2022年9月21日

B-4

 

 不動一家は、八月末までをパレルモの街で過ごすことになっていた。その短な時間の間に、愛し合う二人の身の上にさまざまな出来事があった。
 まず、百合子の家族に恋人として紹介された。この日、ジョニーは人生で最も緊張し心を張り詰めさせていたに違いない。彼らが滞在するグランドホテルのディナーホールに通され、左手に兄、右手に彼女の母親、正面に父親が座した状態で、彼らと夕食を共にした。伝統的なイタリアンのフルコースが供され、そのどれもが贅を尽くした上等なものだったが、緊張のあまりジョニーには何の味も感じられなかった。
 意外にも、彼女の両親はジョニーの存在を早い段階で受け入れてくれた。父親などは、初めて会った時からこうなる気がしてたんだよね、などと言って彼の妻を苦笑させていた。問題は彼女の兄、遊星だ。彼は妹に恋人ができたという事実をどうしても受け入れられなかったようで、最後までジョニーを拒絶するような姿勢を崩さなかった。
「お前は信頼に値する男だ。真面目だし出自学歴も申し分ないし、何よりとても誠実だ。是非今後も友人として付き合いを続けていきたいと、俺はそう思っている。だがそれとこれとは別だ。俺のたった一人の大切な妹を、そうやすやすと渡すわけにはいかないんだ」
「遊星、君が百合子を大切に思う気持ちはよくわかってる。でも僕だって譲れない。百合子は、やっと見つけた、たった一人の大好きな女の子なんだ。彼女を幸せにしたい。いや、絶対に幸せにする。命が尽きるその日まで、僕という存在を彼女のために使うつもりだ。だから……」
「それでも! 理屈じゃないんだ……ジョニー、わかるか、百合子は昔俺に言ってくれたんだ、『兄さん大好き。兄さんと結婚する』と! その百合子が他の男のものになるなんて……ジョニーが素晴らしい人だということも、きっと百合子を幸せにしてくれるだろうこともわかってる。でもこればかりは本当に、どうしようもないことなんだ! わかってくれ!」
「に、兄さんっ」
 遊星の訴えは最後には涙声になり、懇願になった。百合子は慌てふためいた様子で幼い自分の言動を暴露する兄を制止しようとし、父親はそんな子供たちの様子を鷹揚に笑った。
「百合子行かないでくれ……俺を一人ぼっちにしないでくれ……」
「ひ、ひとりぼっちだなんて。兄さんが早くジャックに告白しないのがいけないんじゃありませんか!」
「う」
 どうやら遊星にも想い人がいて、しかしまだ愛を伝えあぐねているらしい。百合子の一言で硬直し、黙り込んでしまう。脇腹を突かれて途端に静かになった兄を横目に、百合子はダメ押しとばかりにジョニーの肩にぴっとりと寄り添う姿勢をとり、こう言い放った。
「私はジョニーと一緒にいたいんです。兄さんとは結婚しません!」
 これが決定打となった。遊星はあえなく撃沈し、テーブルに突っ伏すと動かなくなった。

 ……また、ジョニーの祖母に百合子を紹介した際には、祖母が俄然張り切ってしまい、花嫁修行と題したお節介が繰り広げられる羽目になった。祖母は自らの七〇年余の生涯の間に記憶してきたすべてのイタリア料理のレシピを、百合子がパレルモに滞在する間に教えきるのだと言って、彼女を家に呼んではキッチンにて料理指導に勤しんだ。百合子は百合子で、とても真面目な気性の少女だったので、祖母をおばあさまと呼び慕いよく学んだ。おかげでジョニーは恋人とのデートの時間を祖母に横取りされる形になり、一度は拗ねて臍を曲げるのだが、愛しい彼女が達成感に満ちた笑顔と共にキッチンから手料理を持ってきてくれると、たちまち機嫌も直ってしまうのだからおかしかった。
 こうして、恋人たちの鮮やかで濃密な夏はあっという間に過ぎていった。気づけば、一家が母国に帰る日が翌日に迫っていた。

 

