2022/12/21

 

 

 

 百合子は機嫌よく鼻歌なんて歌っていたが、不意につま先でぐっと背伸びをすると、ジョニーの鼻先からサングラスを攫った。象牙細工のように華奢で端正な足が波打ち際へ駆けていく。小さな花飾りのついたおさげの先が快活に揺れる。慌てて後を追うが、彼女は気まぐれなニンフの娘のように、突き出されるジョニーの手のひらをひらりとかわしてしまう。
「もう、百合子ってば!」
「うふふ、早く私を捕まえてくださいな!」
 楽しそうにくるくる回る彼女の一瞬一瞬がまぶしい。サンドレスの薄い裾は鳥が羽を翻して飛ぶように舞い上がり、見開かれた瞳のきらめきは天性の青さだ。
 ジョニーは一弾指息を止め、それから大きく足を踏んで彼女に抱きついた。きゃあ、と歓声が上がる。ジョニーの熊のような長身が細っこい百合子の痩躯にのしかかり、当然、二人して後ろに転がった。派手な水飛沫が上がり、その一粒一粒が陽を浴びて閃いた。
「捕まえた!」
 百合子の腰を抱き、ジョニーは喚声をあげた。愛する女を腕の中に捉えた戦士の勝鬨だ。
「捕まりました!」
 彼女は飾り気なく笑いながら、ジョニーの頭にサングラスを付け直してくれた。
 二人とも腰まで海水に浸かってずぶ濡れだ。波が引き、また押し寄せてきて、抱き合う幸福な鴛鴦のつがいの心までを洗った。
「ねえ、私のとっておきの秘密を聞いてくれますか」
「なんだい、僕のおチビちゃん」
「ジョニー……、大好き」
「参ったな。実は僕もなんだよ、百合子。世界でいちばん君が好きなんだ」
「嬉しい。キスしてください」
「仰せのままに」
 腰の上に百合子を抱き、期待に艶を帯びた唇に自分のを押し付けた。興奮でかすかに熱を湛えた粘膜が遠慮がちにもぞつき、ジョニーの唇の形を探る。
 口づけの間に彼女の子猫のような舌先が差し出され、ジョニーはそれを優しく吸い上げた。平手で包んだ頬へさらに血が上る。百合子の、優しさと善意による言葉しか知らない狭い内側は、ジョニーの舌に対しても至って貞淑だった。背の順に並べられた小さな子供たちのように規則正しい歯並びは、突かれると、おそるおそるその楼門を開く。ジョニーを誘ったはずの舌はいまや怯えて喉の方へ隠れ、それを追いかけるようにして、不躾な男の舌が奥の奥へ侵入する。
 長いまつ毛が涙にけぶる。潤む瞳はジョニーの写身を愛おしそうに丸く抱き込んでいる。
 ジョニーは彼女のすべらかな背に指を滑らせ、蝶の形に結ばれたリボンの紐の片方をそっと引いた。二つの羽は音もなくほどけ、華奢に引き締まった肋骨と、左右に端正に広がる鎖骨、深い母性を暗示する薄い乳房が露わになった。彼女もまた、おぼつかない指先でジョニーのシャツのボタンを探りあて、上から一つ一つ外していった。開かれた襟から露わになるのは、夏の小麦のように熟れた男の肉体だ。歳を重ねてさらに磨かれた石膏像さながらの胸筋はピンと緊張し、強剛に張り詰めていた。何ものにも侵されない城壁のような半身は、しかし、百合子の手に押されると、簡単に後ろへ傾いた。
 二人して、美しいモンデッロの、深い群青に潜りこむ。
 ジョニーは焦ったくシャツを脱ぎ、砂浜に向かう波の流れに放って、一寸先を浮遊する百合子を追った。彼女も同様に、ドレスをすっかり脱ぎ捨ててしまって、何にも隠し立てされることのない芳体が微光の中を触手の長いクラゲのように泳いだ。冗談みたいに白い。まばたきをすると、彼女の、手入れの行き届いた四肢のつま先や、髪の一本一本がだんだん透けてくるのがわかった。
 ……百合子は、こうして時折海水に触れていないと動けなくなることがあった。
 なぜかはわからない。そもそも、海を泳ぐ彼女の身体が透ける理由も、ジョニーは知らなかった。彼女が話そうとしないので、ジョニーも訊くことをしない。訊きたいとも思わない。たとえ、彼女が地球に飛来したタコ星人だったとしても、ジョニーはきっと彼女を愛することをやめない。どうだっていいのだ。
 透明な血管まで透けたガラス細工のような腕が、ジョニーの首にじゃれつく。肩を抱いて引き寄せると、彼女は微笑み、唇を突き出してふたたびキスをねだる。望みの通りにしてやった。

