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   パーフェクト・ブルー

 生まれてこのかた、ジョニーは労働というものについたことがなかった。
 彼は豊かだった。両親は一人息子の彼が欲するものは何でも与えてきたし、大学を卒業し、独り立ちしてからも、在学中に成功した投資事業で百合子ともども何不自由のない暮らしを送ることができていた。
 しかし、事情が変わったのだ。未知の病に少しずつ蝕まれていく百合子。彼女と過ごす時間を少しでも長らえるために、ジョニーは花を買い、薬を買った。高額な治療費を惜しみなく払い続けた。結果、支出が収入に追い付かなくなり、ジョニーは働きに出ることを余儀なくされるに至った。……彼女を海に帰すという選択は、どうしてもできなかった。
 その日は寒かった。厚手のセーターにコートを羽織って出かけたのだが、夕方から途端に冷え込み、ジョニーがオフィスを出るころには気温も十度を下回っていた。歩いて帰るつもりだったのを、プルマンでの移動に変更する。
 暖かい車内で揺られ、うとうとと船を漕ぎながら、ジョニーは美しいまぼろしを見た。まぼろしは、決まってジョニーの孤独の隙間に入り込み、彼の感傷を悪戯にくすぐる。現れたのは百合子だ。ひたむきに愛と純情を信じ、自分の脚で軽やかに走り回っていた、少女の頃の百合子だった。
 二つに結ったおさげの先が近くで揺れる気配がする。ささくれもあかぎれも知らないたおやかな指先が髪や額を優しく撫でる。夢うつつに名前を呼ぶと、柔らかい仕草で頬を拭ってくれる。
 ただでさえ痛みに苦しむ本物の百合子に、ジョニーが見せられずにいる弱みを、まぼろしには素直に曝け出すことができた。耐えかねて吐き出した泣き言も、意図せずこぼした不安も、彼女の柔らかな手は大切に受け入れてくれた。
 情けなく、都合の良いまぼろしに縋ってしまう。そばにいられるだけでいいと思っているはずなのに。
「百合子?」
 ——ジョニー。
 優しい手が、ジョニーの腹の上に何かを置いた。
「百合子……」
 ——大好きです、ジョニー。
 それは二枚のカードだった。十代が差し出し、ジョニーが選べずにいる、二枚のカードだ。
 車内アナウンスが、ジョニーを夢から引っ張り出す。意識がはっきりしてくると、少女の百合子もカードもすっかり消えてしまう。
「百合子」
 呆然と呟いた。

 悲痛なすすり泣きが、玄関口に立ったジョニーの耳にも聞こえてくる。百合子の部屋からだ。
 残されることが不安なのか、最近の百合子はジョニーがそばを離れると子供のように縋ってくる。はじめは寂しそうに、ジョニーが留まることを期待する目でこちらを見ているだけなのだが、本格的に仕事に出ようとしているのだとわかると声を上げて泣き出し、腰に抱きついて引き止めようとするのだ。彼女のためにも働きに出る以外の選択肢は残されていないのだが、それでも、ジョニーの名前を呼びながら大粒の涙をこぼす妻を見るのはつらかった。
 大理石の螺旋階段を重い足取りで上り、表に小鳥とクリスマスローズのリースをかけたマホガニーの扉を押し開ける。
 花の中で、百合子はシーツをヴェールのようにして被り、ベッドの上で膝を抱えて泣いていた。遠い星の瞬きのような、寂しく、頼りなさげで悲痛な嗚咽が、シーツの隙間から漏れ出てくる。彼女の周りにはばらばらにむしられたノースポールの白い花びらが散り、そのさまが、百合子のやる方ない苦痛と孤独を訴えてくるようで悲しかった。ジョニーはジャケットを脱ぐこともそこそこに彼女の隣に座り、震える肩を抱き寄せた。
「ただいま、百合子。遅くなってごめん」
 シーツの裾を持ち上げると、涙を持て余す百合子の顔が露わになった。ジョニーを見上げる目は腫れ上がり、鼻の頭は可憐にも赤く染まっている。
 彼女はジョニーのと目が合うやいなや、その胸にがばりと顔を埋め、背に腕を回してしがみついた。もう離さないとばかりに。
「どこに行ってたんですか? 私、ひとりぼっちで……さみしくて、こわかったです」
「僕のお姫さま、許してくれ」
「もう二度と離れないと誓ってくれたら、許してあげます」
「うん……誓うよ。もう君を置いて行ったりしない」
 嘘だ。明日もジョニーは百合子のために働きに出るのだ。でも、せめて今だけは、愛しい妻、苦痛の中で哀しみ嘆く妻を安心させてやりたかった。
「ほんとうですね……そばにいてくれますね……」
 顔を上げた百合子が不安げにこちらを見つめてくる。潤んだ瞳から溢れた雫が、彼女の痩せた頬を夢のように落ちた。顎から滴るのを指先で受け止めながら、ジョニーはその瞼に唇を寄せた。
「約束する。だからもう泣かないで? ね?」
 キスをする。触れ合った皮膚から百合子のほのかな興奮を感じる。ジョニーは揺蕩う薄い蝶の羽のような唇を優しくはみ、舌でそっと伺いを立てる。熱を帯びたやわらかい口腔に緩慢に迎え入れられた。
 彼女のネグリジェは、塗布薬をつけやすいように、前で開く形になっている。薄い生地を破かないようにボタンを外すと、よく出来た陶器の器のような、すべらかな乳房が露わになった。薄桃色の嘴からとろとろと流れるのは白い乳汁だ。臍の上までをゆったりと流れる乳を舌で舐めとり、たどり着いた乳頭をつとめてねんごろに啜った。骨の浮いた腰が焦ったく揺れる。
「あ……」
 朝から晩まで休みなく労働を強いられた肉体に、百合子の甘い声は晩鐘となって、深く、ゆったりと響く。

 

 早朝六時、いつものジャケットにコートを羽織ったジョニーが出かける前に寝室を覗くと、百合子はまだ眠っていた。彼女の作り物のような白い腕には鋭い針が何本も突き刺さり、そこから伸びたチューブが、鎮静剤や解熱剤を彼女の身体に絶え間なく運び込んでいるのだった。
 ベッドサイドに腰を下ろし、汗ばんだ額をそっと撫でてやると、赤ん坊のように無垢な手がその指先を柔らかく掴んだ。あどけない譫言がジョニーの名を呼ぶことの、なんと切ないことか。常に胸を圧迫する狂おしいほどの愛おしさに突き動かされ、ジョニーは妻の顔のあらゆる場所にキスをした。下瞼に触れると微かに塩の香りがするのが悲しかった。
 ジャックが、二人分のマグを持って寝室に入ってきた。百合子に寂しい思いばかりさせているジョニーの代わりに、今日はジャックが彼女の面倒を見てくれることになっていた。
「行くならさっさとしろ」
 言いながらも、親切な彼はジョニーにマグの片方を手渡した。まろやかなベージュの水面にミルクが微速にうずまいている。ミルクティーだ。
「ジャック……僕はどうしたらいいんだろう」
 渦巻きを目で追っているうちに、予期せぬ言葉がこぼれ落ちた。
 ジャックは片眉を吊り上げ、睨むような目でジョニーを見る。が、何も言わないところを見ると、一応続きを聞く気はあるらしい。
「百合子と少しでも長く一緒にいたくて、僕は今できる最大限のことをしてきたつもりだ。でも……最近はそのために彼女を泣かせてばかりいる」
「お前は」偉そうに腕を組みながら、ジャックは鼻を鳴らした。「……お前にできる最善を尽くしている。それは百合子にもわかっているはずだ」
「え」
「なんだその顔は!」
 だってあまりにも意外だったのだ。この、地球に俺以上の人間など一人もいないというような顔をして生きている男が、ジョニーのしみったれた泣き言にフォローを入れたことが。
 よほど惚けた顔をしていたらしい。ジャックは不満げに怒鳴り、ふと眠る百合子のことを思い出したようになって、罰が悪そうに舌打ちした。自分のマグを引っ掴み、熱いミルクティーを一気に喉に流し込む。
「百合子は無邪気だが考えなしではない」
 心なしかトーンの落ちた声がそんなことを言う。空になったカップをサイドチェストに置いて、ジャックは王が詰めかけた国民の前でするように、長い腕を鷹揚に広げた。
「そして、お前はいくじなしの大馬鹿だが、決して阿呆ではない。たとえ空回りしていたとしても、お前が百合子を想う気持ちはきちんと伝わっている。だからこそ、こいつは寂しくて泣くのだ」
「……」
「大切なのは結果ではなく、どれだけ相手を思い遣ったかだ。愛するがゆえに選び取ったことを、一体誰に責められよう」
 簡潔で、明朗なジャックの言葉が、ジョニーの肌をピアニストの指のように叩く。
 なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、ジョニーはジャックがくれたミルクティーを一口啜ってみた。甘い茶葉の舌触りに、彼の不器用な優しさが滲みているようで、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。彼のような男性に一心に愛される遊星は幸せだ。
「うん。ありがとう、ジャック。怖い人かと思ってたけど、君って意外と優しいんだ」
「フン……」
「じゃあ、僕は行くね。百合子のこと、よろしくお願いします」
 最後の一滴とばかりに妻の唇に吸い付いてから、ジョニーは名残惜しくベッドを離れる。
 鞄を下げ、寝室を出ようとしたとき、思いがけず、後ろから呼び止められた。
「ジョニー」
 ジャックだ。振り向くと、まっすぐにこちらを見つめるすみれ色の目と視線がかち合った。
 傲慢な王の顔を引っ込めて、ジャックは静かに微笑んだ。咲き溢れる冬の花の中で、この人は、いやに透明な存在のように見えた。
「百合子の手を離すな。何があっても……やつには、もうお前しかいないのだ」
 その言葉は遺言のようだった。でも、それが本当に最後の別れになるなんて、いったい誰に想像できただろう?

