2024/02/01

 

 

 


 ——あんたのこと、本当に愛したことなんて一度もない!
 頭蓋骨の裏にぽっかりとあいた空洞に、その声は絶えることなく反響する。
 胸が引き絞られるように痛み、続いて、込み上げてきた言いようのない感情が、下瞼からあふれ滲むように伝った。頬を冷たいものが流れる感覚で、二十四歳の青八木一は覚醒の浜辺へ静々と漕ぎ着けた。いつの間にか眠ってしまったようだ。パイプ椅子に座った格好のまま、全身を放り投げ、漂白剤の強く匂うベッドシーツに右の頬を預けて放心する自らを、はじめは発見した。
 右手だけが何者かと繋がっていた。見れば、それは女の左手で、およそ生きているとは思われぬほど生白く、骨ばって痩せていた。長らく手入れをされず、爪先の青いネイルアートは剥げはじめていて、ラインストーンの星もいくつか取れかけている。リスター結節のくぼみに滞留する陰湿な影。肘窩の皮膚を覆う分厚いガーゼ、その内側から伸びて輸液バッグにつながるチューブの管。鎮静剤がよく効いているらしい、はじめが指を絡めて握り直しても、ぴくりとも反応を示さない。
「純子……」
 返事はない。手嶋純子は、青白い唇で無機質に呼吸を繰り返すばかりで、はじめの呼びかけに応えることもない。
 幻惑的で異国情緒ある、創造主がいっぺんの無駄も予断も許さずに拵えたような、美しい顔、それが、すっかり痩けて見る影もなかった。白昼の光の中で豊かに波打っていた黒髪は乾燥し、ちりちりと枕の上を這い回るばかり、はじめが何よりも好きだった北天のオーロラを思わせる瞳も、よそよそしく瞼に覆われて久しい。はじめは、純子の八面玲瓏の心に対してほど、彼女の美しさには関心がなかったが、今、失われてゆくその美徳を想って、胸を軋ませずにはいられなかった。
 鍵のかかった小さな窓から、東雲の光がうすぼんやりとさしてきて、純子の彫りの深い顔へとかすかな青い影をもたらした。にわかに憂愁に取り憑かれた心臓を持て余しながら、触れていた指先から離れた。何もかもが言葉にならないまま、ベッドへ身を乗り出し、白い歯の覗く唇に、自らの唇でねんごろに触れた。
 病室から出る。まだ薄暗く、エマージェンシー・イグジットの蛍光色の明かりばかりを光源とするリノリウムばりの廊下には、人の気配こそないものの、消毒液や殺菌剤の刺激臭と、鬱屈とした空気がぬるぬると混ざり合って停滞している。朝方だというのに、患者の独り言、叫び声、心理療法師が患者を落ち着かせようと語る声、拳で壁をしきりに叩く音、神経質にカチャカチャと金具を鳴らす音、監視装置のピープ音。三つあるカウンセリングルームのうち二つは使用中のランプが点灯している。ナースステーションでは、夜勤の看護師が何人か、ばたばたと忙しなく動き回っていたが、カウンターに立つはじめに気づいた一人が振り返って、「あら、アオヤギさん、おはようございます」、薄笑いを浮かべた。
「おはようございます。すみません、寝てしまったみたいで」
「いいんですよ。もうお帰りになられます?」
「はい。あの、純子のこと、よろしくお願いします」
 そうは言っても、彼女たちにできることは、純子に鎮静剤と栄養補給の点滴を打ち、バイタルを測り、あの部屋から出られないように閉じ込めておくことくらいだと、はじめも十分承知していた。今は眠らせておくことしかできない。彼女を苦痛から救う手立てを誰も持っていないから。彼女に最も近しいと思われるはじめでさえも。
「ええ、アオヤギさんもお気をつけて」
 何が正しいのか、何が間違っていたのか、考える。エレベーターに乗り込み、七階から地上へと降下する。出会ってから十年近く、はじめは純子という殻の中に守られて、その居心地の良さに甘え、外で彼女がどのように感じているのか、考えようともしなかった。はじめは純子のことを愛していて、それは彼女も同様だと、信頼はいつしか盲信となり、彼女の首を絞めていたのかもしれな買った。純子ははじめのことなど愛していなかったのだろうか? 本当に? 考える。考えていると、腹の底の柔らかい部分に巨大なスプーンを入れられて、ごちゃごちゃとかき混ぜられているような気分になり吐きそうになる、今すぐ手洗いに駆け込んで便器にしがみつき、泣きながら全て嘔吐してしまいたくなる。嫌な脂汗が首に滲みはじめたころ、エレベーターのベルが目的階への到着を告げた。
