2024/01/27

 

 

 

 青い真珠が一粒、清潔なシーツの上に横たわっているものと思われた。
 純子はためらいとやましさの浜辺に、畏怖の波が押し寄せてくるのを、心中に確かに感じていた。彼女の美しさはたびたび純子をそのような思いに駆り立てた。分厚い遮光カーテンの外は夏まっさかり、湿気を帯びて重たくなった亜熱帯の空気が都市全体に滞留し、森から追いやられた蝉がコンクリートの壁で窮屈そうに鳴き、ほとんど直上の太陽が、人やものをみんなバーベキュー台にかけている、そうした季節が猛威を振るう中、青八木一は、いっそ冷たさすら覚えるほどの怜悧な美徳をたたえて、床上にて恋人を待っていた。
 薄いドアの向こうで、エレベーターのチンと鳴る音がする。男女カップルの下世話な会話が通り過ぎる。そうした俗世のものから遠ざかるかのように、一歩、純子はベッドへと近づいた。うつ伏せになっていたはじめが、首をもたげて純子を見た。ねじを絞ったウォールランプの、かすかなオレンジ色の光が、彼女の小麦色の髪やまつ毛の上に幻想的に踊った。
「純子、おいで」
 前のめりになった身体を膝で支えると、安物のベッドはそれだけで悲鳴をあげた。プリーツスカートの重厚な生地から伸びた、白妙のような色の腿に、腰を挟まれて引き寄せられる。肉の柔らかさに声をあげる間もなく、つんと尖らせた悪戯な唇に退路をふさがれて、純子はただ目を閉じ、彼女の唾液の味を脳の底まで染み渡らせる。日々の練習のあと、空腹を持て余し、恥も外聞も忘れて肉を貪ることに終始する、彼女の唇。口許へ垂れたソースをなんとはなしに舐めとる肉厚な舌。骨をとらえ、繊維を剥ぎ取る犬歯、取り込んだものをすり潰す奥歯、そうしたものの姿形を、自らの舌を持ってしてたしかめる。はじめとのキスはちょっとおっかない。
 貪り食うように二つの唇が交接し、靴下を脱ぎ捨てた生足どうしも、同様にからみあった。純子の、骨と皮ばかりの貧相な鷺脚は、はじめの柔らかい肉に包まれ汗で濡れた。甘い痺れと渇き。境界なく混じり合う女たちの呼気。そのうち、二人の肌を隔てるあらゆるものが邪魔と感じられて、純子は目の前の身体から制服を奪い去ろうと動いた。リボンをほどき、ボタンを取ってブラウスを脱がせてしまうと、豊かに成熟した乳房が小気味よくまろびでた。すぐさま乳頭に齧り付いて啜った。
「純子、純子」
 我を忘れた子供のような純子の頭を、はじめの脚が柔らかく拘束した。可愛らしいつまさきが純子の肩の後ろでせわしなく宙を掻いている。
「はじめのおっぱい、おいしい」
「ん……ん……」
「大好き。吸ってると出てくるの、かわいいのよ」
 硬くなった乳頭の側面を舌で押し潰し、かすかに色づいた乳輪を前歯で食む。谷間に鼻先を突っ込んで大きく深呼吸をしては、ふっと息を吐くと、それだけではじめがせつない呻き声をあげた。頭の動きにあわせて、肉惑的な輪郭の腰がもどかしく揺れる。思わずといった様子で擦り合わせられる両膝に、ぬるついた膣液が滑り落ちてくる。
「純子……わたしもしたいよ」
「いいわ、来なさい」
 震えるはじめの指を手伝って、純子も、自らブラウスをはだけてゆく。骨の浮いた肋の上に、そっけなく乗った薄い乳房、自分ではあまり好きではないが、はじめは純子の腰に抱きつくと、嬉しそうに乳頭を吸った。まだ男を知らない、あいまいで核心をつかない愛撫が、純子にはこの上なく愛おしい。
「おいしい?」
「うん……おいし、純子、大好き」
「あたしも」
 純子の胸元に、無邪気に戯れるはじめの、股の間に脚をくぐり込ませた。膝頭を持ち上げて探るような動きを取ると、尾瀬の湿地を思わせる豊かなぬかるみが、すぐさま布越しに滲んできた。
「や! やだ、やだあ」
 ぐずりながらも、はじめはあられもなく両脚を拡げて純子を挑発しにかかる。泣き顔は小さな子どものものなのに、熟れた身体はとても無垢からはかけ離れている。倒錯した感興が純子の喉元にまで迫り上がってきた。
「感じてるの? パンツの中から、くちゅくちゅ聞こえるよ」
「やだ、純子、意地悪しないで……」
「気持ちいいでしょ。ね、素直になりなよ、べつにはじめてってわけでもないんだし」
 はじめは答えない。堅くつぶった目から、涙が一筋、薄くかけたアイシャドウのラメを頬まで運んだ。
 自動運転のエアコンが、部屋の気温の変動を感じ取ったか、風量を一段上げた感じがする。背中に吹き付ける風が冷たい。膣までがからからに乾いていくようだ。反して、はじめはすっかり全身の皮膚を桃色に上気させ、甘ったれた喉声で嗚咽している。健康的に肉のついた手指が、ピンクのマニキュアでさりげなくはなやいだつま先が、シーツの上で感じやすい生き物のように悶えている。
「素直になれないはじめのパンツ、破いてやろうかな。そうしたら、あんた、ノーパンで家に帰るんだよ。いいの?」
 純子への接待を忘れ、役立たずの木偶と化したはじめの耳がらに囁きこむ。
「むり……やだ……」
「正直に言いなさいよ。あたしにこうされて、どうなのか、これからどうして欲しいのか」
「うん……ん……じゅんこ」
 人差し指の腹で、堪え性のない股を乱暴にさすると、はじめは夢見ごこちでこくこくと首肯した。
「ねえ、はじめ」
「純子……きもちいい。だいすき。もっとして」
 従順な共犯者の顔を仰ぎ見ると、神仏めいた穏やかな表情で彼女は目を細めていた。
 最後のインターハイが終わり、よるべなく泳ぎ出した心、卒業を前にして少しずつ降りてくる不安や疑念といったものから遠ざかり、二人は視線から、吐息から、皮膚から混ざり合う。純子の言葉がはじめの官能の炉を燃え上がらせ、はじめのあえやかな悲鳴が、純子の本能を理性から解いていく。愛の言葉をささやく代わりに、なりふりかまわぬ肉のふれあいで激情を示した。濡れた部分で擦れ、乾いた部分でつながり合った。
「はじめ、あたしたち世界の終わりまで一緒よ、愛してる」
 純子がそう言うと、はじめが答えた。
「わたしも、愛してる、純子」
 眼球の裏で白い光が弾ける。

