2023/06/20

 


 七日間の謹慎処分も最終日。日曜日の午前、生徒も教諭も社会奉仕に駆り出されるか修道会の日曜ミサに駆り出されるかしていたので、校舎内は人もまばら、その隙を狙って今度はシルバーがゴールドの部屋を訪ねてきた。さすがの彼もチェス盤を持ってくることはかなわなかったらしく、代わりにトランプをして遊んだ。
「あれからどうなんだ」
 ひっくり返した二枚目のカードがハートのエースだったのに舌打ちをして、一枚目はハートの2だったのだ、これを元に戻しながらゴールドが尋ねる。
「ん……まあ、まずまずだ」
 即座に別の場所からハートのエースを見つけ出してきたシルバーはすまし顔で答えて、「それより明日から授業だが」
「まだ課題済んでねえや。おまえ終わったの」
「ああ」
「さすが優等生、くそ、終わってないわけねえよな」
 大差で決着がついたゲームを、カードをかき集めることで終わらせながら、ゴールドは悪態をついた。集めたカードをシャッフルしていると不意に彼が立ち上がり、天鵞絨の赤いカーテンに覆われたアーチ窓の方へと寄っていった。映画の中のお姫様がするみたいに、カーテンを両手で開く。白い光が部屋の中へにわかにふくらみ、彼のほっそりとした輪郭を明るく縁取った。
「おまえに夢はあるか」
「ゆめえ?」
「そうだ。オレは、司祭になって、誰も訪れないような田舎の修道院で日曜のミサを執るのが夢なんだ。そのためだったらどれだけでも頑張れる」
 声は朗らかでさえあったが、セイラムの町を見下ろす横顔はどこかうつろな青い影を帯びていた。澄んだ銀の虹彩に、緑青にも似た淀みが降りているさまなど、まるで彼が投げかける言葉の先に不幸でも暗示しているみたいな格好だった。ゴールドは立ち上がり、彼のそばに寄ってきてその肩を抱いた。驚いた様子で振り向く彼にたしかな手応えを感じる。濡れた瞳の投げかけるまなざしと、ゴールドの視線が同じ感慨に兆す。ふたりは自然に鼻先を近づけ、それと同じ速度で瞼を閉じ、やがて再びお互いの唇を出逢わせるのだった。
「そんならさ、おまえもうセンパイたちんとこ行くのやめろ」
 唇が離れ、それでもまだ間近にある彼の美しい顔を余すことなく見て、ゴールドは言った。
「ゴールド」
「オレが代わりになってやる。オレを使え。何にも先んじてオレを尊重しろ、おまえ自身をオレだと思って大事にしろ」
 おまえが好きなんだ。——ほんとうに言いたいことは何一つ言葉にならないのに、言い訳ばかりが口をついて出た。先んじて、まだ幼さを残した少年の指ばかりが、彼の頬をやさしく慈しんだ。シルバーは……もの言いたげに瞼を伏せ、しかし何も言葉にすることなくそれに甘えた。唇は感謝の言葉に萌して薄く開かれる。
 暖炉前のぶあつい絨毯や、大理石の床に伸びた白い光の帯の中で、ふたりはいつまでも一緒だった。

 十一月がやってきた。実りの季節だ。セイラムの町を覆うカエデや菩提樹は赤々と紅葉し、そうでなくとも、トウヒなどが熟した果実を一斉に落として鳥たちを喜ばせる。シュロス湖畔では赤くなるレッドオークとそうでないグリーンオークが、競い合うようにして実を膨らませる。学園でも、みずみずしく張り詰めたぶどうがなり、マリア館の女生徒たちがこれを踏んでワイン醸造の準備をする。秋休みのあいだ、帰省していた生徒たちが学園に戻ってくる。
 休み明けの最初の授業は、ジークフリートが受け持つラテン語の授業だった。が、生真面目に背筋を伸ばして最前列に座るシルバーと、行儀悪く足を投げ出した姿勢でその隣を占領するゴールドの存在は、生徒たちの間にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。
「邪魔だ」
 シルバーが遠慮なくゴールドの脚を掴んで下ろしたのもそうだが、
「いいじゃねえか、な、それともおまえが脚おきになってくれんの?」
 親しげな様子でシルバーに接するゴールドの存在についても、とくに彼と親しくしていた生徒たちはみな耳目を疑った。あれだけ大ぴらにシルバーを邪険にしていた彼に一体どんな変化が訪れたものかと、まさか彼もおめかけ(傍点)に誘惑されて引っかかったのかと、そういった噂を囁き合ったものだった。
 昼休憩には、ゴールドが同級生たちを引き連れて例の野晒しコートでバスケットボールをするのが半ば恒例になっていたが、その日はシルバーも引き摺り込まれてゲームに参加した。女のような身体つきの彼だが、異様なほど運動神経が良かった。生徒たちにエースのように扱われチーム間での取り合いになることもあったゴールドとも、まったく対等に渡り合えるほどだった。そのふたりが運悪く同じチームになり、Bチームの諸兄は非常に苦しい戦いを強いられた。