 

 痛い。
 痛い。痛い。……痛い。
 うまく呼吸ができない。痛くて苦しくてもがいても、身体が灰色の鉛になったかのように重たくて、思うように動かせない。小さくて透明で冷たくて、鋭い歯を持った生き物が、わたしの全身を這い回っているのだ。手も足も、胃も、腸も、骨も神経も肉も皮膚も、脳も子宮も、あらゆる場所に取り憑き、牙を立てて、わたしの全てを食い潰そうとしている。わたしをわたしでなくそうとしている。
 このままでは、愛おしいあの人のことも忘れてしまう。
 ……あの人はどこ?
 名前を呼んでも返事がない。温かな抱擁も、優しいキスもない。涙が次々に溢れてきて頬を濡らすけれど、拭ってくれる人はどこにもいない。わたしは真っ暗な夜の闇の中にひとりぼっち。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続けている。一匹が、その小さな体をうねらせながら、膣の中に入ってきた。気持ちが悪い。嘔吐感を必死に喉の奥にとどめながら、わたしは必死な思いで膣に指を入れ、その一匹の居場所を探った。指は何の手応えを得ることもなく、ただ濡れた肉の壁を左右に擦る。気持ちいい。
 気持ちいい。痛い。痛い。気持ちいい。気持ちいい。
 わたしの膣は、自分の指にあの人の幻想を結びつけて濡れていた。あの人はわたしを抱くとき、いつも優しく時間をかけて入り口をほぐしてくれる。指を入れてすぐの硬い部分から、ひだの立つ天井部分、緩やかに広がった奥の空間。ゆるく勃ち上がったクリトリス貞淑ぶって小さく縮こまる尿道口。指の腹のざらついた部分で、あの人を求めてぐずる粘膜をくまなく愛撫する。あの人がいつもしてくれるように。
 生き物は絶えずわたしの身体を貪り続ける。わたしの指は、敏感で弱気でかわいそうな女の器官を慰める。痛みからか、快感からか、わたしの唇からは湿った呼吸がひっきりなしに漏れた。
「あ……お、っひ、あっ、あっ、あっ」
 苦痛と歓びがないまぜになる。寂しくて、訳がわからなくて、わたしはさらに泣いた。

 ひとつの瞬きののち、わたしは素敵な花畑の中に立っていた。
 生き物も、夜も、みんななかったみたいにきれいな花畑だった。白くて可憐なスノードロップ、慎ましやかなチューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、池には小ぶりな睡蓮の花が浮かび、灌木の枝には花蘇芳がいっぱいについている。花びらと小さな葉の向こうには、ハートや星の模様がついたウサギのぬいぐるみが、小さな身体で転がって遊んでいる。空は薄い紫とピンクの混ざったかわいいパステルカラーだ。
「わあ……!」
 嘘みたいだ。痛いのも苦しいのも、気持ちいいのも、みんなどこかに消えてしまった。残ったのはうきうきと高鳴る心と、分不相応に軽やかな身体だけ。
 楽しくて、舞踏会のお姫さまみたいにくるりとターンすると、次の瞬間にはわたしの身体はかわいいドレスに包まれていた。胸元には薔薇の飾りと大きなリボン、腰から足元までをたっぷりと華やかに彩るフリル。健康そうな腕を覆う上品なイリュージョンレース。左手の薬指にきらめくのは、王子さまがくれた金の指輪だ。踵を上げると、キラキラと宝石のように輝くピンクのガラスの靴が、足にぴったりはまっているのに気がついた。
 頭がふわふわする。ゆらゆらする。楽しい。楽しい!
 ちぐはぐなワルツを踊りながら、ウサギたちに近づく。ステップを踏むたびに花は潰れてしまうけれど、仕方のないことだ。
 ウサギたちは、わたしに気づくと、ぴょんぴょん跳ねながら挨拶をした。それから、彼らの向こうに鬱蒼と茂る、深い森の中を指し示す。
「どうしたの? なにかいるの?」
 光るきのこや奇妙にねじ曲がった木々の中。こちらに背を向けて、誰かが立っている。白い軍服に青いベルベットのマント。スラリとした長身。あの人だ。わたしの、王子さま!
「ジョニー!」
 ウサギたちの群れをかき分けて、わたしはあの人に駆け寄った。彼は、まだわたしに気づいていないようで、その横顔に悲しい空気を漂わせている。でも、もう大丈夫。だってわたしがついているもの。
 彼の背中に飛びつこうとして、不意に、ドレスの裾を後ろに引っ張られた。
 振り返る。裾に噛み付いてわたしを押しとどめたのは、金色の毛の、猫のぬいぐるみだった。すみれ色の二つの目がわたしをじっと見ている。鋭い犬歯が、裾のフリルにしっかりと噛み付いている。
「……、むー」
 ひどい。あの人のもとに行こうとするわたしを邪魔するなんて。
 わたしはしゃがんで、ネコと視線を合わせた。そうして、両手でその身体を持ち上げる。ネコの身体は、思ったよりもずっと重くて大きくて、ずっしりしていた。向けられた視線に困惑が混ざる。
「悪い子には、おしおきですよ!」
 そのとぼけた額を、軽く指で爪弾く。
 すると、ネコのぬいぐるみはポンと煙を立てて消え、代わりにたくさんのキャンディが降ってきた。カラフルな包み紙を纏った、さまざまなフレーバーのキャンディ。いちご味、レモン味、ソーダ味にミント味。もちろん、ミルク味も忘れてはいけない。
 すごい、すごい! ここのぬいぐるみたちは、弾くとキャンディになるのだ。試しに一粒口に入れると、甘くて、ちょっと酸っぱくて、とても幸せな味がした。わたしは嬉しくなって、あの人のもとに行くことも忘れて、ウサギたちの方に踵を返した。
 くるくる踊る。夢見心地のダンス。ウサギたちもみーんな弾いて、キャンディにして、そうしたらあの人は、……わたしを抱きしめてくれるだろうか。

 ずるずると黄色い脳髄を啜る、神経をちぎって貼り合わせて、ばらばらになった骨は深海魚の夢の中、くらくらと血管を漂いわたしは果てを散歩する、あの人とたったひとつのいのちを分け合ったような気分になるのはなぜ、つよくておおきくてずっとこわかった彼がこんなにも弱くて脆くて矮小な存在だとわかってわたしはうれしくなった、わたしはずっと彼を慕いながら心の底で恐れていたいつかわたしからみんな奪い去ってしまうのではないかと、ああ、あの人も、兄さんもおとうさんもおかあさんも、わたしは臆病で、あの人の首筋に巻きつくわたしの腕はただの木偶だ、彼は背が高くて勇気があって美しかったから、でもわたしのほうがずっと強くておおきくてそう、神秘を戴き得る器など人間の中にはひとつとしてないのだ、花束は、あの人の死。官能。嫉妬。束縛。永遠。憂鬱。滅亡。裏切り。わたしはずっとずっと〈わたしたち〉に喰らわれる痛みと苦痛に耐えて鋭い牙とささくれた鱗とで引き裂かれ食いちぎられなんどもなんどもなんども、いつかいとおしくてだいすきであの人を食べてしまうかもしれない、風船みたいに膨らんで破裂する、からだはぼろぼろ、こころはゆらゆら、これは報いだ 握《あく》 ああ、彼の命はこんなにもおいしい……

 

 今日は夕方で上がれたので、寂しい思いを我慢している百合子のためにお菓子でも買って帰ろうと、なじみのベーカリーに立ち寄った。ショーケースの前に見覚えのある背中があると思ったら遊星だった。ビニエとエクレールで一時間も迷っていたらしい。考えることは一緒だ。
 秘密会議の末に選ばれたいちごのエクレールを携え、二人は家路につく。冬のパレルモは空気が重く、冷たい。エトナ山はすでに純白の雪化粧を終え、山頂から吹き降りる颪で街路の木々もすっかり丸裸だ。今にも降り出しそうな曇天や、人々の着込む寒色の上着などのために街の雰囲気もどことなく暗く、市場に売り出されたカターニア平野産のオレンジの色だけが、滑稽なほど明るく陽気だった。
 ロングコートの襟を胸の前に集めながら、遊星は耐えられないといった様子で身震いする。
「正直なめていた。シチリアは地中海性気候だからと……こんなに寒いと思わなかった……」
「君の国よりは暖かいと思うけど」
「寒がりなんだ。いつもなら、冬は家から一歩も出ないことにしているんだが」
「そんなので生きていけるの」
「ジャックが全部やってくれる」
 つぶやく横顔は思慕に緩み、百合子によく似た青い瞳も、美しい恋人への誇りに精彩を帯びていた。耳がほのかに赤いのは、凍えるような寒さのためか、羞恥のためか。
 遊星のかすかに青い唇が、白い煙を吐き出した。
「これはお前にだから言うことだが、百合子が治ったら、彼にプロポーズしようと思っている。俺には花も宝石もわからないが、薔薇をかかえるほど買って、大きなダイヤモンドの指輪を用意して、彼の行きつけのレストランで……今まで俺や百合子のためになんでもしてくれた彼だから、今度は俺が、お前のために全てを捧げると、そう伝えたいんだ。彼を愛してる。彼が心から笑ってくれるなら、俺は身体も心も、命だって惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。なあ、それはお前も同じだろう、ジョニー」
 ジョニーは頷いた。その通りになれば良いと思ったのだ。

