2022年9月20日

B-3

 

 翌朝、ジョニーは早朝五時半に起床した。
 決戦は四時間半後、十時きっかりに彼は百合子とパレルモ・プレトーリア広場で落ち合う。プルマンでの移動に約一時間ほどかかるとして、全ての支度を三時間半の間に済ませなければならない。
 彼はまずシャワールームに入ると、いつもの倍以上の時間をかけて念入りにシャンプーをした。勿体ぶってなかなか使わないボタニカルのヘアコンディショナーを手のひらにたっぷり注いで、豊かで艶やかな髪をゆっくりと労ってやる。髪からほのかにサンダルウッドの気配が漂うようになったのを確認して、今度はその長躯をシャワージェルで隅々まで磨いた。
 シャワーを終えた彼はタオルで全身の水分を拭き取ったあと、肌のコンディションチェックに入る。姿見を熱心に見つめながら、無駄な産毛を剃り落とし、ローションやモイスチャライザーで肌のきめを整えていく。
 相変わらずニキビもシミもない、健康な皮膚をキープできていることを確かめて、彼はようやく整髪に手をつけた。ドライヤーに乾かされ、豊かに広がった髪をヘアオイルで流してやる。ブラシで丁寧に寝癖をとることも忘れない。それから、一度寝室に戻り、クローゼットを開けて、彼が持っている中でも最も上等な黒のオープンカラーシャツとジーンズを選んで袖を通した。腕にはお気に入りのスポーツウォッチ、襟をくつろげた首周りにはシルバーチェーンのネックレス、腰回りには細身のメッシュベルトを、まるで鎧でも着込んでいくかのような厳粛さでつけていった。
 仕上げにパルファンでマンダリンやトンカビーンの香りを手首に強く刻んだら、身だしなみは完璧だ。いつものように鏡の中の自分に向かってウィンクしようとしたが、今日ばかりはうまく行かなかった。
 時計は七時半を差している。まだ幾分か余裕があることに安堵して、彼はバスルームを辞し、祖母が待つ階下へ降りていった。
「おはよう、おばあちゃん」
「ジョニー、おはよう。今日は早いのねえ」
 祖母はちょうどオーブンでコルネットを焼き上げたところだった。共に食卓につき、ビスケットやエスプレッソと一緒に簡素な朝食を済ませる。
 八時過ぎ、ジョニーは家を出た。
 百合子との待ち合わせの時間に合うように、数本遅いものに乗ってもよかったが、はやる気持ちを抑えきれず結局八時十分のプルマンに乗って彼はパレルモに出発した。誰もいない車内で落ち着いてデートコースのおさらいをするつもりが、早起きのためにうとうとと船を漕いでしまい、目が覚めた時にはもう既に停留所は目前だった。
 彼はがっかりしたが、まだ約束の時間までは三十分以上時間がある。百合子を待つ間、優雅にコーヒーでも飲みながら復習すれば良い。そのように考えていたジョニーを、しかし嬉しい誤算が待っていた。
 停留所からマクエダ通りを六〇〇メートルほど北上したところにプレトーリア広場はある。ルネッサンスの彫刻家が手がけた噴水と三〇を超える裸体彫刻の数々は、パレルモという町を代表するシンボルの一つだ。周囲ではたくさんの人々が待ち合わせをしたり、屋台やスタンドを見たりしていたが、その中に一際清楚で美しい少女の姿があった。まだ九時半を過ぎてもいないのにだ。
 彼女の姿を見止めた瞬間、一晩経って落ち着いたはずのジョニーの心臓は再び早鐘を打ち始めた。細胞は期待と一抹の不安に泡立ち、喉は浮き足立って何度も何度も熱い唾液を飲み下した。