 純子は、高校の渡り廊下の、組み木の特徴的な床に、言葉もなく立ち尽くしていた。
 大判のガラス窓から、赤い西陽が真っ直ぐに、制服を着た純子に突き刺さった。頬や頸が爛れたように熱く痛んだ。心拍が酷く落ち着かない。握り込んだ手のひらにじくじくと汗をかいている。最終下校時刻を回り、校内は生徒の気配もなくひっそりとしていたが、それだけに、背後から差し向けられた強い意識を、純子は背中へと克明に感じていた。
「帰らないの」
 やっとの思いで吐き出した言葉は、年頃の少女らしい怯えを伴ったものだった。震えていたのだ。
「俺に頼みがあるんだろう」
 ぞっとするほど低い、押しこもった男の声が、淡々と答えた。
「心当たりないんだけど」
「俺にはある。お前は回りくどいが、わかりにくいというほどじゃない」
「あるとして、あんたはどうしてくれるの。古賀」
 部室棟を背後に、男子生徒が、仰々しく包帯で覆った左肩を庇って立っている。古賀公貴は酷薄に、純子を嘲笑した。
「無論、その要求を呑むつもりだ、手嶋。俺たちはたった三人きりの同期だからな」
「——生真面目なあんたに、うまくできるとは思えないんだけど」
「できるさ」傲岸不遜に鼻を鳴らし、公貴、「今までお前が指で絡め取った男たちのようにな。なぜ俺が、その輪の中に入らなければならないのか、理解したくもないが」
 眼鏡越しに、冷たい目が赫々と光を帯びる。純子は、自身ですらそれと気づかないうちに、教室棟へと上履きの足を後退させていた。身体中が冷たい汗で覆われていて不愉快だった。
「細かいことはこの際いいさ。さっさと済ませよう」
 長身がずんと純子の目前に迫る。無防備な手首を掴まれて、上履きが床板を擦る。つんのめるようにして、公貴に引きずられるまま、来た道を遡る。
 一年四組の教室で、制服を脱ぎ、痩せた身体のすべてを公貴に見せた。汗に塗れながら膣穴を開き、彼の大きな性器をその中へ入れた。公貴は純子をもののように乱暴に扱い、純子は、瞼をきつく閉じたまま一度として公貴に視界を許さなかった。瞼の裏には、清らかなはじめの微笑を刻みつけていた。純子の意に反して、男を歓待しようと降ってきた子宮口を乱暴に塞がれ、すがりついた窓はいてつくように冷たい。冬もたけなわ、素肌には厳しく凍みる晩だった。
 ことの終わりには、公貴と折り重なるようにして床に倒れていた。
「……あんたが、はじめに一番近しい男だからよ」
 手のひらで顔を覆ったまま、指の間からひきしぼるような声で言った。公貴が、右手指で神妙そうにとがった顎を触る。
「それは、さっきの、俺の問いかけに対する答えか」
「そうよ。あんたって最低」
「お前が勝手に吐いたんだろう」
 どこかが、しくしくと痛む。壁一面に不揃いの「雲海」の字が張り付いたこの教室で、息をすることすら億劫だ。のそのそと身体を起こすと、デオドラントのミントの香る無骨な指が、裸の肩にブラウスを優しくかけおとした。勝手に、などという乱暴な言葉を吐きながら、公貴の顔には、耐え難い暗愁が押し包まれているのだった。
 腕を伸ばし、裸の左胸、迫り出した肋骨に公貴の頬を押し付けた。彼は何も言わなかった。
「古賀、あんたの存在は、あたしにとっては最後の砦だったのよ」
「……自分で台無しにしたくせに」
 眼鏡を外したこの男の、伏せた睫毛が存外に長いこと、きっと、はじめですら知らないだろう。短い髪を梳き、血管の浮いた首、傷ついた左肩に、つとめて軽く触れる。
「あの子を受け入れられない」
 本心だった。
「ほんとうに愛しているのに……」


   ナッシング・トゥ・マイネーム


 あれから秋が来て、冬が過ぎ去り、また春になって、デスクの上で小さな影が舞った。顔を上げると、影の正体が窓から入り込んだ黄色い蝶であることが分かった。手のひらでそっと捕まえると、包み込んだ手の中で翅がまたたいて、むず痒くいたたまれない思いがした。窓から外に出してやると蝶は飛び去り、イスティラクル・モスクのオベリスクの方角へ、見えなくなった。二十五歳の純子はその様子を、寡黙なまま、見ていた。
 ラップトップのテキストアプリでは、美しく奔放な十七歳の少女が、同窓生の女子生徒をいたずらに弄ぶさまがあけすけに描かれていたが、キャレットは七日前から同じところを打ち続けている。少女は無邪気にも同窓生の肩に小さな頭を預けたまま、動かない。焦れて純子はレッドブルのプルタブを開け、薄い炭酸液を勢いよくあおるが、直ぐにでも無用の二万ルピアになることは自明とすら思われた。
 東南アジア、インドネシア。日本から遠く離れた、赤道直下の熱帯の国で、手嶋純子の人生は、どうしようもなく停滞している。
 このままでは押しつぶされてしまうと、危機感に駆り立てられて日本を脱出したのが、十九歳のころ。かねてより、日本の風土に自分にそぐわないものを感じてていたうえ、一般入学試験で進学した都立大学の気風にも馴染めていなかった。青八木一は、純子の決意を聞くやいなや頷き、純子のしたいようにすればいい、と言った。
「純子と、世界の終わりまで一緒にいる、そういう約束だから」
 とはいえ彼女は、一年の浪人の末、念願叶って都内の芸術大学に進学したばかりだった。純子は、自らの彼女への執着と、大人としての理性を天秤にかけ、重たく左へ傾いたのを指で押し返したりまでして、結局、一人で旅券を取り、一人で家を出た。出発ロビーのさみしいベンチで一人、搭乗受付を待っていたが、はじめはいつの間にその隣に座っていた。自らの腰ほどもある大きなスーツケースに肘をついて、愛らしい琥珀色の目で、純子を眺めていた。
 ハノイ、クアラルンプール、シンガポールを経由して、中央ジャカルタに落ち着いた。猥雑で窮屈な土地だが、空っぽの純子にはむしろ相応しいものだろうと思われた。一月十万ルピアの、コストと呼ばれる賃貸アパートに詰め込まれ、純子は観光客向けホテルのレストランに、はじめは土着広告会社のデザイン部門に、薄給で雇われた。理想と幸福に程近い生活であると思う。誰よりも愛おしく美しい恋人と、一つ屋根の下で暮らしているのだから。しかし純子は日を追うごとに、加速度的に病んでいく自らを確かめていた。はじめとの関係は、ほとんど時をおかずして常軌を逸したものとなっていった。

 およそひと月前、六年ぶりに日本へと帰国する運びとなったのは、高校で同級生だった古賀公貴に、名指しで呼び出されたからだった。
 公貴とは、はじめと三人でよくつるんだ仲だった。インドネシア渡航する際に、純子はアドレス帳からはじめ以外の全ての連絡先を削除し着信拒否に設定したのだが、今でも手を替え品を替え、しつこくコンタクトを取ってくる物好きなやつだった。やれ病気してないかだの、はじめに優しくしているかだの、スマトラ島で大規模なデモが起きているらしいから近寄るなだの、カリマンタン島の地価が急上昇しているから買っておけだの、こちらが何の返信もよこさないというのに、三日おきのペースでメールを打ってくる。大手コンサルティング会社に就職し、昨年にはついに所帯を持つに至った彼だ、多忙であるに違いないのに、海の向こうの旧友のことにも細やかに心を配る、彼の生真面目さを純子は嫌いではなかった。だから、言いにくそうに告げられた彼の申し出にも、
「いいわよ」
 そう答えた。
「いやにあっさりしてるな、ふつう何か、あるだろう、他に」 
「あたしたち、もうそういう、回りくどい仲でもないでしょ、それとも断った方が良かった?」 
「いや……」 
 公貴は、田舎のチェーン・レストランにそぐわぬスキャバルの黒いプルーネラ織りで全身を引き締め、腕に真新しいオイスター・パーペチュアルなんてつけていたが、純子と目があうとやりにくそうに強肩をすくめるのが、学生の時の仕草そのままでおかしかった。所在なく放り出された彼の右手に、薄っぺらい身体の、いかにも幸薄そうな女が、言葉もなく寄り添う。
「結婚祝いもまだだしね。良い機会でしょ」
「わざわざエアメールで招待状を出したのに、お前、来なかったからな」
「そうだったかしら。あっちだと、郵便がうまく来ないこともあるし。そういう事務作業は全部はじめに任せてるから、あたし、よく把握してないのよね」
「メールでも知らせたぞ」
「じゃあ行きたくなかったんだ」
 純子の露骨な言い草に、慣れっこの公貴はともかく、女の方が鼻白む。立ち上がりかけた彼女の肩を、こいつはこういうやつなんだ、とばかりに、骨ばった手のひらがなだめた。
 ワイシャツに黒のタイを結んだ若いウエイトレスが、盆を両手によたよたとテーブルに近づいて、赤肉のステーキ、カルボナーラ、ハニーバターのホットケーキにいちごミルクのソルベージュを、一つ残らず純子の前に並べ、丸めた伝票をプラスティックの筒に突っ込んだ。去ろうとする彼女に、直截的で愛想のない口調で公貴が、ホットコーヒーをオーダーした。彼の妻は何も注文しなかった。
 春の午後、当たり障りのない晩晴の光の中で、眼鏡の奥の細い目がしばらく、食事を摂る純子を見ていた。いつかの部活帰り、はじめと三人でこの店のボックス席に収まり、空腹の促すままに暴食したことを、思い出しているのかもしれない。
「それで、日取りはいつにするの?」
 早々にステーキを片付けた純子が切り出す。「急かしてるわけじゃないのよ。帰りの飛行機を決めちゃいたいから」 
「おまえが良いなら明日にでも。まさか快諾されるとは思ってなかったから、何も準備してないんだが」 
「あたしは、やること済ませれば、もう帰ってもいいのよね?」
「ああ。書類手続きなんかは全てこちらに任せてくれていい」
「わかった」
「ありがとう、散々迷ったが、おまえに相談して良かった。兎にも角にも何か礼をさせてくれ」 
「別にいいわよ。結婚祝いだって言ったでしょ」
「そういうわけにはいかない」
 大義そうに眼鏡のブリッジを押し上げる左手指に、マリッジリングが炯然ときらめく。
「お前は俺たち夫婦の恩人だ、純子。俺にできることならなんでもしよう。言ってみろ」
「公貴って、昔っから超絶くそ真面目よね。損な性格」
「そういうお前は捻くれ者だな。何も成長が見られない」
「失礼な男」
「難儀な女」
「ねえ、当てがないわけじゃないのよ。でも超絶くそ真面目のあんたにそれができる?」
 ソルベージュをマドラーでかき混ぜると、赤い氷の粒が白い練乳と混ざって、境界からピンク色になっていく。小さな氷のとがりに光が通って、純子の鼻先に青く乱反射する。公貴が深く呼吸するのが、顔を伏せている純子にもありありと知れた。また、女が不安がって、夫の肩にますます縋りついているだろうということも。
ブレンドコーヒーでございます」
 公貴は黙って左手でカップの取っ手をつまみ、口許に運んだ。
「できるさ」
 白くたちのぼる煙の中で、上品な唇が微笑みの形をとった。つくづく底知れぬ男だった。
「俺たちは地獄の果てまで、共犯者だからな」