 家に着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 大きなマホガニーの扉の、古風な鍵穴にキーを刺して左に回す。軽快な音を立てて錠が外れ、先に遊星が、後からジョニーが玄関に入った。
「ただいま、百合子」
 暗い廊下に向かって声をかける。返事はない。
「……百合子? ジャック?」
 ジョニーは凛々しい眉をぎゅっと寄せた。妙に静かだ。何か、何か嫌なものが、薄暗がりの向こうに息づいている。それはかすかなものだったが、百合子が倒れた時に似た、暗澹とした、重く不吉な予感だった。ジョニーの脳裏に、祖母の葬儀をあげた時のことがよぎる。これは死の匂いだ。家の中で、何かが終わったのだ。
 不思議そうにしている遊星に構わず、ジョニーは薄暗い玄関をつぶさに観察した。右手には、翡翠のミニテーブルに下向きに咲く鈴蘭をモチーフにしたスタンドライト、靴やコート類を収納するためのクローゼット、こちら側に取り付けられた硝子の両開き扉には冷や汗をかくジョニーの顔がぼんやりと映っている。左手にはレモンの鉢植えに青いリンドウの飾りをあしらった壁掛けの鏡、客間に繋がる扉。大理石の廊下を挟んだ奥には、三階までを突き抜ける螺旋階段。
 いつもと変わらない、夕方から夜にかけての廊下だ。
 ……いや。やはり何かが違う。息をつめて、注意深く周囲を検分していたジョニーは、螺旋階段の死角からスッと伸びた真っ白な素足をとらえた。
 死人のように真っ青な顔をしてジョニーを見下ろすのは、百合子だった。彼女はいつものネグリジェにカーディガンを引っかけた姿だったが、その表情や手足にはまるで存在感がなく、妖精や精霊の類を思わせた。ほどけた髪のつやはブラックオニキスの輝きを思わせる。小さな爪の一つ一つは桜貝の色をして、それがことさら、彼女の雰囲気を天上のものにした。百合を抱えた聖母のステンドグラスから落ちる虹色の光が、彼女の髪や肩の上で幻想的に踊る。
「百合子」
「ジョニー……」
 震える唇がジョニーの名を呼ぶ。その瞬間、彼女の足はつるりとした段板を踏み外し、前のめりに倒れこんできた。遊星が息を呑む。反射的に身を乗り出したジョニーの腕がかろうじて彼女を受け止めたが、彼女は全身をこわばらせ、ひどく怯えていた。小刻みに痙攣する身体と、過呼吸気味の浅い呼気が、彼女の身に何かあったのだと如実に語っていた。
「ジョニー、ジョニー、お願い、私を愛していると言って」
 青ざめた頬を、涙が流星のように迸る。
「ああ、愛してるよ、百合子。一体どうしたっていうんだい?」
「ごめんなさい。私を許して。私を……私を殺してください」
「な、何を言っているんだ!」
 妹の恐慌から何かを悟ったらしい遊星が、エクレールの袋を放り投げ、ジョニーの横をすり抜けて階段を駆け上がった。だが、妻の口から訳のわからない願いを聞き取ったジョニーはそれどころではなかった。今、彼女は何と言った?
 殺すだって?
「時間がないんです。早く私の左胸を、心臓を貫いてください。これで……」
 百合子の左手にはいつの間にか透明な小剣が収まっていた。透き通る刀身は、光を浴びて鋭利に輝き、まるで水でできているような印象をジョニーに与えた。彼女は、それをジョニーの手の中に必死に押し込んだ。
「早く……」
「だめだ! 君は僕の妻だ。たった一人の愛する女性(ひと)だ。その君を、僕が殺せるわけないじゃないか。ね、まずは落ち着こう。何があったのかちゃんと聞かせてくれないかい? ジャックはどこ?」
「ジャックは……」
 出し抜けに、階上から絹を裂くような絶叫が上がった。
「ジャック? ジャック……ジャック、ジャック!」
 遊星だった。必死にジャックの名前を呼んでいる。
 動悸が激しく鳴る。不幸の兆しが、無情にもジョニーの頭上に降りてくる。ジョニーは百合子を抱えたまま、一段飛ばしで三階を目指した。

 花が散っている。無惨にもむしられ、茎を折られた花々の死体が、ベッドや絨毯の床に折り重なるようにして乱れている。スノードロップ、チューベローズ、アネモネクレマチス、コルチカム、ゼラニウム、小さな水瓶に浮かべてあった睡蓮は器ごと破壊され、花蘇芳の枝はこれ以上ないというほどに踏み潰されている。
 ベッドに倒れ伏すような形で、ジャックは眠っていた。はじめは……眠っているのだと思った。鎧をつけたような、大きく、引き締まった身体には傷ひとつなかったし、男性らしい流麗な顔に浮かぶのは、まるで楽しい夢でも見ているかのように安らかな微笑みだった。
 しかし、ジャックの手首を握りしめた遊星の顔は真っ青で、只事ではない様子だ。ジョニーは彼に近づいて、同じように首に触れてみた。
 氷のような冷たさだった。もう死んでいる。
「時間切れです。残念ですね、ジョニー」
 不意に、血も凍るほど冷ややかな声が、ジョニーの右耳に囁いた。
 はじめ、ジョニーはそれが誰の声なのかわからなかった。聞き覚えのある声ではあった。しかし、彼女は……いつもジョニーに対して善意と優しさに溢れていて、とてもこんな声を出せるような女性ではないのだ。痛みや辛さを泣きながら訴えることはあったが、このような、感情のない平坦な声で話しかけてきたことなど一度もなかった。
 だが……ジョニーが彼女の声を聞き間違えることなどありえない。どんなに混雑した人ごみの中でも、耐え難い混乱の中にあっても、ジョニーは彼女の声をはっきりと聞き分けることができる。きっと今回も例外ではない。だから、彼女が発する言葉の意味を理解するより先に、ジョニーは反射的にその人の名前を呼んでいた。
「百合子……?」
 それはジョニーの腕に抱かれた百合子の声だった。
「なんて甘くて、お人好しで、無知な人間なんでしょう。命乞いも忘れてゾウの足の裏を見上げるちっぽけな蟻みたい。でも大丈夫。あなたは食べないでいてあげます」
 先ほどまで震えながらジョニーに許しを乞うていた彼女など初めからいなかったみたいに、百合子はジョニーの腕から離れ、立ち上がった。いとも簡単に。
 まるで、身体を病む前の、健康だった彼女が戻ってきたようだった。しかし、その口元には嘲りと退屈にひきつれた冷笑が浮かび、眉根は性根の悪そうな釣り上がりを見せていた。別人のような変貌ぶりだが、それでも、可憐で楚々とした顔のパーツや、蒲柳の身体はジョニーの知る百合子そのものなのだった。
 言葉を失った二人の男の前で、百合子は腕を広げ、歌うように朗々と語り始めた。
「ジャックの行方が気になりますか? ここです。私のお腹の中で、骨も肉も破壊しつくされて、痛くて泣きながら蹲っていますよ」
 細く尖りを見せる四本の指が、自らの薄い腹を撫でる。
「……冗談じゃありません。兄さん、私は、ずっと彼を食べてしまいたいって思っていたんです。強くて、大きくて、とっても美味しそうだなって……はい、彼はほんとうに美味しかった。暴れるから飲み込むのがちょっとだけ大変でしたけれど、肉が厚くて、柔らかくて、彼に愛されている兄さんがちょっと羨ましくなっちゃいました。それに、ふふ、その顔……優しくて親切で頭の良い兄さんの、何が起きているのかわからなくて、現実が受け入れられなくて、ただ呆然とするしかないっていう哀れな顔、ずっと見てみたかったんです。お願いが一度に二つも叶うなんて、私、とっても幸運な女の子ですね」
「百合子、——百合子! お前がやったのか! ジャックを……お前が、殺したのか!」
「ええ」
 あまりにも冷たい宣告だった。
「だって……彼が、悪い子だったのがいけないんですよ? 私はいやって言ったのに、引き止めようとするから……」
 遊星は、彼の理知的な目を限界まで見開き、口を開いたまま絶句した。下瞼のふちから、怒りと絶望のための涙が一筋こぼれ落ちる。
 そんな彼を、百合子はひどく醒めた目で一瞥すると、くるりと背を向けて寝室を出ようとした。
「……どこへ行く」
「あなたには関係のないことです、兄さん」
「行かせない……行かせない!」
 ジャックの身体を抱きしめていた遊星が立ち上がり、百合子の背に飛びかかる。
 百合子は軽やかに振り返り、兄に向かって右手を突き出した。繊細な指がものを掴む形になり、何かを左に捻り上げる。すると、触れられてもいなかった遊星の左手が勢いよくねじれ、かと思えば、手首が通常ではありえない方向に折れ曲がった。骨が折れ、筋肉が引きちぎられるぶちぶちという音が立つ。遊星が悲鳴をあげ、左手首を庇って床に崩れ落ちた。
「ぐ、あ……」
「邪魔しないでください。かわいそうな兄さん、食べるのは最後にしてあげようと思ってたのに。今、死にたいんですか? 残念ですけれど、私、もう今までの小さくて弱い私じゃないんです……兄さんに守られていたお姫さまは、もういないんです」
「ゆ……百合子……」
「ああ……私を殺すつもりだったんですね。ばかみたい、だからあなたはだめなんです。優しい〈わたし〉があげたチャンスをふいにしたくせに、自分に都合が悪くなった途端に……悲しい。悲しくて笑いが止まりません。知ってますか? 私、兄さんが大好きでした。今も大好き。自己中心的で、矛盾だらけで、何もかもを選ぼうとして全てを取りこぼしたばかな兄さんが大好き!」
 小さく可憐な白い蕾は、無差別に毒を撒き散らす害花として開花した。百合子は、苦しむ兄を見下ろし、実に愉快そうに微笑んだ。
「さようなら……兄さん」
 ふと、ジョニーが愛してやまなかったあの青い海の瞳が、言葉を失って立ち尽くす夫の姿をとらえた。
 ジョニーは息を呑んだ。ジャックを殺し、兄を傷つけた女の瞳に満ちていたのは、狂気でも快楽でもなく……そこ知れぬ悲しみだった。悲痛なまでの孤独、苦痛に膝を折った悔恨だった。小さな宇宙を閉じ込めたような瞳孔や、彗星の尾を思わせる透き通った虹彩は、確かにジョニーの知る優しい彼女のものだ。何かを言いたげに開かれた唇は後悔に戦慄いていた。大切なおもちゃを誤って壊してしまった幼子の哀情、愛するものに否定された少女の辛苦。
 彼女は、ジョニーに何かを訴えている。
「忘れちゃいやですよ、ジョニー。私を追いかけてきてください。……果てで、待っています」
 それだけ言うと、彼女は踵を返し、今度こそ振り返らないまま部屋を出ていった。暗黒に放り出された気分だった。