 ひしめき合う少年たちの間を猫のような身軽さとしなやかさですり抜け、追い縋る手をかわし、シルバーはゴールドに向かってパスを打つ。難なくこれを受け取ったゴールドが、十メートル近く離れたゴールに向かって力強いシュート、三点、歓声が上がる。
「やったぜ」
「オレの出したパスの場所がよかっただけだ」
「こいつ!」
 汗ばんだ手のひら同士が軽快な音を立ててぶつかり合う。後ろから抱きつこうとするゴールドを、シルバーは巧みな動作で避けた。
 同室のジュリアンは、そうした彼の変化も承知の上で物分かり良く黙っていたものの、それにしてもふたりによく振り回された。六限の音楽を終え、エルマたちと次の授業に向かっていた彼はふと、音楽室に聖歌集を忘れてきたことに気がついた。彼らに断って生徒たちの群を離れ、建て替えられてから五百年弱の、もうすでにがたがきて踏み込むだけでもぎしぎしいう階段を上り、西はずれから三階中央まで小走りで向かう。
 音楽室は、もとは皇帝の間として使用されていた部屋で、校舎で最も広く、また贅を凝らした空間となっている。四方の壁は天使やつる植物をかたどった繊細な石膏細工で余すことなく埋め尽くされ、随所に小さなフレスコ画をはめ込んである。高い位置に点在するあかりとりの窓からは燦々と光が降り注ぎ、これが磨き抜かれた大理石の床に反射して室内をほの明るくする。光の当たらない場所には、ピアノ、ハープやチェロ、コントラバスマリンバビブラフォンなどの打楽器、サクソフォン、ホルン、その他世界中から取り寄せた上等な楽器がさまざま収められている。
 ドアを押し開けたジュリアンは、並べられた椅子の向こう、大きな黒檀に備え付けられた長椅子に、誰か生徒が座っているのを見た。反射的にドアに身を隠し、目だけで覗いて見ると、噂の渦中のふたりが同じ椅子を共有する形でピアノに向き合っていた。シルバーはともかく、ゴールド、アメリカからの粗野な編入生、実際ジュリアンも手を焼かされているわけだが、彼がピアノを弾くのか。驚きとともに興味を惹かれ、首を伸ばしてことさらに目を凝らすと、背を向けているふたりが、何か話しているのだということもわかってきた。
「弾けよ、オレが左手やるから」
 ほっそりとしたジャケットの肩を抱き、低い声でゴールドが言う。
 ジュリアンとて、初等部のころから学園で高等教育を受けてきた身である、アヴェマリア、バッハの前奏曲第一番を伴奏に、グノーが作曲したピアノ曲だ。シルバーがおずおずと慣れない指運びでメロディを弾き、ゴールドはそれに寄り添わせる形で和音を、ほかシルバーが外したメロディーを右手で補完した。
「うまいぜ」
 彼の声音の甘いことに、ジュリアンはすっかり出ていけなくなって、音楽室のドアの前で立ち尽くした。午後の琥珀色の光がはじける中でふたりは演奏を終え、しばらく感慨深そうに視線を交わしたあと、どちらからともなく唇をこすり合わせた。鍵盤を離れてそのままの、少年の指が、熱っぽく上気した頬を驚くほどやさしく愛撫した。外では風がいっそう吹き、枝からひとひら、赤くなった楓の葉をちぎり落とした。閉じた瞼を震わせながら、より一層深くなる接吻にシルバーが嗚咽する。日本の腕が頼りなくゴールドの背にすがる。
 始業の鐘が鳴ったあとも、彼はそこでふたりの秘密に立ち会っていた。

 日曜もふたりは一緒だった。午前、社会奉仕の名目で保育園で不器用に子供らと遊んだあとは、カエデが水面にあざやかな黄色を落とすシュロス湖で泳いで遊んだ。芝生の上でスラックスを脱ぎながらゴールドは、上半身を午下の光の中に晒して遊ぶシルバーの姿を目で追いかける。外に向かってみずみずしく張り詰める、冬の海を泳ぐ白魚の鱗色をした肌。目も覚めるような赤い髪、彼がこれを手で避けたときあらわになる無防備なうなじ。うっすらと筋肉がついて引き締まった腹、慎ましく結ばれたへそ、水の中で鷹揚に広がる細い腕。水面に反射するまぶしい陽に瞬きを繰り返すさまを、とおくの星を望むような気持ちでゴールドは見た。
「来ないのか!」
 よく通る声で彼がゴールドを呼ぶ。
 ようやく下着一枚になって、ゴールドもまた水中に飛び込んで重力から解放された。白く泡が立つ。飛沫が飛び散って彼が楽しげな悲鳴をあげる。澄んだ水の中で、濡れた手のひらがゴールドの前腕をひく。人に慣れた様子の鴨が親子で目の前をよぎり、向こう岸では若い男女がふたり、小舟で恋の冒険(アヴァンチュール)に漕ぎ出している。芝生の上で昼食をとる家族連れもいる。
