C

 


   ワールド・エンド

 とある科学者が、人間という生物の脆弱さを嘆いた。
 人間は生物の中でも特に高度な知能を持った種族だ。彼らは五百万年前に種としての地位を確立してからというもの、さまざまな文明社会を築き上げ、その繁栄を極めてきた。だがその一方で、彼らは非常に脆く、病や損傷などで簡単に損なわれ、その果てには死という抗い難い結末に否応なく巻き込まれる運命にある。有史以来、この絶対秩序にほころびなど一つもなかった。高名な学者も、徳の高い慈善家も、例外なく傷つき、例外なく死んでいく。これこそが、人類がいまだに完全な幸福を手に入れられない唯一にして最大の結論だ。科学者はそう結論し、自らの手によってそれを是正しようとした。
 科学者は、自分のもとで働いていた既婚の女性研究者たちを言い包め、彼女たちの子宮からまだ分化も済ませていない受精卵を採取した。そして、他の生物のリボゾームを高圧ガスでそれらに撃ち込み、転写を行わせ、人間と他生物の特徴を受け継いだ新しい人類を生み出そうとした。トゥアラタ、赤ウニ、ミル貝、ホッキョククジラ、ガラパゴスゾウガメ、(規制)、カイロウドウケツ。受精卵はそれぞれ培養槽の中で厳重に管理され、細胞分化を進行させていったが、みな胚盤胞の段階に差し掛かると同時にネクロシスを引き起こし、自壊していった。
 その中で唯一胚盤胞段階を乗り越え、一個の生物としてこの世に誕生するに至った個体がいた。(規制)の遺伝情報をその身に宿したメスの個体だ。

 ……淡い緑の、冷たい水の中で目を開けた。最初の記憶だ。
 足元から立ち上る泡がいくつもいくつも弾けて、水に融けて消えていく。
 わたしは裸にされ、手や足にわけのわからない機械を取り付けられて、厚いガラス越しにその人の顔を見下ろしていた。人間という生き物は、水の中ではうまく物を見られないものなのだというけど、わたしは特別。<わたしたち>は、人魚だから。人間でも魚でもない、神に聖別された神秘の生き物。だからわたしを見上げる瞳が左右ちぐはぐな色に輝いていることも、煤だらけのシャツの下で呼吸する身体が男と女のどちらでもないことも、その人がもうずいぶん疲れていることも、分かった。手のひらをガラスにくっつけると、その人も柔らかそうな右手を差し出して、同じ場所に触れた。
「このままじゃあいつがかわいそうだ。だからお前には、早々に自分を取り戻してもらうぜ」
 華やかで冷たい、美しい顔が笑う。片方だけ目を眇めて、すごく意地悪に唇の端を上げる。
「不思議なことじゃないだろ。オレたちは基本的に人間の味方だ。物理的に相容れないってだけで」
「……?」
「言葉、わかるか? 自分が何者かわかるか。思いだせ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ」
 彼女の目に見つめられると、神経を素手で掴まれたみたいに全身が痺れて、息ができなくなった。今までわたしの身体を気ままに支配していた<わたしたち>が悲鳴をあげる。細胞の奥の奥、核小体の中に潜り込み、自分たちを見透かす何者かの視線に怯えている。
 その人が、手の中に指をぎゅっと握り込める。
 その瞬間、わたしの心臓はかつてないほど強く、激しく震えた。左心室に緩慢に滞留していた血液がごうと溢れ出し、激流に押し流されて、隠れていた<わたしたち>が細胞を離れ拡散した。わたしという実体が発生してからというもの、常に耳の裏で繰り返されていたまじないも自我の中に薄れていく。視界がクリアになる。
 思い出せ。お前の核を巣食う海を飼いならせ。今はまだ、それができるはずだ。
 ガラスにつけた手のひらの上に意識が収束したと思ったら、わたしと彼女を阻んでいたそのツルツルした壁の表面に大きくヒビが入り、一呼吸ののちに音を立てて弾け飛んだ。拘束具が、まるで土で作った偽物だったかのように、バラバラに崩れ落ちた。培養液があっけなく流れ出し、彼の立つ白いタイルの床を満たしてゆく。
 手を引かれ、わたしもその上に降り立った。
 狭く小さなその部屋は、正面に据えられた大きな液晶モニターだけを光源とし、薄暗く、陰気な気配で満ちていた。右手にはさまざまな種の幼体の剥製が保存された瓶詰めの並ぶシェルフ、左手には大小無数の試験管やビーカーの収められたキャビネット、雑に束ねられた資料の山。背後にあるのは、この五年間、わたしを囚えていた、そしていま、粉々に破壊されるに至った巨大な水槽の残骸。すぐにわかった。ここは誰かの研究室で、わたしはついさっきまで、その誰かの実験動物だったのだ。神秘を隷従させようなどと、よくもそのような傲慢を抱いたものだ。
 警報が鳴り響き、にわかに外が騒がしくなる。正面の扉から転げ込むように白衣の男が入ってきて、わたしを見るなり、情けなく悲鳴を上げた。この人がわたしの創造主? なんて弱くて、脆くて、矮小なんだろう。つついただけで壊れてしまいそう。解き放たれた解放感のままに手を伸ばし、右に捻れば、触れてもいない男の首が後ろに歪んだ。頚椎神経がまとめて潰され、手の中でぷちぷちと音を立てる。
 咀嚼すると、甘くて、酸っぱい味がする。人間の命の味だ。わたしの全身に回った<わたしたち>は、その甘美な舌触りに歓喜する。もっともっと味わい尽くせという。
「なあ、もういいだろ」
 わたしの肩を掴み、後ろに引き寄せたのは彼女だった。
「人間は互いを食い合ったりしない。命を啜ったりもしない。これからお前は人間として生きるんだ、やつらのいうことにはもう耳を貸すな」
「あ……」
「行けよ。この扉から出てすぐ左に、お前の父さんと母さんがいる。オレの記憶がたしかなら、二人はお前を悪いようにはしないはずだ」
 彼女は裸のわたしに赤いジャケットを羽織らせてくれた。何か言う前に、背中を押され、廊下に追い出される。「こいつはオレが連れていく」死んだ男を左脇に抱えて、彼女はわたしに手を振った。
「ハッピーバースデー。おめでとう、■■■。甘くて幸せで苦痛に満ちた、お前の旅の始まりだ」


 朝がやってきた。
 暁の薄明が、地平線のかなたで薔薇の花びらがするようにほころび、東の空に星々のまどろみを消し去っていく。雲は細い旗のように悠然とたなびき、風は未だ青白くくすんだ家々のあいだに奔放にひるがえる。
 二十五歳のジョニーは、まだ柔軟剤の香りの残るシーツの中でゆっくりと覚醒に漕ぎ着けた。あまりにもなめらかに無意識の領域を脱したので、彼はしばらくの間、自分が眠りから覚めたのだということにすら気づかなかった。手も足もぽかぽかとあたたかくて気持ちがいい。幸福な夢の残り香が、まだ鼻の先のあたりにおだやかに漂っている。
 寝返りをうとうとして、彼はふと、彼の胸や投げ出した上腕にかかるやさしい重みのことを思い出した。乾いた目を擦り、瞬きを数度して改めて確認すれば、それは誰よりも愛しい妻の小さな頭がかける重みだった。
 彼女は控えめな呼吸を立てながら、安心し切ったあどけない顔でジョニーの胸に寄り添い眠っていた。
 黒曜石を漉いて作ったかのような艶やかな黒髪は無造作に散らばり、ひっかかり一つさえないすべらかな肌は、白日と彼のまなざしとの前に隠し立てされることなく晒されている。豊かに張りつめた乳房に淡く熟した嘴、しなやかにくびれた腹、夢見る感度でなだらかな曲線を描く腰、無防備につやを帯びた長い脚。重ねた内腿の奥にたしかに呼吸する女の器官。昨夜、狂おしいほど愛した身体だ。耐えきれず一心に抱き寄せれば、彼女は甘やかな喉声を上げ、ジョニーの鎖骨あたりに頬をすり寄せるようにして身じろいだ。
「おはよう、僕のかわいい奥さん」
 小さな額やほのかに血色を乗せた頬、鼻の先などに小さくキスを散りばめた。彼女が抵抗らしい抵抗を見せないのを良いことに、髪を指先に絡めて弄んだり、うなじに軽く歯を立ててみたり、やわらかそうな耳殻に息を吹きかけてみたりした。そのたびに彼女はくぐもった笑い声を漏らすのだが、かたくなにまぶたを開けようとしない。
「ねぼすけだね」
 そう囁けば、彼女はいよいよ嬉しげに口元をゆるめ、いっそう身体を摺り寄せてきた。
「朝ごはん、フレンチトーストにしようと思ってたんだけどなぁ」
「まあ!」
 食べ物に釣られて、ようやく彼女はまぶたを開いた。「ずるい人」
 少女の時から何ら変わらない常青の瞳が、窓からの光を受けてきらりと輝く。彼女は悪戯っぽく目をすがめ、鼻先をぐっとジョニーの顔に近づけたかと思うと、実にあっさりとその唇を奪ってみせた。触れるだけのかわいらしい接吻。
 面食らって言葉を失う夫を上目遣いで見つめ、彼女は満足そうに微笑んだ。
「おはようございます、あなた」
 ジョニーの天使は今日もきれいだ。