 絶望は、何も人間を死に駆り立てるだけのものではない。死を選ぶということは、つまり、何かを望むだけの希望が残されているということなのだ。本当の絶望は、人を逃避させる。現実から、自分の感情から。
 必死のジョニーに声をかけられている間も、駆けつけたパラドックスに手首を治療されている間も、遊星はジャックの死体を抱えて呆然としていた。
「あれは百合子じゃない。百合子は、あんなふうに笑ったりしない」
 時折そんなことを口にし、彼は微笑みとも泣き顔ともつかない表情をその顔にのぼらせるのだった。
 治療を終えたパラドックスが寝室から出てくる。遊星は、百合子が使っていた鎮静剤を打たれて眠ったらしい。ジョニーがソファに座ってニュース番組を見ていると知ると、彼は白衣を脱ぎ、ネクタイを緩めながら隣に腰掛けた。
 ——シチリア全土で、突然意識を失い倒れる人が続出している。昏睡状態にある人々の既往歴や生活習慣に目立った共通項は見られず、無差別的な発症であると考えられる。ほとんどの医療機関は詰めかけた大勢の患者家族で機能不全に陥り……
「君の細君はあの男を食ったと、そう言ったのだな」
「うん」
 画面から視線を外さないまま、ジョニーは顎を逸らして肯定の意を示した。
「であれば、シチリア中で住民の意識消失を起こして回っているのも、おそらく彼女だろう。だが、動機も目的も、その手法にも、さっぱり検討がつかん。医者は合理的な生き物だ。道理に反する現象については滅法弱いのだ」
 言いながら、パラドックスはポケットから取り出したミントガムを二つも三つも口に放り込んだ。仕事柄煙草を吸えない彼は、ミントの刺激で冷静かつ明朗な思考を保っているのだ。
「十代……僕の友だちが、彼女は人間じゃないって言ったんだ」
 が、ジョニーの一言に、彼は再び冷静さをどこかに放り出してしまった。
「……は?」
「いや……人間ではあるんだけど、体の中に人間じゃない何かを飼っていた、生まれてから、ずっと。そいつは人間としての百合子を食い潰して表に出ようとしていた。きっと、それが叶ってしまったんだ」
 あの日、ジャックから聞いた百合子の出自、そして十代から聞いた真実を絡めて紐解く。
 百合子は、(規制)という名の神秘の生き物の遺伝子を、人間の受精卵に打ち込むことで生まれたあいの子だ。彼女は、人間にはありえない特徴を持ちながらも、おおむね人間と同じ形のものに成長した。しかし、一方で、その身体や精神は(規制)によって絶えず冒され続け、そのために彼女は常に苦痛の中にいた。そして今日、(規制)の領域が本来の人格を上回り、彼女は恐ろしい怪物に豹変した。
 おそらく、彼女はぼろぼろになった身体を修復する力を得るために、シチリア中の人間の命を吸い取っている。そして……ジョニーにそれを止めてもらいたがっていた。彼女は最後まで自分を食い止めようとしていた。自分の命を犠牲にしてまで。
 そうだ、やはり彼女は変わってなんかいなかった。恐ろしい異邦のものが身体を支配する後ろで、彼女は必死に抵抗を続けているのだ。
「ジョニー、君、何を言っている?」
「信じられないよね。でも……多分本当のことだ。でなければ、この国のどの医者も彼女の病気を突き止められなかったのはなぜ? 彼女が傷ひとつつけずにジャックを殺せたのは? 僕たちの常識では、彼女の周りで起こる出来事に説明をつけることができない」
 怪訝そうな様子のパラドックスを尻目に、ジョニーは頭を抱えた。どうしたらいいのかわからなかった。このまま人々が死んでゆくのは見殺しにできない。でも、彼女を……優しい彼女をこの手にかけることだけは、してはならない。そんなことをすれば最後、ジョニーの魂は死んでしまうのだと思った。
 ……どれだけの時間が経っただろうか。放心した耳に、表のベルが鳴る音がかすかに届く。
「来客か」
「こんな時に誰?」
 シチリア中が混乱に陥っている今、呑気に訪ねてくる人間が果たしているものだろうか。ジョニーの脳裏に百合子の姿がよぎるが、その可能性はすぐに打ち消される。彼女は待っていると言っていた。ジョニーの方から出向かない限り、彼女に会うことはできない。
 ジョニーは期待の眼差しでパラドックスを見たが、彼は潰れたエクレールの本懐を遂げてやることにご執心だ。重い腰を上げ、一人で部屋を出た。階段を降り、廊下を渡って玄関にたどり着く。鍵はかけていない。彼は気乗りしない気持ちのまま扉を開けた。
 女の子のように伸びた赤毛。生意気そうな少年の顔つき。
「やあ、ジョニー君。相変わらずしけた顔してんな」
 立っていたのはルチアーノだった。
 緊張していた心の糸が弾けて、彼の全身を脱力させた。仕方のない話だ。刑事か、悪魔か、世界の終わりかと覚悟して開けた扉の向こうにいたのは、近所に住むありふれた悪ガキだったのだ。重たく湿ったため息とともに、つとめて優しく、理性的に聞こえる口調で、彼は少年を諭しにかかった。
「……ルチアーノ。悪いけど、今はつまらない言い争いをしている場合じゃないんだ。君も早く家に帰って、お父さんお母さんと隠れていた方がいい」
 お父さん、という単語をジョニーが持ち出した瞬間、彼はこの上なく意地悪に、また上機嫌に口の端を吊り上げて、笑った。何も知らないくせに偉そうなこと言うな、とでも言いたげな笑顔だった。
 彼はジョニーの胸を指で乱暴に突いて、「そう言うなよな。あんたに今一番必要なものを、あの人から預かってる」
「あの人」
「ボクの師匠。くそ、いつもならこんなこと絶対しないんだからな」
 光の中で、白衣の裾が翻る。ちぐはぐな長さの二本の足が軽快に床を蹴り、赤い背中が振り向いて、彼女は不敵な笑みで——うまくやれ、ジョニー。
 ルチアーノが差し出したのは、一枚のカードだった。
 息を呑むジョニーを、やけに真っ直ぐな目で見上げながら、彼はこんなことを言った。
「幾重にも分岐した運命の、不確定の枝々の中で、漂っていたボクはあの人に拾われた。このままじゃかわいそうだ……そんなことを言いながら。何もかも諦めた、人間なんて大嫌いだ、って目をしてるくせに、ボクみたいな子供には甘いんだ。破綻してるよな。
 さて、今あんたに必要なのは、人類の敵になってしまった女を殺し尽くして、その灰を海に撒くための切り札だ。人間の皮を脱ぎ捨てた彼女は、もう何ものにも殺されない。誰にも止められることなく、満足するまで人間を食い散らかして、最後には愛する男すら本能のままに咀嚼して一人になる。結婚式のとき、自分が何を誓ったか覚えてるか? 彼女を守ると誓ったんじゃなかったか? この世界の全てを征服して、たった一人になった彼女の心は……どうなるだろうな。ジョニー、彼女が辿ることになる最悪の運命から、彼女を守るには、道は一つしかない。奇跡にはそれを凌駕する奇跡だ。
 彼女を殺せ。あんたにしかできない」
 舞い散る白い花びらの向こうに広がる、優しい春空を描いた美しい金色のカード。〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。人間を愛した結果、怪物になってしまった女神に終焉を運ぶ運命のカードだ。
 初めて触れてみて、ジョニーにもわかった。見知らぬ誰かが、多くのものを犠牲にして作り上げたものなのだ。この一枚に、世界すら滅ぼしうるほどの強大な力が込められている。カードを構成する一つ一つの要素が、たった一つの指向を持って、力を解き放つその瞬間を粛々と待っている。ジョニーがひとたび、願いさえすれば、これはすぐさま発動条件を満たし……百合子の心臓を確実に仕留めるだろう。彼女の魂は粉々に破壊され、二度と戻らなくなる。輪廻の輪に乗ることもなければ、転生することもない。
 拳を握り込む。胸の内側が冷え冷えとざわめく。十代にも、既に忠告されていたことだった。どちらにせよ殺すことになる、彼女はそう言った。
 選べなかったジョニーの前には、道は一つしか残されていないのだ。