 ふたりは息を止めて水の中へ潜った。水中であるにもかかわらず、シルバーの美しい顔のおうとつ、きらめく瞳はじゅうぶんすぎるほどはっきり見えた。強く引き寄せられ、脇の下に腕を回される。彼の甘い皮膚の中で、心臓の音が海なりのように響いている。二つの若い肉がゆるやかな水圧のなかで一つになる。ゴールドは、シルバーにキスをした。ゴールドのそば以外にゆくあてもないさみしい唇だ、シルバーの、唇……冷たくてやわらかな……
「くすぐったい、やだ」
 水から上がるや否や、細い指がゴールドの顎を押しとどめた。
「ん……さいきんささくれがな」
「さわるな、あとでクリームを塗ってやるから……」
 仕方なさそうに言うのに、薔薇の花びらが風に揺れるみたいな動きだ、彼の唇は……誘われるままにもう一度、甘やかに口付ける。逃れようとする細腰を抱き、手首を握って、指先までを握りしめて捕まえる。閉じ込める。彼はもう逃げられない。
「やだ……」
「うそつくなよ」
 首の後ろを指で固定し、より深く、彼の皮膚の味を官能に染みこませる。
 そのとき、太陽が分厚い雲に隠れて辺り一面が青く陰りを帯びた。冷たい風が一陣、湖面に幾重もの漣を呼び起こし、それがふたりのところまでも波紋した。シルバーがはっとして顔を上げた。

 ——に対する軍事侵攻における……は頓着状態を見せ、……国防長官は……より多くの戦車や装甲車を……
 ラジオは雨のために音質の悪い状態が続いている。
 ふたりは急の雨に襲われ、シュロス湖から一キロメートル弱を走って学園に戻ってきた。パウロ館のシルバーの自室で、彼はシャワーを浴び、ゴールドはずぶ濡れのまま床に座って順番を待っている。そのあいだラジオでも聞いていようということになったのだが、雨雲に妨げられうまく電波を受信することができないでいる。その内容もなかなか明るい話題ではない。電源を切ってアンテナをたたみ、用の住んだラジオをベッドに放り投げて、焦れたゴールドは立ち上がった。
 全面ガラス張りのシャワールームの中で、シルバーはその薄い身体を泡でいっぱいにしているところだったが、ゴールドが入ってきたのを見とめると、頬を花の色に染めて俯いた。あれだけ健全なパスを打てるくせに、妙に頼りなさげなつくりの腕が自らの身体を覆う。
「なんの用だ」
 彼の問いに応答しないまま、ゴールドはガラス越しに優美な佇まいを見せる彼の身体を偏執的に見た。華奢な骨格、極限まで無駄を削ぎ落とされた薄くしなやかな肉。迫り出した肋骨の形。薄い胸に、桜の蕾を思わせる小さな薄桃色の乳頭。まどかな輪郭を描く尻。学園の年長者たちがみなみな溺れた肉体だ。濡れた服をタイルの上に脱ぎ捨て、ゴールドも裸身になって狭いシャワールームの中へ押し入った。
「もう待てねえから、一緒に」
「ばか、だめだ!」
 狭い空間で肌と肌が密着する。抱きついたゴールドの、熱く湿りけを帯びた吐息が頸を撫でるのに、彼はあえやかな悲鳴をもってして報いた。シルバーとてきよらかなものではない。ゴールドが何をしようとしているのか、十分すぎるほどに理解しているはずだ。
「あ、や」
「シルバー」
「ゴールド、待って、ここじゃやだ……」
 震える彼の手が壁を這い、やがて水栓をつかんでひねった。睡蓮の形のシャワーヘッドから温水が勢いよく噴き出してゴールドの顔を直撃する。
「ぶ、何すんだ!」
「こんなところで盛るな! シャワールームは身体を洗うところだ、早く身体をきれいにして、そうしたら——」
「したら何」
「いいから……とっとと済ませてこい!」
 すっかり泡を流してしまうと、彼はぷりぷり怒りながらシャワールームを出て行ってしまった。ひとり残されたゴールドは溜息をつくと、自分も手短に身体を洗い流した。
 湯浴みを終えたゴールドがバスタオルを羽織って部屋に戻ったとき、シルバーはベッドの隅で足を組んで座っていた。近寄ってその隣に並び、まだしっとりと水気を含んでいる赤髪をかき分けて白い額に唇を寄せる。頬を赤くしているからさっきの件で照れているのだと思ったら、右手に空の瓶、左手に冷茶用のグラスを持ってふにゃふにゃ笑う、彼はすっかり酩酊していた。ラベルに見覚えがある、随分前にゴールドがそのまま置いていったコニャックの瓶だ。半量弱は残っていたはずだが。
「シルバー……おまえ割らないでその量飲んだの?」
「うふふ」
 素面の彼が絶対にしないような、やわらかく甘やかな笑いかた。おぼつかない手指が、湯上がりの熱を帯びた首にからみ、シルバーはゴールドに猫のように擦り寄った。
「ゴールド、待っていたぞ」
「はあ⁉︎」
「許すから……好きなように触って、キスして」
 うっとりと言ってシルバーは、シャツのボタンを自らの手で外し始めた。髪から滴った水の流れる胸郭、乳頭、またなめらかにくびれた腰骨から下腹部、さらに恥骨の奥までもを、ゴールドの前に晒し出さんと動いた。ボタンを外したままのスラックスの隙間から、陽に焼けることのない真っ白な肌が剥き出しになっている。下着を、着けていない。かっと頭に血が上り、ゴールドは彼の肩を力に任せて引き倒した。