 あれから、二人はジョニーの大学寮に共に住み、卒業とともに結婚した。サン・マルコ寺院にて行われた結婚式には、日本からはるばる渡欧してきた百合子の兄や両親、友人たちと、イタリア全土からジョニーの親族や友人たち、それから全く関係のない野次馬が合わせて三百人ほど集まり、初老の司祭が驚いて腰を抜かすほど盛大に、絢爛に行われた。
 目を閉じれば、結婚式の全貌が瞼の裏に鮮明によみがえる。
 ジョニーは純白のモーニングを着、胸元に百合のブートニアを誇らしげに飾って、祭壇前にて花嫁を待っていた。
 揃いのお仕着せに身を包んだ聖歌隊の子供たちが歌うグレゴリオ聖歌と、二十三人の学士たちが茫漠と響かせる演奏がギリシャ十字型の寺院のすみずみまでを響き渡る。五つの円蓋《クーポロ》や細かな彫刻の施された左右のインポスト柱は煌びやかな金のモザイクで余すことなく覆われ、聖マリヤや天使、十二使徒たちが随所で誇らしげに微笑している。幾何学模様を描く大理石の床には礼拝のための膝置きがついた木の長椅子が所狭しと並べられ、そのすべてに、夫婦の友人知人らが詰めてかけている。みな花嫁の可憐な名に因んだ銀の百合を胸に飾り、ベルベットで装丁された立派な聖歌集をその右手に携えている。
 司教について祭壇のそばに控えていた修道士が、花嫁の入場を高らかに宣言した。
 正面奥の両開き戸が厳かに開き、光の向こうからブラックスーツを上品に着こなした遊星が現れる。そして、その左腕につかまって、美しい百合子が姿を見せた。
 花嫁は、その豊頰にとろけるような微笑を湛え、見る人をうっとりさせた。偏屈で名を馳せる骨董品屋の老爺も、部下の畏怖を一身に集める強面の軍人も、今日ばかりはこの美しく清らかな花嫁に感嘆のため息をつくほかなかった。
 ヴァレンティノのデザイナーが彼女のためだけにあつらえたオートクチュールドレスは、細く真っ白なうなじからなだらかなプリンセスシルエットの先までをギュピールレースで緻密に覆う、繊細かつ壮麗なしあがりだ。三メートルにも及ぶロングトレーンには百個超のクリスタルが散りばめられ、寺院内のかすかな灯りを反射してまばゆく輝いている。小さな足を包むのはクリスチャン・ルブタンのアイコニックなスティレットヒール、それも靴裏を鮮やかなブルーに仕立て直した特別なもの。かわいらしく桃色にはにかむ耳殻を飾るのはティアドロップのダイヤモンドピアス。ビーズ刺繍の入ったマリヤベールは、彼女が兄の傍らを静々と歩むたびに揺れてきらめいた。
 濃紺に金の刺繍をあしらったロングカーペットを踏破し、花嫁のやわらかな手は遊星の左腕からジョニーの左手のひらに預けられる。彼女が祭壇前に上がると、音楽が止み、子供たちは修道士の案内で祭壇の両側に整列した。人々は息を殺し、寺院に深い静寂が訪れる。
 祭壇は花に溢れ、聖人たちの小さな彫像と共に祀られた黒檀の十字架でさえ、真っ白なミモザで飾られていた。司教の肩越しに聖マルコの棺と黄金のパラ・ドーロを盗み見ることができたが、これもギプソフィラやデルフィニウムで閑麗に縁取られていた。
 司教は神の福音としてマルコ書十章を朗読し、そのあとに夫婦はあらためて婚礼の儀に与った互いの姿に向き合った。彼の花嫁、百合子は至上の喜びに頬をほてらせ、そのつぶらに見開かれた青い目でジョニーを、ジョニーだけを一心に見つめていた。薄く化粧を施された花顔はこの世の誰よりも幸福そうで、あまりにも華麗だった。
 ベールを指で軽く抑え、軽く瞼を閉じた彼女の唇に、ジョニーはそっと誓いのキスを落とす。
 その瞬間から、百合子は、ジョニーにとってたった一人の守るべき人だ。

 焼きすぎたフレンチトーストを必死の思いで完食したあと、二人は朝の散歩に出かけることにした。いつもの身支度を終え、シャープなペッパーコーンの香りを全身に振ったジョニーが脱衣所を出ると、白いサンドレスに身を包んだ天使のような百合子が待っていた。耳元には二度目のクリスマスに贈った小ぶりなブルーパールが揺れている。
「お待たせ。待った?」
「いいえ」
 同じ家で暮らしていても、デートに遅れてきた残念な男のように振る舞うのが、ジョニーは好きだった。左腕を差し出すと、嫋々たる右腕がそっと絡められる。
 黄色いスクーターに乗って丘を下る。ここパレルモ郊外の新居から、彼女のお気に入りのビーチまでは三十分もかからない。その間、ジョニーは背中にぴったりとくっついた彼女の身体のやわらかさやその温もり、首の後ろにふきかかる小さな呼吸が穏やかであることを楽しんだ。乾季も盛りを迎えた八月の日差しの中、二人は一陣の風になって潮騒の香りと戯れた。
「見てください、鴎ですよ!」
 パレルモ市街を走り抜け、クリストーフォロ・コロンボ海岸道に差しかかったところで、百合子が歓声をあげた。時速45キロで走るスクーターにほとんど並走する形で、鴎が一匹、白い羽を広げて滑空している。
「目がつぶらで、お腹もニョッキみたいで、とってもかわいいです!」
「ほんとだ! でも百合子の方がずっとずっと可愛い!」
「ばか!」
 一度冷静になれば恥ずかしくて死んでしまいそうな会話を大声で交わす。激しい風のためにかき消されないようにということなのだが、運が良いのか悪いのか、その時ちょうど、左車線から真っ赤なオープンカーがスクーターを追い越した。
「Siete così innamorati!(お熱いこと!)」
 上品に口元を手のひらで覆いながら、運転席の老婦人が二人に向かって笑いかけた。何か言い返すまもなく、車は時速90キロの超高速で走り去った。
 二人はしばらく口を開けてぽかんとしていたが、彼女のイタリア語をいち早く理解したジョニーが頬に血を上らせ、遅れて事態を察した百合子も耳までを真っ赤にして恥じいった。
「……、ごめんね」
「はい……」
 ジョニーは胸ポケットに引っ掛けておいたサングラスをそれとはなしにかけ、百合子は額をジョニーのシャツの肩に埋め、何やらもぞもぞ言った。スクーター乗りのマーヴェリックがアジア人の恋人を後ろに乗せているみたいな格好だ。頭上で鴎がくうと鳴く。