 はじめに、潮の匂いが鼻の奥のいちばんやわらかいところを突いて、その痛みがひかないうちにジョニーの右頬を涙が滑り落ちていた。
 笑う百合子の、美しい顔がよみがえった。それから、拗ねて怒る顔、愛してると言われて泣いてしまった顔。初めて手を繋いだときの、心地よい緊張。一緒に海に落ちた時に見た不思議な半透明の四肢。起き抜けに飛ぶ鴎に弾けた歓声。浜辺に踊る繊細な身体。食べてほしいのだとこぼれた涙。心地よい夜闇の中で絡んだ指先。
 潮の香り。寄せては返す波の囁き。細かな砂の手触り。月影のさやけさ……。
 ——大好きです、ジョニー!
 出会ってから七年間、百合子はたくさんのものをジョニーにくれた。自分は何も返せないままだ。あろうことか、苦しむ彼女をさらに追い詰めて、死の淵に追い遣ろうとまでしている。
 自分はひどい男だ。意気地なしで大馬鹿で、阿呆な夫だ。熱い涙がとどめなく溢れ、こちらを見上げるルチアーノの柔らかい頬にぽたぽたとこぼれた。一粒一粒が百合子への激情だ。百合子。百合子。百合子。百合子……
 百合子を愛している。大好きなのに、何もかもうまくいかない。
 ルチアーノは、半ズボンのポケットからハンカチを取り出して、ジョニーの涙を拭ってくれた。らしくもなく優しい仕草だった。
 やわらかい無垢な子供の両手が、ジョニーの右手を包み込む。
「泣くなよ、ボクがいじめてるみたいだろ。パパ……」

 

 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、薄い色をした青空がかすかに透けている。
 少年は父親と繋いでいた右手を離し、舞い落ちる花のひとひらをふっと捕まえてみせた。立ち止まり、期待のうちに幼い指を開く。一枚だけだと思っていたが、よく見ると、薄い花びらが二つ連なって、彼の手のひらの上につんとすましていた。母親が口の端を緩やかに持ち上げて、彼の左手を優しく握り込む。
「それ、食べられるんですよ」
「え!」少年は驚いて、二枚の花びらをまじまじと眺めた。「本当?」
「本当ですよ。ママの国では、花びらを塩に漬けて、甘いパンの上に乗せて食べるんです。あとは……お湯に溶いて、飲み物としていただくこともありますね」
「あんまり美味しくなさそうだけど」
「馬鹿にするなよな。ママのサクラアンパンは美味しいんだぞ。ルチは食べたことないから知らないだろうけど」
 繋いだ手を離されて不満げな父親が、子供のように拗ねて言う。母親は呆れたように肩をすくめるのみだったが、少年はまだ幼かったので、売られた喧嘩は買わなければ死ぬとばかりに父親に噛み付いた。
「いいもん、別にさ。パパのバカ。それより、ねえママ、ローストビーフ作ってきてくれた?」
「ええ、もちろん。今日はルチの誕生日ですからね。食べたいだけ食べていいんですよ」
 持っているバスケットを掲げて、母親は得意げに胸を張った。少年はたちまち飛び上がって、勢いよく母親の腰に抱きついた。勢いに耐えられず後ろによろめいた母親の身体を、父親があわてて受け止める。
「ほんと! ママ、大好き!」
「百合子……ルチが好きに食べたら、僕の分がなくなっちゃうんだけど……」
「ボクの誕生日パーティーなんだから、全部ボクのなのは当たり前だろ?」
「まあまあ。ジョニー、今日くらい良いじゃありませんか」
 親子は遊歩道脇に手頃な芝生を見つけて、その上に大きなシートを敷いた。中央に座った少年の目の前に、母親が腕を振るって作った宴会料理の数々が並べられる。父親が急いで買ってきたホールケーキも一緒だ。
 ケーキの上の、いちごの間を縫うように刺さった五本のろうそくに火が灯された。両親の歌に合わせて、少年が息を吹きかける。火がみんな消えてしまうと、二人は一斉に拍手をし、小さな少年の身体を思いきり抱きしめる。
 母親の柔らかい唇が、少年の、興奮で上気した頬にもたらされた。
「お誕生日おめでとうございます、ルチアーノ。パパとママの子供に生まれてきてくれてありがとう」
 父親も、照れくさそうな笑顔を浮かべながら、反対側の頬に同じように触れた。
「誕生日おめでとう、ルチアーノ。パパとママは、おまえのことをずっとずっと愛しているよ」
 少年は……幸せだった。幸せすぎて、明日には世界が終わってしまうのではないかと思うほど。

 それは食らった誰かの記憶だったかもしれない。あるいは、ジョニーと百合子には本当にそんな未来が用意されていたのか。どちらにせよ、百合子には関係のないことだ。だってもうすぐ死ぬのだから。
 闇の中で、百合子は耳を塞いで蹲っていた。口に押し込んだ人々の魂が彼女に囁くのだ……呪いを、怨恨を、憤懣を、悪念を。外に出ようと喉を遡る彼らを、彼女は自らの首を絞めることでなんとか抑えようとした。人の魂を食らうことは、古来から(規制)の習性、そして傷つき朽ち果てた彼女の身体を維持するためには不可欠なことだった。
「いや……怖い、です……ジョニー、ジョニー……」
 愛する男の名前を呼ぶ。
 もうすぐ彼は、魔女から譲り受けた滅びを携えて、百合子のことを殺しにくるだろう。わかっている。悪役は正義の味方に成敗されるものだと決まっているのだ。今思えば、百合子がジョニーを愛して、彼の元に嫁ぐ決意をしたのは、この日のためだったのかもしれない。優しいジョニー。ひたむきに百合子を愛しながらも、人々を苦しめる悪いものをを見逃すことなどできるはずもない、誠実で美しいジョニー。
 涙が溢れて止まらないのに、唇はひとりでに微笑みの形をとる。
「……いいえ。怖がることなどありません。だって……全ては彼と生きるため。そのための食事、そのための犠牲です。当然でしょう? 今まで散々私のことを苦しめた世界。今度は私が、痛くて怖くて泣いてしまうほど、辛い目に合わせてあげます」
 思えば、自我を獲得したその時から、百合子は耐えず苦痛にさらされてきた。薄っぺらく壊れやすい人間の肉体に内包された大いなる矛盾。双方がお互いの領域を守ろうと争闘し、それが幼い少女の肉を、骨を、精神を、容赦なく引き裂き、傷つけてきた。
 魔女は彼女に、人間として生きろと言った。やさしい両親とやさしい兄は、彼女を人間として受け入れた。だから彼女は空腹を訴える内臓の痛みを、人間の部分を侵略しようとする何かの蹂躙に抵抗し、なんとか形のある理性を保ってきた。魔女にも、家族にも、感謝こそすれ恨みなどかけらもない。しかし、人間であろうとする限り、彼女はやはり激しい倒懸から逃れることはできなかった。
 そこに、ジョニーが現れた。闇夜にきらめく流れ星のような人。
 ジョニーは誰にでも親切で、善良で、清廉だった。でも、彼女には特別優しかった。いつもひたむきに、まっすぐに彼女のことだけを見つめてくれた。そっと抱き寄せてくれる腕は温かくて力強くて、彼は彼女を泣き虫だなんて笑うけれど、彼の胸の中ではじめて、彼女は痛み以外のために泣いたのだ。涙を拭ってくれるとき、彼は天使のように優しく、神のように偉大だった。
 彼にはじめての恋をした。心から好きになった。彼と生きることができてはじめて、人間として生きてきた自分が報われた。彼の隣にいられたら、痛みすら愛おしむことができた。
 彼に促されて顔を上げて、花の色が、かたちがとてもきれいなものなのだと知った。空の抜けるような青さを知った。雲は白くて、木の葉は透き通るような緑で、風は気持ちよくて、雨に濡れるのも彼となら悪くなかった。子どもは無垢で可愛くて、大人はみんな親切だった。教えられなかったらきっと知らずにいたことを、彼はたくさん教えてくれた。
 どうしようもなく意地悪な世界でも、それでも……ジョニーと一緒にいられる時はいつでも、本当に幸せだった。
 大好きだった。
「早く来てください、ジョニー……お願い来ないで……」
 寂しくて寂しくて、百合子は膝を抱え、声を上げて泣いた。もう一度やり直せたらどんなに良いだろう。

 