 ジョニーのためにおしゃれをしてきた彼女は、それはもう、筆舌に尽くし難いほどかわいかった。遠目から見ても、彼女が一番輝いている、ジョニーは本気でそう思った。気を張っているのか、真っ直ぐに背筋を伸ばし直立した姿勢で視線をあちこちに泳がせる彼女。胸元にレース細工をあしらったサマードレスに小さな黄色い花のイヤリング、アドリアブルーのサンダル、どれも彼女の細く壊れやすそうな身体にとても似合っている。まるで今日のためにあつらえられたかのようだ。髪は耳の後ろから丁寧に編み込まれ、肩のあたりにリボンで留めてあるのがまたなんともいじらしかった。
 ジョニーはどうにも落ち着くことができず、一度彼女から離れてジェラテリアに立ち寄り、レモンジェラートを二人分購入した。それからまた広場に戻ってきて、たたらを踏み、ようやく意を決して噴水の前で待つ百合子の元へと踏み出した。
「お待たせ」
 緊張のあまり、声が妙な方向に裏返る。弾かれたように彼女が顔を上げる。その柔らかそうな頬がじわじわと熱を帯びていくのを見て、ジョニーの胸中にも遅れて羞恥がやってきた。二人してお互いから視線を外す。
「い、いいえ……私が早く来過ぎてしまっただけですから」
「うん。君と過ごす時間が三十分も増えて嬉しい」
「はい……」
 恥じらい、軽く伏せられた長いまつ毛には軽くマスカラが施されている。瞼には薄くラメの入ったベージュのアイシャドウ、小さく慎ましやかな唇には、光沢のある薔薇色のリップグロスが薄く塗られていた。どれも、最初に出会った時の彼女にはなかったものだ。
「……僕のためにおしゃれしてきてくれたの?」
 感動のあまり、全く用意していなかった言葉がつい唇からこぼれ落ちた。
 彼女の顔はすっかり焼けぼっくいの色に染まりきり、長い指が一生懸命にそれを隠した。
「ええ。その、はい、母に手伝ってもらったのですけど……あなたの隣に立つなら、きちんとしなければと思いまして。変じゃありませんか?」
「変じゃない。世界で一番かわいいよ」
「あ……」つぶらな瞳がじわりと潤む。
 ジョニーは彼女を愛おしく思う気持ちを必死に押し殺して、その手を取り、すでに溶け始めたジェラートをひとつ握らせた。
「行こうか」
 それから、もう片方の手には、ジョニー自身の右手を。固く骨張った男の手に触れられて、うぶで照れ屋な彼女の左手はびくりと飛び跳ねて腰の後ろに逃げようと動いた。追いかけることはせず、ただ手のひらを広げて待ってみる。すると、このかわいい小さな手はおずおずと引き返してきて、遠慮がちにジョニーの右手に寄り添った。胸がいっぱいになり、思わず強くぎゅうとにぎり込めてしまう。
「あ、ごめんっ」
「もう、ジョニーってば」
 ジェラートを口許にやりながら軽く笑う彼女が愛しい。冷たいレモン味を舌の上に染み込ませながら、ジョニーはこの耐え難いほどの幸せに胸を震わせていた。

 それからの二人は、パレルモの名だたる観光名所を次々に訪れた。金色のモザイクで飾られた圧巻の天蓋を誇るパラディーナ礼拝堂、パレルモの歴代王を祀る霊廟カテドラーレ、シチリア最古のビザンチン様式を残すマルトラーナ教会。南北からの幾度とない侵略の結果生まれた「世界一美しいイスラムの街」は、異郷からやってきた百合子を大いに楽しませた。ジョニーが自宅の庭の花を紹介するかのごとくこれらの由来や歴史の話をすると、彼女はその度に大きく頷き、拍手をして喜んだ。
 彼女が特に興味を示したのは、シチリア州立考古学博物館に収められたセリヌンテ神殿遺跡の彫刻の展示だった。メドゥーサを退治するペルセウスやエンケラドスと戦うアテナ、ゼウスとヘラの結婚など、ギリシア神話の主要な物語が表現されるその巨大な彫刻の中の一部分に、彼女は熱心な視線を向けた。
「どうしたの?」
「これ……何でしょう」