 午前七時のモンデッロ・ビーチはさすがに人もまばらだ。弓形を描く白い砂浜には開店準備が進む屋台が二、三と、サーフボードを抱えた若者が何人か屯するばかりだ。海原はさわやかなエメラルドグリーンを湛えて澄み渡り、ガッロ山の伏せて寝ている亀のような輪郭は、抜けるような青さの晴空とみごとなコントラストを演出している。
 薄桃色の花をつけたキョウチクトウの木陰にスクーターを停めて、二人は砂浜に出た。サンダルを脱ぎ、裸足になると、まだ冷たい砂の感触がひんやりと皮膚に触れた。
 百合子は機嫌よく鼻歌なんて歌っていたが、不意につま先でぐっと背伸びをすると、ジョニーの鼻先からサングラスを攫った。象牙細工のように華奢で端正な足が波打ち際へ駆けていく。小さな花飾りのついたおさげの先が快活に揺れる。慌てて後を追うが、彼女は気まぐれなニンフの娘のように、突き出されるジョニーの手のひらをひらりとかわしてしまう。
「もう、百合子ってば!」
「うふふ、早く私を捕まえてくださいな!」
 楽しそうにくるくる回る彼女の一瞬一瞬がまぶしい。サンドレスの薄い裾は鳥が羽を翻して飛ぶように舞い上がり、見開かれた瞳のきらめきは天性の青さだ。
 ジョニーは一弾指息を止め、それから大きく足を踏んで彼女に抱きついた。きゃあ、と歓声が上がる。ジョニーの熊のような長身が細っこい百合子の痩躯にのしかかり、当然、二人して後ろに転がった。派手な水飛沫が上がり、その一粒一粒が陽を浴びて閃いた。
「捕まえた!」
 百合子の腰を抱き、ジョニーは喚声をあげた。愛する女を腕の中に捉えた戦士の勝鬨だ。
「捕まりました!」
 彼女は飾り気なく笑いながら、ジョニーの頭にサングラスを付け直してくれた。
 二人とも腰まで海水に浸かってずぶ濡れだ。波が引き、また押し寄せてきて、抱き合う幸福な鴛鴦のつがいの心までを洗った。
「ねえ、私のとっておきの秘密を聞いてくれますか」
「なんだい、僕のおチビちゃん」
「ジョニー……、大好き」
「参ったな。実は僕もなんだよ、百合子。世界でいちばん君が好きなんだ」
「嬉しい。キスしてください」
「仰せのままに」
 腰の上に百合子を抱き、期待に艶を帯びた唇に自分のを押し付けた。興奮でかすかに熱を湛えた粘膜が遠慮がちにもぞつき、ジョニーの唇の形を探る。
 口づけの間に彼女の子猫のような舌先が差し出され、ジョニーはそれを優しく吸い上げた。平手で包んだ頬へさらに血が上る。百合子の、優しさと善意による言葉しか知らない狭い内側は、ジョニーの舌に対しても至って貞淑だった。背の順に並べられた小さな子供たちのように規則正しい歯並びは、突かれると、おそるおそるその楼門を開く。ジョニーを誘ったはずの舌はいまや怯えて喉の方へ隠れ、それを追いかけるようにして、不躾な男の舌が奥の奥へ侵入する。
 長いまつ毛が涙にけぶる。潤む瞳はジョニーの写身を愛おしそうに丸く抱き込んでいる。
 ジョニーは彼女のすべらかな背に指を滑らせ、蝶の形に結ばれたリボンの紐の片方をそっと引いた。二つの羽は音もなくほどけ、華奢に引き締まった肋骨と、左右に端正に広がる鎖骨、深い母性を暗示する薄い乳房が露わになった。彼女もまた、おぼつかない指先でジョニーのシャツのボタンを探りあて、上から一つ一つ外していった。開かれた襟から露わになるのは、夏の小麦のように熟れた男の肉体だ。歳を重ねてさらに磨かれた石膏像さながらの胸筋はピンと緊張し、強剛に張り詰めていた。何ものにも侵されない城壁のような半身は、しかし、百合子の手に押されると、簡単に後ろへ傾いた。
 二人して、美しいモンデッロの、深い群青に潜りこむ。
 ジョニーは焦ったくシャツを脱ぎ、砂浜に向かう波の流れに放って、一寸先を浮遊する百合子を追った。彼女も同様に、ドレスをすっかり脱ぎ捨ててしまって、何にも隠し立てされることのない芳体が微光の中を触手の長いクラゲのように泳いだ。冗談みたいに白い。まばたきをすると、彼女の、手入れの行き届いた四肢のつま先や、髪の一本一本がだんだん透けてくるのがわかった。
 ……百合子は、こうして時折海水に触れていないと動けなくなることがあった。
 なぜかはわからない。そもそも、海を泳ぐ彼女の身体が透ける理由も、ジョニーは知らなかった。彼女が話そうとしないので、ジョニーも訊くことをしない。訊きたいとも思わない。たとえ、彼女が地球に飛来したタコ星人だったとしても、ジョニーはきっと彼女を愛することをやめない。どうだっていいのだ。
 透明な血管まで透けたガラス細工のような腕が、ジョニーの首に無邪気にじゃれつく。肩を抱いて引き寄せると、彼女は微笑み、唇を突き出してふたたびキスをねだる。望みの通りにしてやった。

「ほんとうに食べてもらえたらいいのに」
 地元住民も観光客も寄り付かない岩場の影で、ジョニーの肩から顔を上げた百合子が言った。
 吐精後の余韻で意識をかなたに彷徨わせていたジョニーは、初め彼女の言葉の意図を掴めないでいたが、冷たい指で額をくすぐられているうちに冷静な思考が戻ってきた。たしか、情けなく女性性の湖に溺れながら彼女にこう言ったのだ……「かわいい。百合子、食べちゃいたい」
「どうしたんだい……?」
「ジョニー、私、今が幸せすぎて怖いんです。両親は、……いなくなってしまったけど、兄さんがいて、ジョニーがいて、素敵なおうちがあって、ご飯はおいしくて。でも、もしこれが夢で……ほんとうは全部嘘だったら。本当の私は暗い夜の中でひとりぼっちだったら。考えると怖くて涙が出そうになるんです。それなら、夢から覚める前に、身体も心もぜんぶジョニーに食べてもらって、ジョニーと一つになりたい、なんて」
「……百合子」
「あ……へ、変ですよね、突然ごめんなさい。忘れてください」
 彼女が身を起こして離れてゆこうとするので、ジョニーは頼りないその肩をそっと引き寄せ、震える下瞼にキスをした。この少女は何を馬鹿なことを考えているのだろう。
「夢なわけ、ない、でしょっ」
「わ!」
 頬をつまんで引っ張る。百合子はなんでもなさそうに唇を尖らせて抗議したが、ジョニーが鼻先を近づけてその顔を覗き込むと、その目には言い逃れのしようがないほど黒く凝り固まった不安の影がじっと澱んでいる。よく観察すれば、唇は微かに青ざめて震え、眉間は苦悩が集まって深い影を刻んでいる。明るく快活な彼女らしくない表情だった。
 ウエストに腕を回してひん抱く。もしすべてが夢だったら、このやわらかさ、温かさはなんだ?
「百合子は気にしいなんだ。大丈夫。僕はここにいるし、君だってそうだよ」
「ジョニー……」
「それに、僕が君を大好きな気持ちを、簡単に嘘にしてほしくないな」
 しっとりと水気を帯びた髪を撫でてやりながらそう囁くと、百合子は静かに流涕した。透明な雨だれが瞬きと一緒にはじき出され、健康そうに膨らんだ頬を滲むように流れた。
 濡れた瞼が裸の肩に再び押しつけられる。抑えきれずにこぼれた嗚咽が、ジョニーの鼓膜を甘美に揺らす。なんでもないことなのに、百合子は相変わらず泣き虫だ。愛おしさにむずむずと胸をくすぐられ、その身体を腕の中にぎゅっと閉じ込めた。
 二人はその後も三度は互いの輪郭を見失い、五度は微笑み合った。岩の上で気持ちよく日向ぼっこをしていたミドリガニが、耐えかねて、そそくさと横歩きで逃げていく。


 Tutto in questo mondo è vero, ma alcune cose non devono essere vere.
 すべては真実だが、真実でなくてよいものもある。