 どこかで泣いている声がする。寂しがりやで、泣き虫な彼女が、感じやすい子どものように泣いている。たった一人で。
 ただ、抱きしめてやりたいと思った。怯える肩を抱き、大丈夫だよと……たとえ彼女が世界でいちばんの悪党だったとしても、自分は彼女を愛しているのだと、わけもなく、そう伝えたかった。
 ジャケットだけを羽織って家を出ようとしていると、三階から誰かが勢いよく降りてきた。遊星だ。彼は包帯を何重にも巻き、ギプスまでつけた左手首を首から吊り下げた痛々しい姿だったが、眼だけは大きく見開かれ、針のような光がのぞいていた。頷いてみせる。
 もう真夜中もずいぶん過ぎた頃だというのに、パレルモの街は混乱と叫喚で溢れていた。雑然たる声が波のごとく起こり、沈み、また起こった。戦争でも始まったかのようだった。前触れもなく倒れた愛する誰かを必死に抱えた人たちが、病院に詰めかけている。訳がわからずに呆然と立ち尽くす人、狂ったように救急車《アンブランザ》を呼び続ける人、泣き叫ぶ子供。サイレンの音が遠くで鳴っている。
 ひしめき合う人々、身動きもできないほどの人混みを両腕でかき分けて走る。腕の痛みで遊星の足が鈍りはじめる。ジョニーはそのことを知ると、路地に入り、停車したタクシーの運転席で居眠りしていた運転手を叩き起こして、モンデッロ・ビーチに急ぐよう捲し立てた。
 百合子は果てで待っていると言った。それなら、二人のたどりつく場所は同じだ。

 風が潮騒とともに胸の中に吹き抜けてゆく。
 消え入りそうなほど遠くまで続く海原に、おぼろな薄明の桃や紫がほのかに横たわっている。波はくすんだ銀色の飛沫をあげながら、ゆるく、穏やかに打ち寄せる。波打ち際では、真珠のレース編みのように、みなわが花を咲かせていた。
 濡羽色の美しい黒髪がつややかに翻り、百合子がいる、と思った。
 百合子は家を去った時のままのネグリジェ姿で、その薄い生地が、光とともに彼女の真っ白な身体の輪郭を透かしていた。裸足のままずいぶんの間走ったのか、拵えた人形のパーツのようだった足が血まみれで、赤いのと白いのが、なまめかしさの均衡をうまい具合に保っていた。無害そうな、やわらかそうなうなじが、項垂れているために薄明かりの中で白く浮かび上がっている。途方に暮れたような横顔で長いまつ毛が羽ばたき、その度に青い影が柔らかく羽ばたいた。
「百合子」
 彼女が振り返り、ジョニーを見た。瞬きひとつせず、恍惚としたように、あるいは途方に暮れたように、まっすぐにジョニーを見つめた。
「ジョニー」
 花びらのように、薄く頼りない唇が、似合わない笑みの形をとった。
「……やっと来たんですね。遅いから、待ちくたびれてつい食べ過ぎちゃいました」
 はじめてキスをしたときも、彼女は泣いたのだ。ジョニーの胸に顔を埋めて、もう二度と離れたくないというような、やっと自分の居場所を見つけたのだというような、そんな必死さで……小さな手で濡れたシャツの背中を掴み、小鳥のように顫えながら、彼女はジョニーの唇からのやさしい愛撫を求めた。
 同じだ。顔では笑っているが、いま、きっと彼女は泣いている。 
「どうしたんですか? 私を殺しに来たのでしょう。とぼけたみたいに突っ立って、何をしにきたか忘れたのですか?」
「どうしてこんなことをするんだ!」
 彼女を抱きしめようと腕を伸ばすジョニーに先んじて、遊星が咆哮した。
 ジョニーに向けた笑顔から転じて、末恐ろしくなるほどの無表情になった彼女が、羽虫にやるような視線を兄にやった。遊星の精悍な男の顔が恐怖に歪む。
「どうして、ですか?」
「ジャックを殺して、罪のない人間を死に追いやって、お前は一体何がしたいんだ! 何が目的だ!」
 遊星の激昂はおよそ彼らしくないものだったが、ジョニーも百合子も、そんなことには見当もつかなかった。
 小さな動物がするように首を傾げて、百合子は心底おかしいといった様子で吹き出した。口元を軽く押さえ、肩を震わせながら、喉の奥で押し殺した笑い声をあげる。
「決まっているじゃないですか。私に優しくないこの世界に思い知らせてやるためです。愚かでかわいそうな兄さん……本当に何も知らないんですね。大切だなんて言いながら、本当は私になんて興味もなかったんでしょう? やさしい両親の愛を横取りする私が邪魔だったんでしょう? 当然ですよね、私は本当の妹じゃありませんから!」
「……」
「ばかな兄さんは知らなかったでしょうけど、私、人間じゃないんです。でも、同時にどうしようもなく人間で……この忌々しい矛盾は、私の身体、私の精神、私の心をずっと傷つけてきた。生まれてから今に至るまで、一瞬たりとも、痛くなかったことなんてなかった。起きていても寝ていても、痛くて痛くて、瞬きをするだけで痛くて……」
 笑っていたはずの彼女の表情はくしゃりと歪み、ぽつりと放り出されたような涙が一粒、彼女の下瞼からこぼれた。
「でも心臓は勝手に生きようとするんです。死のうと思ってナイフを喉に当てても、崖の上に立って飛び降りようとしてみても、どうしてもできなかった。どうしてかなって、こんなに辛くて苦しいのにどうして死ねないのかなって、あなたたちが来るまでずっと考えていました。いまやっと分かった。……あなたのせいです! ジョニー! あなたがいたから……あなたなんかに出逢っちゃったから!」
 百合子はもう、笑いも、泣きもしていなかった。純然たる激情だけがジョニーに差し向けられ、それは百合子の右手をどうしようもなく突き動かした。細くたおやかな指が……ジョニーの手を握り、ジョニーを抱きしめ、ジョニーを労ってきたあのやさしい指が、いま、彼の命を奪おうと伸ばされる。
 でもうまくいかなかった。震えて、指を握り込むことができないのだ。彼女は自らの腕を制御しようと必死に歯を食いしばりながら、それでも目の前の無力な男一人殺すことができず、もどかしそうに首を横に振った。
「いや……どうして? どうして、どうして!」
「ジョニー」遊星が抑揚のない声でジョニーを呼ぶ。「彼女を殺せ」
「遊星!」
「分かっているだろう、ジョニー!」
 遊星の絶叫は、獣が遠吠えするのにも似て、深い怨恨を帯びて響いた。それなのに、眼差しはいやに透徹だ。ジョニーの鼻の先に、ジャックとの最後の別れの瞬間が鮮烈によみがえった。
「あれはもう百合子じゃない! 百合子はもういない! 百合子は……百合子はあんなふうに、笑いながら命を弄んだりしない!」
 百合子が怒りとともに兄を振り返り、震えていた右腕をまっすぐに伸ばした。今度は、ためらいも加減もなく、ただ兄の命を捻り潰すべく、彼女の優美な掌が開かれる。

 

 妹と本当にわかりあうことができるのは、死のその瞬間だというほのかな予感があった。
 十二歳のとき、初めて彼女と出会って、右手と右手で握手して、ふとその感覚を得た。握った手のひらは、朝方の濡れた砂浜のように冷たく、すべらかだった。
「初めまして、遊星さん。これからどうぞよろしくお願いします」
 母に肩を抱かれた妹は、奥行きのある青い目にためらいと恐怖を漂わせながら、折り目正しく遊星に頭を下げた。拒絶されることを恐れているようだった。しかし、その懸念は全くの見当外れだった。長らく一人っ子で、多忙な両親に構ってもらえずに寂しい思いをしていた遊星にとって、妹ができるというのは願ってもない喜びだった。
「ああ、よろしく、百合子」
 遊星がそう返事をして初めて、妹はほっとしたようにまなじりを下げた。

 控えめだった幼い彼女がはじめに興味を見せたのは、花に対してだった。あまり植物の生えない場所で生まれたのかもしれない、父が祝いのために百合の花束を買ってきたときには、きゅうりを見せられた猫のように飛び上がり、咄嗟に母の背中に隠れていた。遊星が促してようやく、彼女は花にそっと顔を近づけ、その白い花弁を摘んでみずみずしい感触や香りに触れた。みるみるうちに頬を赤らめ、瞳に喜色が満ちるさまは、それこそ花が綻ぶようで、年甲斐もなく美しいと思った。
 外出に慣れてからは、花を見によく近所の公園に行った。遊星は花なんかに興味も関心もなかったが、友人からのサッカーの誘いも、ゲームの誘いも蹴って、熱心に花壇を覗く妹の隣に寄り添った。
 春には桜が咲いた。枝に登って、桜を直接見たいという妹のために、父と二人がかりで脚立を持ち込んだ。
 薄紅色の花房から漂う甘い香りに誘われたのかもしれない、黒々とした太い枝には、無数のアブラムシがついていた。それが枝にしがみつく妹のワンピースに飛びつこうとする。遊星はそうした不躾な虫たちから妹を守ろうと、指先で彼らを潰そうとした。しかし、妹はそれをやわらかい手で押しとどめ、首を振った。母が結った二つのおさげが可憐に揺れる。
「だめ、遊星さん。一寸の虫にも五分の魂なんですよ」
「しかし……このままではスカートが虫だらけになってしまう」
「いいじゃないですか。せっかくですから、虫さんたちも一緒にお花見させてあげましょう」
 妹は無事に枝に着陸した。陽射しが午後の温かなぬくもりでもって、妹の痩せた身体の輪郭を白くぼんやりと浮き出させていた。
 遊星は風にあおられた薄くはかない花びらの、その一枚を掬い取り、妹の耳の上に飾ってやった。
 天使のような娘だと思った。