 何も書けないまま夜になった。せっかくの休日を無為に過ごした、という実感が、重石となって純子の肩にどっとのしかかる。
 外では、重厚な歌にも似たアザーンが、定刻を迎えたイスラム教信者たちに対して礼拝(サラート)を呼びかけている。このコストの、すぐ向かいにモスクがあり、二階部分にアザーンのための拡声器が取り付けられているので、太いバリトンボイスは窓を閉めていてもよく響く。びりびりと、振動が床からデスクから純子の骨張りの身体を揺さぶり、彼女は辟易として立ち上がった。五十センチもないところに置いたセミダブルベッドに突っ伏し、薄い毛布をかぶって、神の国への誘いからのがれた。
 三十分もしないうちに、表の戸鍵が降りる音、スニーカーの靴底がタイル床を踏み込む気配がして、純子は愛する女の帰宅を悟った。
「おかえり」
「ただいま、純子」
 布団から突き出した手を、はじめの、ひやりとした小さな右手にそっと包まれる。ついで、繊細な唇が爪先を掠める感覚。毛布を跳ね除けると、純子は身体を捻ってようよう起き上がり、ベッドの縁に腰掛けて革のライダースを脱ごうとしているはじめの背後に腕を回した。
「寂しかった」
 純子の、甘ったれた泣き言を、はじめは笑わない。ほっそりと優美な首を回して、ねんごろなキスをくれる。
「寝てたの? 起こしてごめん」
「いや……ぼんやりしてただけよ。はじめ、身体が冷たいわ」
「走ってきたから、汗ですこし冷えたかも。でも大丈夫」
 唇同士で触れ合いながら、零距離で、秘密を打ち明けるような囁き声で会話する。これほどまでに近しいところで眺めていても、はじめの涼しげな美貌は、まったく完全無欠だった。長い睫毛に縁どられた鋭いまなじり、トパーズ色の香気たつ虹彩、こぶりな鼻と健康的な朱色の唇。若い豹の鋭さとしなやかさ。それでいて、甘いミルク色の靄を、目元口元に豊かに滴らせているのが無垢だった。純子の、鬱屈とした劣等感も、彼女の前では憚るほかない。
「ごはんはもう食べた?」
「まだ。昼から何も食べてないのよ」
「そうだと思って、スーパー・インドで色々買ってきた。一緒に食べよ」
「うん……」
 彼女が抱えてきた巨大なビニール袋から出てくるのは、日本のカップラーメンにも似たカラフルなポップミー、ココナッツジュース、バナナ、マンゴーやスイカなどのフルーツ、大豆を発酵して揚げたテンペ、ポテトチップス、オレオ味のポッキー、乾麺のインドミー、乾麺のミースダップ……二人いて、そのどちらもインスタント麺の割合に疑問を抱かない。他者から見れば、いっそ異様なほどだろう。
 居室は狭く、キッチンはおろか調理台すら存在しないので、廊下に出て一階に降り、コスト共用のキッチンスペースを利用する。ポップミーのためにカセットコンロで湯を沸かしながら、水道会社のマグネットやキャラクターのシールなんかがゴテゴテと貼り付けられた背の低い冷蔵庫を覗き込んでみる。一昨日ここに入れた牛乳のパックが空になっている。そのかわり、屋台で売り叩かれている類の揚げチキン(アヤムゴレン)がいくつか、大皿に詰め込まれていたので、二つほど拝借し、ケチャップ・マニスをぶちまけたのにかじりついた。
「仕事はどうなの」
「うん……こんど、中国の偉い人とイベントをやるからって、ポスターのデザインを任せてもらえることになった。でも中国のことあまりわからない……」
 沸騰した湯を、プラスティックカップの中の麺(ミー)に注ぐと、すぐに湯気が立ち上ってきて純子の鼻先にただよう。
「純子は今日どうだった」
 ポップミー・カリー・アヤムに付属しているのは、揚げ玉ねぎと調味油、粉末スープに、サンバルと呼ばれる大量の香辛料、その全てを考えなしに突っ込んで蓋を閉じ、備え付けのカトラリーで塞ぐ。
「そうね、とくに何も」
「明日から仕事でしょ。ゆっくり休めた?」
「ん……」
 調理台で三分を待つ純子の背中に、はじめがぴったりとくっついてきた。
 肩越しに振り返り、顔を傾けて薄く唇を開く。背伸びしたはじめが純子の下唇を食み、舌を入れてきて、彼女の甘い唾液が喉の方へ流れ込んでくる。純子も同じようにする。
「何するの、ここ、外だけど」
「だって純子、寒そうだから……こうしたら暖かいでしょ」
「そうね、でももう三分たったわよ」
 はじめは長い前髪の向こうで、切れ長の美しい目を毬のように見開いている。
「だめ?」
「ダメなわけないじゃない」
 はじめに向き直り、無防備に緩んだTシャツの裾から手を入れて、柔らかい腹を撫でた。耳の横で息を呑む気配がした。そうする間にも純子の指は侵略を進める。腹から肋、脇の柔らかい肉を触って、すこしずつ核心に近づいてゆく。
「あっ、あ、純子」
「牛乳がもうないみたいだから……」
 スポーツ下着を押し上げて、ずっしりと質量のある乳房を揉みしだいた。
「はじめのおっぱい貰っちゃおうかな」
「変態」
「変態はどっちよ」
 はじめは耳を赤くしてうつむき、うにみたいな小さな舌で唇を舐めた。

2024/01/18

 

 

 

 