「ほんとうに食べてもらえたらいいのに」
 地元住民も観光客も寄り付かない岩場の影で、ジョニーの肩から顔を上げた百合子が言った。
 吐精後の余韻で意識をかなたに彷徨わせていたジョニーは、初め彼女の言葉の意図を掴めないでいたが、冷たい指で額をくすぐられているうちに冷静な思考が戻ってきた。たしか、情けなく女性性の湖に溺れながら彼女にこう言ったのだ……「かわいい。食べちゃいたいくらいだ」
「どうしたんだい……?」
「ジョニー、私、今が幸せすぎて怖いんです。両親は、……いなくなってしまったけど、兄さんがいて、ジョニーがいて。素敵なおうちがあって、ご飯はおいしくて、旦那さんはいつもやさしい。でも、もしこれが夢で……ほんとうは全部嘘だったら。本当の私は暗い夜の中でひとりぼっちだったら。考えると怖くて涙が出そうになるんです。それなら、夢から覚める前に、身体も心もぜんぶジョニーに食べてもらって、ジョニーと一つになりたい、なんて」
「百合子」
「あ……へ、変ですよね? 突然ごめんなさい。忘れてください」
 彼女が身を起こして離れてゆこうとするので、ジョニーは頼りないその肩をそっと引き寄せ、震える下瞼にキスをした。この少女は何を馬鹿なことを考えているのだろう。
「夢なわけ、ない、でしょっ」
「わ!」
 頬をつまんで引っ張る。百合子はなんでもなさそうに唇を尖らせて抗議したが、ジョニーが鼻先を近づけてその顔を覗き込むと、その目には言い逃れのしようがないほど黒く凝り固まった不安の影がじっと澱んでいる。よく観察すれば、唇は微かに青ざめて震え、眉間は苦悩が集まって深い影を刻んでいる。明るく快活な彼女らしくない表情だった。
 ウエストに腕を回してひん抱く。もしすべてが夢だったら、このやわらかさ、温かさはなんだ?
「百合子は気にしいなんだ。大丈夫。僕はここにいるし、君だってそうだよ」
「ジョニー……」
「それに、僕が君を大好きな気持ちを、簡単に嘘にしてほしくないな」
 しっとりと水気を帯びた髪を撫でてやりながらそう囁くと、百合子は静かに流涕した。透明な雨だれが瞬きと一緒にはじき出され、健康そうに膨らんだ頬を滲むように流れた。
 濡れた瞼が裸の肩に再び押しつけられる。抑えきれずにこぼれた嗚咽が、ジョニーの鼓膜を甘美に揺らす。なんでもないことなのに、百合子は相変わらず泣き虫だ。愛おしさにむずむずと胸をくすぐられ、その身体を腕の中にぎゅっと閉じ込めた。
 二人はその後も三度は互いの輪郭を見失い、五度は微笑み合った。岩の上で気持ちよく日向ぼっこをしていたミドリガニが、耐えかねて、そそくさと横歩きで逃げていく。


