2024/1/11

 


 共同生活は、存外に、うまくいった。
 これは後から思えばという話で、その渦中にいるときのはじめは、とても「よい」とか「よろし」とか、言えたものではなかった。純太もきっと同じ思いだったはずだ。この部屋に来る以前から、見ず知らずの女性の家を転々としてきたらしい彼は、ことあるごとに、はじめがいかに男らしいか、つまり女ぽくないか、語った。やかんで茶を沸かすとき(ティーポットと紅茶がいくつか、あるもんじゃないの、こういうときはさ?)、出かけるとき(スニーカーしかない? マジで? デートの時とか、どうすんだよ)、やむをえず同じ布団で寝ようと提案したとき(は? 俺男なんだけど、知ってるよな? まあ、おまえみたいなちんちくりん、襲う気にもなれないけどさ)……本当に疲れて帰宅したときに、ぼんやりしたまま固形石鹸で髪を洗ったら、畳で待っていた純太に悲鳴を上げられたこともある。とはいえ、彼が男とか女とか、そういう問題にいちいちこだわっているわけではないのをはじめも承知していたので、こうした小言もあまり気にならなかった。
 むしろ、変なのはおまえのほうだろうと、言ってやりたいことの方が多かった。初日、寝床をどうするかという話になったとき彼は、風呂で寝るから気にしなくていい、と言って、その晩本当に浴室で過ごした。全裸になって、あの狭い浴槽に膝を抱えてはいるのだ。それで眠る。はじめがいろいろ気を回して毛布を持って行っても拒絶する。どうしても冷え込む日は、ホームセンターで買った、アルミの風呂蓋を閉める。冬眠する大きな動物のようだと、はじめはいつも思っていた。
 架空の言語を喋る。はじめと意思疎通を図る際には、むろん、日本語以外に選択肢はないのだが、あまり得意ではないのだというのが、本人の主張だった。それでは何が母語なのかと聞けば、生まれてこのかた耳にしたこともないような、まるで楽器や動物の鳴き声みたいな言葉で、喋りはじめるのだった。書き言葉は、幾何学模様にも似た、へんてこな絵だった。かろうじて母音と子音が機能しているということくらいしかわからない、複雑で、難解な言語。この地上のどこにも存在しないと思われる言語。
 架空の女神を信仰する。彼は、折りに触れてはじめにこの女神の神話を語った。可哀想な少女神だ。アミニズムや、ヒンドゥー教などを思わせる、多数の神々が跋扈する宇宙で、彼女は最も年少だった。女なのだけれども不妊で、身体はカリカリに痩せて、まるで少年のようで、他の神々のように保護や生産の能力をもたない。ふつうは、忌み嫌われる立場にある破壊の神でさえ、彼女が無価値であることにはとても及ばない。みな彼女をいないものとして扱う。あるいは、いないほうがよいものとさえ。それでも、言葉が不自由なので、抗議することもできない。ただ凍土の中に埋まった種子のように、じっとしている。一三八億光年向こうの孤独の中で、息を潜めている。だが純太は、そんな彼女がいつか審判の日に神の右座に上げられて、他の神々を圧倒するんだと、そう信じていた。シンデレラの御伽話みたいな話だ。彼があまりに真剣に祈りの儀式をするから、そうした感想はついに胸の中に閉じ込めたままだったが。
 木枠に鹿のアキレス腱を弦として張った竪琴のようなものを弾き、世界中で集めてきた、色とりどりの糸で刺繍をする。犬には死んでも近づかない。その割に、猫を飼いたいと、一日に二度は言う。ケバブ屋のバイトをはじめて、辞める。数日から一週間、ふらっといなくなることがある。はじめの課題制作がつまらないとケチをつける。天体図鑑をひっくり返して、挟んでいたメモをみんな剥がしてしまう。プラスティックのコップをわろうとする。針金で、変な模型を作る。修学旅行で行った京都で、お土産に買ったミニチュア仏像を、いつまでも眺めている。
 1lkの狭いアパートで曲芸師と動物のように暮らした。はじめは、彼を養っていると言っても良かったが、いつも動物の立場に甘んじた。無知だった。