 午前十時、バラーロ市場にて食材を大量に買い込んだあと、二人はいそいそと帰宅した。今日は夫妻が近所の友人知人を集めてホームパーティーを開く日だ。
 あらかじめ正午に集合するよう周知していたはずだが、パラドックスはそれより一時間も早くやってきた。
「まだ何もできてないよ」
「細君はともかく、君は掃除も料理も手際が悪い。助太刀が必要だろうと思ったのだが。……これは土産だ」
 片眼鏡の奥で涼やかな紫眼を眇め、彼は手に提げていた紙袋を差し出した。すらりとした上品なワインボトルに、ビオンディ・サンティの名と紋章を誇らしげに掲げるブラックラベル。ブルネッロ、しかもヴィンテージものだ。どうやら父親から継いだ診療所の経営はうまくいっているらしい。
 交わされる皮肉にもワインの価値にも全く見当がつかない百合子は天使の微笑みを浮かべ、礼儀正しい会釈とともに素直な謝辞を述べた。上機嫌でキッチンに戻っていく背中を格好を崩して見送るジョニーを、パラドックスは半笑いで眺めている。
 ジョニーが庭の手入れをしている間、パラドックスには客を通すリビングルームと、奥のサンルームの掃除を任せることにした。
 百合子の細やかな気遣いの行き届いた室内に、彼は珍しく感心したような様子を見せた。白塗りの壁は各国から取り寄せた明媚な風景画が何枚も飾られ、格調高い大理石の床にはエキゾチックな模様織りの絨毯が敷かれている。細かな彫刻の施されたマホガニーのキャビネットに飾られているのは、ヴィネツィアングラスの飾り皿や銀の水差し、聖ミケーレにまつわる伝説が有名な陶器のベルなど、瀟洒な小物ばかりだ。ビザンティン文化の影響を強く受けたトルコ風の窓辺や、ガラス製のダイニングテーブルは季節の花で華やかに縁取られ、アンティークのレコードプレイヤーからは、ゆったりとしたクラシックが流れていた。アカンサス紋様で縁取られた天井には、画家がこの部屋のために描いた美しいフレスコ画が嵌め込まれている。
「見事なものだ。芸術の情緒をちりほども理解しない君の家とは思えんな」
「君はどうしてそう……まあ、たしかに、これほとんど百合子が揃えたものなんだけどさ。僕には価値がよくわからないけど、彼女の好きな物がたくさんあるのはいいことだ」
「ふむ。だがこの絵は君が選んだものだろう。なかなかどうして悪くない」
 パラドックスが示したのは、スイスのフィヨルドを描いた六十号の絵画の、その下にそれとなくかけられた小さなパネルだった。彼女の故郷を訪れた際に購入したもので、オレンジ色のフジヤマが描かれている。
「なんでわかるの」
「長い付き合いだからな」
 彼の好意は相変わらずよくわからない。
 十二時五分、三人がかりで、やっとの思いで準備が整うと同時に、招待客が次々と到着した。
 最初にやってきたのは、向かいの家に住むアポリア夫妻と、一人息子のルチアーノだ。一家はジョニーたちがこの家に越してきたばかりの時から交流があり、特にルチアーノは、お姉ちゃんと呼んで百合子をよく慕っていた。
「こんにちは。みなさん、我が家にようこそ」
「百合子!」
「まあ、ルチ。また背が伸びましたね。それにお顔も大人っぽくなったみたい」
「当然だよ! なんてったってボク、もうすぐ十歳になるんだ。あと八年経ったら、お姉ちゃんを迎えに行くからね」
 百合子の腰に抱きついたルチアーノは、甘えた声を出しながら、ジョニーだけがわかるようににやりと意地の悪い笑顔を見せた。あれは絶対に確信犯だ。子どもにだけ許されることがあると知っていて、それを存分に活用している。
 百合子との長い挨拶を終えたルチアーノは、すれ違いざまに、ジョニーに向かってあっかんべをした。
「やーい、ジョニーのバカ。悔しかったら反撃してみろよ。当然、百合子はボクの味方になるに決まってるけどね」
 この上なく生意気な小僧だ、百合子がイタリア語を理解しないと知っていて。
「たしかにそうかもしれないな。でも、それは君がまだ子どもだからだ。味方してくれなくたって百合子は僕の妻だ。君には絶対、死んでも渡さないぞ」
「それはどうかな? ジョニーはアホだし、いくじなしだし、ボクのほうがずっとカッコイイし。百合子、心変わりしちゃうかも」
「こいつ!」
 ジョニーが小さな身体を捕まえてくすぐると、ルチアーノは足をバタつかせて抵抗し、ジョニーの右腕に噛み付きもしたが、百合子が見ているとわかると一転して嘘泣きをはじめた。息子のやんちゃな性格を深く理解している両親とは対照的に、百合子はすぐに駆け寄ってきてジョニーから彼を引き剥がし、ばか正直にその身を案じた。
「お姉ちゃん、痛いよ。ジョニーのやつ、ボクの頭を叩いたんだ、ゲンコツで!」
「僕はそんなことしてないぞ! 百合子、信じて。ルチアーノは嘘をついてるんだ」
「ジョニー、ルチはまだ子どもなんですよ。あんまりいじめたら可哀想でしょう」
 百合子は縋りつくルチアーノの額をやさしく撫でながら、眉根を寄せ、少し怒ったような顔をしてみせた。そのときルチアーノが見せた勝ち誇ったような笑みといったら、なかった。
 一家をリビングルームに案内したあと、百合子は背伸びしてジョニーの耳元に唇を寄せ、こんなことを言った。
「ジョニーってば、ルチに揶揄われていたでしょう。ほんとうは叩いてもいないのですよね」
「百合子」
「簡単なイタリア語なら、私にもわかります。心配しなくても、ジョニーは世界で一番格好良くてスマートですよ」
 彼女の小さな唇が蝶のようにジョニーの頬に触れ、すぐに離れていった。
 黒目がちな瞳が少しばかりの羞恥を帯びてジョニーを見上げ、すぐに逸らされる。自分から仕掛けてきたくせに、耳まで真っ赤にして、小さくなって俯いている。
 周囲に誰もいないのをいいことに、恥も外聞もなく、ジョニーは愛しい妻を抱きしめた。彼女の細い身体の輪郭は、ジョニーの感覚器官を大いに充し、楽しませた。かわいい。愛おしくて胸が苦しい、大好きだ。
 百合子は必死になって身を捩ったが、ジョニーは彼女の抵抗を愛らしい乙女の恥じらいと思って真面目に取り合わない。
「ジョニー、後ろ。後ろ!」
 背中を叩かれ、涙声で訴えられて、ジョニーはようやく彼の背後を顧みた。リビングルームから二人を隠す漆喰の壁、その影に隠れるようにして、悪魔か死神か、こっそりと覗く人影が一つ。莞爾と微笑んだルチアーノが、弁えず愛し合う夫婦を眺めている。
 宴会の席での話題は彼によって大いに盛り立てられるだろう。
 最悪だ……。

 百合子が腕を振るって作ったシチリア料理や彼女の故郷の伝統料理の数々が、目も舌も大いに肥えた賓客たちを喜ばせた。彼らはワイングラスを片手に和やかに談笑し、やがて夫婦の案内を受けて外庭に出た。
 三階建ての白い家屋は小さな城のように厳格な構造(かまえ)を誇り、新人庭師が慌てて手を入れた二千平方ヤードの庭園は、薔薇や芍薬、百合、ペンタスなど、彼のプリンセスを喜ばせるための花で満たされていた。噴水の水盤からこぼれる飛沫は陽光に照らされて宝石を宙に撒いたような幻想を見せ、よく磨かれた石畳の上を影法師となって優雅に滑り落ちてゆく。夫婦の家は美しく、その昂然たることに、人々は夫婦の生活に欠け一つないことを知った。
 しかし、幸福は長くは続かないものだ。
 斜陽が庭中を赤く照らし、人々の横顔に墨のような翳りを落とす夕暮の頃、ジョニーは彼の肩によりそう妻の姿に奇妙な予感を覚えた。……あまりにも美しいのだ。恋のためらいに目尻を潤ませていた少女のころから彼女は美しく、ジョニーもそれを好ましく思っていたが、それとは訳が違う。彼女の全身に影のようにのしかかり、肉や骨の一かけに至るまでを支配せんとするような、圧倒的で、人間離れした美しさ。あまりにも完全で、それ故に人間の正気を感じさせない、無機的な美しさ。そして、彼女の皮膚や瞳や細い髪の一本一本は、命の器としての肉体に不相応なそれを支えているのに耐えかねて、すっかり辟易しているように感じられた。
 朝、百合子が口にした一抹の不安。ジョニーはそれを取るに足らないものと思い、華やかなパーティーの雰囲気や香りの良いワインの舌触りに酔ううちにすっかり忘れてしまうほどだったが、予感が首にひたりと押し当てられたのを感じた時、はからずもそのことが彼の頭をよぎった。
「今が幸せすぎて怖いんです」
 ささやきが蘇る。
 予感は不吉だった。恐れが背筋を駆け上り、そのあまりの冷たさにジョニーは深くため息をついた。心臓の音が警鐘を打つように全身に響き、また、暗色の興奮のために、その指は小刻みに寒慄した。
 不安のうちにジョニーが妻に視線を向けたとき、彼女もまた、彼のことを見上げていた。
 震える唇が何か言おうと蠢く。青い瞳に何か不定形の影がよぎり、かと思えば、不意に、華奢な身体がぐらりと横に傾いた。細い手足や結った髪が宙に踊り、その様子は操り糸をふっつりと切られた人形を思わせた。統率を失った頼りない身体は芝生の上に放り出され、そのまま動かなくなった。
 しばらく、誰も、何も言えなかった。
 最初に動いたのは、海を眺めながら一人で飲んでいたパラドックスだった。彼は持っていたグラスを動けずにいる客の手の中に押し込むと、倒れた百合子に駆け寄り、腕の中に抱いた。臥した身体を仰向けにし、頬を軽くはたいて呼びかける。見開いた目は何もかもを平等に映しとるガラスのようだ。顔色は病的に白かった。意識がない。
「この馬鹿、何をぼうっとしている。早く手を貸せ!」
 彼の鋭い一喝で、ジョニーはようやく正気を取り戻した。慌てて百合子に近づき、その肩をゆする。支えを失った小さな頭がぐらぐらと前後に振れる。
「百合子、百合子しっかりしてくれ。いったいどうしたっていうんだ? 百合子!」
「喚くな。ゆするな。彼女を私の診療所に運ぶ。車を出せ」
 ジョニーがその身体をかき抱き、名前を呼んでも、彼女は何の反応も返さない。かろうじて薄い胸が緩く上下している。
 ルチアーノがわっと泣き出した。