 それは、マストに縛り付けられたオデュッセウスと、彼を取り囲む半人半魚の怪物、セイレーンたちの彫刻だった。
 このオデュッセウスという男は、海路での旅の帰り、部下に命じて自らをマストに縛り付けた。するとそこにセイレーンと呼ばれる半人半魚の怪物が現れ、彼を惑わし誘い込んで、海に引き摺り込もうと歌を歌い始めた。オデュッセウスはセイレーンたちのもとへ行こうと暴れたが、耳栓をした部下たちがさらに強く彼を縛るので、結局海に連れ去られることなく、セイレーンたちも去っていった、という。
「イタリアでは、セイレーンは今も地中海に住んでいると信じられているんだ。もっとも、今じゃ誰も見たって人はいないんだけどね」
 ジョニーの解説を聞き、百合子は神妙に頷いていた。
 昼食時には、馴染みのトラットリアに落ち着いた。ウニのマリーナリングイネクルマエビのグリルを注文し、二人で分け合って食べた。彼女はイタリア語をほとんど理解することができず、ジョニーが注文から会計までのほとんどを担当したのだが、些細なやりとり一つでも彼女が尊敬の眼差しを投げかけてくれるのがくすぐったくて、ついつい余計なことまでウエイターに喋ってしまった。
 
 斜陽がティレニア海の水面に金色の影を落とすころ、二人は中心街から離れ、パレルモ港の桟橋に立っていた。
 小さな旅客船が汽笛を上げながら港に滑り込んでくる。ハッチから乗務員が器用に桟橋の方へと飛び移り、スロープ状の橋を渡す。彼らの案内を受け、ドレスアップした人々が次々に船へと乗り込んでいく。
「あの……これは?」
 なんのことだかさっぱりわかりません、という顔をした百合子が、困り眉でジョニーを見上げた。
「今夜ここで船上パーティーをやるんだよ。さあ、僕らも行こう」
「でも私、パーティーにふさわしい格好ではありませんし、それに……」
「大丈夫、大丈夫」
 戸惑う彼女の手を取り、ジョニーも客船に乗り込む。
 黒い制服のボーイが二人に近づき、チケットを見せるように指示した。ジョニーが昨晩取ったばかりのチケットを二枚手渡すと、彼はその内容を検分し、軽く頷いて半券を切った。後ろに控えていた女性コンシェルジュを手招くと、深々と頭を下げて挨拶の礼を取る。
「シニョーレ・ボレッリ、ようこそおいでくださいました。それではお召し替えのお手伝いをさせていただきます」
「ジョニー?」
「彼女が案内してくれるから、君は着替えておいで。ドレスは僕が選んだんだけど、気に入らなければ別のものをリクエストしてね」
「まあ……!」
 驚き、息を呑む彼女に、ジョニーの気分は瞬く間に浮き足だった。

 ものの十分の後、彼は甲板にて夕暮れの海を眺めていた。
 黒のタキシードに磨き立ての革靴、ブルーのリボンタイで全身をシックに統一した彼は、周囲の女性たちの視線を一身に集めた。タイトなスラックスが彼の長い脚によくにあった。
 彼は牢獄の中で光明を待つような気持ちで、彼のプリンセスが甲板に出てくるのを待った。さっきから船内に通じる両開き扉が開くたびにちらちらと視線をやるのだが、出てくるのは料理を運んできたシェフやさまざまな銘柄の蒸留酒を抱えたバーテンダー、忙しなく動き回るボーイたちばかりで、期待に窶した彼の心臓はすでに限界を迎えつつあった。彼は女性のドレスなど選んだことがない。今回が初めてだ。その初めて、最も大切な初めてで躓いたのではないかと、無駄に気を揉んでいるのだった。
 もう限界だ、パラドックスに電話をかけてやろう、そう思いたちポケットを探ろうとしたその時、不意に甲板の人々の空気が変わった。
 ボーイのエスコートを受け、百合子が甲板へとやってきた。