 こんなことがあった。
 とても悲しくて、泣こうとしたが、泣けなかった。布団を敷いて、ずっとその中に蹲っていた。大学に行かなければ外に出ることもせず、家事もアルバイトもみんな放り出して、当然生活に支障が出た。影響は純太にも及んだ。彼は、食事を三つも抜かれてとても不機嫌になり、日常の義務として課している浴室の掃除をこなさないまま、夜中にどこかへ出掛けて行ってしまった。
 朝、まだ早いうちに、はじめは目を覚ます。うつ伏せになったまま眠ってしまったようである。やっとの思いで布団から這い出て、すりガラスの窓を開けると、まだすそに薄桃色を滲ませたままの薄明の空に、痩せ細った月がひっそりと浮かんでいた。それで、はじめは、自分がきのうじゅう何も食べていないこと、今非常に空腹であることを思い出した。
 のろのろと起き上がり、本棚にひっかけてあった、部屋着のスウェットに着替える。そのまま寝たためにしわになってしまったシャツは、クリーニングに出すことにしてカゴに放る。ついでに、いちおう、浴室も確認するが、純太は不在である。銅のポットに、水と麦茶のバッグを入れて火をつけ、これがまだ静かなあいだに冷蔵庫の中を物色する。彼が気に入って買い貯めている、業務用の乾燥大豆のほかには、卵がいくつかと調味料の類、それからはじめがちまちま集めてきた小さなパックの醤油なんかが、寒々とした狭い庫内に残されているばかりだった。気の向かない外出の予感に思い切り肩が落ちた、その時だった。
「ただいま、はじめ」
 純太が帰ってきた。
 すっかりごきげんだったので、はじめは正直、拍子抜けした。彼は何か含みのある笑顔で、鼻歌なんか歌いながら部屋へ入ってくる。柄物の開襟シャツの襟元で、焼けた鎖骨が静かに呼吸している。子供みたいなハーフパンツから、脱毛された脚がスッと伸びて、つま先にはやけに上等そうなスポーツサンダルを履いている。パーマヘアはうっすらと濡れて、緩く螺旋状になった毛先に水滴が引っかかっていた。何か言いようのない感情に包まれてはじめは立ち尽くしたが、純太は特に気にした様子もなく、「もう飯すんだ?」、聞いてきた。
「おかえり。えと、まだ。何もないから、スーパーが空いたら買い物に……」
「ちょうどよかった。今日は朝飯外で食べるから」
「ん?」
「ちょっとぶらぶらしよ。荷物、おやつとか詰めて、十五分で出るから。あ、パスポート忘れんなよ」
「え……純太?」
 パスポート? 混乱するはじめの、まだ寝癖だらけの頭の横を通り過ぎて、純太が畳に入っていく。「あ、いいのあった、リュックこれでいい? 服は……少ないな、まあ買えばいいか。歯ブラシ、目薬、ティッシュ……」収納や箪笥の中を物色して、何やら支度をしている。「はじめ、なにしてんの? とりあえず着替えなよ」
「純太、何するつもりだ?」
 コンロの火を止めて、やっとの思いでそれだけ聞いた。
「旅行しよ」
 なんでもないことのように、彼は答えた。
 その真意を問いただすまもなく、はじめは九割純太が支度したリュックを持たされ、戸締りをさせられ、見慣れない車に乗せられていた。運転手は、なんと、純太だった。大学そばの、早朝営業のコンビニで彼はホッカイロとタバコを異様なほど買い込み、朝食を食べそびれたはじめにもカツサンドが与えられた。
 まだお腹に余裕を残したままのはじめと純太を乗せた車は、八王子料金所から中央自動車道に乗り、渋滞に巻き込まれることもなく三十分ほど走った。早朝の静謐な有料道、フロントガラスから後ろが丸切り存在しないコンバーチブルで、純太はカーステレオからどこか異国のバラードを流した。彼の髪は風に揉まれてすぐに乾いた。はじめは手持ち無沙汰で、純太の、存外に精悍な横顔ばかり眺めていた。東京湾に出ると、ちょうど日の出の時刻で、波の彼方から上る朝暉を二人は見た。強い光に、夜闇の領域はまたたくまに後退し、湾岸沿いに続く倉庫の群れやビル、京浜大橋、赤いアスパラガスみたいな東京タワーが、はじめが、純太が、あざやかな橙色に包まれた。