 ヒジャブをかぶった女とその子ども、医療券を握りしめた浮浪者の男、包帯で左足をぐるぐると覆った松葉杖の少年などの間を抜け、警備員に会釈をして、夜間診療入口から外に出た。熱帯の空気がはじめの肺を満たし、ひと時、後顧の憂いを忘れさせた。ジャカルタ都心の夜明けは存外に静かだ。総合病院、建設中のオフィスビル、ホテルなどが並び立つ向こうに薄明の空、金星がひときわ明るく輝いている。巨大なオートバイ駐輪場の傍らに、あるかないかというくらい狭い自転車駐輪場、そのラックの一つからロックを外し、白いコラテックを担ぎ出す。
 屋台や雑貨店のひしめき合う中をしばらく走り、メリディアンホテルの、全面ガラス張りのビルが建つ交差点を左折すると、中央ジャカルタ、つまりイスティクラル・モスクの方角へと伸びる大通りに入る。そこから、自宅コスト付近の交差点まで、およそ四キロ直進することになる。車やオートバイと並走しながら、はじめはようやく、すっかり腹を空かせている自分に気がついた。そういえば、昨日の夕方に病棟へと入ってから何も口にしていない。どこかで朝食を取ろうと、考える、インド・マレットでいつものようにインスタント麺を購入しても良いし、KFCでチキンを買い込んで独り占めする贅沢をしても良い、屋台に入って現地料理を食べるも、ホッカ・ベンで日本の弁当もどきを試すも良し、なんでも良い、どうだって良いのだ、どうせひとりなのだから……ドロップハンドルを握り込む手にいやな力が入る。下瞼が震え、鼻先につんと軽い圧力がかかる、どうも子どものようでいけないと思いながらも、ともすれば押しつぶされそうな自らをはじめはすっかり持て余している。今傍らにない温もりのことを想った。純子ははじめを、強くてやさしいとよく誉めた、それもすべて、純子がいてこそだったのに!
「あっ」
 進路前方に、排水溝の大きな窪みを発見したが、はじめはその認知にわずかな遅れをとった。慌ててハンドルを右に逸らすも間に合わない。細身のホイールはまんまと窪みにハマり、勢いづいたフレームは力を逃し切ることができずに振り切れ、はじめの身体は思い切り前方へと投げ出された。どうすることもできずに、ただ瞑目する。コンクリートに激しく打ち付けられると思われたはじめの身体は、しかし、
「っぶねえ!」
 たくましく引き締まった腕の中へ、すっぽりと抱き留められていた。
「…………おまえ、バカだろ! 何ぼけっとしてんだよ! このへんっつうか、この国、道めちゃくちゃ悪いから、気をつけて走れって言われてるだろ!」
「あ、ああ。すまん……」
「すまんじゃすまねえよ! バカ! オレがいなかったらおまえ、今頃頭打って死んでたんだぞ! 気をつけろよ! バカ! わかってんの、か……よ……」
 激しく鼓動する心臓、緊張のあまりの荒い呼吸をなんとか抑えつけながら、見上げたその人の顔に、ひととき、時間を忘れた。汗に濡れて跳ね上がった、オレンジ色の染髪。よく日に焼けた雄々しく精悍な面構え。太く、切りだった眉、怜悧にとがった鼻梁、それらとは裏腹に、まだ幼さの残る赤らんだ頬。鍛え上げられたアスリートの半身。彼もまた、あどけなく大きな瞳を限界まで見開いて、穴が開くほどはじめの顔を見つめていた。
「青八木さん……?」
 分厚い唇が、ポツリと、はじめの名前を口にする。はじめもまた、愛おしい青春時代の記憶の中から、その人の名前を拾い上げて確かめた。
「鏑木」
「あっ、あ、青八木さん! えと、オレ、あの……青八木さぁん!」
「耳元で騒ぐな。喚くな。ちょっと落ち着け。うるさい」
「さーせん! あの、嬉しくて! え、本物! 本物すか! まじで! うわあああ青八木いぃいい」