 潮をたっぷりと含んだ北風が、彼女の貞淑な前髪を軽く巻き上げる。あらわになった少女の優美な面差しに、その場にいた誰もが目を奪われた。
 ビクトリアヴァイオレットのイブニングドレスは、彼女をこの船の王女の座に据えた。蝶や花をあしらったレースが開かれた華奢なデコルテを飾り、ベルベットの光沢は宇宙のように奥深く、足元に揃えて置かれたオープントゥパンプスまでを優雅に流れている。焼き上げられたばかりの陶磁器のような耳たぶには大粒のサファイアが輝き、編み下ろしでまとめた黒髪は真珠とシルバーのヘッドドレスに飾られ、さながら神話に登場する美の女神だ。楚々とした雰囲気のかんばせは、ピンクベージュのアイシャドウや深いローズレッドのリップに彩られ、夜の趣にしっとりと身を委ねていた。
 人々はみな彼女の美しさに感嘆のため息をつき、あるいはその清廉さに心打たれた。
 彼女は投げかけられる視線に居心地の悪そうな表情を見せたが、その中から惚けたように自分を見つめるジョニーの姿を発見すると、ボーイのそばを離れて嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お待たせしました」
 伏し目がちに見上げてくる、その身体を一心に抱きしめたい衝動をなんとか抑えながら、ジョニーは彼女の婉麗であることを褒めた。
「きれいだよ、百合子。すごく似合ってる」
「ありがとうございます。ジョニーが選んでくれたドレスのおかげです。とっても素敵なドレス、私には勿体無いくらい」
 くるりと軽やかにターンし、ドレスの広がりを楽しむ百合子だったが、ふと思い出したようにジョニーを振り返り、その眦を血色に染めた。
「それから……その、ジョニーも、とても似合っています」
「え、ほんと? 嬉しいな」
「ええ。世界で一番かっこいいです」
 なんということだろう! この、世界で一番美しく可憐な少女が、ジョニーのことを世界で一番かっこいいと褒めたのだ。天にも昇る心地とはまさにこのことだ。ジョニーはある限りの理性をかき集め、生き急ぎそうになる自分を抑え込まなければならなかった。
「ジョニー? どうかしましたか?」
「な、なんでもないよ。ほら、パーティーが始まる、行こう」
 手のひらを差し伸べれば、朝よりもずっと慣れた様子の小さな手が、ゆっくりと伸び、絡められた。
 甲板ではイタリアンやフレンチ、中華料理などのビュッフェやバーカウンターが整えられ、地元の交響楽団がジャズワルツを演奏した。絞られた照明の中で人々はめいめいに楽しんだ。
 二人は点心で軽く小腹を満たしたあと、どちらからともなく手をとってゆったりとした三拍子の旋律の中に身を投じた。彼女は社交ダンスの心得があり、ステップも完璧にこなしたが、履き慣れない靴を履いているせいか何度もつまづきそうになり、その度にジョニーが受け止めた。申し訳なさそうに、また恥ずかしそうに踊り続ける彼女がいとけなく、もう一度転んでくれないものかと意地悪にも願わずにはいられなかった。
 二、三曲踊ったあと、彼らは輪から外れ、甲板の淵へとやってきた。
 月明かりのひときわ明るい夜だ。ティレニア海は静かに凪ぎ、かなたにはサルデーニャ島のシルエットが浮かんでいる。水面から拡散する光が、百合子の首筋の白さを夜闇の中に薄ぼんやりと浮かび上がらせる。
 ジョニーはバーカウンターに立ち寄り、ベリーニという名前の桃のカクテルをオーダーしてから、海を眺める彼女のもとに戻ってきた。
「お帰りなさい。ジュースですか?」
「いや、お酒だよ。試してみるかい?」
「いいえ。……あの、やっぱり、少しいただけますか」
