2023/10/04

 


   

 踊る女たちに囲まれて、悠然とみくらに座したウブドの王が、金の額縁から眼下の二人を見下ろしている。はじめは、そのまなざしが存外にやわらかいものであること、ほとんど飛びかけた意識のうちに知覚した。
 ラタンの天蓋から厳かに垂れた薄いレース布越しに、白い光が静かに降ってくる。ヴァンガロー裏に沸いた泉から、水が沸いてこんこんと音を立てる。冠白椋の求愛の声、はばたき、鼻先へ甘く漂いくる渓谷の霧、頬の上へ落ちてくる冷たい汗。時刻は知れない。朝か、あるいは夕方か、まだ目覚めているのか、夢の中なのか、はじめにはわからない。ただ意識は茫漠として無意識の海を泳ぎ、かわって鋭い快楽ばかりが、浮遊する肉体を捕まえて現実のものとする。
 顎をやさしく掴まれた。熱っぽく名前を呼ばれて、はじめはようやく王宴の白昼夢から揺り戻された。手嶋純太は、妻の無頓着を言葉で咎めるかわりに、細い銀のピンセットをつまんで尖った部分を舐めた。濡れた先端はすぐさまはじめの淫部に向かう。勃起した状態で吸引機に固定された陰核、膣鏡で無様に晒された膣口、なまなましく濡れてただれたサーモンピンクの肉。金属を伝って粘液が会陰を流れ、その感覚にすらはじめは、ひッ、と息をつめて身悶える。熱傷の予感に全身が戦慄く。
「余裕かよ。気に入らねえなあ、はじめ」
 底意地悪く笑って純太は、プラスチックのシリンダーを指でつつく。不意に、尿道口を鋭利なもので引っかかれる感じがして、はじめは声もなく悲鳴を上げた。それでもなお絶え間なく、また容赦無く薄い粘膜を掻きむしるのは、先ほどのピンセットだ。鋭利な鉤に傷つけられ、痛めつけられて、流血さえしているというのに、苦痛と紙一重の愉悦がじくじくと粘膜を苛むのだった。そのように、この男に仕向けられたのだ。開発されたのだ。田に水を引くように、果樹の根に堆肥を撒くように……彼女の知性と気概にはいささかの瑕疵もなかったが、肉体においては、夫の支配に抗うことのできない奴隷の気性があった。
「信じらんねえくらい無様だよ、お前」
 純太の声は昂奮と欲情に熱っぽく掠れている。「ほら涎出てるし。スプリンターだろ、ワールドチームの、まんこいじめられてこんな顔してていいのかよ」
「純太——っ、純太、いやだ……」
 妻の哀願を、酷薄として笑う純太の顔に、火花の散るような動物的な美しさがひらめく。
 はじめの言葉を承知してか、まるで部屋の掃除でもするかのような懶惰な手つきで、純太は吸引機を固定していたねじを緩めた。シリンダーから、充血し切って真っ赤に膨れ上がったクリトリスがぬるりと滑り出た。ピアスの穴を二つも通してあったが、ひどい勃起のためいやらしく肉にうずまっていた。そこが外気に触れただけで、はじめは両腿をがくがくと痙攣させて感じた。
 一も二もなくピンセットがやってきてそこを捉えた。もとをつまんでねじり上げ、鉤の先で弾いて、ことさらに敏感になったところをしごいてさいなんだ。はじめは激しく身をよじるが、拘束具がぎしぎしと軋みを上げるばかりで逃れるすべにはならない。目ざとく抵抗を感じ取った純太が、バラ鞭で無防備な下腹を強かに打ち据える。皮膚と肉を通して骨を打つような苦痛が走る。かと思えば、神経がむき出しになった恥部に、熱くやわらかな感触が落ちてきた。それが舌であることはすぐに知れた。ざらついた粘膜が薄い包皮の下にもぐりこんだ神経の束を容赦なくこすりたてた。純太は酒で身を壊したことも、ドラッグに逃避したこともないはずだが、愛撫に関しては明らかに病的だった。異常なまでに執拗で嫉妬深かった。嗚咽するはじめの流麗なまなじりから、涙が一粒こぼれて痩せた頬へ流れる。乾いた舌で無遠慮にこすられ、あるいはつつかれて、はじめはその晩はじめて快楽を窮めた。尿道から塩っぽい液体が吹き出して純太の鼻梁を汚した。