 深夜、百合子はベッドの中にいた。大小さまざまな大きさの毛布が彼女の細い身体を包み、その隙間からほっそりと伸ばされた手は、ジョニーの硬質な掌にしっかりと握られていた。
 ランプのほの灯りが、ふっくらと生気を取り戻した頬やきらめく海の瞳、軽く結ばれた唇を薄く平坦に照らしている。髪が横に流れたことで露わになったすべらかな額を、ゆるく曲げた人差し指でそっと撫でてみた。百合子はくすぐったそうに小さく笑う。
 夕方にあったことがまるで嘘のようなおだやかさだ。
 ともすれば崩れ落ちそうになる膝を必死に奮い立たせながら、百合子をパラドックスの診療所に運び込んだ。パラドックスはすぐに検査を行い、彼女の身体の隅々までを検分した。しかし、
「神経調節性失神」
「……」
「の疑いあり、だ。断定はできん。冠攣縮性狭心症……心臓疾患の類、あるいはストレスに起因する身体症状症も考えられるが、どこにも異常が見られない以上、原因を特定することはできない」
 血液検査や心電図検査は、彼女の身体のどこにも異常を見出さなかった。どのデータも、彼女が至って健康かつ正常であると示すのだ。
「そんなわけがない。ちゃんと調べてくれ」
「詳しい検査がしたければ、もっと大きな病院にかかることだな。紹介状は書こう。だが、設備自体はうちのものとそう変わらん。出る結果は同じだ」
 口ではそう言いながらも、パラドックスは納得もいかない様子だった。
 自律神経を整えるための漢方薬をいくつか処方され、ジョニーは百合子を伴って帰宅した。
「疲れが溜まったんだ」
 頬や唇にも指を滑らせながら、ジョニーは低く、優しく囁いた。
「たくさん食べてしっかり寝ればすぐよくなるよ。心配しないで」
「ジョニー……」
「ん?」
「ありがとうございます。ジョニー、だいすき」
 ぼんやりと潤んだ夢うつつの瞳が、ジョニーを見て、ゆるやかに目尻を崩す。触れたら簡単に消えてしまうような、薄氷の微笑み。
 百合子が倒れたその時、ジョニーの全身を駆け巡ったあの不吉な予感が、再び彼の心を押し潰した。
 六年前、パレルモの町中を走り回ってようやく百合子を見つけたかの日、ジョニーの予感は見事に実現したのではなかったか。そう、彼の予感は当たるのだ、残酷なほどに。
 現代医学は彼女の身体に何の異常も見出さなかった。しかし、ジョニーにはわかる。不思議に透ける四肢。水の中を自由に回遊する肉体。ジョニーが何よりも愛おしむこの少女は、ジョニーが知り得ない何者かによって侵されはじめている。
「百合子……」
 寝息を立てる百合子の痩躯を、ジョニーは力の限り抱きしめた。
 一体誰が、実直なこの青年から愛する妻を奪い去ろうとしているのだろう?
 答えはない。今はまだ、その時ではないのだ。


 シチリアにも秋がやってきた。
 わずかに日差しの和らいだパレルモ郊外の丘を、二人の男が歩いていた。一人は二メートル近い長身の美丈夫で、秋の麦穂のようなこがね色の長髪を涼しげに翻し、大股でずんずんと先を闊歩する。遅れて、二人分の大荷物を抱えたもう一人が、女王に付き従う働きアリよろしく、汗だくになってそのあとを追った。彼が石畳の溝や欠けたタイル片に躓きそうになるたびに、短く切り揃えた黒髪が揺れる。
 不動遊星、二十五歳。成田空港からシンガポールミュンヘンを経由して、ここパレルモの地に降り立った。
「遊星よ、もうとっくに通り過ぎてしまったのではないか? 一度引き返すのはどうだ」
「いや……、もう少しで着くはずだ。ほら、あの家じゃないか」
 クッチョ山を背後に建つ、三階建ての、小さな城のような構えの一軒家。真っ白な壁は午後の陽に真珠色に輝き、高い石造りの塀からは、棕櫚の葉や、秋薔薇の可憐な花房が、風に吹かれてかすかに揺れるのが見える。
 遊星はその様子を、目を眇め、まぶしいものを眺める思いで見た。
 百合子の家だ。

 再会の熱い抱擁を期待していたわけではないが、それにしても、ドアから顔を出したジョニーの顔にあまりにも覇気がなかったので、遊星はすっかり拍子抜けしてしまった。
 結婚式のとき、叙階を受ける司教のように胸を張り、誇らしげに花嫁に口づけをしたあの男は、今や見る影もなく痩せていた。来訪者に送られる視線は苦悶を隠そうともしない。伸びた髪は手入れを怠ったために乱れてところどころ跳ね上がり、目の下には隈がくっきりと浮かんでいる。いつも闊達として、若々しい魅力に溢れていた彼と同じ人間であるとはとても思えなかった。
「やあ、遊星。久しぶり、ジャック。よく来てくれたね」
「ジョニー……少し痩せたのではないか」
 彼にジャックを紹介したのは二人の結婚式の日で、今日は二度目の対面になるが、そのジャックでさえ、目の前の男の様子がおかしいと気づいたようだった。
 彼は力無く首を振り、微笑む。
「それよりも百合子が……」
 遊星が妹の失神を知らされてからもう二月ほどになる。彼女の容態は決して思わしいものではない。
 初めは週に何度か意識を失うくらいのものだったが、日が経つにつれて高熱や身体の節々の痛み、肺炎などの症状が現れるようになり、彼女はすっかり消耗していた。今では起き上がることすらままならず、ジョニーの懸命な介抱を受けながら、一日の大半をベッドの上で過ごしている。さらに悪いことには、どの医者に診せてもその原因がわからないというのだ。投薬治療から民間療法に至るまで、あらゆる手を尽くしたが、彼女は衰弱していく一方だった。
「最近では起きている時間の方が短いくらいなんだ。今も寝てると思うけど、よかったら顔だけでも見ていってくれないかな」
 ジョニーに案内されたのは、三階奥の、南向きの部屋……夫婦の寝室だった。
 ドアを開けてすぐ、むせかえるほどの甘い香りが遊星の鼻腔をくすぐった。花の香りだ。部屋はさまざまな種類の花で満たされていた。それは例えば蘭の花や薔薇、紫陽花、カーネーション、カメリア、桃やはたんきょうの長い枝に咲いた花々や、いく抱えあるとも知れぬジャスミンの花々などだった。花々はまるで古代の神々の迷路のように、あるいは美姫を隠す薄い雲のヴェールのように、三人と百合子の眠るベッドの間を遠く隔てていた。
「百合子。起きてる?」
 ガウラの白い花弁を押し分けながら、ジョニーはベッドに近づいた。
 彼の広い肩越しに、遊星は妹を見た。百合子は薄藤の絹のネグリジェにレースの羽織を見につけて、ベッドに寝そべっていた。カーテンのわずかな隙間から白昼の光が差して、彼女の全身を薄闇の中につまびらかにした。
 その顔は熱く火照り、高熱がもたらす苦痛が端正な眉の間にくっきりと刻まれていた。汗で濡れた前髪が額に貼りついている。ネグリジェの襟元は広くくつろげられ、白い皮膚薬を塗られた鳩尾と、静かに女の展望を見せる小さな乳房が露わになっている。
 薄く開かれた唇は甘やかに、苦しげに喘鳴し、その合間に、百合子はジョニーの名前を呼んだ。冬の枯れ枝のようになった腕が夫を求め、ジョニーはそれに応えて、彼女の唇や頬に悲痛な接吻を浴びせた。
「百合子、義兄さんたちが来てくれたよ」
「まあ……兄さんが……」
「呼んでもいいかな?」
 百合子が首肯し、二人はベッドに近づいた。
 哀れな妹は、兄と、その恋人の姿を見とめると、憔悴しきった顔に嬉しそうな微笑みをのぼらせた。
「遊星兄さん、ジャック、遠いところから……ありがとうございます。こんな格好で……お相手もできなくてごめんなさい」
「いいんだ。そのままで、何も喋らなくていいから……」
 すっかり憔悴しきった、羸弱でいたいけな妹。幼い頃は遊星の後ろをちょこちょことついて回り、将来は兄さんと結婚するのだと言って憚らなかった妹。頬を薔薇色に染めて、嬉しそうな顔をして、異国で出会った青年と恋に落ち、嫁いで行った妹。いつも溌剌として、美しく優しかった妹。薄い微笑の上に健康で幸福だった彼女の幻想が次々に蘇り、遊星は胸をきつく詰まらせた。再会の挨拶もそこそこに駆け寄り、か細い蒲柳の身体を懸命にかき抱いた。
「兄さんってば、ひどいお顔。あまり寝ていないのではありませんか? ジャック?」
「ああ。家を出てからこの家に到着するまでの三十七時間、遊星は一分たりとも睡眠を取らなかった。それもこれも、お前がいつまでも寝込んでいるからだ。こいつを心配するくらいなら、早く自分をなんとかしてしまえ!」
「ジャック、なんてことを言うんだ」
「いいえ、兄さん。ジャック、ありがとうございます。そうですよね、いつまでもみなさんに心配をかけるわけにはいきませんから……」
 健気にも気丈に振る舞おうとする妹がいじらしくて、切なくて、遊星は彼女をますます強く抱いた。
 彼女の苦しみを代わりに背負えたらどんなに良いだろう。
 ジャックは難儀だとばかりに眉を吊り上げ、腕を組んで唸った。ジョニーの表情は逆光に翳ってよくわからない。