「あ……」
「手前、いいんだな……そんなふうにして、ただじゃ済まねえぞ」
 小さな頭が臆面もなく頷く。
 肩を掴んで固定し、揺蕩う薄い蝶の羽のような唇に激しくキスをした。下唇を軽く甘噛みし、驚いたか彼の一瞬の隙を狙って今度は舌をねじ込んでやる。慎ましく並ぶ歯をなぞり、口蓋をくすぐり、奥で初心に縮こまる舌を絡め取る。互いの唾液を吸い、混ぜ、本当に一つのものになろうと動く。アルコールがまわり、彼の粘膜は甘く熱い。夢中になって貪るうちに、ふと、彼がくったりと力を抜いたのがわかった。
「シルバー?」
 鼻から抜けてゆくおだやかな寝息。あろうことか、彼はすっかり眠こけていた。

 十一月も末、キリスト生誕の祝日クリスマスを待つ降誕節アドベント)が始まり、学園はにわかに騒がしくなる。生徒たちはみな町に出てクリスマスの飾りやプレゼントなどを買い、日曜日には、南に降りて五百メートルほどの場所にある国有林に出かけて行って、学園内に飾るツリーのために小さなオークの木を伐採する。各部屋に校長からアドベントカレンダーが配られ、一日にたった一つしかない中身のチョコレートのために初等部の生徒の中からちらほらと喧嘩するものが現れる。一日に一台しか来ないトラックに乗って、国内外から気の早いプレゼントが届き始める。クリスマスカードも大量にやってくる。
 初雪が降る月曜日の朝、ゴールドにも母親からプレゼントが届いた。サンタは副監のレッドだった。にこにこと気の良さそうな笑顔で彼は、起き抜けで不機嫌なゴールドの鼻先にひと抱えもある大きな箱を押し付けてきた。てかてかした金色のラッピングに緑のリボンがかけてある。
 火を炊いた暖炉の前で、本人よりもわくわくするジュリアンと一緒に封を開けた(驚いたことに、ジュリアンは両親のないみなしごで、いまは知人の生物学者に養育してもらっているとのことだった。ただでさえ金のかかる寄宿学校に入れてもらっていて、その上プレゼントなど望めないと言う)。ナッツの入った砂糖菓子、靴下、手編みのマフラー、ぴかぴかの運動靴、羊毛のコート、フルーツやハーブを合わせたグリューワイン、瓶詰めのストロベリージャム、数学についての分厚い学術書、日本の山を貝の真珠層で描いた万年筆まである。
「すごいでやんすね」呆気に取られ、ため息混じりにジュリアンが言う。
「他に金の使い道がねえんだな。多分オレの分だけじゃないし」
「ゴールドくんの分だけじゃない?」
「ほら」
 黒い紙面にクリスマルベルを箔押ししたカードには、さっぱりとしたブロック体でこうあった、——メリークリスマス。お友達と分けてね——
 ゴールドは運動靴とワイン、ジュリアンは半ば押し付けられる形で靴下を選んだ。その足でシルバーにもほどこし(傍点)てやろうと彼の部屋を訪れたら、彼も朝のうちに家から手紙をもらっていたらしく、ドアを開けて迎えた顔は喜びのために明らんでいた。ゴールドも手紙を見たが、どことなく奇妙な風体だった。ごく普通のクリスマスプレゼントの形式を取った薄い箱から出てきたのは大判の茶封筒ひとつ、それにコンフィデンタルのスタンプが押され、封を開けるとさらに小さな封筒が出てきて、ようやく本文に入ったと思ったら暗号で書かれていた。シルバーは手紙を読みながら、実に幸福そうに微笑した。
「なんて書いてあるんだよ」
「手紙をありがとう。ラテン語は聖書理解のために重要な言語のひとつだ。これからも励みなさい。父より」
「そんだけ?」暗号の分量に対して、その内容はひどく簡潔だ。
「ああ。でも……すごく嬉しい」
「ふーん……」
 シルバーはマフラーを選んだ。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」
「わたくしと! 一体どういうことでしょうか、わたくしには見当もつきません」
 長衣を纏ったグリーンが厳かに告げることに、シルバーは薄いヴェールの中で首を垂れ、赤髪を垂れて報いた。生徒たちはその様子を固唾を飲んで見守っている。
「恐れることはない。見よ、あなたは妊ってひとりの嬰児を産む。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子ととなえられる。主なる神は彼にダビデの王座をお与えになる。そして彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その栄光は限りなく続くでしょう」
「どうしてそんなことがありえましょうか、わたくしはまだ男の人を知りませんのに」