「いれて、入れて純太」
 彼女はとうとう泣いて乞うた。

 毎年、十月に行われるステージレース:ツアー・オブ・広西を持ってして、自転車ロードレースの年間シーズンは終了を迎える。チーム・キャノンデール・ガーミンのクライマー手嶋純太は、一月のダウンアンダー総合優勝を皮切りに、五月ジロ・デ・イタリアでは先頭集団に遅れをとりながらも第二十ステージで山岳賞一位、九月イル・ロンバルディアでは総合二位を獲得し、個人優勝は逃したものの、チームのシーズン優勝に大きく貢献した。彼の妻:キャノンデール・NIPPOのスプリンター手嶋一(はじめ)も、九月ブエルタ・ア・エスパーニャで敢闘賞を獲得するなど健闘し、彼女のこの年の成績は日本人女子選手の記録を塗り替えるものとなった。シーズン終了をもって、チームは二人の契約継続を決定し、同時に一ヶ月弱に渡る休暇を与えた。
 インドネシア・バリ島。赤道直下の神の島。南緯八度、東経一一五度、面積五六〇〇平方キロ、東京の二.五倍。 平均気温は27度、ただし観光客で賑わうクタなどの南町と、ウブドのような高原地帯ではかなりの気温差がある。椅子の背にもたれ、パームワインを舐めていた純太が、思いきりくしゃみをした。「さみい」、ポケットからティッシュを出しながら言う。
 チャンプアン・ホテルのレストランは、バリの伝統的な高床式建築のヴィラを改装して作られた、古典的でエレガントなエクステリア空間だ。涼しげなラタンの切妻屋根、大理石のテーブルにピンクの仏炎苞のアンスリウム、三方の壁は繊細なレリーフやレザーブラウンの煉瓦で覆われ、バルコニーからは、かわいらしいバンガローの藁葺きの屋根が強い陽に焼けるさまや、棕櫚の木が風に靡くさま、マゼンダやオレンジ色の南国の花、緑したたる渓谷、伝統的なバリの家寺などがミニチュアめいて見える。
 はじめは向かいの純太が鼻をかむのを盗み見ながら、ピンク色のジュースを飲んだ。実から搾られたばかりの青くさいマンゴーの果汁に、パイナップルや、鼻も通るような新鮮な生姜の香りがかすかに混ざるのを、乾いた舌で愉しんだ。ダウンアンダー以来東洋の山岳覇者としてアジア圏若年ライダーから絶大な人気を博したこの男は、口をつぐんで座っていれば、どこにでもいる感じのヤング・ジャパニーズだ。気さくで、ほどほどに意地悪だ。その彼が……過酷な冬の獣のようになって、先行するバイクにくらいついてゆくさまを、知っていた。
「何見てるの」
 頬杖をついて純太は、彫りの深いエキゾチックな顔で嫣然と微笑んだ。傾けた頭から、剛健な肩の方へ、つややかなパーマヘアが滝のように流れた。顕になった耳たぶにさりげないシルバーのピアスが光る。くつろげたアロハの襟から、窮屈そうに張り詰めた小麦色の胸筋がのぞく。と、そこに瘡蓋になりかけた歯型を見つけた。
「見てない」
「見てた」
「見てないって……」
 現地人のウエイターの、ぐんと太い腕が伸びてきて、大判の平皿をテーブルいっぱいに並べた。黒胡椒で味をつけたナシゴレンサニーサイドアップつきミーゴレン、ナシ・チャンプル、土製の小型こんろに載ったサテ、油で揚げたロールチキン、キヌアとチョリソーのサラダ、大豆を発酵して作るテンペ、付け合わせの香辛料サンバル。現地で購入した贋作だらけの指がテンペをつまんで、真っ赤なサンバルにディップした。それが素早く厚い唇へ運ばれる。下腹に重たく澱が降りてくる。悩ましくはじめは湿ったため息をつく。なすすべもないまま、純太に倣ってサテの串をとった。