 月光だけがぼんやりとあたりを照らす部屋、その端にぽつんと置かれたベッドの上で、苦しみのたうち回る妹を見た。
 声を押し殺し、胸元を掻きむしって、まるで身体の中を占拠する異物を追い出そうとするかのように何度も何度も咳をした。見開いた目からは大粒の涙がとめどなくこぼれてシーツに落ち、それに混じって、傷つき捲れ上がった胸の傷からの血が滲んだ。
「百合子!」
 思わず駆け寄り、その身体を抱き起こす。
 妹は悪戯がバレたみたいな顔つきになって、なんでもなさそうに笑おうとした。しかし、頬の筋肉が震えてうまくいかない。
 どうしたのだと繰り返し聞いても、大丈夫だと首を振るばかりで何も教えてくれない。
 翌日、遊星は小学校に行くふりをして家を出発し、市の図書館に駆け込んだ。目的地は医療関連書コーナーだ。この棚にある本を片っ端から読み尽くせば、妹の謎の病気の正体もわかるのだと、そのときの遊星は息巻いていた。妹は自分が救うのだという正義感が遊星を突き動かしていた。
 しかし、当然ながら医療従事者向けの専門書は小学生には難易度が高かった。一冊目は五時間かけてなんとか読み下したものの、二冊目を読み始めてからはもう頭がくらくらして、結局突っ伏して寝てしまった。
 そこに魔女が現れた。
 魔女は、物語に出てくるような、鼻が曲がっていて、とんがり帽子と黒いローブを着たおばあさんではなかった。ノースリーブの赤いショートドレスの女。マントのように羽織った白衣の襟元に、金のバッジをつけた、冷たい美しさの女。よく観察すれば男のようにも見えただろうが、そのときの遊星は夢うつつで、その人の性別についていちいち検討している余裕などなかった。
 時が止まったかのように静かな図書館。広い閲覧室内には、眠りと覚醒の間を漂う遊星と、美しい魔女、その二人だけだった。
「遊星……妹が気になるか?」
 はるか彼方の星が戯れに人間に語りかけるような声で、魔女がささやいた。
「うん」
「それがお前にとって都合の悪い真実でも受け入れられるか」
「うん……」
 遊星は夢うつつで答えた。
 魔女は感じやすい年頃の少年がするみたいに後頭部を雑に掻き、参ったな、というふうに目を伏せた。甘い木の実の色をした目が、外からの光で緋や碧の宝石のようにきらめく。
「オレはお前みたいな子どもが好きだから、ついつい甘やかしちゃうんだ。いいぜ。さ、左手を」
 言われるがままに、遊星は左手を差し出す。魔女のやわらかい右手がそれを強く掴み、事象の地平へと彼を引き上げた。
 深く暗い水の向こうに、遊星は妹の真実を見た。

 妹は泣き疲れて眠っている。夜毎涙に濡れる頬を指で拭ってやって、そのあまりの柔らかさに、遊星は息を飲んだ。
 痩せていて小さくて、胎児のように丸まって目を閉じる姿は、まるで壊れやすい人形のようだった。思えば、妹は猫でも天使でもなく、まだ十歳かそこらの普通の女の子なのだ。その妹が、小さな身体一つに苦痛と滅びの運命を背負って生きている。悲しくて、愛おしくて、遊星まで泣いてしまいそうだった。
 そっと寄り添い、後ろから抱き締めると、妹はかすかに身じろぎした。閉じていた瞼がゆっくりと開かれ、きらめく二つの瞳が遊星を見上げる。
「遊星さん……」
 胸が、火をつけたようにカッと熱くなる。
 腕の中で小さな身体を反転させ、遊星は妹の目を至近距離で覗き込んだ。虹彩は月光を蓄えて銀や青の光を放ち、縮まった瞳孔は果てしない宇宙をその中に閉じ込めたみたいだった。薄い下瞼は腫れてほのかに赤くなっている。
「泣いた跡がある。何かあったんだな」
「……大丈夫です、遊星さん。あなたが気にすることなんて……」
「兄が妹を気にしちゃいけないか?」
「遊星さん?」
「兄さん、だ」
 語調を強くしすぎたのかもしれない。妹は怯えのために目を見開き、びくりと肩を震わせる。
 遊星は途端に慌てて、みっともなく弁明を始めた。
「俺は百合子の兄だ。それなら、遊星さん、なんておかしいだろ。兄さんって呼んでくれ。……呼びにくかったら、お兄ちゃんとか、にいにとか、兄貴とかでもいいけど」
 初めは驚いた様子だった妹は、やがて、冬が春に変わるその瞬間の、優美な雪解けを思わせる微笑を見せた。兄さん、兄さん、兄さんと、初めてもらったプレゼントを何度も眺めるみたいに、口にしなれない言葉を繰り返す。それから……ようやく打ち解けた、安心し切った様子になって、頬を撫でる遊星の手に嬉しそうに擦り寄った。
「いいえ……いいえ、ありがとうございます。遊星兄さん……」

 愛しい妹。この世でたった一人の妹。いつか彼女に愛する人ができて、この手の中から飛び立ってゆくまで……いや、自分が死んで、現世を離れるその時まで、彼女を守ろうとそのとき誓った。
 誓いを果たすときだ。

 

 心臓を直接握りつぶされ、遊星は絶命した。
 もはや生も死も包括し人類の上に君臨した少女の掌の上で、男の命は実にあっけなく、風に舞い上がる塵のように終わった。愛するものを守るため、ただひたすらに燃やされ続けていた炎はいま、細く頼りない紫煙を一筋上げて消滅した。彼の凜とした佇まいが崩れ、抜け殻だけが砂浜の上に転がる。咆哮の形に開かれたままの口腔から、血が一筋、怜悧な顎へと静かに伝った。
「兄さん」
 冷たく鳴る潮風に乗って、百合子の気の抜けたような声が聞こえてくる。
「どうして」
 息を飲んだまま茫然として立ち尽くしていた百合子の身体は、次第に大きく震え出した。取り返しのつかない自らの罪に心が押し潰されそうになりながら、それでも懺悔の言葉を絞り出すことをやめられない。
「どうして……兄さん、知っていたのですか? 知っていて……それでも……」
 遊星は答えない。
「嫌……兄さん、兄さん、にいさん、にいさん、兄さん……!」
「百合子」
「私……兄さんを殺してしまった。兄さんは、ず、ずっと私を……守ろうとしてくれてたのに! そんな兄さんにひどいことを言って、心臓を握りつぶして、私は、わたしはもうどうしたら」
 ジョニーは何も言えないまま、倒れ伏す遊星に近づき、その身体を抱き上げた。
 ——百合子、俺の心はいつでもお前のそばにある。愛しているよ。
 苦しむ百合子に、彼はそう言ったのだ。そしていま、約束は守られた。命を奪われようとするジョニーを守るため……そして、ジョニーを愛する百合子の心を守るために、彼は自らの身を犠牲にした。妹を守った。
 誇り高く、聡明で、懇篤な人だった。もう戻らない。ジョニーの人生から、そして百合子の人生から、不動遊星は永遠に立ち去ったのだ。
「ジョニー」
 おぼつかない唇で、彼女はジョニーに縋った。
「ジョニー、わたしを……私を殺すのでしょう? 望むようにさせてあげます、早く、はやくあの人にもらった切り札で……今まで散々愛していると嘯いたその口で、大丈夫だと私の背中を撫でたその指先で、私の身体があとかたもなくなるまで破壊し尽くしてください。私も……あなたに、そうしますから!」
 それでも、彼女は身体の震えを止められない。細い腕が自らの肩を抱く。ジョニーを挑発するようなことを、嗚咽混じりの頼りない声で叫ぶ。人間の命を、まるで取るに足らないもののように口に放り込んできた少女が、心の髄までを後悔と怯えに浸して叫ぶのだ。
 優しく、感じやすいこの少女の薄い両肩に、無慈悲な運命を背負わせたのは誰なのだろう。神? だとしたら、神はとんでもないろくでなしのわからずやだ。
 ジョニーはもう神に祈らない。彼が祈るのは、この世でたった一人、百合子に対してだけだ。
 彼女が幸せになりますように。彼女が幸せになりたいと願った気持ちが報われますように。
 見開かれた遊星の瞼を閉じてやる。そうすると、彼はまるで眠っているように見えた。砂浜の上に彼を優しく横たえ、ジョニーは立ち上がる。百合子を真っ直ぐに見つめる。
「な……どうして! どうしてこっちに来るのですか! 早くしないと、私、あなたを食べてしまうんですよ!」
 ジョニーの、輝く銀の星は、百合子には眩しすぎた。あの不思議な右手を再び突き出し、彼女は夫を拒絶する。
「百合子。やっぱり、君は新しく生まれ変わった知らない誰かなんかじゃない。僕を選んでくれた君、優しくて、いつも笑顔で君と、今の君は同じ人間だ。遊星が死んで、悲しくて悲しくて泣いちゃう百合子だ」
 進む。百合子は後ずさるよりも早く、彼女に向かって一直線に進んでいく。
「泣いてなんかいません! 馬鹿にしているんですか!」
「泣いてる」
「勝手なことを言わないでください! 私はもう、泣き虫の弱い子なんかじゃないんです! 兄さんやジョニーに守られなくても、一人で……一人で生きていけるんです! 来ないで!」
「君には無理だ。僕にだって無理だよ。人間は生まれつき孤独な生き物だから、同じように孤独な誰かに寄り添わなければ生きていけない。君は特別寂しがりだから、同じだけ寂しがりな僕と一緒じゃないとだめなんだ」
「わかったような口を……!」
「わかるさ。君を愛してるんだから」