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。ゆえに、生まれる子は聖なる者、神の子である。神にできないことは何一つない」
「わたくしは主の婢女(はしため)です。御言葉通り、この身になりますように」
 シルバーが最後の台詞を言い終えて、ふと礼拝堂の中に光が戻る。丸めた台本を手のひらで叩きながら長椅子から立ち上がって、レッド、「グリーンセリフ飛んでたぞー」
「どこだ」
「〈見よ〉の前、〈主はあなたを祝福された〉だろ」
 ローファーの底を鳴らして内陣から降りながら、グリーンは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、長椅子の前に置いた台本を手に取った。該当のページを開き、〈主はあなたを祝福された〉を鉛筆で大きく囲む。
「シルバー、よかったぜ」
「ありがとうございます、レッド先輩」
 淡白に頷き、シルバーも内陣を降りてヴェールを取った。
 十二月になり、いよいよ本格的にクリスマスの準備が始まった。下級高等学校の男子生徒たちはこの礼拝堂で降誕劇を上映することになり、そのための練習に日々励んだ。シナリオはこうだ。イスラエルの北の町ナザレに住むマリアは、婚約者ヨセフとの結婚を控えた年若いおとめ、そこに神の使い・天使ガブリエルがやってきて、彼女が神の子イエスを産む事を予告する。一方、イスラエル一帯を支配するローマ皇帝アウグストゥスが国民に住民登録を義務付け、マリアはヨセフと共に戸籍のあるベツレヘムの街へと旅をする。しかし、押しかけた人々のためにどこの宿も満員、しかたなく身重の彼女は街外れの馬小屋に身を寄せ、そこで予告通りイエスを産む。各地から羊飼いや三人の賢者たちがやってきて、神の子の誕生を祝福する。レッドが演出、ファークが舞台監督を務め、そのほかの役所は自他問わず立候補制度によって割り振られた。グリーンが大天使ガブリエル、シルバーが聖マリア、ジュリアンが羊飼いの子供、そしてゴールドは東の国から訪れる三賢人のひとりだ。
「じゃあ休憩挟んだらもう一回な」——レッドが号令をかけ、内陣に集まっていた生徒たちは三々五々に散っていく。シルバーも、ワンピースにも似て、胸から足先にかけて青く垂れた美しい衣装のまま、後部座席に脚を組んで座っていたゴールドのところに静々と近づいた。彼もまた、床に着くほど長い紫紺のお仕着せに金モールの刺繍を誇り高く輝かせ、その佇まい一つにも熱砂の中を旅する賢者の風格が見て取れたが、ぶすくれて表情ばかりが子供だった。何がそんなに不満なんだ、シルバーはその膝に乗り上げ、冷えた指でむくれる頬をくすぐった。
「なんでもねえし……」
「なんでもない態度じゃないな」
「いいだろお、察しろよ」
「言葉にしないとわからないぞ」
「カイのやつといちゃついてんなよ」
 薄藤の髪をぱつんと切った髪型のカイは、小柄だが敬虔で実直なペテロ館の男子生徒だ。今回シルバーの夫役に選ばれたのは彼で、ゴールドはそれが不満なのだった。不貞腐れた人差し指がファークと舞台配置について相談するカイを指差す。
「いちゃついてない」
「手繋ぐのはいちゃついてないのうちに入るのかよ」
「演劇なんだから仕方ないだろう。機嫌を直せ」
 薄い唇が、雪が土に着地するみたいな柔らかさで、ゴールドの額に降ってくる。濡れた皮膚の感触が皮膚越しにじわりと滲んでくる。たまらなくなって、彼はシルバーの腰を思い切り引き寄せ、驚き開かれるその唇に慕わしくキスをした。熱く濡れた舌で口腔をねぶり、唇の裏と歯茎の境を何度もたしかめ、舌裏まで丁寧に愛撫する。シルバーは涙目になって身を捩り、彼の腕から逃れようともがいたが、やがて息苦しさに負けて自ら求めるように顎を上げた。
「何をやってる……!」
 最後には自分から求めたくせに彼は、肩で息をしながら、うっすらと赤らんだ顔をヴェールで覆う。その裾を引いて重なり合うふたりの輪郭を隠しながら、ゴールドはふたたび、彼の最も繊細な部分に静かに着地した。
「頑張ったからごほうびもらった」
 頬にかかる髪からヘアオイルの薔薇の香りが漂う。お前だって嬉しそうじゃん、つぶやく声音は甘く掠れる。
「しね」
 舌打ち混じりにそういうが、ゴールドとこのように秘密裏に通じ合うたび、シルバーはよりいっそう美しくなる。上級生の命令をなんでも聞き受ける、中身のない木偶のような冷たい少年から、爛漫と咲き乱れる花の華麗と、竹を割った中身があまりに洞すぎる寂しさを備えて、彼は天性の美へと羽化を果たした。そのすべらかな皮膚は冬の朝の碓氷よりも薄く血色を透かし、作りの繊細な手脚は若い歓びにぴんと張り詰め、指がうつろに伸びている様子は、その爪先が神の愛に確実に接続していることを思わせた。微笑すればトパーズ色の香気が全身から匂いたち、かわいらしく憤ればその銀の瞳から無数の星のきらめきがはじけた。
