暖炉のそばに寄った。と、そのとき、バスルームへの扉が音を立てて開き、先にシャワーを浴びていたシルバーが顔を出した。彼も全裸のままだったが、ゴールドがを見つけると、寄ってきてその首の皮膚を吸った。
「なに見てるんだ」
「おまえのエロいとこ」
「ばか、やめろ」
 白い手のひらにはたかれたが、まるで力がこもっていない。「おまえもはやく綺麗にしてこい」
 暑い湯で軽く身体を洗い流し、ゴールドがバスルームを出ると、シルバーはすっかり制服に身を包んで絨毯の上に座っていた。几帳面に揃えた膝の上に、彼が日ごろ愛おしく読んでいるあの赤い表紙の聖書を載せて、開けたページに静かな視線を落としている。近づいて見れば、そのページには一枚の写真が挟まっていた。黒髪を後ろに撫で付けた黒い外套の男と線の細い印象の赤毛の女、それから彼女の胸に抱かれた赤ん坊。以前ゴールドにも見たことのある写真だ。
「おまえの両親?」
 ゴールドが髪を拭きながら近づくと、シルバーははっと顔をあげ、少しばかり口角を上げて柔らかい目つきになった。
「ああ」
「いい写真だな、家帰んなくてよかったのか」
「お父さんは……忙しい人だし、お母さんはもうずっと昔に亡くなったから」
「そうか」
 真っ直ぐに伸びた指が、ふるめかしい木版印刷のアルファベットをなぞる。    
 キリストは、処刑される前日の木曜日、少数の弟子たちと食事を摂った。これが、ダ・ヴィンチの絵画にも有名な最後の晩餐であるわけだが、このとき、ユダが自らを裏切ろうと画策していることを知りながら、キリストは彼を行かせた。そして、創世のころから定められ、遵守を義務付けられてきたユダヤ教の神の厳格な掟に変わる新たな戒律を一つ、残った弟子たちに与えた。一つ、たった一つだけだ。これがキリスト教の本質的な精神として、以後二千年のあいだ変容することなく受けつがれてきた。シルバーが家族の写真を挟んだページはそういう類のものだ。
 ゴールドは湿った髪をタオルで粗く拭い、ドアハンドルにかけてあったガウンを身につけて、微笑するシルバーに寄り添った。彼は腕を伸ばしてゴールドの首にすがり、軽く突き出した唇でまだ微かに濡れた下唇を吸った。そのとき、ふたりの視線は同一の感慨にきざした。ふたりは力の許す限り強く抱き合った。肋骨が軋む。
「ゴールド、怖い」
 瞼をゴールドの肩に押し付け、らしくなく震えた声で彼が言った。
「嫌な予感がする……」

 クリスマスの終了を告げる公現日(エピファニー)とともに冬休みも明け、学園に生徒たちが戻ってきた。全校生徒が詰めかける礼拝堂で大規模な始業ミサを行い、新年の祝宴が行われて、ゴールドもなつかしい友人たちと再会を祝った。
 午後には再び生徒たちが礼拝堂に集められ、次の生徒評議会メンバーを決定する選挙が行われた。例年は特に選挙活動なども存在せず、その場で投票及び開票を行うため人気投票にも似た側面もあったが、昨年議長が除籍されるという不祥事があったことで制度が厳格化され、候補者たちは投票の直前に立候補演説を義務付けられた。クリスタルが昨年に引き続き立候補したほか、驚いたことに、今回はシルバーまでもが候補者の中にその名を連ねた。彼は、姉を失って相変わらず不安定だったが、ゴールドやほか同級生たちの支えもあってなんとか立ち直ろうと努めている様子だった。
「みなさんの多くはすでにご存知でしょうが、私は、多くの上級生と性的関係にありました」
 祭壇の前に立ち、彼は堂々と、突き通るような声で聴衆に語りかけた。急に確信をついた彼に、下級生たちは動揺してざわつき、該当する上級生たちはかえって押し黙った。
「明確に校則で規制されているわけではないので、この穴を突き、私だけでなく多くの生徒が過去に性的関係を強要されていたと聞いています。しかし、主は、性別はどうあれ婚前交渉を厳しく禁じています。このようなことが神聖な学内でおこってはなりません。私は、校則のそうした部分をより厳格化するとともに、不要な部分は積極的に削除する、軟性の治安維持を提案します」