「泣かないで、百合子。僕がずっとそばにいる」
 ようやく掴んだ右手は冷たかった。雪を掴んだあとのように悴み、震えて、身に余る悲しみに凍えていた。こんなに冷えていては風邪をひいてしまう。早く家に帰って、温かい紅茶でも淹れて、彼女を温めてあげなければ。
「泣いてなんか……いや、離して! 今度こそ……あなたを、あなたを」
 離してと言うくせに、彼女はろくに抵抗もせず、ジョニーのされるがままだ。
 ジョニーはようやく彼女をつかまえた。離れていた時間は一日にも満たないと言うのに、何十年も見失っていたような気さえする。
 百合子は何も変わらない。小さな海をそのまま瞳の空間に映し取ったかのように深く、透き通った青色を湛える二つの虹彩。二重と長いまつげに縁取られたまぶた。鼻はつんとすましていて、唇はまるで水辺にほころぶ桃色の花弁のように薄く、繊細な血色に色づいている。解けた髪は潮に揉まれて絡まりながらも、濡羽色につやつやと輝き、風の中で優雅に翻った。何もかもが精巧な人形のように上品で、小さく、可愛らしくて、爪でこづいただけでも壊れてしまいそうに見えた。
「君にはそんなことできない。わかってるよ。本当は、いま自分が死ぬことで、お腹の中に隠したみんなの魂を解放するつもりなんだ。でもそんなことさせない。
 僕は今まで何も選べずにいた。迷いのうちに何もかもから目を逸らして、君をなおさら苦しめた。でも、いまやっと進むべき道が見えたよ。僕の選ぶ道、僕の使命は、君を守ること。他の何に換えても、愛する君を守り抜くことだ」
「でも兄さんは戻らない。兄さんは……心臓を握りつぶされた兄さんは、他の人たちとは訳が違う」
「君は遊星の命に生きて報いなきゃいけない。遊星が君を守ったのはどうして? 君に生きて欲しかったからじゃないのか?」
「そんなこと、言われなくたってわかっています! でも、でもだめなんです……私は、罪のない無辜の命を弄ぶ、手のつけようのない悪い子で……優しいあなたに眼差しを向けてもらうことも、守ってもらうことも……」
「うるさい!」
 驚き、硬直する彼女の手をそのまま引き寄せる。折れそうなほど華奢な腰に腕を回し、小さな頭を肩のあたりに押し付けて、ジョニーは百合子を強く、強く抱きすくめた。
 愛おしい百合子。空を舞う薄桃色の花びらのようにはかなくて、快晴の日の午後の陽射しのように優しくて、でも強がりだけは一人前の、小さな百合子。ジャックを慕いながら、心の底では彼を恐れていた百合子。遊星に本当に愛されていたと知って、傷つき震える百合子。ジョニーに向けられた愛情に怯えながらも、手を伸ばさずにはいられない百合子。
 柔らかい身体が、ジョニーの硬くしなやかな身体に余すところなく触れる。腹のあたりで早鐘を打つ心臓の存在を仔細に感じ取る。生きていた。よかった。
「大好きだ。可愛くて、強くて、本当は何もかも憎みたいのに、どうしても憎みきれない優しい百合子が大好きだ! 愛してるんだ、君が本当は誰だって構うものか!」
 彼女を愛している。
 全てだった。今のジョニーを構成する、細胞、神経、肉や骨、髪の一本一本に至るまでが、百合子を抱きしめて、大丈夫だと、もう泣かなくて良いのだと告げるために存在していた。
 思えば途方もなく長い旅路だった。この世に生まれ落ち、両親のもとで光に満ちた幸福な幼少期を送り、シチリアにやってきて百合子と出会い、結婚して、百合子の微笑みに照らされながら六年間を過ごして。そして今、ジョニーはようやく、その本懐を果たそうとしている。
 百合子を愛している。百合子が心から笑ってくれるなら、ジョニーは身体も心も、命すら惜しくない。全部投げ打ってもいい。魂を何べん焼かれても構わない。
「……ジョニー」
 百合子はジョニーの胸に顔を埋めて、くぐもった声で夫の名を呼んだ。
 彼女の頬を涙が伝い落ちるのが、ジョニーには手に取るようにわかった。だって、百合子はいつも、ジョニーのたった一言で耐えきれなくなって泣いてしまうのだ。泣き虫で可愛い妻だった。
「……どうにかして消化しようとするのに、うまくいかないんです。身体が、心が拒否して……どうしてなのかわからなくて、苛々して、また食べるのに、やっぱり消化しきれない。身体はどんどん崩れてゆくし、心はどんどん冷えていって、直前に何を考えていたのかすら忘れてしまうほどで。早く早くと手を伸ばして飲み込んでも、消化することだけがどうしてもできない。どうしてかなって……でも、本当はわかっていたんです。
 私にはどうしようもなく優しくない世界だったけど、それでも、ジョニーが愛した世界なんです。ジョニーが花の美しさを教えてくれた。海に沈む夕日の輝きを、そよぐ風の心地よさを、空を飛ぶかもめの自由を、人間が愛し合う歓びを教えてくれた……あなたと一緒なら、生きていてよかったって思えた。この世界に、人間として生まれてよかったって。痛いのに耐えて、頑張って前に進んできてよかったって。あなたが、私に本当の幸せを教えてくれた。
 やっぱり私は死ぬしかないんです。みんなに返してあげなきゃ。償わなきゃ。大嫌いで大好きなこの世界に、今の私ができるたった一つのことです。ジョニー、使ってください。私を殺してください。始まりは最悪だったけど、あなたが終わりを持ってくるのなら……こんな人生でも、きっと悪くなかったって思えるんです」
「嫌だ!」
 ギョッとした顔で百合子が顔を上げた。大きく見開かれた目が、信じられないものを見る目がジョニーに向けられる。こぼれかけた涙が行き場を失って、瞬きと共に弾けて消える。
 ジョニーは百合子を一層抱き締めて、聞き分けのない赤ん坊じみた仕草で首を振った。
「僕は嫌だからね」
「どうして! 私の、最期の願いを、聞いてくれないって言うんですか!」
「最期の願いになんてさせない。百合子のお願いはなんでも聞いてあげたいよ、でも、こればっかりは無理だ」
「ジョニー……!」
「ごめん。でも、やっぱり百合子のいない世界なんて嫌だ。探そう。百合子も、みんなも笑顔になれる終わり方を。こんな意地悪なカードに頼らなくてもいい方法を」
 ジョニーは、胸ポケットに入れた小さなカードを取り出した。
 〈パーフェクト・ワールド・エンド〉。ルチアーノが、遊星が、そして百合子が見上げた、優しく愛おしい春の空。終わりゆく百合子の心。
 カードは細かな金色の光を帯びて煌めきながら、ジョニーの無骨な掌の上で優雅に回転している。このカードの中で、百合子の滅びが、そして人々の復活が、粛々と解き放たれるその時を待っている。綿密に編まれた神秘の糸が、紐解かれるその時を待っている。
 だが、ジョニーにはそんなものにまるきり興味がなかった。
「きっとどこかにあるはずなんだ、〈パーフェクト・ハッピー・エンド〉がさ」
 そう言い切って、ジョニーは〈パーフェクト・ワールド・エンド〉を破り捨てた。人々の唯一の希望を、なんの迷いもなく。
「な……!」
 百合子の黒髪が、まるで生き物のように逆立つ。
 破られた奇跡は幾辺もの星のかけらになり、ジョニーの頭上に浮き上がった。ばらばらになった希望は無感動に拡散する。百合子の細い手がそれらを掴もうと浮き上がるが、星は生き物のように彼女の手を避け、ふわりと軽やかに舞い踊った。
「ジョニー? そ、それが、どんなに価値のあるものかわかっているのですか! 神さえ滅ぼす奇跡の……」
 瞳を見開いたまま、百合子がジョニーに食ってかかる。
「いいじゃないか、いらないんだから」
「ジョニー!」
「一緒に探しに行こう。百合子」
 大きく頑丈なジョニーの手、幾度となく百合子を愛おしみ、その肩を抱き、頬に触れ、大丈夫だと肩を撫でたその手が、百合子の前に差し出される。
 百合子の……見開いた大きな海の瞳から、歓喜の涙が滲むように伝った。
 灰青色のおぼめく夜明けの光が、水平線の向こうから堰を切ったように溢れ出す。光の領域が、暗く、鈍色の影に燻っていた街の隅々に広がり、夜が後退していく。砂浜は清潔に洗われて澄んだ銀色に輝きだし、海は、散らばったカードの輝きを凌駕するほど強い金色の輝きに満ちて、向かい合う二人の姿をつまびらかに照らし出した。
 涙は朝陽を受けて、瑠璃やサファイア、ダイヤモンドのように七色に輝き、顎までを伝うと夢のように消えていった。光の中で百合子が微笑む。嘘も虚飾もない、喜びに満ちた、力強い笑顔だ。それこそがジョニーが命を懸けて恋をした、美しい百合子の素顔だった。
「はい」
 たおやかな右手が、ジョニーの掌に重なり、しっかりと握られた。
 ……そのとき、二人の頭上で、不可思議なことが起こった。ばらばらになったカードの紙片が、パズルのようにひとつに組み合い復元されていくのだ。
 ジョニーが止める間も無く、かけらは粛々とつながってゆく。元の姿を取り戻すと、カードは再び金の光を放ち始めた。言葉が出てこない。本当の絶望が、ジョニーを暗く陰湿な闇の中に放り込もうとしている。
 百合子はやはり殺されてしまうのか。意地の悪い世界、人でなしの運命によって?