「もちろん。甘いから飲みやすいと思うよ」
 彼女は背の低い欄干に腕を乗せた姿勢のままグラスを受け取り、一口だけを唇に含んだ。「本当だ、さわやかで優しい甘さですね。美味しい」
「気に入ったみたいでよかったよ」
 はい、と彼女がグラスを返してくれたので、ジョニーは残りをゆっくりと飲み干し、空になったものを近くにいたボーイの盆に置いた。手持ち無沙汰になった右腕に、少し体温が上がった様子の彼女が寄り添ってくる。やわらかい肌の重みとあたたかさが、ジャケット越しにじんわりとジョニーの上腕を慰めた。
「百合子」
「なんだか夢の中にいるようで……信じられないくらい幸せな一日でした」
「本当に?」
「ええ……」
 緩慢に瞬きをしながら、彼女は月を眺めている。その横顔がとても寂しく所在なさげなものに思えて、ジョニーはついに、彼女の芒の穂のような身体を腕の中にとらえていた。
「ジョニー……?」
「百合子。百合子、百合子……」
 華奢な肩を両腕でしっかりとかかえ、夢中になってその名前を耳許に囁く。長身のジョニーと、小柄な彼女ではどこもかしこもちぐはぐで、抱き合ってもなかなか丈が合わないのだが、それでも身を寄せ合えば驚くほどしっくりと彼女の輪郭を感じることができた。
 彼女の手が遠慮がちにジョニーの肩に置かれ、ほんの小さな力で引き離される。首を上げるジョニーの視界いっぱいに、顔全体を熱らせた美しい少女の姿が映る。輝く瞳はじわりと熱を帯びてうるみ、唇はつやつやと柔らかな果実のように潤っている。
 彼はもう待てなかった。羞恥も不安も凌駕して、百合子への愛しさが全身に溢れてやまなかった。
「大好き」
「ジョニー、待って」
「君のことが大好きだ……」
 ジョニーはその小さな顎先を捉えると、親指のはらで持ち上げるようにして固定し、薄く慎ましやかにふくらんだ唇に自らの唇をそっと押し当てた。
 濡れた皮膚がしっとりと吸い付くように触れる。長いまつ毛の羽ばたきを下瞼の薄い部分にたしかに感じる。彼女の吐息は熱っぽく、ジョニーの下唇をくすぐり、それがまたなんとも心地よく愉快なのだった。閉じた瞼は、唇が触れ合うたびに微かに震える。小さな身体は未知の感覚に震えていたが、ジョニーがさらに強い力で引き寄せると、ついに細い腕が伸びてきて彼の背中をしっかりと抱いた。
「わ、私も」
 唇の空隙に、ふっと囁かれる。
「私も、あなたのことが……」

 その時、強い風がティレニア海を走り抜け、煽られた海面が大きく波を立てた。船体が強く揺れ、その拍子に、ジョニーの腕の中にいたはずの彼女の身体は欄干の外へと投げ出されていた。
 あまりに一瞬の出来事だったので、誰も反応することができなかった。先ほどまで彼女の身体を胸にしっかりとかかえていたジョニーでさえ、抱き止めることはおろか、放り出された腕を掴むことすらままならなかった。伸ばした指の先で青いドレスの裾が翻ったかと思うと、その身体は呆気なく黒い波の只中へと吸い込まれていった。
「百合子! ゆりこっ」
 欄干から身を乗り出し、彼女が落ちていった方に目を凝らす。あの美しく真っ白な身体は一向に浮かび上がってこない。ジョニーの胸はにわかに不安に満たされ、心臓は嫌な音を立てて全身の血流を早めた。状況を把握し乗務員が駆け寄ってきた頃には、彼の頭はすっかり混線し、良くない方向へ舵を取り始めていた。
 ジャケットを脱ぎ、その上にスポーツウォッチを乱暴に放る。リボンタイは半ばむしりとるくらいの乱暴さで外された。靴を脱いで欄干に足をかけると、後ろから乗務員たちの制止の声が上がった。
「シニョール、危険です、離れてください!」
