2023/01/02

 

 

 生まれてこのかた、ジョニーは労働というものについたことがなかった。
 彼は豊かだった。両親は一人息子の彼が欲するものは何でも与えてきたし、大学を卒業し、独り立ちしてからも、在学中に成功した投資事業で百合子ともども何不自由のない暮らしを送ることができていた。
 しかし、事情が変わったのだ。未知の病に少しずつ蝕まれていく百合子。彼女と過ごす時間を少しでも長らえるために、ジョニーは花を買い、薬を買った。高額な治療費を惜しみなく払い続けた。結果、支出が収入に追い付かなくなり、ジョニーは働きに出ることを余儀なくされるに至った。……彼女を海に帰すという選択は、どうしてもできなかった。
 その日は寒かった。厚手のセーターにコートを羽織って出かけたのだが、夕方から途端に冷え込み、ジョニーがオフィスを出るころには気温も十度を下回っていた。歩いて帰るつもりだったのを、プルマンでの移動に変更する。
 暖かい車内で揺られ、うとうとと船を漕ぎながら、ジョニーは美しいまぼろしを見た。まぼろしは、決まってジョニーの孤独の隙間に入り込み、彼の感傷を悪戯にくすぐる。現れたのは百合子だ。ひたむきに愛と純情を信じ、自分の脚で軽やかに走り回っていた、少女の頃の百合子だった。
 二つに結ったおさげの先が近くで揺れる気配がする。ささくれもあかぎれも知らないたおやかな指先が髪や額を優しく撫でる。夢うつつに名前を呼ぶと、柔らかい仕草で頬を拭ってくれる。
 ただでさえ痛みに苦しむ本物の百合子に、ジョニーが見せられずにいる弱みを、まぼろしには素直に曝け出すことができた。耐えかねて吐き出した泣き言も、意図せずこぼした不安も、彼女の柔らかな手は大切に受け入れてくれた。
 情けなく、都合の良いまぼろしに縋ってしまう。そばにいられるだけでいいと思っているはずなのに。
「百合子?」
 ——ジョニー。
 優しい手が、ジョニーの腹の上に何かを置いた。
「百合子……」
 ——大好きです、ジョニー。
 それは二枚のカードだった。十代が差し出し、ジョニーが選べずにいる、二枚のカードだ。
 車内アナウンスが、ジョニーを夢から引っ張り出す。意識がはっきりしてくると、少女の百合子もカードもすっかり消えてしまう。
「百合子」
 呆然と呟いた。

 悲痛なすすり泣きが、玄関口に立ったジョニーの耳にも聞こえてくる。百合子の部屋からだ。
 残されることが不安なのか、最近の百合子はジョニーがそばを離れると子供のように縋ってくる。はじめは寂しそうに、ジョニーが留まることを期待する目でこちらを見ているだけなのだが、本格的に仕事に出ようとしているのだとわかると声を上げて泣き出し、腰に抱きついて引き止めようとするのだ。彼女のためにも働きに出る以外の選択肢は残されていないのだが、それでも、ジョニーの名前を呼びながら大粒の涙をこぼす妻を見るのはつらかった。
 大理石の螺旋階段を重い足取りで上り、表に小鳥とクリスマスローズのリースをかけたマホガニーの扉を押し開ける。
 花の中で、百合子はシーツをヴェールのようにして被り、ベッドの上で膝を抱えて泣いていた。遠い星の瞬きのような、寂しく、頼りなさげで悲痛な嗚咽が、シーツの隙間から漏れ出てくる。彼女の周りにはばらばらにむしられたノースポールの白い花びらが散り、そのさまが、百合子のやる方ない苦痛と孤独を訴えてくるようで悲しかった。ジョニーはジャケットを脱ぐこともそこそこに彼女の隣に座り、震える肩を抱き寄せた。
「ただいま、百合子。遅くなってごめん」
 シーツの裾を持ち上げると、涙を持て余す百合子の顔が露わになった。ジョニーを見上げる目は腫れ上がり、鼻の頭は可憐にも赤く染まっている。
 彼女はジョニーのと目が合うやいなや、その胸にがばりと顔を埋め、背に腕を回してしがみついた。もう離さないとばかりに。
「どこに行ってたんですか? 私、ひとりぼっちで……さみしくて、こわかったです」
「僕のお姫さま、許してくれ」
「もう二度と離れないと誓ってくれたら、許してあげます」
「うん……誓うよ。もう君を置いて行ったりしない」
 嘘だ。明日もジョニーは百合子のために働きに出るのだ。でも、せめて今だけは、愛しい妻、苦痛の中で哀しみ嘆く妻を安心させてやりたかった。
「ほんとうですね……そばにいてくれますね……」