 日本自転車競技チームのホープにして、はじめが、かつて最も目をかけて育てた後輩。鏑木一差は、その場に崩れ落ちて子どものように泣き出し、往来の人々の注目を一身に浴びた。

 一月、つまり来年の冬、アジア自転車競技選手権のトラック部門大会が、ここインドネシアジャカルタにて開催される。フランス・バイヨンヌ地方土着チームのエーススプリンターとして、ロードレースのワールドマッチを走っていた一差だが、来シーズンからトラック競技への出場をも検討しており、今回はその視察のために単身インドネシアを訪れた。彼の、取り留めもないおしゃべりの中から重要なエッセンスだけを取り上げると、概ね、そういった内容にまとめることができるだろう。
 はじめは、何も知らなかった。ジャカルタに定住するようになってからは、純子以外との交流をほとんど絶っていたし、彼女だけを見、彼女だけを愛する日々を送るうちに、いつしか他の情報に関心を払わなくなっていたのだった。聞けば彼は、今年のジロでポイント賞を獲得し、グリーンゼッケンをつけて走ったのだという。そういう重要なニュースすら、はじめのところには入ってきていない。
「ひどいですよ、オレ青八木さんに褒めてもらいたくてがんばったのに」
 体育座りになり、頬を膝にくっつける子どものような格好で、一差はぷうと頬を膨らませる。
 二週間の視察の間、彼のためにマネージャーが手配したという部屋は、広さ一千フィートほどのキャピタルスイートで、しかもグランドハイアットだった。ブンダランHIと呼ばれる巨大な記念碑、それを取り囲むエメラルドグリーンの美しい噴水、シティビューを一望できるアルコーブに二人腰かけて、一差が頼んだ大量のルームサービスを楽しんだ。黒胡椒で味をつけたナシゴレンサニーサイドアップつきミーゴレン、ナシ・チャンプル、土製の小型こんろに載ったサテ、油で揚げたロールチキン、キヌアとチョリソーのサラダ、大豆を発酵して作るテンペ、付け合わせの香辛料サンバル。一差の、男らしく節くれだった指がテンペをつまんで、真っ赤なサンバルにディップする。それが素早く厚い唇へ運ばれる。
「悪い。鏑木、おまえはよくやってると思う」
「青八木さんもそう思いますか? えへへ、もっと褒めてください」
 手のひらで短い髪をかき混ぜてやれば、口のまわりを汚したまま、とろりと目尻を下げ、甘ったれた顔で一差は笑う。「マジで嬉しいっす。青八木さんに会えるなんて思ってなくて。メール送っても返事してくんないし」
「メール?」
 はじめは、この国に渡航してきてから作成した、事務用のメールアドレスのことを思い出す。届くのはいつも、会社からの事務的なメール、ショッピングモールやスーパーからの広告メール、それからよくわからないアラビア語の迷惑メール。日本語のものと言ったら、純子が、おふざけで送ってくる短いラブレターくらいのもので、そういうのはブックマークしてファイリングするようにしているから、見逃すはずもないのだが。
「そうですよ、二ヶ月くらい前に……届いてない? 古賀さんオレにウソ教えたのかな……」
「見てない、なんて書いたんだ」
「え? えっと、それは……、……マジ尊敬してます、また一緒に走りましょう、って書きました! 青八木さんまだロード続けてるんすか?」
「……あんまり乗ってないかも」
「ええー」
「乗ってたとしても、現役選手のおまえにはもう勝てないよ。勝負どころか、サイクリングにすらならないから、一緒に走ってもきっと退屈させる」
「そんなことないです!」
 サンバルだらけの指が、はじめの両手を、まるで壊れものでも扱うかのように優しく握り込んだ。
「青八木さんと走るのオレ好きです、大好き! ていうか遠慮するとか青八木らしくねえ、やめてくださいよ! 気持ち悪いな!」
「気持ち悪いって、おまえな……」
「そうだ! 今から一緒に会場見に行きませんか? そんで試走しましょうよ、そしたら一石二鳥? でしょ!」
「バカ。だめだ。おまえもう明日には出国するんだろう」
「そうですけどお」