 四人で昼食を取ったが、百合子はまた料理を残した。
 流動食でなければ喉を通らない彼女のために、りんごの擦ったものや、限界までふやかした粥を用意するのだが、ほんの数口食べただけで、彼女はもう十分だからと匙を置くのだ。ジョニーの作るご飯はなんでも好き、と言ってくれた、かつての彼女の姿を思い出す。
 まだ八割ほど中身を残した皿を水に晒し、洗い流す。振って水滴を落としたものを横に渡すと、ジャックの無骨な手がそれを受け取り、柔らかいふきんで拭う。
「ジャックって、意外と家庭的なんだ」
 ジョニーの発言は失礼極まりないものだったが、彼は苛立つこともなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「放っておくと、遊星は飯も食わなければ風呂にも入らない。俺がやらなければ死ぬぞ、あれは」
「でも、君なら家政婦を雇って派遣することもできるだろう? わざわざ自分でやることもないじゃないか」
 兄妹の幼なじみにして、遊星が長年の片思いを実らせて手に入れた恋人、ジャック・アトラスは、世界的メンズファッションブランド〈アトラス〉のオーナーだった。企業経営から商品のデザイン、イメージモデルに至るまでを一手に担い、その辣腕で業界のトップに上り詰めた若きカリスマだ。
 ジョニーが学生の頃から愛用しているオーデコロンもアトラス社のものだ。だから、百合子との結婚式で遊星から彼の紹介を受けた時、ジョニーは腰を抜かすほど驚いた。噂に違わぬ美貌や威風堂々たる佇まい、尊大な立ち振る舞いに、本物は格が違うのだと妙に納得したものだった。
 そんな彼が、遊星が適当に選んだ田舎のアパルトメントの一室にその長身で押し入って、料理に洗濯にと世話を焼いているさまを想像すると、あまりのアンバランスさに笑ってしまいそうになる。
「俺は遊星に惚れている。遊星のために働き回るのは、まあ、趣味のようなものだ」
「……」
「金だけではどうにも押し通らないことが、この世にはままあるということだな。例えば、百合子の不調……さて、お前は彼女について、どこまで知っている?」
 ジャックは最後の一枚をすっかり綺麗にしてしまうと、手についた水分をふきんで拭いながらジョニーを見た。
 深い紫色の瞳が理性を帯びてかちりと煌めく。宝石に入ったひびのような形の虹彩が、ジョニーに全ての意識を向けていた。居た堪れなくなり、ジョニーの視線は遊星を探してキッチンを一巡したが、すぐに彼が百合子の部屋に残ったことを思い出した。
 ジャックが、ジョニーの胸の内に閉じ込められた疑念をつまみあげ、その存在を炙り出そうとしていることは明らかだった。だが、一体何のために? 彼は何を知っている?
「あ……ええと、原因はまだわからないんだ。いろいろな病院を回ったけど、どこにも異常が見つからない。悪いところがないとなると、病気かどうかも……」
「何を恐れている? もっと本質的なことだ」
「本質的なこと」
「例えば、……あの女はどこから来たのか、とか」
「まさか」ジョニーは押し殺していた息を吐き、目の前の男を見た。「*百合子が誰なのか*、知ってるの……?」
 不思議な百合子。原因不明の病。彼女が普通でないことはもはや明白だった。
 遊星と百合子はよく似た兄妹だが、その質が異なるものであることはジョニーにもなんとなくわかった。男だとか女だとか、年上だとか年下だとか、そういう問題ではない。皮膚の下に流れるものが違う。呼吸の時、吸って吐き出すものが違う。よく似せて作られているが、二人は本来相入れないはずの、異界のもの同士だ。
 ——百合子は人間ではない?
 それは恐ろしい天啓だった。逆境にあっても朗らかで、誰にでも優しい、天使のような百合子。ジョニーだけをひたむきに愛してくれる百合子。ジョニーと寄り添って生きることを望んでくれる百合子。誰よりも愛おしいその少女が、そもそも属する場所の違う、一生混じり合うことのできない異邦のものかもしれない。
 ジョニーは、たとえ百合子が地球に飛来したタコ星人だったとしても彼女を愛する自信があったが、それはその発想が現実のものでないという確信のもとに成りたったものだ。もし、真実になったとして、果たしてジョニーは正気でいられるだろうか。彼女を愛し続けることができるだろうか。
 人間は、自分とは異なるものを排斥したくなるようにできているのだ。
「……そう不安がることはない。真実はもっと単純だ」
 ジャックはジョニーの葛藤を見透かして、くつくつと低く笑った。
「百合子は人魚なのだ」
「人魚?」
「そうだ」
「人魚って、人魚(mermaid)?」
「ああ」
「に、人魚。へえ。だからあんなに綺麗なんだ……」
 その反応なら問題ないな、ジャックはジョニーから視線をふっとそらし、勝手にメーカーでコーヒーを淹れはじめた。
 人魚。人間の特徴と魚の特徴を併せ持つ架空の動物。物語の中ではしばしば女性の上半身と魚の下半身を持つ生き物として描かれ、その起源は、アイルランドのメロウやギリシャ神話に登場するセイレーンなどの伝説に見ることができる。
「むろん、本物の人魚などこの世に存在しない。百合子は人工的に作られた、最初にして唯一の人魚だ」
「……どういうこと?」
「彼女は、動物の遺伝子を人間の受精卵に組み込む実験の最初の被験者だ。たった一人の科学者の暴走の末路だ。被験者は複数いたらしいが、(規制)の遺伝子を打ち込まれた彼女だけが、生物としてこの世に生まれるに至った。結局、この実験は告発され、結されるに至ったが、生まれた個体を廃棄することは誰にもできなかった。それを引き取って育てたのが、遊星の両親だ。彼女は百合子と名付けられ、以後お前の元に身を寄せるまでの七年間、本当の娘のように育てられてきた。
 ここまでは良い。問題は、この実験が凍結されたことで、彼女の身体に起こるその後の変化を観測する人間が誰もいなくなったことだ。
 これは俺の仮説でしかないが、おそらく、彼女の不安定な遺伝情報が何らかの不具合を起こし、このような原因不明の不調を引き起こしているのだろう。となると、普通の医者には彼女を治療することはできない。科学者は獄中で狂気を引き起こし、彼女の両親はもういない」
 (規制)についてはジョニーも知っている。イタリア半島近郊の海にも生息する、ごくありふれた海洋生物の名前だ。それだけに、ジャックの話はまるで現実感がなく、突拍子もないものだった。だが、彼はやたらに冗談を言うようなたちの男ではない。ジョニーに差し向ける眼差しは変わらず誠実なものだったし、百合子の、おとぎ話のような真実を語る声はいやに静謐だった。
「遊星はこのことを知らない。百合子本人でさえも、自分が普通でないとわかってはいても、ここまで仔細な事情までは知らないだろう。彼らの両親は俺だけに秘密を打ち明けた。なぜかは、わからない」
 コーヒーが出来上がり、彼はそれを取って啜った。
「……つまり、百合子は(規制)と人間のあいのこだけど、それぞれの遺伝情報が噛み合わなくて今不調を起こしてるってこと?」
「仮定の範疇だがな。なんだ、いやに飲み込みが早いな」
「予想していなかったわけじゃないんだ。その……百合子が、人間じゃない、ってこと」
 擦り切れてもはや形も曖昧な記憶だが、子供のころ、ジョニーは人間と種を別にする何者かに遭遇したことがあった。彼女は、妖しい色違いの目、鉱石めいた輝きを放つ目でジョニーの過去から未来に至るまでに光を当て、その一つ一つを拾い上げて検分した。彼女が見せた、闇の中に蠢く怨恨は、百合子を無惨な形で奪われた未来のジョニーだったかもしれない。どうして今まで忘れていたのだろう、まるで何もなかったかのように?
 ジョニーは彼女によって、人類の庭の外側で生きる未知のものたちの存在を知ったのだ。ジャックが語る百合子の可能性に取り乱さず、ひとまず受け入れるだけの器は出来上がっていた。
「俺がその馬鹿げた話を信じたのは、彼らの両親を尊敬し、愛していたからだ。そして、百合子本人からも、それを裏付ける証拠となりうるような相談を受けていた。……十二歳のとき、風呂に浸かる自分の身体が透けるのだと、百合子は泣きながら俺に訴えたのだ。そうでなければ、俺は彼らの話を物好きな科学者夫婦の妄言と断じて取り合わなかっただろう。それだけに、今、お前が俺の話を馬鹿正直に受け入れたことがふしぎでならん」
「同じことだよ」ジョニーは肩をすくめ、「僕も好きだ。百合子のことも、君のことも……」
 兄妹の歓談を終えたらしい遊星が階下に降りてきた。その右腕に軽々と抱き上げられて、照れたように笑う百合子もいる。
 遊星は奇妙な格好で向かい合う恋人と義弟を見ると、ほっとした様子でまなじりを緩めた。
「何の話をしていたんだ?」
「少しな。百合子、ベッドから出ても良いのか」
「兄さんが一度ホテルに戻るというので、見送りくらいはしなければと思いまして。そうしたら……こんな、小さな子どもみたいで恥ずかしいです」
「遊星はお前が心配でならんのだ。抱っこくらいさせてやれ」
「遊星、もう帰っちゃうのかい?」
「ああ……とりあえず寝たい」
「昼寝くらい、ここでしていけばいいのに」
「馬鹿者、夫婦の邪魔をしないようにという義兄のおもんばかりを汲まないか」
 遊星はL字ソファの長い部分に百合子をそっと横たえると、その眉を親指で優しく撫でた。幼い子供にするような愛撫に百合子は気恥ずかしそうにぱちぱちと瞬きをし、下瞼を花の色に染めた。にいさん、舌足らずな声が彼を呼ぶ。
「俺たちは旧市街のホテルにしばらく滞在する。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ありがとう」
「百合子、俺の心はいつでもお前のそばにある。愛しているよ」
 瞼にかかる髪をどけてやりながら、遊星の掌が百合子の頬を包む。口づけが彼女の額を訪れ、続いて、恋人に促されたジャックの唇が同じ場所へためらいがちに触れた。
 二人の兄が部屋から去ると、緊張の糸がすっかり切れてしまったのか、百合子は再び三十九度の高熱を出した。幻覚すら見ているようで、仕切りに父親を呼びながら、折角食べた昼のものを二度に分けて嘔吐した。もう何も胃に残っていないのに、頻りになにかを吐き出そうとする唇。懐かしい面影を求めて必死に虚を掻く痩せ細った手。ジョニーは、苦しみ喘ぐ妻の背をさすることしかできない愚かで甲斐性のない夫だ。
「おとうさん、おとうさん、おとうさん、おとうさん」
「……」
「おとうさん、どうして……を、……たりしたのですか……」
 彼女に熱どめの薬を飲ませてやりながら、ふと、ジョニーは自分の携帯にメールが一件届いているのに気がついた。横目で液晶を盗み見る。ジャックからだ。件名はなし、本文は簡潔に、
『覚悟を決めろ』
 ……何だって?