   ナッシング・トゥ・マイネーム

ジュンコ わたしのジュンコ
閉店後の、四川料理屋のポーチに裸足で座っている
親指で赤虫を潰す

ジュンコ、
錦江飯店(シンジャンホテル)でウエイトレスをしながら小説を書いている
新作が発禁になる
不能の恋人に飽きて、ドイツ人の男とトイレでハメたこと

ジュンコ、
セリーヌのモデルになりたい
白いシャスールジャケットから肋の浮いた腹を出す
ブルーパールの無窮のきらめき

セックスのとき、わたしの腹を刻むのがやめられないジュンコ
空気に触れて固まりかけの血を啜るジュンコ
カルシウムの粉で唇が白くなったジュンコ
男に傷つけられたジュンコ……

ジュンコ、
食べないから太れないのよ
ジュンコ、マリファナはサラダじゃないよ

喧嘩して、お前を日本へ強制送還させてやる、とシャウトするジュンコ
暗い部屋でエヌエイチケーワールドをループ再生するジュンコ
わたしにディオールのコスメを買ってくれようとするジュンコ
早朝の南京東路(ナンシンドンルー)で何者でもないことに怯えていたジュンコ

ラブアンドキッセズ・エイティーエイト 白い鍵盤にもたれる
二百足らずの衝動と欲望のかたまり
ジュンコの深爪の指に眠りたい
骨と肉を離れて 言葉だけなら正直でいられる気がするの

ブッダは天山(テンシャン)を超えるまでにずいぶん太ったねと微笑むジュンコ
茂昌眼鏡公司オプティカル・ゴンスー)のピンクのネオンの下で裸になるジュンコ
わたしの足の小指の味が忘れられないと言うジュンコ
浴室の、ラピスラズリのタイル床に張り付いているジュンコ

あの人は困ったふう バカの相手はいいかげんやめろとため息をつく
眼鏡のブリッジをそれっぽく持ち上げて見せる
やめる、やめない、どちらでもないのはカリーピッツァの名店 なつかしいね

ジュンコ、
ノルニルの末娘は毛細血管まで巻き取ってしまうよ
いつかルーブル美術館アセンションしようね
青いブーツでクール・カレを征服しようね

ジュンコ、
ちんちょうに下がった六十六キロの肉に縋りつく
千キロを先行するメリダの、黒い逆風にとこしえに包まれたまま
わたしの臍を真鍮のハサミで抉りこむ

高プロラクチン血症のわたしの乳汁を啜るジュンコ
闇医者で手術して子宮を四万ドルで売るジュンコ
あんたはずっと膣穴を開けておいてね、壁の血管をいつでも腫れさせていてね、
月に一度きたない血を流してね、あたしの子どもを産んでね、と泣くジュンコ

冷蔵庫の中にあの人の精液が凍っている
黄浦(ホワンプー)を遡りジュンコはようやく、彼女の夢を叶えた

 

 

 


   それ以外は意味ない

生産の機構である以外に人間である意味はない
あなたがたにはわからないでしょうけど

エナドリには炭酸が入ってない、ベンツピレンを動脈に流し込まれてる気分
錠剤を砕いて真っ白にして飲んだ方がずっとましなのよ
けっきょく、アトラスは疲れて寝てしまうし、何にも意味はないんだけど
あたしらが人間でいるには、こうでもしないとダメなのよ

十七・五ポイント、文字の上を滑走 たいせつなものは凍土の下にある
ステップの遊び人たちはいま、オックスフォードの厚底の下にある
明日はどうしよう、明後日はどうしよう、湿ったノイバラの葉を、幽寂の中でかき分けて、
いばらで血だらけになった手のひらが、あんたのオマンコに触ったのよ

小学校(シャオシエ)の校庭であたしの左腕が燃えているの
見てよ、不能の枝に金の蝋梅が咲くよ、嘘をつけないあんたを粉にして耳から吸ったの
一五二・四七・二十一、あんたのシェイプってノントーシェント、スーラはムハンマド
それがいま、あたしの内臓を結晶化させて、鍋の芋ころがしの中にころんと寝転んだの

浦東(プードン)国際空港の第一ターミナル、紐で繋がれた星辰のコンコース、
スキャバルの黒いプルーネラ織り、高慢なニシキ蛇皮が大きな足によくお似合いだわ
腰ほどしか背丈のない小さな女の子、子犬のケージを抱えて、黒い目で暗澹と見上げるのは、
ペトリの中のハイ・デザイア 三半規管、前庭のタップダンスをあたしは、
受け入れられませんでした

冬牡丹 ブレザー服を着た神さま、どうぞあの子をスライス肉にしてください
かすかに、はい、と聞こえた。

あたし金星(ジンシン)、清らかな湖の底で育てていたハルブの種があるの
うまく使ってあたしの子を孕みなさい
壊れたい、産まれたい、色即是空、無常迅速、浄玻璃の鏡をのぞき込むのは青い星
寝ているあんたの乳首を噛んでみる やわらかくて冷たくて、あたしは知らず息をつめた

西の地平に薄る月 いつかモスクワの海を歩いていたとき、裸足で何かを踏みつけたのよ
それは、ハノイでなくしたパソコンが二時間かかって戻ってきたときのうれしさ、
ハンドルから手を離し、激しくさかまく風の中で、差し伸べられた白い腕と接続したときの、
憎しみ、横須賀のカフェ・チェーンのボックス席で、俯くつむじを見ていたときの夢うつつ

つめの先の白いところをぜんぶ許せない、だからメルポメネーのくるぶしに齧り付いたの、
それ以外に生命の意義を感じられないの、生肉の生理反応に翳ってあんたが見えないの
ビューイックのボンネットに縛りつけた肉体の、浅ましく湿っているところを啜り、
奥歯ですり潰した 覚後禅 先生(イーシェン)、もっと強いのを出してください、眠れないんです……

ぶよぶよした蛍光グリーンの受精卵 みんな孵って、それから、めちゃくちゃにしたかしら
下水管を通って排水溝から這い出て、家庭の中にぬるぬる侵入していったかしら
イケアの白い木のテーブルを齧ってフンにしたかしら
湿気で黒縁眼鏡が白く曇って、宅配のピザはもう冷たく、固くなったかな

下春、九八〇キロの果て、渡り廊下ですれ違ったとき、ふいに向けられた侮蔑の眼差し
よるべなく握り込んだささくれだらけの指
何も言えなかったのは、七十三の下で粉砕された左肩の骨を、まだ後ろ手に隠していたから
ベスト・リガーズ!

誰よりも幸せになりたいから青い靴で破滅に志向する
……あんたって、最近寝てばかりね 

 

 

 


   横須賀モダリズム

猫の仔らにたわむれに餌をやる

かたほうは長靴を履いて戻ってきた
かたほうは、穴に棘でも食い込ませているだろう

ロナルド・レーガンアメリカに帰る
星条旗は日傘の白いレースにさえぎられる、くせ毛が痩けた頬に薄青くたれている
巻いていくつるに左腕を絡め取られる、友人であることもあるいは永遠の葛蔓
いちごのソルベージュを吸いながら、べつに、いいわよ、と女は言った

あなたがたが切望するものを……と女、あたしは与えることができる、好きに使いなさい
そして同じ分だけあたしにもよこしてね、飢えているのはみな同じなのだから

筋肉がなめした鞭のように張り詰めて、心はさえざえと冷えていく
当たり障りのないアートワーク、ヴィンテージ風のファニチャーにイエズス会の聖書、
漂白されたタオル、かび臭いカーペット、〈起こさないでください〉のサインプレート、
薄笑いの顔に叩きつけたピザハウスのリーフレット、割引券付き
自害してしまおう、今、すぐに、垂れた頭から三十五グラムが遠ざかる
ここを、深い水だと思って、身投げすればすぐにでも死ねるわよ、と女は言った

浅緑のスクールロッカーが激しく音を立てて閉まる
煉瓦の窯に生白い生地が張り付いている
修善寺の山嶺に浮浪雲がさしかかる
薄暮の中でおぼつかない白字 速度落とせ!  