 大きな手のひらからのがれた両手は、サンバルでべったりだった。それをティッシュで拭い、ゴミ箱に放り投げて、はじめも大皿の中からサテの串を一つとって食べた。
 一差と、十年越しにこうして額を突き合わせて話し、食事を共にするのは楽しかった。彼は高校生の頃そのままのやんちゃな口ぶりではじめを楽しませ、はじめも、まったくの自然体で軽口を言ったり、笑ったりすることができた。まだ昼だというのに、ウエイターが、ビンタンビールのライムグリーンの瓶を盆に置いて運んできて、二人分のバカラグラスに恭しく注いだ。すぐにこれを飲み干しつぎたしした一差の頬はにわかに赤らみ、会話もハイになってきた。はじめのほうでも、美味な現地料理を中心に、普段はなかなかありつけないアルコールをちまちまと楽しんだ。
「ねえ明日、夜フライトなんですけど、青八木さん見送りに来てくれますか? ていうか、食事しませんか? 今度はもっとちゃんとしたところで」
「わかった」ふわふわと回る頭で、何も考えず、はじめは彼に微笑した。
「ほんとすか? 約束ですよ、破ったらハリセンボン飲ませますからね。十一時に迎えに行くんで、住所、教えてください」
「わかった」
「おしゃれしてきてくださいね。今日みたいなのでも……可愛いけど、もっと可愛くしてきてください。わかりましたか?」
「わかった」
「ほんとにわかってます? 頭ぐらぐらしてますけど」
「わかってる。あした、十一時に、おしゃれして待ってるから。鏑木……」

 浅慮だったかもしれない、そんな不安を、はじめはすぐに打ち消した。相手は一差だ、無心にこちらを慕ってくれるかわいい後輩。どうかしている。かぶりを振りながら、おぼつかない足取りで、コストの外階段をのろのろと上がる。頭痛と耳鳴りがひどい。胸と腹のちょうど中間、鳩尾のあたりに、もやもやと言いようのない不快感が立ち込めている。すでに喉や舌の付け根あたりにまで胃酸が上がってきていて、気を抜けばこの場で嘔吐してしまうだろう。大して食べたつもりも、飲んだつもりもなかったが……こうした原因不明の不愉快な感じが、近頃度々はじめを苦しめていた。
 一人きりで雪崩れ込んだ部屋は暗い。カーテンは閉め切られ、掃除を怠った床には、白い埃が膜のように積もっている。ピンク色の花柄の玄関カーペットの上でなんとかスニーカーを脱ぎ捨て、リュックを床へ放り出し、ベッドの方へ駆け寄ろうとしたが、不意に脚から力が抜けずるずるとその場へ崩れ落ちるはじめだった。頭痛はことさらにひどく、脈打つように痛み、こめかみを締め付けるような圧迫感が不愉快な感覚をさらに強めた。
 ——仕方ないわね、はじめ。ほら顔を上げて
 優しい声の記憶が、床に寝そべって放心するはじめの上に、やわらかく降ってくる。
 長い黒髪を悠然とかきあげ、陶器のつくりものみたいに綺麗な白い顔に慈愛をたたえて、純子ははじめを抱き起こしてくれる。頭を預けた肩口から立つ、幻想の国の花の香り。無邪気に頬をくすぐる優美な指先。彼女は、赤い唇にミネラルウォーターを含んで、涎や胃液で汚れたはじめの口許に、コマドリがするかのような繊細な仕草で口づけた。冷たい水が喉を潤し、はじめは、安堵のために深く嘆息する、
 ——はじめ、あんた、弱いのに、すぐ無理して飲むからダメなのよ。よしよし……おいで、一緒に寝ましょう
「うん、純子……」
 愛おしい名前を微吟する。うっとりとして瞼を開ける。茫漠と広がる黒染の闇、彼女はいない。はじめは立ち上がり、緩慢な足取りでベッドに近づき、今度こそうつ伏せに倒れ込んだ。
 すがりついた毛布に残る、アイコニックでコケティッシュなシプレーは彼女の香りだ。髪や、手の甲の薄い皮膚、裸で抱き合うときには細くたおやかな腰から、はじめはその香りをたしかめた。腹のあたりに腕を回してまどろんでいると、くすぐったいわ、と言って、彼女は小鳥のように笑う、調子に乗って鼻先を押し付けたり擦り付けたりすれば、いたずらな手がやってきてはじめをシーツの上に縫い付けてしまう。
 ——欲しいの?