「彼女が落ちたんだ、浮かんでこないんだ」
「あっ、ちょっと!」
 甲板に引き戻そうと伸ばされる腕を振り払い、彼は夜の真っ黒な海の中へ一直線に身を投じた。

 泡が立つ。
 重力に従い水面へと強く引き寄せられていた身体は、水に入ったことで水圧の縛りを受け、ぐんと減速した。ジョニーはしばらくぎゅっと目を瞑っていたが、自らの使命を思い出し、恐る恐るその瞼を開いた。
 月明かりだけが薄青く光を注ぐ水の中、彼は百合子を見た。彼女はジョニーのすぐそばにいた。水中にいても、彼女は変わらず優美で、可憐で、言葉にならないほど美しかった。
 頼りない指先が伸びてきて、ジョニーの頬をそっとくすぐる。彼はその冷たく滑らかな感覚に身を任せようとして、ふと、触れた指先が薄く海の色を透かしているのに気が付いた。半透明なのだ。
 彼女の四肢は半透明に透け、はつかに青白く輝いていた。ジョニーにまなざしを注ぐ瞳は海の色に強く輝き、瞬きのたびに冬の星のようにまたたいた。髪は海流の中で緩やかに拡散し、唇は恐れで微かに震え、拒絶への不安が、彼にも見てとれた。
 彼は水の中で百合子に近づき、怯える身体をそっと抱き寄せた。彼女はともすれば泣いてしまうのではないかというほど憂わしげな表情を浮かべていたが、ジョニーが寄り添うと、瞼を閉じてその身を委ねてきた。

 どのくらい泳いだだろうか……、やっと浜辺に着く頃には、二人ともへとへとに疲れ果てていた。波打ち際の細かな砂の感触を掌の上に確かめ、ジョニーはようやく安堵のため息をついた。
 すぐ傍では、全身濡れ鼠になった百合子が、喉の奥の小骨を憂うような表情でジョニーを見下ろしていた。面影はそのまま夜の海を思わせた。指の先も、脚も元のように人間らしい有色の皮膚の姿を呈していたが、不安だけはどうしても彼女の胸中を去らないようだった。
「私、人魚なんです」
 小鳥のように顫えながら、彼女はそう告白した。
 ジョニーは彼女の、生まれてこのかた星屑しか口にしたことがないような、頼りなく、細っこい身体をあらためて強く抱きしめた。「それがどうした。君が好きだ。愛してる」
 腕の中で、彼女は静かに泣いた。瞳が潤んできたかと思うと、張力を離れた大粒の涙が下瞼に滲んで、流星のごとく顎下までを駆けた。いくつもいくつも、堪えてきたものをはじけさせたかのように、涙は彼女の柔らかな頬を滑る。唇で悲しい雨だれを拭ってやる。彼女は自らを閉じ込める大きな身体を抱きしめ返すと、もう二度と離れたくないとばかりに、ぴったりとその胸を預けた。
 濡れた瞳の投げかけるまなざしと、ジョニーの視線が絡まり合う。二人は自然に鼻先を近づけ、それと同じ速度で瞼を閉じ、やがて再びお互いの唇を出逢わせるのだった。潮の香りの残るやわらかな皮膚がそっと触れ、結ばれ、擦れあう。湖を渡る二そうの小舟のように、ゆるやかに揺蕩う。ジョニーの歯が彼女の小さな下唇を食むと、彼女は浅い息を吐き出し、ますます強くしがみついてきた。
「好きです、ジョニー、あなたが大好き……」
 口づけと口づけのあいだに、彼女の唇が切実に囁いた。
「私を離さないで。そばにいて」
「約束しよう。永久に、君のそばにいるよ」
「嬉しい……」
 涙まじりのささやきはジョニーの皮膚から全身の血管へと染み渡り、やがて心臓に集まってきて永遠の結晶になった。結晶は彼女の瞳の輝きを受けてキラキラと虹色の光を放ち、ジョニーの胸をやさしく、暖かく照らした。
 息継ぎのために離れ、その数秒のいとまさえ惜しいとばかりにまたも唇の感覚を浴びせ合う。
 ジョニーは自らの存在をかけて、愛する女の唇の熱を貪った。