「いいや。見てた」ニヤニヤしながら、なおも言い募る純太の声は場違いに甘ったるい。「わかんないと思った?」
 顔を背けるはじめの頬に、無骨な右手が伸びてくる。硬い指の腹、人差し指と中指が、なめらかな仕草でゆっくりと頰骨を撫でる。細い顎を伝って、耳の下に指先が滑りこむ。くすぐられる。はっとなってはじめは首をすくめたが、同時に、ひたひたと潮のように押し寄せ満ちるものが彼女の中で克明になってゆくのだった。油で濡れた純太の唇が楽しげに片端だけ吊り上がる。
 ラタンの椅子に座るはじめは、ろうけつで染めた更紗のワンピースに首からくるぶしまでを包まれていたが、そのほかには何も身につけていなかった。それが純太の命令だった。乳頭が勃起すればそれは布地を押し上げて欲情があからさまになるだろうし、膣穴が濡れれば、夫のペニスを求めて飢える肉の存在が誰にも知られるだろう。陰核には小型の吸引機が取り付けられて純太の意向次第でいつでもスイッチが入るようになっている。
「どうする? この辺走ろうって話してたけど……部屋に戻りたい?」
 指で掬ったサテのソースを、唇に塗りつけられる。はじめはほとんど屈辱的な愛情に責めさいなまれて、自ら舌を出し、純太の指をねっとりと貪った。彼の指先はほのかにソースの塩っけがあって、肉の刺身のような味がした。はじめはそのあたたかくて硬い指を、水かきにまで舌を這わせて綺麗にした。そうしているとなぜだか泣き出してしまいそうなくらい胸が熱くなった。純太が静かに息を詰めた。その眦にはすでに恍惚とした気配があった。
 レストランにはほかに客もない。ウエイターたちは物陰で忙しく立ち働くのみで、こちらがどんな立ち振る舞いをしているのかなど興味もない。はじめは狭い椅子の上から身を乗り出し、夫の唇に肉薄しようとした。
「Dan dia gila bingit, dia bodoh......selalu magabut......」
 ふいに背後が騒がしくなって、ふたりは弾かれたように身体を離した。
「Bikin KZL aja!」
 観光客の一団だろうか? 言語はわからないが、宿に着いた修学旅行の生徒がするみたいな雰囲気のおしゃべりだ。にぎやかすぎて何が何だかわからないくらいだ。誰かが何か言って、他のものが大声で笑う。気が抜けて、はじめはぐったりと椅子に腰かけなおしたが、純太はテーブルに乗り出した姿勢のままぎこちなく固まっていた。
 なんのことはない、よく焼けた健康そうな現地の若者が何人か、シャツとハーフパンツだけを引っ掛けた格好でがやがやとレストランに入ってきたのだ。だが純太は、東京湾からネッシーが出てくるのを眺めているみたいな目で、その一団を見ていた。はじめも彼らに視線をやった。黒髪の青年たちの中に、一際派手なオレンジ色の染髪が目についた。
「鏑木?」
 純太の声がそう言ってようやく、はじめも、その男の横貌とオレンジ頭に見覚えがあることに気がついた。
「ん?」
 愛嬌のあるアジアンフェイスが振り返る。
「あ? あれ……手嶋さん……? と、青八木さん? なんでこんなところにいるんすか? ここインドネシアすけど……お、もしかして、表の黒いロードって手嶋さんのすか? かっこいいやつ! あっ! わかった! し……んこんりょこうっすね、もしかしなくても! う、うひゃー! 青八木のエッチ!」
 思わず、二人は顔を見合わせていた。