「よく言うぜ」昨日だって、彼はゴールドの下であられもない姿を晒していたというのに。
「この件に関しては、私の義姉である前期マリア館寮監の意志を引き継ぐ形になります。彼女は不名誉なことに除籍処分になりましたが、私情としては……まだ彼女を信じていたいのです……しかし、結果的にみなさんの信用を欠く結果になったこと、彼女に代わってお詫び申し上げます」
 彼はその後いくつかの公約を掲げて内陣を降りたが、演説が終わっても、また次の候補者の演説が始まっても、生徒たちはしばらく落ち着きを欠いていた。彼は下級生および中等学校の生徒たちから多く票を得、その一方で上級生たちの支持を得られずに選挙には敗退した。ゴールドには、彼が本当に議会のメンバーになりたかったわけではないと理解していたので、特に悲観することはなかったが、クリスをはじめとした同級生たちはそれを大いに残念がった。
「驚いたわ、わたしも直前までシルバーが立候補するなんて知らなかったんだもの」
 翌日、宗教学の時限、ゴールドを挟んで、クリスがシルバーを誉めた。「言ってくれたら一緒に作戦を練ったのに」
「それじゃあ意味ねえよ、なあシルバー」
「……オレは、クリスが議長になったことがうれしい」
「まーたそういうこと言う。ばかだなあ、てめえは」
「ゴールド、無神経よ! ……でもねシルバー、わたし、あなたの本心が聞けてよかった。あなたのぶんも精一杯頑張るからね」
 最後の立候補者だったクリスの演説は、それはもう凄まじい勢いだった。一部の熱狂的なファンが最前列で大騒ぎするのに鋭く喝を入れながら、ときに朗々と、ときに声を低めて、生徒たちの心を鷲掴みにした。結局、上級生も混じる他の候補者たちを凌ぎ、もっとも票を多く獲得したのは彼女だった。いまは次期議長として、レッドからの引き継ぎ作業に追われているらしい。
「クリス、ありがとう」
 シルバーは、おだやかに目尻をゆるめてはにかんだ。クリスが目を輝かせる。
「こちらこそ、シルバー、大好きよ!」
「うん」
「シルバーは?」
「だ、……だいすき」
「おいおい、オレを挟んでイチャイチャすんなよなあ」
 始業の鐘が鳴り、教室でめいめいにおしゃべりしていた生徒たちも途端にしずまりかえる。例の教諭が大股で入ってきて、明らかにゴールドを一瞥したあと、巨大な旧約聖書を教壇の上に置いて椅子に腰掛けた。
「さて、今日は詩篇六十七章を取り扱う。みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神——」

 金曜日、週の終わり、生徒たちは休日を前にしてどこか浮き足立っている。
 ゴールドも、翌日土曜日に外出許可を取るために、職員教室に続く長い列に連なっていた。ラジオによる天気予報によると、明日はこの季節には珍しい快晴、気温も上がるとのことだったので、シルバーと一緒に町に出てガールハントでもしようというたくらみだった。凍りついたシュロス湖にはスケートをしに毎冬ヴュルテンベルク内外から金持ちの子女が集まってくるのだ。にやにやするのを申請書に隠しながら、彼は声を立てて笑う。
「ゴールド」後ろから声をかけられたと思ったらシルバーだった。あいかわらず制服のボタンを上まできっちり止めた格好で、生真面目に聖書を小脇に立っていた。「何してるんだ」
「おまえ明日ヒマだろ? スケートにでも行こうぜ」
「? わかった」
「今申請書出すとこだから。おまえもちょっと付き合え」
 彼の腕を掴み、無理やり列に割り込ませる。
 午後三時をまわる頃だろうか、ゴールドの前の女生徒が、ようやく外出許可書を受け取って立ち去った。ゴールドは意気揚々と前に進み、背筋を伸ばしてデスクに座るジークフリートにふたり分の申請書を押し付けた。彼はふたりの顔を順に眺めて、うん、頷くと、つけぺんから流れるインクで流麗なドイツ語を書き、許可書をふたりによこした。