 夜の間こそ、ジョニーにとっては戦いだ。
 二十四時間休むことなく不可解な苦痛の脅威にさらされ続けている百合子のことを思うと、ジョニーはおちおち寝こんでもいられないのだった。いついかなる時も城壁を守ることを強制された番人のように、ひたすらに神経を張りつめて、隣で眠る百合子の寝顔や、不規則な寝息に意識を集中させる。
 部屋に満ちる微光のために、百合子の肌はほの青く透き通っている。閉じた瞼は薄く漉いた紙のように白く、唇は強く噛み締められたために血が滲み、豊かに艶を帯びていたはずの黒髪の中にはちらほらと枝毛が散見される。胸の前で組まれた指は肉がすっかり削げて骨の形を露わにし、関節すら浮き出ている。痩せ細った病人の、朽木のような寝姿だが、それでも、ジョニーは彼女を美しいと思った。月光の滴りが彼女を無原罪の聖母に喩えあげていた。
 肌も唇も髪も、何もかもが薄くて、儚い。一度触れればはらはらと散ってしまいそうだ。それでも、ジョニーは彼女を腕の中に閉じ込めてしまわずにはいられなかった。
「百合子……」
 かすかな呟きはジョニーの中でたわみ、反響して、幾重にもこだまする。
 百合子……百合子。百合子、百合子——
 海鳴りのように、葉の擦れる音のように。彼女の名前はジョニーの細胞や血管の先に至るまで渡る。意識は鳴響の間に揺れ、もまれて、緩やかに拡散していく。
 解かれていく自我の糸が誰かに手繰り寄せられる。
 ジョニーは夢を見た。