 すべては真実だが、真実でなくてよいものもある。


 午前十時、バラーロ市場にて食材を大量に買い込んだあと、二人はいそいそと帰宅した。今日は夫妻が近所の友人知人を集めてホームパーティーを開く日だ。
 あらかじめ正午に集合するよう周知していたはずだが、パラドックスはそれより一時間も早くやってきた。
「まだ何もできてないよ」
「細君はともかく、君は掃除も料理も手際が悪い。助太刀が必要だろうと思ったのだが。……これは土産だ」
 片眼鏡の奥で涼やかな紫眼を眇め、彼は手に提げていた紙袋を差し出した。すらりとした上品なボトルに、ビオンディ・サンティの名と紋章を誇らしげに掲げるブラックラベル。ブルネッロ、しかもヴィンテージものだ。どうやら父親から継いだ診療所の経営はうまくいっているらしい。
 交わされる皮肉にもワインの価値にも全く見当がつかない百合子は天使の微笑みを浮かべ、素直な謝辞を述べた。上機嫌でキッチンに戻っていく背中を格好を崩して見送るジョニーを、パラドックスは半笑いで眺めている。
 ジョニーが庭の手入れをしている間、パラドックスには客を通すリビングルームと、奥のサンルームの掃除を任せることにした。
 百合子の細やかな気遣いの行き届いた室内に、彼は珍しく感心したような様子を見せた。白塗りの壁は各国から取り寄せた明媚な風景画が何枚も飾られ、格調高い大理石の床にはエキゾチックな模様織りの絨毯が敷かれている。細かな彫刻の施されたマホガニーのキャビネットに飾られているのは、ヴィネツィアングラスの飾り皿や銀の水差し、聖ミケーレにまつわる伝説が有名な陶器のベルなど、瀟洒な小物ばかりだ。ビザンティン文化の影響を強く受けたトルコ風の窓辺や、ガラス製のダイニングテーブルは季節の花で華やかに縁取られ、アンティークのレコードプレイヤーからは、ゆったりとしたクラシックが流れていた。アカンサス紋様で縁取られた天井には、職工がこの部屋のために描いた美しいフレスコ画が嵌め込まれている。
「見事なものだ。芸術の情緒をちりほども理解しない君の家とは思えんな」
「君はどうしてそう……まあ、たしかに、これほとんど百合子が揃えたものなんだけどさ。僕には価値がよくわからないけど、彼女の好きな物がたくさんあるのはいいことだ」
「ふむ。だがこの絵は君が選んだものだろう。なかなかどうして悪くない」
 パラドックスが示したのは、スイスのフィヨルドを描いた六十号の絵画の、その下にそれとなくかけられた小さなパネルだった。彼女の故郷を訪れた際に購入したもので、オレンジ色のフジヤマが描かれている。
「なんでわかるの」
「長い付き合いだからな」
 彼の好意は相変わらずよくわからない。
 十二時五分、三人がかりで、やっとの思いで準備が整うと同時に、招待客が次々と到着した。
 最初にやってきたのは、向かいの家に住むアポリア夫妻と、一人息子のルチアーノだ。一家はジョニーたちがこの家に越してきたばかりの時から交流があり、特にルチアーノは、お姉ちゃんと呼んで百合子をよく慕っていた。
「こんにちは。みなさん、我が家にようこそ」
「百合子お姉ちゃん!」
「まあ、ルチ。また背が伸びましたね。それにお顔も大人っぽくなったみたい」
「当然だよ! なんてったってボク、もうすぐ十歳になるんだ。あと八年経ったら、お姉ちゃんを迎えに行くからね」
 百合子の腰に抱きついたルチアーノは、甘えた声を出しながら、ジョニーだけがわかるようににやりと意地の悪い笑顔を見せた。あれは絶対に確信犯だ。子どもにだけ許されることがあると知っていて、それを存分に活用している。
 百合子との挨拶を終えたルチアーノは、すれ違いざまに、ジョニーに向かってあっかんべをした。
「やーい、ジョニーのバカ。悔しかったら反撃してみろよ。まあ百合子はボクの味方になるに決まってるけどね」
 この上なく生意気な小僧だ。
「たしかにそうかもしれないな。でも、それは君がまだ子どもだからだ。味方してくれなくたって百合子は僕の妻だ。君には絶対、死んでも渡さないぞ」
「それはどうかな? ジョニーはアホだし、いくじなしだし、ボクのほうがずっとカッコイイし。百合子、心変わりしちゃうかも」
「こいつ!」