「外出を許可しよう。明日はどこに行くんだ?」
「湖のほうまで降りようと思っています。ええと、スキーをしに」
「スケート」ゴールドが横から修正すると、彼は慌ててこれを復唱する。
「スケートをしに」
「わかった。楽しんできなさい。特にゴールド、あまり羽目を外さないように」
 ゴールドは軽く返事を返したのみだったが、シルバーは丁重に頭を下げて退室した。ドアを閉める直前、ふと、ジークフリートはシルバーの名を呼んだ。
「シルバー、学長が君を呼んでいた。急ぎの用事だそうだからすぐに伺いなさい」
 シルバーは、はじめ訳がわからないという顔をしていたが、みるみるうちに顔を青ざめさせ、ぱっと踵を返して職員教室の前を立ち去った。待てよ、その後ろにゴールドが追随する。
 彼の横顔に不幸の花が下向きに降りてくる。
 学長室は、北塔、議会室の上階、つまり三階に位置する大部屋だ。校舎から直接向かうには中庭をまっすぐ通って一階から階段を上がるのが最も近道だが、吹雪くことも珍しくないこの季節、凍てつくような寒さの外気にわざわざ晒されに行くような勇者はそういない。しかし、シルバーはためらいもせず中庭への扉を開け、昨晩のまっさらな積雪のうえをローファーひとつで進みはじめた。午後の光の中、白く反射するまっさらな雪影の中で、シルバーの皮膚は人間離れして青白い。ゴールドも慌てて後を追うも、すぐに靴底から冷たい水が滲んできて悲鳴をあげる。
「本当にどうしたんだよ、シルバー!」
 シルバーは何も言わない。寡黙のうちに北塔に到着し、ロビーから螺旋階段を伝って三階へと向かう。ちょうど図書室から出てきたばかりの生徒数人とすれ違い、ゴールドは彼らの会話を聞いた。
「戦争が……」
「ああ、……の?」
「……も身柄を……されたらしい、……になるんじゃねえか」
 うまく聞き取れないが、シルバーの故郷で起こっている戦争に何か動きがあったらしい。そのことで呼ばれたのだろうか?
 大股で回廊をすぎ、目的の部屋を見つけたシルバーは、重い木の両開き扉を押し開けた。ゴールドも続いて入り、中で数人の教諭が頭を突き合わせているのを発見した。彼らは一斉に振り返り、入ってきたのがシルバーだとわかると苦々しい面になった。
 広々とした、過ごしやすそうな部屋だ。床には分厚いペルシャが敷かれ、そのそばでは備え付けの暖炉、中で火が盛んに燃えている。左右の壁には巨大な本棚、古めかしい世界地図、権威のありそうな背表紙の分厚い書籍、手前には教師たちが座る客用のソファが二つとローテーブル、奥には背の高い窓が三つ、それからマホガニーの巨大なワイドデスク。地球儀に、銀で作られた天球儀、ずらりと並ぶ金の盾。上等な革張りのデスクチェアがこちらに背を向けている。
「まあ、入りなさい」
 椅子ごと振り返ったその人は、白髪の小柄な老爺だった。ブルーグレーのジャケットに白のショールをかけた格好で、革の背もたれにゆったりと身体を預けている。学長だ。一見なよなよしいただの老人に見えるが、シルバーと、それからゴールドを視認する目の鋭さは、明らかに学長のものだ。
「ノーバートだ」
「シルバー・ヴァンヴィッチ・ディグナツィオです」
 シルバーは名乗ると、さっさと絨毯のうえを歩いてデスクの前まで歩み寄り、軽く腰を折って頭を垂れた。皺だらけの手と固く握手を交わす。
「……そうか、君が、ジョヴァンニの息子だな」
「要件はなんでしょうか」
「まあそう気を急くな。カーツ、出してきてくれるかな」
 彼が手を振って指示を出すと、後ろで控えていた若い男女のうち、黒髪の男の方が、恭しく首を垂れてから退室した。女の方がソファーの上で戦々恐々としている教諭陣を追い出している。
「君の母国でのことは知っているね」
「……」
「今日の午前五時ごろ、つまり向こうの首都では六時ごろのことだ、相手国特殊部隊の手により大統領は拘束された。すぐ安全保障会議副議長が職務を代行することとなったが、彼は三国宣言を即座に受諾し、無条件降伏が決定した」