『やあ、もう寝た?』
 後ろ髪引かれるような思いで最後のデートを終えたその日の晩、ジョニーは彼女にそんなメッセージを送信した。
 すぐに既読がつき、軽快な通知音とともに返信が返ってくる。
『いいえ。両親も兄も少し前に寝てしまったのですが、私だけなぜか眠れなくて』
『僕もだよ。ねえ、窓を開けて、バルコニーに出てきてくれないかな』
『良いですけど、どうして?』
『良いから、良いから』
 最後のメッセージに既読がついてからしばらく待っていると、目の前に建つ大きなホテルの二階の窓が控えめに開き、中からネグリジェ姿の百合子が顔を覗かせた。半開きになった唇の丸みや大きく開いたネックからのぞくなめらかなデコルテの皮膚、降ろした髪の隙間にのぞく滑らかなうなじの皮膚などが、月明にぼんやりと白く浮かび上がる。彼女はリラックスした様子でぼんやりとほの明るい夜空を眺めた。それから思い出したように右手の携帯端末を取り出したので、ジョニーは慌てて頭上の彼女に呼びかけた。
「こんばんは、Principessa(お姫さま)」
「まあ……!」
 彼女はバルコニーに飛び出してきて欄干から身をいっぱいに乗り出し、すぐにホテル正面に立つジョニーの姿を発見した。ジョニーが手を振ると、優雅に手を振りかえしながら笑顔を見せる。
「驚きました。こんな夜更けにどうしたのですか?」
「君の顔を見たかったから、じゃだめかな」
「いいえ、いいえ、とても嬉しいです。私もちょうど、あなたに会いたいと思っていたんですから」
 バルコニー越しに二人はうっとりと見つめ合い、その姿かたちを網膜にまで焼き付けようと努めた。
 明日、別れの時がやってくる。それは永遠の別れではなかったが、若く未熟な二人にとっては永遠にも等しい隔たりと言って差し支えのないものだった。この夏、毎日のように手を繋ぎ、唇を触れ合わせることができたのに、明日が過ぎればそれは手の届かない幻になる。海を隔てて暮らす愛しい人を思いながら、彼女の心変わりや倦に怯えて退屈な日々を過ごさなければならなくなる。
 次に会えるのは、早くても春季休暇の間になるだろう。それまでの半年間、彼女がそばにいない時間を過ごさなければならないと思うと、ジョニーの胸には重い暗雲が立ち込めるのだった。
「……そばに行っても良いですか」
 物憂げに眼下を見下ろしていた百合子が不意にそう尋ねたので、ジョニーは無言で顎をひき、頷いた。
 彼女はネグリジェの裾を翻してバルコニーから窓の隙間に滑り込み、そのまま部屋の中へと消えていった。かと思えば、薄ぼんやりとした照明だけが残されたロビーの螺旋階段を、十二時を目前にしたシンデレラのように転げ降り、裸足のまま外へと飛び出してきた。前のめりになって走ってくる愛しい身体を受け止め、息が止まるほどぎゅっと抱きしめる。
「ジョニー、ジョニー」
「百合子……」
 たっぷりと涙を含んだ海の瞳、その内側を彩る虹彩のきらめきを覗き込む。彼女はゆっくりと瞬きを繰り返したあと、薄い瞼をそっと閉じ、つやつやと潤った唇を小鳥がするように突き出した。ジョニーは零距離で吐息の熱さを楽しんだあと、愛しい彼女へ一思いに接吻を浴びせた。
 彼女はジョニーの長身に合わせて必死に背伸びをする。その身体を抱き上げ、さらに深く溶け合おうとする。お互いの高鳴る心臓の鼓動を合図に、踊るように何度も重なる唇……熱を帯びた舌が彼女の行儀の良い歯並びを軽く叩き、怯んで僅かに空いた隙間に滑り込んで、うぶな少女の舌先を労わるように撫でた。彼女は鼻でくぐもった呼吸をしながら、頬に涙の筋を幾重にも滲ませ、ますます必死にジョニーの背中に縋りついた。
「愛しています。離れたくない」
「僕もだ。君を誰からも隠して、僕ひとりのものにしてしまいたいよ」
「そうして……私をあなたのものにして……」
 まなざしの糸は名残惜しく絡まり合い、その燻りが、二人を再び口づけへと駆り立てた。ワインをグラスに注ぎ足すかのごとく、もう一度、また一度、幾度も幾度も、飽きることなくお互いの味を官能に染み渡らせた。彼女のやわらかく張り詰めた頬が、膨らみはじめた慎ましい乳房が、無駄なく引き締まった腹が、柔らかく迫り出した腰が、あの日半透明に透き通った不思議な作りの四肢が、余すことなくジョニーの全身に預けられていた。街の明かりも、時折過ぎる車通りも湯気を通して見たように朦朧となり、二人はいよいよ夢と現実との境界を失いつつあった。
「次の春、今度は僕が君の国に行こう。大学を卒業するまでには君を迎える支度を済ませておく。待っていてくれるかい」
 くったりと肩に頭を預ける恋人のかわいい耳殻に、ジョニーはそう囁いた。