 白く霧のかかった山をひたすら登っている。
 シチリアの山々のように、低木や野草ばかりの岩山ではない。ジョニーの歩む山道には黒く鋭い針のような葉をつけたもみの木が鬱蒼と繁り、太くごつごつとした幹たちの間を、白くけぶる霧がゆるく流れている。空の様子は、夥しい量の葉に覆われてほとんど窺い知れない。ジョニーの行手も、霧のために見通しが利かない。
 ジョニーは上を目指して歩き続ける。尖った枯れ枝が彼の服や肌を裂くが、不思議なことに痛みはない。靴底ごしにその形がわかるほど大きく角ばった石も、冷たい大気も。彼の歩みを止めることはできない。だが、何のために歩いているのか、どこに向かっているのか、彼の知るところではなかった。
 ふと、霧が晴れる。
 木々の連なりが途切れ、ジョニーはいつの間にか開けた場所に出ていた。ジョニーの視線の向かう先に、一際大きなトネリコの木が生えていた。幹だけで五メートルはある巨木だ。天を衝くように伸びた樹冠はみずみずしい葉で覆われ、所々に、白い靄のような花が寄り集まって咲いている。根本には小さな湖が湧き、その水面で、一人の女が座って糸車を回していた。
 いや、女ではない。ジョニーは彼女のことを知っている。男の目には至高の女として、女の前には究極の男として映り、そのどちらにも当てはまらない小さな少年だったジョニーに神秘を教えた存在。虹彩異色症、雌雄同体の魔女。遊城十代
 ジョニーが来たことに気づくと、彼女はペダルを踏む足を止め、やあ、と軽やかに手をあげた。
「久しぶりだな」
「百合子を助けてくれ」彼女の姿を見るや否や、ジョニーはそう叫んでいた。
「なんだよ。再会のあいさつにしてはいやに横暴だな」
「そんなこと言っている場合じゃないんだ。百合子が死にそうなんだ。君ならできるだろ、十代。僕に運命を見せたのは君だ」
「落ち着けよ。急いては事を仕損じる、だぜ」
 十代は放漫に脚を組み直し、きらめく神秘の目でジョニーを見た。
 十代は、初めて会った時とはまるで別人のようだった。浮浪者のような無粋な格好はやめたみたいだ。奇妙な形をしたモザイクの肉体は目が覚めるほど赤いショートドレスに覆われ、剥き出しの肩には似合わない白衣を羽織っている。その襟元に輝くのは何かのロゴをかたどった金のバッジだ。ともすれば見えてしまいそうなほど短い裾からはふっくらと健康そうに張り詰めた女の左脚と若鹿の脚のような少年の右脚が伸び、ヒールのついたパンプスと、底の平坦な革靴が、それぞれの足を大事そうに覆っていた。
 理想の女に心酔し、その足下に傅く男のように、ジョニーは湖畔に座した。男の本能が十代を手に入れろと騒ぎ立てていたが、しかし、彼は本来の目的を忘れてはいなかった。
「百合子の病を治してくれ。多分、君にしかできない」
「……」
「彼女は僕のすべてなんだ。この世の何よりも彼女が大事なんだ。彼女が健康に、幸せに生きられるのなら、僕は命を捧げたって構わない。今ここで死んでもいい」
 十代はジョニーの言葉に静かに耳を傾けていたが、その目は冷たく、無機質なきらめきを帯びてジョニーを見下ろしていた。ヒールの底が、湖の水面をコツコツと打った。
 ジョニーが懇願を終え、希望のうちに十代を見上げて、ようやく彼女はその口を割った。
「オレは、……ミラクルを起こすことはできないと、お前に言ったんだ。人を生き返らせたり、歴史を変えたりすることはできないと。でも、物理現象として筋が通ってさえいれば、ミラクルは起こせなくても奇跡は実現できる。百合子を救うには、簡単なことだ、彼女の身体から、人間が本来持ち得ない神秘の要素を取り除けばいい。そして、人間の組織すら自在に操れるような膨大な燃料、エネルギーさえ用意できれば、それは不可能じゃない。
 だが、この世に偏在するエネルギーの量は一定だ。創世のその時に宇宙を満たすエネルギーの総量は定められ、以来、一度たりともその均衡が破られたことはない。地球についても同じことが言える。地球の重力の影響下にあるエネルギーもまた一定のもの。だから、お前は百合子一人を救うために、長い宇宙旅行をするか、そうでなければ地球のどこかからエネルギーを集めてこなければならない。膨大な量だ。お前の命ひとつじゃその一片も担えない。
 想像できるか。彼女一人のために、多くの人間の、動物の、生き物の命が奪われる。同じように誰かを愛し、誰かに愛された命が、たった一人の女のためにゴミのように消費される。普通の現象とは訳が違う。イタリア半島ごと吹き飛ぶかもしれない。それでも、お前は彼女を救うために動けるのか? 自分の信条も、信仰も、信念さえ、彼女のために捨てられるのか?
 オレはできたさ。でも、それでもうまくいかなかった。結局オレは一人のままだ……」
 そこまで言うと、十代は一仕事終えたみたいにふうっと肩で息をして、再び糸車を回し始めた。
 赤いヒールの足が規則正しくペダルを踏む。フライホイールが回転し、彼女の手のなかで怪しく輝く赤いもやが、糸になってボビンに巻き取られていく。
「お前には無理さ。お前みたいなお人好しには、人の命を摘むことなんてできない。何より、優しい彼女がそんなこと望まないって、お前はよく知ってるんだ。だからひとついいことを教えてやる。彼女を生かす、唯一にして最良の方法」
「……どうすればいいんだ、教えてくれ」
「あの子を海に返せばいい」
 ジョニーは絶句した。
「(規制)を知ってるだろ。あれは生き物じゃない。人間は彼らをただの魚だと思ってるみたいだけど、本当は、俺たち魔女と神秘の領域を共有する同胞だ。言うなれば本物の人魚だ。有史以来、彼らは独自の言語で交信し、共同体を形成することで、人間たちのものとは別の高度文明を作り上げてきた。その、(真名)たちの神秘性が、あの子の人間の部分を冒しているんだ。あの子がいま苦しんでいる病に似たものは、人間性が神秘に抵抗しようとして発生する防御反応のようなものだ。医者が治療も原因の特定もできない理由がそれさ。
 とはいえ、その抵抗だってきっと長くは続かない。このまま陸に繋いでおけば、人間としてのあの子は完全に食い潰され、意味をなさなくなる……つまり死ぬ。でも、海に返せば、あの子は少なくとも(真名)として生きることができる。もちろん、違う生き物になるんだから、お前を愛してたことも、お前自身のこともわからなくなるだろうけど。
 わかってるとは思うけど、このままの状態で放っておいて一番かわいそうなのはあの子だ。神秘は同胞以外に対して容赦がない。文字通り全てを食い潰す。細胞も、存在の形も、魂そのものも……それらが食われる痛みは壮絶なものだろう。きっと死にたくなるくらい辛いはずだ。あの子はそれに、二十四時間休むことなくさらされ続けている」
 不意に、フライホイールの回転が止まり、十代はそこで言葉を途切れさせた。糸が絡まってしまったのだ。十代は白衣のポケットから銀の鋏を取り出し、それを切り落とそうとして、ふと、ジョニーの顔を宝石の瞳で見上げた。
 ジョニーの掌に伸びた爪が突き刺さる。
 十代は、最良の方法だと言った。だから、てっきり、誰の命も奪わず、誰のことも不幸にせずに、人間としての百合子を救うことができる切り札を、ハッピーエンドの希望を、彼女が用意してくれているのだと思ったのだ。だが、真実は違った。
 ジョニーの前に差し出されているのは、二枚のカード。一枚は人間としての彼女を殺し、海に放ってもう一人の彼女を生かすこと。カードの名は〈バッドエンド〉。もう一枚は……ジョニーのそばに、耐え難い苦痛と悲しみととともに彼女をとどめ置き、彼女の何もかもを殺してしまうこと。
 カードは美しい金色の光を放ちながら、緩やかに回転をしている。その表には、何処とも知れない風景が描かれている。
 乳白色の光の中に、かすかに青が透けて見える。まだ少し肌寒い位の、春の空だろうか。風に吹かれ、一面に舞うのは、しみひとつない真っ白な花びら。彼女の心。いつかばらばらになる彼女の心。
 パーフェクト・ワールド・エンド。
 女神を望んだ人間が、彼女を完全に殺すための破滅のカードだ。

 悲痛な咳嗽の音を聞いてジョニーは飛び起きた。
 百合子だ。彼女は喘息発作を起こしていた。背を折り曲げ激しくえづく。彼女が息を吸おうとするたびに、締まった気管支が、立て付けの悪い窓が立てる音に似た細い喘鳴を立てる。真っ青な額には脂汗が浮いている。
 慌ててベッドサイドを探り、やっと掴んだ水差しを彼女に渡すが、激しい咳のせいで手先すらおぼつかず、取り落とされた水差しはシーツを冷たく濡らした。
 ポロポロと涙をこぼしながら喘ぐ彼女に胸がいっぱいになり、ジョニーは自ら水を含むと、口移しで彼女の喉を潤した。
「じょに、ジョニー……」
「百合子、僕はここにいるよ。君のそばにいる。大好きだ、大好き、だから……」
「おねがいが、あります」
 苦しみながらも、彼女はジョニーのシャツの袖を掴む。夜闇の中で、潤んだ瞳がきらきらと光を帯び、ジョニーに何かを訴えている。
「うみに。つれていってください、はやく……」
 言い終わらないうちに、苛烈な苦痛が彼女の全身を激しく痙攣させた。
 ジョニーはタクシーを呼び、毛布にくるまった彼女を伴ってビーチへと急いだ。夜のビーチは黒く、ひんやりとして、この世全ての拒絶を湛えているのだとばかりに暗澹としていた。海風で激しく波飛沫が立つ中、裸足になった彼女はふらふらと海に入っていく。ジョニーは彼女を慌てて支えようとして、その身体がひどく冷え切っていることに気がついた。