 シルバーが息を呑んだ。膝をつき、力なく床にへたり込む。
 男が黒いつやつやとした盆を持って戻ってきて、それを主人の前に静かに置いた。手のひらに乗るほどの小さな青い表紙の聖書と、白い封筒。学長はデスクの上を滑らせてシルバーにそれを取るように促した。シルバーは震える手で封筒をちぎり開けた。中から取り出した一枚きりの便箋を食い入るように読み、それから慌てて聖書を取って開く。勢いよく捲られたページの間から、一枚の写真が滑り落ちてきた。柔らかい女の字。写真の白い縁に何か書かれている。シルバーが瞠目する。
〈いとしいわたしたちの息子と〉
「あのひと」淋しい獣の仔のような顔で、呆然とシルバーはつぶやいた。「死ぬつもりだ——」
 花が萎れるように、木がなぎ倒されるように、細い身体は左右に二足三足蹌踉よろめくと突然後へ反って、仰向けに倒れたなり動かなくなった。旋条が突然抜けて動かなくなった人形のような具合だった。しばらく、誰も、何も言えなかった。シルバーの身体だけが絨毯の上で抜け殻だった。
 はじめに反応したのはゴールドだった。「シルバー!」慌ててその肩を抱き起こす。首に腕を回し、顎に指を添えて顔を覗き込んだ。唇は青白く、土のように乾いている。瞳孔も開きっぱなしで、手で影を作ってやっても反応しない。
 ゴールドの必死な声を聞いて、やがて周りものろのろと正常な判断を取り戻した。
「医者を呼びなさい」
 学長が女に指示を出す。

 父は母を愛していた。シルバーのことも、愛していた。ロマノフ王朝の宮殿が集まる避暑地の水辺に父は、青と白、それから金の美しい邸宅を建て、世界中から集めた花の庭まで作ってそこに母子を住まわせた。身体を病んだ母、喘息を拗らせたシルバーは、もはや首都の排気ガスや永久凍土の冷たさに耐えられなかった。
 赤や桃色、白の睡蓮が咲く庭のそばを駆け、薔薇のガゼボの中で侍女が淹れた紅茶を楽しむ母のもとへ一目散に向かう。母は真っ白な絹のドレスの胸に豊かな赤い髪を垂らして、膝に黒い子猫を抱いていた。「おかあさん!」呼びかけると、こちらに気づいた母が優しく破顔した。腰に抱きつく。たおやかな手が、シルバーの、揃いの赤毛を撫でた。
「ぼうや、どうしたの」
「おはながさいてたの。おかあさんにあげる」
 ダリアやポピー、クレマチスオダマキ……紫のエリア……どれも庭師が丹念に世話をかけて育て、母もとても大事にしていたものだったが、彼女はそれを息子が摘んできたことを眉ひとつ動かさずに受け入れた。ブーケを受け取り、頬を寄せてその香りを楽しんだ。身じろぎをするたびに、白いレースが光を弾いて輝く。
「にあうかしら」
「うん、おかあさん、おひめさま(プリンツェーサ)みたい」
「うれしいこと」
 母が笑った。シルバーも、それが嬉しくて笑った。
 邸に戻る彼女の後ろについて歩きながら、シルバーは……これが夢だということに気づいていた。シルバーが二つになるころには母は早逝していたはずだし、二歳の子どもが、これほどまでにはっきりと言葉を話せるものとはとても思えなかった。しかし、しかしだ、それでも、慕わしく思っていた母と、もうすっかり焼け落ちてしまったであろうあの夢のような花園をふたたび歩くことができて、シルバーは幸福だった。目の前で揺れる手に、小さな手をそっと繋いでみる。
 夕方、母はベッドにいて、すがるシルバーに読み聞かせをしていた。力の弱い彼女でも持ち上げることのできる小さな青い表紙の聖書、その後半のページを開いて、やさしく低めた声で一節を読み上げた。「わたしがあなたがたを愛したように、互いを愛し合いなさい」
「おかあさん、あいってなに?」シルバーは幼く小首を傾げる。
「ぼうやにはまだ早かったかしらね……その人のためなら命も捨てていいって思うことよ」
「いのち」
「そう、それくらい大事に思うこと。おかあさんはね、シルバーのことを愛しているわ」
「おとうさんは?」
「もちろん、おとうさんもよ」