「じゅんこ」
 ——本当に、仕方のない子、
 まな板の上のうさぎみたいな格好で、あおむけにされると、はじめは身体も精神も全てを彼女の手の中に委ねようという気になってしまう。Tシャツの中に指が入ってきて、臍や、脇腹や肋骨の上など、感じやすい皮膚をくすぐられる。感じやすくだらしない乳房は、散々焦らされたあとのお楽しみ。早く核心に触れて欲しいという思いと、ずっとこの、淫らでまどかな時間に浸っていたいという思いがないまぜになって、はじめは陶然と、視線を伏せる。
 指が空想を追いかけて動く。乳頭を責めるときには、直接触れたりせず、まず乳輪の粒だった皮膚を触ったり爪で引っ掻いたり、歯で軽くかじったりする。そうすると、あさましくも乳腺は喜び勇んで収縮し、不能の乳汁が大きな乳房全体を湿らせはじめる。それも彼女はきれいになめてくれる。純子、早く、早く……そうしてはじめがほとんど極まりかけるころになって、不意に核心を突かれる。はじめはどうすることもできず、陸に上げられた魚みたいにのたうつ。湿った息を吐くのに混じって、あられもない媚声がつぎつぎに溢れていってしまう。膣口も、すぐにぬるぬると湿り気を帯びてきて、ショートパンツの白い生地をぐず濡れにする。それを純子は目ざとく見つけて、
 ——いけない子ね、……お仕置きしてほしいの?
「ん、ん、ぅん……」
 必死で頷く。純子は余裕たっぷりに口許を釣り上げると、ショートパンツと下着を脱がせてはじめの股の間にひざまずく。露わになった部分に鼻孔を寄せて深く息を吸い込み、凝り固まったクリトリスに優しく息を吹きかけながら、全体をその口に含み込む。舌を押し当ててねぶり回し、何度も吸引してはきまぐれに離し、純子のいじわるにはじめは翻弄されてゆく。唇が勃起を擦る粘着質な音に耳を犯される。羞恥に赤くなるはじめとは裏腹に、両膝は勝手に服従の姿勢をとってしまう。膣口からは絶えず何かが溢れ出し、純子はそれすら熱い舌で残らず啜り切ってしまう。
「純子、純子、純子」
 ——まだ足りないのね、
「純子好き、好き、純子、もっとして」
 ——この、淫乱、ちょっと反省しなさい、
「う、っ……ッ」
 指と、空想だけで、はじめは快楽を極めた。呼吸を引きつらせながら身悶えし、やがて弛緩した肢体をシーツの上に投げ出す。大量に分泌した乳汁でシャツはすっかり濡れそぼり、握りしめていた毛布や、シーツにもじっとりと染みている。膣はいまだに痙攣し、直腸までもが彼女の不在に飢え、空虚を懸命に食い締めていた。前触れもなく涙が溢れてきた。寂しい。愛おしい。悲しい。流れた雫が、頬から耳の方へと伝ううちに冷たくなる。
「純子……」
 純子に会いたい。
 いつも首の後ろにあって、ことあるごとにはじめを苦しめる、あの非情な声が、再び反響をはじめる。夏も盛りだというのに部屋は恐ろしく寒い。はじめは一人だ。毛布を頭まで被り、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらはじめは、こちらに笑いかける純子の記憶を腕いっぱいにかき集めようとつとめた。美味しいものを食べて嬉しそうにする純子。はじめを抱きしめて、後ろから耳元に愛の言葉を囁く純子。おかしな思い出話で二人して大笑いした時の純子。はじめのトンチンカンな発言を許してくれる純子。倒錯的な変態プレイをはじめが受け入れた時、自分から申し入れたくせに、ちょっと引いてしまう純子。ウィンドウショッピングを楽しむ純子。無精のはじめのために、コスメを買ってくれようとする純子。自分が書いた小説について語る純子。
 はじめのことなど愛していないと、純子は言った。それでも、どうしようもなくはじめは、純子のことが大好きだった。純子を愛していた。忘れることなどできようはずもなかった。

 目が覚めたとき、時刻は十時を回っていた。
 最初、はじめは、毛布を身体に巻きつけた芋虫のような格好で覚醒し、しばらく呆然としていた。こめかみに鈍痛が残っていた。デスクの上の、花柄の置き時計を見て、十時だということは認識したが、それだけだった。気だるさも取れないままだったので、考えることを放棄して少しうとうとしていた。このとき、実家の犬のことを夢に見た。尻尾を振ってはじめにじゃれてくる可愛いやつだった。