ブルーベリージャムは清廉潔白
ジュメイラ・ヒマラヤズのラウンジに、粗末なスニーカー靴を揃えて座ってる
不幸の花も扇に載せれば静かに色めき立つ、花弁がちぎれていても、蕊を奪われていても
地球の裏に黒点 ザ・エンペラー・リバースド それが思し召しならと、寡黙に頷いた

不能の愛に、不義の遊泳に、真実などいるものか、
豊かな土に種を撒けば萌芽する 道理ではないか

つやつやした黒のアルミフレームに載せた、重く肥大した自尊心、
流氷にひびが入る 半透明の冷たい鏤みに横たわる金色の麦の穂、耐え難いほど軽い、
互いにそっぽを向いた二枚のジョーカーカードに融合をかけて、墓地に送る
血管を引きちぎり、骨を粉砕し、肉は細切れミンチにして、盃の上にエンキドゥを創る
大義そうににぎり込んだ左手に唾を吐いた、とても正気とは思えない、愚かだ、
迫るハルメギドの地平、すべてを見る必要はないと、寡黙に頷いた

何も知らなければこそ、愛は深まるというものだろう
離した野良がどうなったかなど、拘泥するまでもないことだ……

コンクリートの道の上に白く境界が浮かび上がる
ボードの上に蛍光緑が鈍く反射している
あれが十の三乗地点 一〇九五日の涯 
喉にまで潮の香りが押し寄せる、これっきり坂

トランジット十八時間、出発ロビーFゲート、水平尾翼が赤く光る
小さな手のひらが差しだすブルーパールのイヤリング
泡立つような予兆に、顔を上げるもすでに誰の姿もなく、
あとはただ夜に向かって黒い大理石の廊が続くばかりである

 

2024/1/11

 


 共同生活は、存外に、うまくいった。
 これは後から思えばという話で、その渦中にいるときのはじめは、とても「よい」とか「よろし」とか、言えたものではなかった。純太もきっと同じ思いだったはずだ。この部屋に来る以前から、見ず知らずの女性の家を転々としてきたらしい彼は、ことあるごとに、はじめがいかに男らしいか、つまり女ぽくないか、語った。やかんで茶を沸かすとき(ティーポットと紅茶がいくつか、あるもんじゃないの、こういうときはさ?)、出かけるとき(スニーカーしかない? マジで? デートの時とか、どうすんだよ)、やむをえず同じ布団で寝ようと提案したとき(は? 俺男なんだけど、知ってるよな? まあ、おまえみたいなちんちくりん、襲う気にもなれないけどさ)……本当に疲れて帰宅したときに、ぼんやりしたまま固形石鹸で髪を洗ったら、畳で待っていた純太に悲鳴を上げられたこともある。とはいえ、彼が男とか女とか、そういう問題にいちいちこだわっているわけではないのをはじめも承知していたので、こうした小言もあまり気にならなかった。
 むしろ、変なのはおまえのほうだろうと、言ってやりたいことの方が多かった。初日、寝床をどうするかという話になったとき彼は、風呂で寝るから気にしなくていい、と言って、その晩本当に浴室で過ごした。全裸になって、あの狭い浴槽に膝を抱えてはいるのだ。それで眠る。はじめがいろいろ気を回して毛布を持って行っても拒絶する。どうしても冷え込む日は、ホームセンターで買った、アルミの風呂蓋を閉める。冬眠する大きな動物のようだと、はじめはいつも思っていた。
 架空の言語を喋る。はじめと意思疎通を図る際には、むろん、日本語以外に選択肢はないのだが、あまり得意ではないのだというのが、本人の主張だった。それでは何が母語なのかと聞けば、生まれてこのかた耳にしたこともないような、まるで楽器や動物の鳴き声みたいな言葉で、喋りはじめるのだった。書き言葉は、幾何学模様にも似た、へんてこな絵だった。かろうじて母音と子音が機能しているということくらいしかわからない、複雑で、難解な言語。この地上のどこにも存在しないと思われる言語。
 架空の女神を信仰する。彼は、折りに触れてはじめにこの女神の神話を語った。可哀想な少女神だ。アミニズムや、ヒンドゥー教などを思わせる、多数の神々が跋扈する宇宙で、彼女は最も年少だった。女なのだけれども不妊で、身体はカリカリに痩せて、まるで少年のようで、他の神々のように保護や生産の能力をもたない。ふつうは、忌み嫌われる立場にある破壊の神でさえ、彼女が無価値であることにはとても及ばない。みな彼女をいないものとして扱う。あるいは、いないほうがよいものとさえ。それでも、言葉が不自由なので、抗議することもできない。ただ凍土の中に埋まった種子のように、じっとしている。一三八億光年向こうの孤独の中で、息を潜めている。だが純太は、そんな彼女がいつか審判の日に神の右座に上げられて、他の神々を圧倒するんだと、そう信じていた。シンデレラの御伽話みたいな話だ。彼があまりに真剣に祈りの儀式をするから、そうした感想はついに胸の中に閉じ込めたままだったが。
 木枠に鹿のアキレス腱を弦として張った竪琴のようなものを弾き、世界中で集めてきた、色とりどりの糸で刺繍をする。犬には死んでも近づかない。その割に、猫を飼いたいと、一日に二度は言う。ケバブ屋のバイトをはじめて、辞める。数日から一週間、ふらっといなくなることがある。はじめの課題制作がつまらないとケチをつける。天体図鑑をひっくり返して、挟んでいたメモをみんな剥がしてしまう。プラスティックのコップをわろうとする。針金で、変な模型を作る。修学旅行で行った京都で、お土産に買ったミニチュア仏像を、いつまでも眺めている。
 1lkの狭いアパートで曲芸師と動物のように暮らした。はじめは、彼を養っていると言っても良かったが、いつも動物の立場に甘んじた。無知だった。


 こんなことがあった。
 とても悲しくて、泣こうとしたが、泣けなかった。布団を敷いて、ずっとその中に蹲っていた。大学に行かなければ外に出ることもせず、家事もアルバイトもみんな放り出して、当然生活に支障が出た。影響は純太にも及んだ。彼は、食事を三つも抜かれてとても不機嫌になり、日常の義務として課している浴室の掃除をこなさないまま、夜中にどこかへ出掛けて行ってしまった。
 朝、まだ早いうちに、はじめは目を覚ます。うつ伏せになったまま眠ってしまったようである。やっとの思いで布団から這い出て、すりガラスの窓を開けると、まだすそに薄桃色を滲ませたままの薄明の空に、痩せ細った月がひっそりと浮かんでいた。それで、はじめは、自分がきのうじゅう何も食べていないこと、今非常に空腹であることを思い出した。
 のろのろと起き上がり、本棚にひっかけてあった、部屋着のスウェットに着替える。そのまま寝たためにしわになってしまったシャツは、クリーニングに出すことにしてカゴに放る。ついでに、いちおう、浴室も確認するが、純太は不在である。銅のポットに、水と麦茶のバッグを入れて火をつけ、これがまだ静かなあいだに冷蔵庫の中を物色する。彼が気に入って買い貯めている、業務用の乾燥大豆のほかには、卵がいくつかと調味料の類、それからはじめがちまちま集めてきた小さなパックの醤油なんかが、寒々とした狭い庫内に残されているばかりだった。気の向かない外出の予感に思い切り肩が落ちた、その時だった。
「ただいま、はじめ」
 純太が帰ってきた。
 すっかりごきげんだったので、はじめは正直、拍子抜けした。彼は何か含みのある笑顔で、鼻歌なんか歌いながら部屋へ入ってくる。柄物の開襟シャツの襟元で、焼けた鎖骨が静かに呼吸している。子供みたいなハーフパンツから、脱毛された脚がスッと伸びて、つま先にはやけに上等そうなスポーツサンダルを履いている。パーマヘアはうっすらと濡れて、緩く螺旋状になった毛先に水滴が引っかかっていた。何か言いようのない感情に包まれてはじめは立ち尽くしたが、純太は特に気にした様子もなく、「もう飯すんだ?」、聞いてきた。
「おかえり。えと、まだ。何もないから、スーパーが空いたら買い物に……」
「ちょうどよかった。今日は朝飯外で食べるから」
「ん?」
「ちょっとぶらぶらしよ。荷物、おやつとか詰めて、十五分で出るから。あ、パスポート忘れんなよ」
「え……純太?」
 パスポート? 混乱するはじめの、まだ寝癖だらけの頭の横を通り過ぎて、純太が畳に入っていく。「あ、いいのあった、リュックこれでいい? 服は……少ないな、まあ買えばいいか。歯ブラシ、目薬、ティッシュ……」収納や箪笥の中を物色して、何やら支度をしている。「はじめ、なにしてんの? とりあえず着替えなよ」
「純太、何するつもりだ?」
 コンロの火を止めて、やっとの思いでそれだけ聞いた。
「旅行しよ」
 なんでもないことのように、彼は答えた。
 その真意を問いただすまもなく、はじめは九割純太が支度したリュックを持たされ、戸締りをさせられ、見慣れない車に乗せられていた。運転手は、なんと、純太だった。大学そばの、早朝営業のコンビニで彼はホッカイロとタバコを異様なほど買い込み、朝食を食べそびれたはじめにもカツサンドが与えられた。
 まだお腹に余裕を残したままのはじめと純太を乗せた車は、八王子料金所から中央自動車道に乗り、渋滞に巻き込まれることもなく三十分ほど走った。早朝の静謐な有料道、フロントガラスから後ろが丸切り存在しないコンバーチブルで、純太はカーステレオからどこか異国のバラードを流した。彼の髪は風に揉まれてすぐに乾いた。はじめは手持ち無沙汰で、純太の、存外に精悍な横顔ばかり眺めていた。東京湾に出ると、ちょうど日の出の時刻で、波の彼方から上る朝暉を二人は見た。強い光に、夜闇の領域はまたたくまに後退し、湾岸沿いに続く倉庫の群れやビル、京浜大橋、赤いアスパラガスみたいな東京タワーが、はじめが、純太が、あざやかな橙色に包まれた。
 寝ぼけていた意識がようやくはっきりしてきたころ、行手に羽田空港の巨大なターミナルが見えてきて、ようやく、ことの重大さを察するはじめだったが、純太には相変わらず一分の隙もなかった。彼ははじめにチケットを握らせ、液体類とハサミを捨てさせ、半ば引きずるような形で税関検査、出国審査を終え、まんまと飛行機にのり果せた。