 シルバーの頭の中に、熊のような顔をした、背が高くて大柄な父の姿が浮かんだ。母の、父を語るときのまなざしがやわらかい。
「おとうさんきらい。こわいから」
「まあまあ、ぼうやったら。あのひと、きっとそれ聞いたら泣くわよ。でも……そうね、いつかはあなたにもわかるわ」
 母は目を細めてシルバーの額にキスをした。シルバーは目を閉じて、自分の頬にのる柔らかな感触を味わう。
 そして、ああ、眠りの漣はすっかり引こうとしている。母の声が遠ざかっていく。きっともう夢でも会うことはないだろう。なぜなら……シルバーも、両親を愛しているから。さよなら、シルバーは胸の内で優しい母の笑顔に別れを告げた。

「一種の神経症だろうね。大丈夫、そのうち意識も戻るよ」
 医務室のベッドの上に横たわるシルバーの顔色は相変わらず真っ青だったが、ゴールドはとりあえず安堵の溜息をついた。彼の寝顔を横目に見ながら、ゴールドはカーテンの引かれた窓辺に立つ。外はもう少しばかり薄暗く、空は裾の方から天辺にかけて紫紺色に沈んでいる。
 医師は、シルバーの事情を察して、ゴールドとふたりきりにしておいてくれた。彼が去ると、医務室の中はシルバーの憂鬱な寝息ばかりになり、ゴールドの気分もますます沈む一方だった。白い頬を指で慈しみ、閉じた瞼に触れるだけのキスを落とす。神経症……シルバーが? 母国が敗戦し、理解ある義姉を失った今、それも仕方のないことなのかもしれないが。
 廊下を走る音が響いてくると思ったらクリスだった。ドアを勢いよく蹴り開けて、彼女は医務室に飛び込んできた。
「クリス、医務室だぜ」
「あ……ごめんなさい」照れておさげをいじりながら、クリス、「シルバー、大丈夫?」
「ああ。貧血だとよ」
 咄嗟に嘘をつき、ゴールドはすぐに後悔する。おお、哀れで純真なクリス。彼女はは大まじめに唇を結び、シルバーのそばに膝をついて、こんこんと眠る白い顔を眺めた。
「そうよね。彼、いつも頑張りすぎるし……ブルーさんもいなくなったばかりだから……」
 桜色のつま先が、青ざめた男の手を握り、その所在をたしかめるように頬へ寄せる。宵の口の薄闇の中、蝋燭ばかりが照らす中で、まるで天使のようなふたりだと思った。クリスが緩んだ眉を愛撫すると、彼は小さく唸って寝返りを打った。目覚めも近いのかもしれない。
「それに、あなたいつも彼に無理ばかりさせているみたいだから」
「ぶ!」
 いきなり核心をつつかれる形になり、ゴールドは思い切り咽せた。前のめりになった勢いで思い切り転びそうになる。してやったりという顔で、クリスが鈴を転がすような声で笑った。
「気づいてないと思った? 初めて会ったときから知ってたよ、あなたがシルバーのこと好きだって……学校の中のことでわたしが知らないことなんてないんだから」
「ほんとかよ」
「ほんと。それでも、みんなが楽しく学校生活を送るために、知らないふりをしたりするものなの」
 そのとき、薄く血色をすかした瞼がやにわに震え、結ばれた花の蕾のような唇がかすかな呼吸のために開いた。美しい彼はふかふかの枕に頭を包まれた格好のまま、腕を伸ばして伸びをし、そのまま口許に手をやって小さなあくびを一つした。茫漠とした薄闇の中で銀の虹彩がきらめきを帯びる。おぼつかない視線がふたりを見る。
「……ゴールド?」
「よ」
 まだ頭がはっきりしていないのか、シルバーはしばらくぼんやりとゴールドを見ていたが、額を粗雑に撫でられるといやがって身を捩った。
「おはよう、シルバー、もうすぐ夕食の時間よ。よく眠れた?」
「ああ……夢を見ていたみたいだ、あまり覚えてないんだけど……オレはどうしてここに?」
「学長室で倒れたって聞いたよ。もしかして覚えてないの?」
 髪を弄られ頬をもてあそばれながら、しばしのあいだ心ここに在らずといった様子で天井のフレスコ画に視線をやっていた彼だったが、ふいに刮目し身体を跳ね起こしてベッドから下りようとした。
「何してんだ!」