 次に意識が浮上してきたころには、約束の時間まで残り三十分を切っていた。それでも、なお、ぼんやり放心していた。ふと、もう一度時計を見て、全てを思い出したはじめはほとんど飛び上がりながらベッドを出た。遅刻だ! ひどく寝汗をかいていたので、服を脱ぎ、簡易シャワーと固形石鹸とで全身を洗い流した。ほとんど濡れた身体のまま手洗いを飛び出し、クローゼット兼収納となっている箪笥を開け、いちばん上の段に入っていたフェラガモの青いミニドレスを掴みだした。アクセサリーには、ブルーパールのネックレスにイヤリング、再び手洗いに駆け込んでディオールショウ・サンク・ククールのミッツァ、グリッダーにアメリ、リップにはロムアンドといった国籍混交っぷり、思い出したみたいに歯を磨いて、リップを塗り直していたらあっという間に五分前。考えて、再び箪笥を眺めて取り出したのは、真鍮のバングル。鏡の前に立ち、そういえばこれ、ほとんど純子のコーディネイトだ、との思いがよぎったのも束の間、戸を控えめに叩く音が表から聞こえてきた。慌ててマイクロバックを左手に、白のハイヒールを焦ったく履いて、ほとんど転がり出るようにドアを開けた。
 深い藍色の美しいホップサックのスーツに本皮の編み上げ靴、オートクチュールのネクタイ、金のタイピン、腕にはオクト・フィニッシモのシルバーカラーを堂々と輝かせ、あらゆる男を劣等感の中に叩き込まんばかりの出立ちのその男は、
「誰すか、あんた?」
 余計な一言でムードというムードを台無しにした。無礼極まりない男の耳を、思い切りつまんで引っ張ってやった。
「もう一度はっきり言ってみろ、しばき倒してやる」
「……青八木! 青八木かよ! どうしたんだ、青八木、そのカッコ……ってかメイク!」
「おまえがおしゃれしてこいって言ったんだろ」
「そうだけど……」
 じろじろと一差は、はじめの上から下まで眺め回す。それから何か喉に詰まらせたみたいな顔つきになり、ふう、と一つ息をつくと、実に嬉しそうににっこりと破顔した。
「かわいいから、青八木さんじゃないかと思いました」
「バカ」
 狭い廊下、外階段を、エスコートされて歩く。こちらの右手を握る大きな左手から、高いところで元気よく揺れる染髪に至るまでを、どこか他人事な気持ちで眺めた。あれから十センチ近く背が伸びている。重く張り詰めた筋肉のためにスーツは窮屈そうにつっぱり、広い背中には、肩甲骨が雄々しく隆起して生地を持ち上げている。スプリンターらしく鍛え上げられた大腿。大きな足。いつもは顔も見せないコストの住人たちが窓から顔を出し、異国からやってきたアッパークラスの男を、芸術館の彫刻でも見るような目で追っている。その彼に手を引かれるはじめのことも。居心地悪く肩をすくめたまま、促され、通りに停まった黒いメルセデスの後部座席に乗り込んだ。
「何たべたいですか?」
「なんでもいい」
「じゃあ肉にしましょ、肉、青八木さん肉好きでしょ」なんの伺いたてもしないままはじめの隣に収まった一差が、この辺で一番美味しい肉の店に連れて行ってくれ、と黒服の運転手に英語で指示をする。ジャカルタに、こんな良い車種のタクシーは走らない。ホテル付けのサービスなのかもしれない。空調が車内の空気を循環させ、はじめはようやく、一差が何か香水の類をつけていることに気がついた。
 運転手が、最上級の顧客のために選択した店は、ラ・カルティエという、ちょうどスカルノハッタ国際空港にほど近い立地のフレンチレストランだった。ロマン主義風の立派なエントランスを備えた、白い二階建ての小洒落た建物で、青い窓枠に建国記念日に備えた赤と白の旗を飾ってあった。褐色のボーイが、はじめのためにうやうやしくドアを開け、ロビーへと続くブルーカーペットへと導く。続いて車を降りた一差は、てっきり焼肉屋ステーキ屋に連れて行ってもらえるものと思っていたのだろう、あからさまながっかり顔だ。直情家なところは、高校生の時分からあまり変わっていないようだった。
 たわいもない話をしながら、ボーイに案内されて二人はドーム天井のロビーを横切り、アンティークの陶器を飾ったガラス棚のある廊下を歩いて、奥の個室へと案内された。ロイヤルブルーのクロスがかかった小さなテーブルに、名も知れぬピンク色の花が二房、ガラスの花瓶に入って飾られているのが、シャンデリアの華やかな灯りを反射して虹色の光を帯びていた。二人は向かい合って座り、ボーイがそれぞれコースメニューをよこしてきたが、はじめのものは値段の表記がなかった。