 彼の美しさは、上級生の陰徳の手を遠ざけ、今まで遠巻きに彼を見ていた同級生たちを求心させた。自らの存在が引き起こしたこの変化に、ゴールドはすっかり満足していた。もはやふたりは危険なほどに一緒だった。さて、その幸福も、ついに絶頂を迎えようとしていた。
 一度頂点に達すれば、あとは転げ落ちてゆくだけだ。

 その日は明け方からひどい吹雪で、ズィーリオス城全体が凍りつくような寒さだった。ゴールドは一度眠れば朝まで目を覚さない睡眠優良児を自称していたが、寒さのあまり三時ごろにすっかり目が冴えてしまって、いそいそと暖炉に火を入れに行ったほどだった。あらかた薪に火が移り、ついでにやかんの中で湯を沸かして室内はすぐに温まったものの、再びあの冷たいベッドに戻る気になれず、彼は絨毯の上に肘をついた姿勢で横たわり、聖書を適当にめくっていた。
 手の中でイスラエル王国の歴史が次々に移り変わってゆく。楽園を追放されたアダムとイブは子孫を増やしたが、彼らは飢饉を理由にエジプトに移住し、そこで奴隷のように扱われて……預言者モーゼが現れて彼らをエジプトから解放し、現在のイスラエルの地まで導き……王国が建国された、最初の国王はサウルという男で、勇猛だったが神の意に背き、最終的に羊飼いの少年ダビデに打ち倒され……ダビデの息子がソロモン王……ソロモンって、最後どうなったんだっけ?
 毛布の中の身体も次第に温まり、さてベッドに戻るか、という段になって、ゴールドはふいに廊下で誰かが言い争うような声を聞いた。扉に耳を押しつけると、かすかにその内容が聞いてとれる。——お前正気か、どうなるのかわかってるのか——朗々と響くのはレッドの声だ。それに報いてもう一人、男の声が——俺たちには必要なことだった、後悔はしていない!
 ふたりの男の声はしばらく口論を続けたが、やがて、レッドの方が折れたらしい。わかったよ、と投げやりな声を最後に、廊下にはふたたび灰のように静けさが降りてきた。
「……ってことがあってよ」
「夢だったんじゃないか」
 大きな銀の器から野菜スープ(グラーシュ)をよそいながら、平然としてシルバーが答えた。
「本当に聞いたんだって、校則違反だぞ、って」
「レッド先輩が口論する相手などグリーンさんくらいだろう。だが、あの人が人に向かって声を荒げるところが想像できない」
 スープから豆コロッケ(ファラフェル)の大皿に移りながら、シルバーは何か考え込むような顔つきになる。ゴールドも続いてスープをよそう。火曜日のメニューは、豆コロッケ、スープのほか、白ソーセージ、スクランブルエッグ、ベルリン名物煮込み豚(アイスバイン)、何種類かの小麦パン。クリスマスを前にして生徒たちから要望が高まるシュトーレンも、デザートに用意されている。ゴールドは煮込み豚を大量に皿に盛り、先に長テーブルに着いたシルバーの隣についた。
 外ではまた雪が降りはじめている。この分だと、午後の授業は休講になりそうだ。
「てことは宗教なくなる?」
「そういうことになるだろう、このまま積雪すると先生方は帰宅できなくなってしまうからな」
「やったぜ、あの教諭嫌いなんだよな」
「オレもだ」
 ソーセージを小さな口で咀嚼しながら、シルバーが淡々と頷く。
 食事の終わりに、予想どおり午後の授業の休講が知らされた。ふたりは食堂前の廊下で別れ、それぞれの寮に向かうつもりでいたが、暖炉の火のきいた室内から窓の大きな廊下に出た途端にしんと染みるような寒さが襲ってきた。シルバーが西塔に向かうゴールドの背中に張り付いてくる。彼の部屋には暖炉がないのだ。ゴールドの持ってきた少し大きめのダッフルコートにふたりくるまり、腕を組んで、一緒にゴールドの自室に向かった。
 長い螺旋階段を登って四階までのぼり、鍵を開けて部屋に入ると、ちょうどファーつきのコートに身を包みいそいそと出ていくジュリアンと鉢合わせた。
「よお、どこ行くんだ」
「やあ、ゴールドくん、シルバーくんも」ジュリアンは丸々とした黒い目でふたりを見、ため息でもつきたそうな顔つきになって、「リンド博士、……お義父さんが面会に来てるらしいから、ちょっと出かけてくるでやんす」
「おお、そりゃよかったな。いつ戻る?」
「夕方までには戻るつもりだけど、夕食にも誘われてるから、遅くなるかもしれないでやんすね」
 そう言い残して、ジュリアンは小走りで階下へと去っていった。玄関先にねんごろなふたりだけが残される。
「ま、入れよ」
「……お邪魔します」