 その昔、ここ一帯に住む男たちにとって、馬は命の次に大切な自負心の象徴だったのだという。
 良い品種を、手をかけて育て、装備の類い、つまり手綱や鞍、頭絡、あぶみなどにも金をかけて、そうして完成した見目麗しい馬を連れていることが、そのまま主人となる男の価値にもつながると考えられていた。戦いのとき、直接敵を叩くことなく、馬のたてがみを切ることで報復とすることもあったらしい。
 純太は、こうしたことを嬉々として語るのだが、はじめとしては、まったく、それどころではないのだった。先ほどからくらくらと頭が回って、見ること聞くこと、どれも現実感がない。
「大丈夫かよ? 顔色悪いけど」
 振り返って純太が、心配そうに、こちらを覗き込んでくる。はじめは首を振って、彼の背中にますますしがみついた。そうでもなければ、この体高十六ハンドほどもある巨大な馬の背から、今にもずり落ちてしまいそうに思ったからだ。
 ふたりがいるのは、果てのない高原。北にカザフステップ、南にテンシャン山脈、かつてシルクロードと呼ばれ、行商人に荷馬車、世界中の宝物が行き来したとされる、その大地を、馬に乗って南下する。
 肥沃な草原地帯。目にもけざやかな緑の地平に、ぽつぽつと、ポピーやブルーサルビアエーデルワイスの群生が見られる。平たいお椀を何枚も被せたみたいな丘陵の向こうには、きりだった山肌に白く雪をいただく、荘厳な山脈。雲一つなく、コバルトブルーに澄み渡る白昼の空。乾いた草の匂いを運ぶ風。二人のほかには誰もいないとさえ思われる。静かだ。こうした景色を、もう半日近く、彼の肩越しに見ていた。
「やっぱりちょっと休憩しよう。もうずいぶん歩いたしな」
 いつも寡黙なはじめが、ことさらに口数少ないのが、居心地悪かったのかもしれない。彼は身軽にも馬の背から飛び降りると、適当な灌木の茂みを見つけて、そちらへと手綱を引いた。
「落ちる! 純太!」
「だいじょうぶだって、ほら、バランスとって……お、ラッキー」
 灌木は柘榴の木だった。てるてる坊主みたいな、愛らしい形の果実がいくつか、枝の高い位置にぶら下がっていた。純太は枝に手綱をかけて固定すると、転落寸前のはじめを、まるで子供にするみたいに抱き上げて、恭しく地上に降ろしてくれた。
 ウエストポーチから折りたたみ式のナイフを出し、熟れ切って弾けたのをひとつ切り落とす。純太にひとつ、はじめにひとつ。硬い皮の中で、ルビー色の実がツヤツヤしている。鼻を近づけるだけで甘ずっぱい香りが神経まで染みてくる。はじめが一粒一粒を引き剥がすのに難儀している傍らで、純太はあっという間にみんな齧ってしまって、口許についた果汁を手の甲で乱暴に拭った。
「それにしても、遠くまで来たな」
「何か探してるの」
 やっと取れた。爽やかで、甘かった。
「ん……人をな」
 皮を放り出した純太が、馬の背に登って鞍に立つ。
「前は、この辺りで会ったんだけど。草が残ってるから今年はまだ来てないのかもしれない」
「草が残ってると、どうなるの?」
「遊牧してるんだよ、ほら、羊がいるだろ、大勢さ。羊は草を食べるから、草がなかったら、ここに集落が来てたんだなってわかるわけ」
「よく知ってるな」
「まあね。でも、日暮れまでには辿り着きたいな。ここで野宿は、はじめだって嫌だろ?」
 そう言って、いたずらなウインクをしてよこす。はじめも彼に微笑んだ。北京の空港で、乗り継ぎを待って十八時間も缶詰になっていたときに比べたら、いくらかマシだと思ったからだ。

 

2024/1/9

 

 

 