「うーん、よくわかんねえ、コースでいいですか?」
 事もなげに言う。
「……ちょっと貸してみろ」
「やですよ、こういうのって、見せちゃいけない決まりなんでしょ!」
「いいから」
 半ばひったくるようにして、取り上げたメニューには、そっけなく五百万ルピアとの表記があった。日本円にして四万五千円。ランチで。卒倒しそうになる。
 一差は、そばに控えていたボーイに、ランチコースを二人ぶんオーダーした。程なくして、黄色いラベルのマグナムボトルが運ばれてきて、ヴーヴ・クリコというシャンパン、ソムリエールがこれを恭しく二人のグラスに注いだ。アミューズは、極厚のトリュフを栗のペーストと溶かしたグリュイエールチーズで包み込み、ジャガイモで挟んだもの。パンはミニバゲット、フランス産の発酵バター付き。続いて、何も考えていないらしい一差がオーダーしたのは、ドメーヌ・ルフレーヴの白ワイン、二〇〇八年のもの。シトラスやリンゴ、白桃などの果物に、ローストしたナッツのような香りの混ざる、甘やかで芳醇な舌触り、恐ろしく上等なものだろう。一皿目がくるころには、はじめはほとんど前後不覚で、無邪気な一差のおしゃべりに耳を傾けていた。
「はじめて来たんですけどいいとこですね、ここ」
「ああ……」
「これ、茶色いタワーみたいなやつ、めっちゃうまいすよ。緑のタレにつけて……こっちはなんだ? 魚?」
 彼がフォークでつついているのはジャガイモのカルパッチョ、茶色いタワーは鰻とアンキモのミルフィーユ、ほかに、リンゴと大根のサラダ、グリーンマスタードのソルベ、カニとエビのジュレに大量のキャビア。二皿目にあわびのソテー、金箔やカラフルな小花の散ったカリフラワー。三皿目に、ジャガイモのピュレとケール、ブロッコリーロマネスコ。手長海老のラヴィオリ。セルフィーユ香るロワールのホワイトアスパラガス、モリーユ茸。ボタン海老のスープ。キャラメリゼされたブラック・コッド。カリフラワーのムースを完食して、ようやく、前菜が終了する。
「やっと肉ですよ!」
 金でオー・ソメットと箔押しされた黒い箱の中に、巨大な肉塊。それを、ボーイが二人係で取り分けてゆく。一差は理解していないのか、はたまた歯牙にも掛けていないのか、子供のように喜んでいるが、きちんとメニューに目を通したはじめにはわかる。あれは牛フィレ肉とフォアグラを抱き合わせたロッシーニである。もしこの場に純子がいたら、一差の頭を叩いて、このロッシーニがいかに上等な料理であるかということ、お子様プレートのテンションで食すべき代物ではないのだということを滔々と語ったことだろうが、前菜ですでに押し切られてしまったはじめにはその元気が残されていない。ワインを舐めつつ、付け合わせのポテトを齧ってなんとか胃腸をやり過ごすしかない。と、ボーイの去り際に、一差が次のワインをオーダーした。漆黒のボトルに真っ白なエチケット、ラ・トゥール、一九九四年のもの。ボルドーワインの中でも第一級にランクインする、世界屈指のシャトーである。
「か、鏑木、大丈夫か?」
「ん? 大丈夫すよ、今日は魔法のカードを持ってきたので!」
 カード出せばなんでも買えるんです、すごいですよね、嬉々として語る彼の手綱を握る名もしれぬマネージャーに、深く同情するはじめであった。

 デザートワゴンに追い詰められ、ミニャルディーズにノックアウトされて、へとへとのはじめが店の外に出たころには、すでに十六時になっていた。訳がわからなかった。ただ、ちょっとそこ行きましょう、で提供されるランチのクオリティ、量、価格ではないことだけが確実だった。一差は宣言通りに〈魔法のカード〉で一括支払いを済ませ、はじめを伴って外に待たせておいたメルセデスに再び乗り込んだ。
「青八木大丈夫すか? 食あたり?」
「いや……」下町の屋台食じゃあるまいしと、呆れ返りながらシートベルトを装着する。「まさか、こんな食事を、おまえとすることになるとはと驚いていたんだ」