 どこか緊張した面持ちのシルバーを暖炉前の絨毯の上に座らせ、ゴールドはキッチンにやって来た。冷蔵庫の中には、たまごが三つ、薄切りのハム、食堂からティッシュに包んで少しずつ持ち帰っているシュトーレン、バターひとかけ、牛乳パックひとつ、ジュリアンが買ってきた柘榴、それから母親が送ってきたグリューワイン。調味料がいくつか。ゴールドはこの中からワインとココアパウダー、砂糖、塩、牛乳を取り出し、先にワインだけを小鍋に半カップほど入れて火を入れた。
「ゴールド、火はどうやってつければいいんだ」
「その辺にマッチがあるだろ? 薪の中に投げてくれりゃいいから」
 少しアルコールを飛ばしたら、ココアパウダー、砂糖、塩、牛乳を混ぜて煮立たせる。そのあいだに、再び冷蔵庫を開けて柘榴を取り出し、ナイフで二つに切って一つずつ小さな陶器の皿に盛った。暖炉に火をつけることができたらしいシルバーが背後に寄ってきて、何作ってるんだ、興味深そうに覗き込んでくる。
ホットチョコレートワイン」
「また酒か」
「まあまあ、いいから試してみろって。ほら」
 銀のスプーンでラズベリー色にとろみのついてきたココアをすくい、シルバーの口に持っていってやる。それだけでもゴールドの鼻先にふわりと甘い香りが漂う。彼はスプーンの先とゴールドの顔を交互に眺め、躊躇いがちにそれを舐めたが、熱かったのか思い切り顔を顰めた。舌を出し、ぎゅっと目を瞑って口元を押さえるさまが年相応に幼い。たまらない。ゴールドは片手でコンロの火を落としながら、もう片手でシルバーの腰を抱き、自分の方へ引き寄せた。
 シルバーは存外におとなしく、素直に身体を預けてきた。彼は寒がりだからこの天気のためかもしれないが、ともかく、ゴールドの頬を両手で包み、自らキスをしさえした。冷えた皮膚がつたなく触れてくる。熱っぽく潤んだ目がこちらを見上げている。目の淵から耳の先まで、血が集まって真っ赤だ。
「シルバー、おまえ」
「オレが……どんなつもりであの子どもの背を見送ったか、おまえもわかっていると思ったが」
 ゴールドは思わず唾を飲み込んだ。
 暖炉の中で炎が爆ぜ、薪が燃え崩れる音が立つ。しかしゴールドには目の前の美しい少年のことしか見えていない。期待と畏れに震える唇、熱く濡れた吐息、あの日上級生たちに鞭打たれていた、そして今やその傷も癒えつつある白い身体、すべてがゴールドの前に無条件に差し出されている。
「連れて行ってくれ」
 彼がうっとりと呟いた。

 分厚い雪の雲からほのかに差し染めた白日の光、それが、洗い立てのシーツの上に横たわるシルバーの裸体をやわらかく照らしている。
 どこにも欠陥の見当たらない、美しい肉体だ。白い百合の花のように優婉な顔、すがすがしく清廉な首から鎖骨までの輪郭。薄く浅く青い静脈の透けた首の皮膚。降ったばかりの雪のように光のこもった冷たい胸。華奢だがしなやかな筋肉のついた腹、引き締まった臍下。そこから、なだらかに下へ滑り落ちる無毛の恥部、小さな尻と、肉づきの薄い太腿、小さな作り物のような足。いっそ非現実的なほどの美しさだった。彼の存在ぜんたいが、天文学的な数の可能性をくぐり抜けてきた人間という生き物の無謬のイデアだった。
 ゴールドの視線を注がれて、彼はさすがに羞恥を覚えたらしく、かすかな上目遣いでこちらを伺った。恥じらいのあまり、きつく噛み締められた唇、何かを堪えるようにひくつく瞼、幸福そうに赤らむ頬。
 ―――オレのものだ。

 

 予感はあった。それから目を逸らし続けていただけだけのことだ。
 事のはじめは、十二月後半、クリスマスミサ、降誕劇が行われる日にちから一週間ほど前のこと、学園内である噂がひめやかに囁かれるようになったことだった。現場を見たという下級高等学校二年の生徒が、同じ寮部屋の生徒の中だけの秘密にしようと断った上でもらしたことが、次の日には学校中に広まっていたというありさまだった。水曜日の放課後、ゴールドとジュリアンの部屋に遊びにきたネポムクが、はじめてゴールドたちにその噂をもたらした。
「彼氏、そんなことするような人だっけ?」
「人には厳しいよな……でも自分のことは案外甘やかすタイプってことかな……」
「議会のふたりってんで、先生たちもどうすればいいかわからないらしいぜ」
「いま校長室で会議してるみたいでやんすよ」
 火を入れられた暖炉の前、エルマとルッツ、ネポムク、それからジュリアンが好き好きに言い合うのを、キッチンでスナックプレッツェルをボウルに注ぐ最中のゴールドは片手間にきいていた。「何の話だ?」
「ゴールドくん、知らないでやんすか?」
「だから何の話だよ」