 虚ろな心をもてあましたまま春がすぎ、夏がやってきた。抜けるように青い穹窿に、白い雲がむくむくと立ち上がり、激しく夕立を降らしたかと思えば、急に生やさしく涼風を吹かしたりする、気まぐれな季節だった。はじめに彼がもたらされたのもまた、夏の気まぐれによるものだったのかもしれない。
 その日、降雨がひどく、みながみな傘を差し、早足で帰路を急ぐ夕暮れ時、はじめはTシャツ一枚に画板を背負って自転車を漕いでいた。画板は、はじめの脇の下ほどの高さがあるもので、背負うとちょうど角の部分が頭の上で庇のようになったが、雨漏りした。絵の具混じりの水が淵から絶えずこぼれて、不精に縛ったはじめの髪や、病的に白く痩せた頬に流れた。道ゆく人はギョッとしたような顔つきではじめを見たけど、絵の具まみれになるのはいつものことだったし、気にはならなかった。
 T美術大学芸術学部は、学科を問わず、新入生に共通の課題を出す。今年はそれが、人物画、ポートレート表現だった。はじめは、高校の時からの親友で、同大の建築学部に進んだ手嶋という男と約束を取り付けて、一つの季節をかけ、お互いの姿を表現に閉じ込めた。手嶋の方は、いくつか質問をし、それをメモに取って持ち帰っただけだったので、結局何を作って提出したのか、はじめには知り得なかった。はじめはといえば、彼の横顔を描いた。大学生になり、ますます精悍に、硬質ささえ感じられるようになった骨格を、うねるような長い天然パーマを、喉仏の小さな骨のとっかかりを、太い鎖骨を、見て、描いた。高校のときからはじめはよく彼の絵を描いていたし、その頻度は目を閉じていても手だけで紙面に彼を落とし込めると思われるほどだったが、実際、彼は変わっていた。鍛えても肉がつかないと嘆いていたはずの脇腹に、ようやく、うっすらと、トレーニングの成果が現れはじめているのを感じ取って、絵筆を掴んだまま瞼を伏せるはじめだった。
 講評が行われた。ひどく屈折したコンプレックスの、唾棄すべき副産物だと、講師ははじめの作品を酷評した。君は処女だね? 揶揄混じりの質問に、固まって座っていた女子の集団がくすくす笑いをした。男を知らない君の、この男への醜いあこがれが凝り固まって、こんな気持ち悪いものができたんだ……すぐにもその、あさましい理想を捨てたまえよ、それでこの作品ともいえない絵を精神病院に持って行って、どうぞ私を治療してください、と頼み込むがいい……彼が次の生徒を呼び出す段になって、ようやく、はじめは彼に手ひどく馬鹿にされたのだと知った。手嶋がこの場にいなくてどんなに良かっただろうとそれだけを思った。真実だったからだ。ほとんどの生徒が作品の修正を命じられる中で、はじめには再制作が課された。
 すべてがばかばかしく思われる家路である。細身のホイールが水溜まりを跳ね上げて、磨いたばかりの白いフレームに泥が散る。雨足はますます強くなる。絵の具はますます水溶して、瞼を流れ、咄嗟に瞬きしたのも間に合わず、目の粘膜にぬるりと入ってきた。痛みを感じてはじめは、ぎゅっと目を閉じたまま、勘だけでペダルからクリートを外してアスファルトを踏んだ。思わずため息が漏れた。ハンドルにかけたリュックの、両ポケットから目薬を探す。
 微睡むとき、眠るとき、今のように目を閉じているとき、耳の裏から青白く光の透けた瞼の皮膚へしんしんと、沁みてくる言葉があった。……やめよーぜこういうの! 冗談だろ? 笑っちまうよ!
「目薬?」
 つむじの上に、誰かの声が降ってきて、見えもしないのにはじめは首を上に逸らした。
「俺のでよければ貸すけど、どう? 人のだからって気にするタイプ?」
「……いや。貸してほしい。変なの、目に入って、痛い」
「ほい、蓋外してあるから」
 伸ばした指先に、プラスティックの小さな容器が触れた感じがする。すぐさま掴み取って、今もつきつきと痛む右目に中身を一滴垂らし落とした。しみた。睫毛までが優しくしめって、痛む眼球を慰撫するのが感じられる。
 瞼の中で清涼感を転がし、痛みが取れてきたころをみて、ようやく、親切な異邦人のことを思い出すはじめである。おそるおそる瞼を開けた。視界が白むのは、夕立雲がちぎれて、梔子色の光がさしてきたからだった。未だ細く降り続く雨は、まぶしく光踊し、しばらくの間、はじめを幻惑していた。逆さになったあの人の顔が、水溜まりからこちらを覗き込んでいる。かと思えばそれは写像で、ほんとうはというと、斜めに傾いた姿勢で静止したホイールのすぐそばに、知らない男が立っていた。
 よく焼けた顔、濡れた黒髪が垂れている中で、青い目が深夜の燭光じみていた。ろうけつ染めのシャツに薄手のフィッシャーマンパンツ、まるで出自のちぐはぐな放浪者のような身なりなのに、不思議と小粋な、高潔な感じのする青年だった。剥き出しになった太い首から、こちらに差し伸べられた無骨な手のひらにかけて、渦巻く火のような、竜のような、奇妙な紋様が刺してあった。これが、トライバルといって、マレーシア・ボルネオ島を起源とする伝統的なタトゥデザインだということを、のちにはじめも知ることになる。
「それで、今日からしばらく君の家に泊めてほしいんだけど」
 彼の要求に、ほとんど反射的にはじめは答えた。
「今から床屋に行ってパーマをかけてこい。それが条件だ」
 行きずりの彼との生活が、うまくいくはずがないなんてこと、はなからわかっていたはずなのだが。この時の選択は実にいかれていたと、いつも、そのように回想する。

 彼ははじめの出した条件を聞くと、すぐさま頷いて、つっかけだけの足で踵を返し、一つ目の角を右折して見えなくなった。はじめはそれから家に向かってまた漕ぎ出したわけだけれども、一人暮らしのアパートの、古いアルミドアの前に立つころには、彼のことなんか夢かまぼろしのように感じていた。鍵を差して中に入り、ビンディングシューズを脱ぐ。廊下兼キッチンスペースの、ただでさえ手狭な壁に取り付けたラックに、愛車を引っ掛けて固定する。背負っていた画板はもくろみ通りすっかりダメになっていたから、水張りしてあった画用紙だけを破り取って、シンク脇のゴミ箱に突っ込んだ。そうしたら急に、濡れ鼠になった我が身が不愉快に感じられて、リュックを放り投げるのもそこそこに浴室へ飛び込んだ。
 この物件に住もうと決意したとき、決め手になったのが、浴室とトイレが分かれているということだった。浴室は青いガラスのタイル張りで、小さいが浴槽もあったし、浴槽と手前の壁の間にやぼったいガスの給湯器が狭そうに収まっているのも、なんだか愛らしかった。濡れた服を脱いで裸になり、大きな鏡の前に立つ。薄い色の髪、化粧っけのない顔。痩せこけて骨の浮きでた、灌木の幹のような身体。どこにもかしこにも魅力のない身体だ。生娘でしかたない。
 はじめが風呂から上がり、髪を整えたころに、インターホンが鳴った。
「住所、先に聞いておけばよかった。探すの大変だったんだぞ」
 てきとうに羽織ったキャミソールの、肩紐がずるりと二の腕の方へ落ちた。軒先で、あの男がへらへらと、腕輪だらけの右手を振っていた。
「ほ……んとにきた」
「へ、だって、来ていいって言ったのおまえだろ」
「夢かと思った……」
 ぼさぼさと、雑に伸ばすばかりだった長い髪は、顎の辺りで揃えられ、はじめの注文どおりゆるくパーマがついていた。頬へ垂れた一房に透けて、シルバーのカフや、大ぶりなエスニックピアスが、雨上がりの湿った空気の中でキラキラと光を帯びている。
「うん。来たよ」
 人好きのしそうな笑顔で、彼がまた、はじめに手のひらを差し出した。
 その手をおそるおそる握り返そうとしてふと、ほたりと落ちてきた水滴に、はじめは顔を上げた。髪や顔、手以外のあらゆる部分が濡れていた。夕立の中傘も刺さずにいたのは彼も同じだ。まさかその身なりで床屋に行ったのか。傍迷惑にも程がある。
 ほとんど握りかけていた指をひしゃりとはたき落とし、胸ぐらを掴んで浴室に放り投げた。「シャンプーはそこのピンクのやつ、あとは石鹸使え、脱いだ服はこのカゴに……着替えは?」「そこのリュックから取って。洗濯ってどうするの?」鼻歌混じりの呑気な声が、特有の反響を帯びて帰ってくる。見れば、自転車ラックのちょうど真下に、大きくて硬そうなバックパックが立てかけておいてあった。オリーブグリーンのサルエルパンツと、エジプトの壁画を思わせる印刷を施されたキーネックが、すぐに見つかった。「近くにコインランドリーがあるから後でまとめて行く」「リンスとかコンディショナーとか、洗顔とか、ないのかよー」「? ない」「うそ、おまえってほんとに女?」はじめは、さほど腹を立ててもいなかったが、浴室の戸を一度激しく殴りつけておいた。
 誰かと暮らすなんて、はじめてだ。彼がシャワーを浴びているあいだ、この奇妙な巡り合わせにそわそわと落ち着かず、畳の上で一人、立ったり座ったりを繰り返した。何も考えずに引き入れてしまったが、この部屋は完全に一人暮らしのためのものだ。広さは六畳ほど、布団一つに、きちきちと並べた画板や画材、資料など、ちゃぶ台、それから背の低い本棚、ほとんど腰掛けがわりのもの、そこから溢れた書籍の山、整頓されていないわけではないが、人ひとりが満足に布団を敷けるほどの余裕はない。どこに寝かせたものだろうと、考えあぐねているうちにも時間は過ぎていき、やがて浴室の戸が開いたのではじめは背筋を伸ばした。
「おまたせ」
 そういえば、はじめは、彼の名前も知らない。
 水気を含んで皮膚にまとわりついた髪の毛をかき回すようにしながら彼は、「すげえ、くるくる」はじめを見て破顔する。
「なんか、耳がこしょばい」
「そういうもの。ここで暮らすなら、ずっとそれでいてもらうから」
「マジかよ」
「手入れも大変だと思う。朝、まとまらないっていうし。ああ、それじゃあ、あとでリンスも買いに行かなきゃいけないな。洗濯がてら薬局行こうか」
「なんかめんどくさそうだなあ、えと、おまえ」
「一」みずから名前を口にするときはいつでも、身が引き締まるような思いがした。「わたしは、青八木一」
「はじめかあ、いい名前だな」
「おまえは?」
「なんて呼びたい?」
 はじめのそばに屈みこんで彼が、海の瞳で覗き込んできた。それだけで息が詰まるような思いがして、うまく言葉がまとまらなくて、はじめはうろたえる。はじめの弱さも、あさましい性根も、見透かしているかのような物言い。いやな感じがする。
「なんて呼んでもいいよ」
 念入りに、急所へ囁き込んでくる。悪魔のような男だと思った。
「な……まえは? おまえの」
「いろいろあるけど、ないのと同じさ。どれが本当の名前なのか自分でも知らないし」
「じゃあ」
 自分が言おうとしていることを省みて、はじめは背中にびっしりと汗をかいていた。
「純太。きょうから……おまえは、純太だ」
 純太。愛おしさや、いつくしみが混じりあって、胸をふさぐ。その名を呼ぶことに、はじめはまだ少し、ためらいを残している。純太ははじめの想いなど知る由もなく、眉を下げて微笑しだ。