 車は一度湾岸に出てから有料道に入り、スカルノハッタ国際空港第二ターミナルを目指す。彼の、バイヨンヌ行きのフライトは十八時半発、少なくとも十七時にはチェックインを済ませなければならない。
「パスポートは持ったか? チケットは? 忘れ物はないか?」
「大丈夫です、オレ、もう大人なので! 忘れ物とかしません! ……あ。青八木さん」
「ん?」
 カーステレオからはいつのまに、古いアメリカのラブバラードがしめやかに流れている。ジャワ海は夕暮れの斜めの光線を受けて、オレンジ色の鏡のように光っている。
 鼻先同士が触れ合うほどの至近距離で、一差の円な琥珀色の目が、はじめをじっと覗き込んでいる。大きな手が、不意に首の後ろへ伸びたので、ひととき、はじめは呼吸を忘れる。ざらついた指の腹が、頸の、薄い皮膚に触れ、喉に抜けた無防備な声をすんでのところで押し留める。一差は何も言わない。指は首から背へと下降し、露出した部分を探るような動きをしてから、ミニドレスの、背中のファスナーを、……力いっぱいに持ち上げた。
「青八木さんこそ、後ろのチャックちゃんと閉まってなかったですよ!」
「……、……!」
「もう大人でしょ、しっかりしてください!」
 まるきり子供の仕草で、一差が胸を張って威張った。あまりのことにはじめは二の句がつげない。このバカ、と鼻先を小突くことだってできたのに、しばしの間身動きを取ることができずにいた。車がちょうどゲートに到着したからよかったようなものの、そうでなければ何か決定的な、取り返しのつかないことが起こりうるシチュエーションだったかもしれないと思った。
 スカルノハッタ国際空港は、いつかはじめが降り立った時のものとは、全く違う建物のように思われた。巨大な全面ガラス張りの壁から差し込む西陽で、幾何学模様の印象的な天井も、よく磨かれた石の床も深いオレンジ色の中に沈んでいる。ゲートから出発ロビーまで一緒に荷物を運んでやだの。ガードマンが二人並び立つ保安検査場の前で、チェックインを済ませた彼を見送ることにした。
「じゃ、オレ行くんで。今日はあざした! また日本で会いましょっ」
 そう言って、彼はあっさり背を向けてしまう。はじめは俯いて、ヒールの先を眺めながら言葉を探した。何か言わなくてはならないのに、言うべきことがわからないのだった。もし……彼が、
「待て!」
 もし彼が……青八木さん、好きです、オレについてきてください、と言ったら、
「何か、わたしに言いたいことがあるんじゃないか」
 自分はついていくかもしれないと思い、その空想に怯えた。そして今、薄暮の中ではじめは、彼の背中を見送りながらその確信を強めていた。なぜ呼び止めてしまったのだろう。自分は、純子を愛しているのに。
「ないです」
 項垂れるはじめの頭上に、歌うように、一差の声が降ってくる。
「青八木さん、元気なかったんで。励ましたかっただけです。すみません、手嶋さんたいへんなのに、オレ……オレは……」
「……鏑木、おまえ」
「ちょっとまずいかなって思う瞬間もありましたけど。手嶋さんと青八木さんが仲良いの、オレ、いつも嬉しかったんで、これからもそうでいてください」
 無骨な親指が優しく唇をなぞってから、離れた。
「ありがとう」目を細めて微笑する。「青八木さんのおかげで楽しかったです」
 保安検査場の前で、はじめは一人取り残された。
 自分は前に進めるだろうか? 考える。あの陰気臭い病棟で、純子を眠らせているのは、医師でも鎮静剤でもなく、はじめ自身だ。はじめが、彼女から目を逸らしたくて、寒々とした白昼夢の世界に彼女を押し込め続けていた。今なら、純子の思いに、真っ直ぐに向き合うことができるだろうか? 不安と恐怖の中から彼女を引き摺り出すことができるだろうか? いつもの、攪拌、悪寒を伴う吐き気のようなものがやってきてはじめの全身をかきむしるが、もはや深い思惟の中に潜り込んだ彼女には預かりしれぬことだった。金色の余光の中で、ただひたすらに、考えていた。
 ……保安検査場前を警備していたガードマンの一人が、男を見送ってから三十分近く、同じ姿勢で立ち尽くす女を不審に思って近づいた。彼が女の肩に触れ、もしもし、と声をかけるやいなや、その身体は吊っていた糸を切られた人形さながらに、その場に崩れ落ちた。額に触る。ひどい熱だ。女は立ったまま、もう十五分も前に気を失っていたのだ。