 寝ぼけていた意識がようやくはっきりしてきたころ、行手に羽田空港の巨大なターミナルが見えてきて、ようやく、ことの重大さを察するはじめだったが、純太には相変わらず一分の隙もなかった。彼ははじめにチケットを握らせ、液体類とハサミを捨てさせ、半ば引きずるような形で税関検査、出国審査を終え、まんまと飛行機にのり果せた。

 その昔、ここ一帯に住む男たちにとって、馬は命の次に大切な自負心の象徴だったのだという。
 良い品種を、手をかけて育て、装備の類い、つまり手綱や鞍、頭絡、あぶみなどにも金をかけて、そうして完成した見目麗しい馬を連れていることが、そのまま主人となる男の価値にもつながると考えられていた。戦いのとき、直接敵を叩くことなく、馬のたてがみを切ることで報復とすることもあったらしい。
 純太は、こうしたことを嬉々として語るのだが、はじめとしては、まったく、それどころではないのだった。先ほどからくらくらと頭が回って、見ること聞くこと、どれも現実感がない。
「大丈夫かよ? 顔色悪いけど」
 振り返って純太が、心配そうに、こちらを覗き込んでくる。はじめは首を振って、彼の背中にますますしがみついた。そうでもなければ、この体高十六ハンドほどもある巨大な馬の背から、今にもずり落ちてしまいそうに思ったからだ。
 ふたりがいるのは、果てのない高原。北にカザフステップ、南にテンシャン山脈、かつてシルクロードと呼ばれ、行商人に荷馬車、世界中の宝物が行き来したとされる、その大地を、馬に乗って南下する。
 肥沃な草原地帯。目にもけざやかな緑の地平に、ぽつぽつと、ポピーやブルーサルビアエーデルワイスの群生が見られる。平たいお椀を何枚も被せたみたいな丘陵の向こうには、きりだった山肌に白く雪をいただく、荘厳な山脈。雲一つなく、コバルトブルーに澄み渡る白昼の空。乾いた草の匂いを運ぶ風。二人のほかには誰もいないとさえ思われる。静かだ。こうした景色を、もう半日近く、彼の肩越しに見ていた。
「やっぱりちょっと休憩しよう。もうずいぶん歩いたしな」
 いつも寡黙なはじめが、ことさらに口数少ないのが、居心地悪かったのかもしれない。彼は身軽にも馬の背から飛び降りると、適当な灌木の茂みを見つけて、そちらへと手綱を引いた。
「落ちる! 純太!」
「だいじょうぶだって、ほら、バランスとって……お、ラッキー」
 灌木は柘榴の木だった。てるてる坊主みたいな、愛らしい形の果実がいくつか、枝の高い位置にぶら下がっていた。純太は枝に手綱をかけて固定すると、転落寸前のはじめを、まるで子供にするみたいに抱き上げて、恭しく地上に降ろしてくれた。
 ウエストポーチから折りたたみ式のナイフを出し、熟れ切って弾けたのをひとつ切り落とす。純太にひとつ、はじめにひとつ。硬い皮の中で、ルビー色の実がツヤツヤしている。鼻を近づけるだけで甘ずっぱい香りが神経まで染みてくる。はじめが一粒一粒を引き剥がすのに難儀している傍らで、純太はあっという間にみんな齧ってしまって、口許についた果汁を手の甲で乱暴に拭った。
「それにしても、遠くまで来たな」
「何か探してるの」
 やっと取れた。爽やかで、甘かった。
「ん……人をな」
 皮を放り出した純太が、馬の背に登って鞍に立つ。
「前は、この辺りで会ったんだけど。草が残ってるから今年はまだ来てないのかもしれない」
「草が残ってると、どうなるの?」
「遊牧してるんだよ、ほら、羊がいるだろ、大勢さ。羊は草を食べるから、草がなかったら、ここに集落が来てたんだなってわかるわけ」
「よく知ってるな」
「まあね。でも、日暮れまでには辿り着きたいな。ここで野宿は、はじめだって嫌だろ?」
 そう言って、いたずらなウインクをしてよこす。はじめも彼に微笑んだ。北京の空港で、乗り継ぎを待って十八時間も缶詰になっていたときに比べたら、いくらかマシだと思ったからだ。