 ボウル、それからナッツ入り砂糖菓子の瓶を両手に持って、くつろぐ友人たちの中にゴールドも入る。わっと歓声をあげてエルマがプレッツェルを三つばかり手に取り、一度に口の中に放り込む。それから、みんなの注意を一心に集めていることに気づいて彼は、もごもごと恥ずかしそうに咀噛しながら、ゴールドにも噂の内容を教えてくれた。
「四年のグリーンさんが、マリア館の女の子と私通したって話」
「しつう?」
「その、男女の関係になる、ってこと。そういうの、うちの学校じゃダメだろ?」
 ズィーリオス修道院が所属するシトー派を含め、カトリック教会では男女の婚前交渉を厳しく律している。キリスト教全体においても、結婚前に私通する男女は神の呪いなしには済まされないと説かれる。そのために、修道院と深い関係にある学園においても、男女交際は厳しく制限されている。シルバーは、その校則を逆手にとった上級生たちにいいようにされていたわけだが、とにかく、見つかれば放校も免れない。
 ゴールドの脳裏に、先週の火曜日早朝、レッドと激しく言い争う声を聞いたこと、それからマリア館の生徒の中で特に親しい彼女の顔が続いてよぎり、はっとして立ち上がった。
「マリア館の女って、クリスのことか!」
「クリスタルさん? まさか、彼女がそんなことするわけないじゃない」
 ルッツは声を上げて笑う。
「君だって議会のお世話になってるんだから知ってるでしょ、ブルーさん、マリア館の寮監だよ」
 シルバーがあんなバカを好きになるわけないでしょ! 鋭い目でゴールドを睨んだ、生徒評議会の女。薔薇の茂みの中で泣くシルバーを胸に抱いた女。長い栗毛に青い目の女。ブルー。シルバーの不安定な心をずっと支えていた女。
 ゴールドが立ち上がると同時に、表の扉が激しく叩かれ、駆け寄ったジュリアンが錠を外すと同時に音を立てて開かれた。顔色をすっかり青ざめさせたシルバーが立っていた。
「ゴールド」
「話にゃ聞いてるぜ」
「ふたりの除籍が決定された。いま、礼拝堂で祝福を受けているところだ」
「急がないと間に合わねえ」
 ゴールドの腕の中でぶるぶる震えながら、彼は軽く顎を引いて肯定する。
 ふたりはパウロ館の長い螺旋階段を下り、ロビーから長い回廊、校舎から外に出てズィーリオス城正面の広場に向かった。そのとき、礼拝堂の正面扉から、金髪の修道女(イエロー)に付き添われて、黒のトレンチコートに全身を隠すようにしたグリーンと、そのそばで啜り泣く私服姿の女が現れた。紅葉した楓の葉が風にちぎれてひらめく中、煉瓦の階段をしめやかに降り、ジークフリートの黒いメルセデスに向かって歩いていく。
「ねえさん!」悲鳴ともつかない叫び声でシルバーが、女に向かって駆け出した。振り返った彼女は端正な顔を歔欷のためにさらに歪め、おおらかな胸の中に愛おしく弟を抱きしめた。ともすれば崩れ落ちそうな足を懸命に立たせ、お互いの身体に縋りつきながら、相手の名を必死に呼び合う。
「ねえさん、ねえさん、どうしてこんなことに」
「シルバー……ごめんね……あんたにはどうしても言えなかったの」
「もういいよ、いいよ……でもどうしてなの」
「ごめんね、シルバー……ごめんね……」
 ゴールドは背後に控えたグリーンを見やったが、彼もまた首を振り、すべてを隠匿したまま去るのだということを示した。
「降誕劇のガブリエルはレッドに依頼してある。次の寮監もレッドだ。俺の故郷、フランス、アンドル県ル・ブランが今後の住所になる、俺やブルーに何かあればそこへ手紙を送ってくれ」
「……レッドさんとお別れしなくていいんスか」
「あいつは」グリーンは、寂寞を湛えてかすかに微笑した。「もう、俺たちの顔も見たくないだろうから」
「列車の時間に間に合いません。さあ、急いでください」
 イエローが促す。
 抱きあったままシルバーは、ジャケットの内ポケットに入れていた金のロケット、ゴールドが壊したあのネックレスをそのまま女の手のひらに渡した。女は何かシルバーに言いながら仕切りに頷き、最後に一度強く抱き合って、離れた。グリーンが助手席に乗り、女は彼女のキャリーケースとともに後部座席に乗り込んだ。車が走り出す直前、後ろの窓が空いて、泣き腫らして赤い目の女が顔を出した。
「シルバー! 愛してるわ! ずっと、ずっとよ!」
 彼女の悲痛な声とともに、車はゆっくりと速度を上げ、並木道の向こうへ小さくなってゆく。
 シルバーはゴールドの胸元に張り付き、所在なさげに立ち尽くしていたが……去ろうとする彼女のために大粒の涙をこぼしながら、叫んだ。「…………………ねえさん!」
「シルバー……」
「ねえさん、いやだ……ねえさん、ねえさん、ねえさん!」
 細い身体がゴールドの腕から乗り出し、去ってゆく車に追い縋る。ゴールドは暴れる彼を強く抱きしめているしかなかった。