 

 

 

 ひとときもとどまることのない清らかな朝日に照らされ、その肉体は寄せては返すさざ波のように、灰色になったり、虹色になったりした。肋骨の浮いた脇や、極端に薄い腹、琥珀色に透き通る長い前髪の覆う額などに、青白い影が滞留して神経質なくすくす笑いをした。一の存在はそのたびに希薄になっていった。せっかく、骨を砕き、皮膚をむしり、手のひらにピンを刺して留めおいたのに。純太は彼女の心と同じように、彼女の美しさをも愛していたが、その秩序を外れた美しさは、かえって純太を苦しめた。人間が生まれ、繁栄するよりも遥かに昔、北の氷海で人知れず芽生えた神や妖精たちの、そのまた幻想の上に、今の彼女の美しさは立脚している。
 純太は手のひらを差し伸べて一の小さな頭を掬いとり、光の中にとどめて、その顔の造形をつぶさに見た。光に向かって彼女の瞳は、青く、また虹彩の深い部分はオリーブグリーンやベージュ、金色にきらめき、涙の薄い膜に純太の不安そうな顔を写していた。長いまつ毛が花冠のように、外界に向かって静かな展望を見せていた。薄い下瞼に、ほのかに透けた血色の上に、生理的な涙が一粒、ぽろりとこぼれて伝った。頬へ滲むまえに、無骨な男の指がそれを拭った。一をかかえる純太ごと抱き包むようにして、公貴が、覆い被さってきたのだった。大柄な彼に遮られて、ふたりは茫漠とした影の霧の中に踏み入れることになったが、注がれる彼の怜悧なまなざしが突き通るようで、迷うことはないだろうと思われた。一の頬を撫でながら、公貴は純太に微笑した。どこも硬質に作られているかのような彼の顔が、微笑みの形になると、目尻に幾重にも皺が寄って、やさしさに潤うようだった。純太は自ら、彼の肉厚な唇に触れた。顎を傾けると、公貴もまぶたを閉じ、また遮られた視界に変わって硬い指腹で純太のうなじの形を確かめた。啄むようなじゃれあいのあとには、一の唇にも公貴の息遣いを教えた。公貴は、彼女の細い肩の皮膚に甘く歯で戯れている。
 障子の隙、縁側の向こうに、まだ青い桜や紅葉の木、鬱蒼と茂る竹林が見える。無数の葉の中で細かに散った光が踊る。愛し合う。綿のシーツの上に一の、無味乾燥とさえ思われる身体を横たえ、唯一湿って濡れている器官の中へ、公貴が勃起したものを入れた。あまりあるほど大きなものを、狭い道に受け入れて、彼女の腹はうっすらと膨らんでいる。か細い喘ぎのために、春の花の小さな花びらを貼り合わせたみたいな唇が、よるべなく震える。その表面に純太はふたたび、この上なく慈しみ深い愛撫を施した。子どものために作られた木のおもちゃを思わせる、こぶりな右手が、純太の首に切実に縋った。公貴には左手が差し伸べられていた。二人は思い思いに、いとおしい女の手を握り返した。不自然にひやりとした空気が足の裏をさする。灯してあった行灯の明かりが、魚が息つぎをするみたいにときおり波立つ。彼女の嗚咽が高まる。公貴が一の背を抱き起こし、寡少な尻の肉、その狭の肛門を示して、純太にも彼女と接続するよう求めた。公貴のおおらかな微笑の中に潜む、かすかな歪み。泣き濡れた一の花顔。首肯し、頭を擡げてきた先端を、本来であれば排泄のために存在する穴の中へ潜らせる。一の肩越しに公貴の唇を吸う。一を蝶番にして、誰憚らず、三人が一つのものになる。さみどり色の法悦。何にも先んじて、一が息を詰め、背をしならせて果てた。彼女の内臓の震えに耐えかねて、公貴も吐出したと思われた。肩で息をする一の腹を撫でて、公貴が彼女の顔じゅうにねんごろな愛撫を施す。純太もしばらく、彼女の背骨の凹凸に頬擦りしたり、耳がらを歯でやさしく噛んだりして、二人の事後のむつみ合いにもつれていたが、そのうち自分がまんじりともいかなくなって、咄嗟に腰を引き、仙骨の窪みのあたりに射精した。

 

XⅡ

 

 

 極東の教父が、行きずりの女と爛れた関係になって生まれた、原罪の娘。生みの親にすら持て余され、放り出されたサマリヤの異邦者。自らの出自をそのように聞かされて育った一だが、彼女は、温かい手がおさない自分を慰撫したことを、たしかなものとして覚えていた。幼いころは、苦痛と寂寞に立つことすら困難であると感じられたとき、もはや擦り切れて久しいその記憶を取り出してきては、自らを奮い立たせてきたものだった。外では雪が降っている。生まれたばかりの彼女は布に包まれて、寒さや飢えとは遠いところで、安らかに寝息を立てている。身じろぐと、伸びてきた髪の束が瞼の上にかかり、不快感を覚えるより先んじて誰かのつま先がそれを払った。夜明けの露ほどに青ざめた、血の気のない指だが、触れたところはふしぎと暖かく感じられた。
「シスター」
 心地よく閉じた瞼の皮膚に、低い声がしんしんと降りてくる。
「はじめ」
 一は、いま夢から覚めたような心地で、声のする方へ意識を浮上させた。触れる指は、夢の中の誰かのものではなく、自らもまた、生まれたばかりの赤ん坊などではなかった。外では雪が降っている。執務室は、新月の暦を迎えて、暗澹と夜の気配に満たされている。窓のそばに仮眠のためのカウチがあり、一は清潔な黒の僧服に身を包んだまま、赤いベルベットの上にしどけなく身を横たえている。その上に茫茫として黒い影が降り……一はその中に手を入れてかき混ぜるようにした。彼女には、ちょうどその場所に、ちりちりと渦巻く黒い癖毛が見えているのだった。すぐそばには、およそ魔のものとは思えないほど清廉な、若く美しい青年のおもだちも。
 寒さのあまりに白くけぶる吐息が、青年の赤い唇を掠めた。彼はそれとわからぬほどかすかに微笑した。大きく無骨な手が伸びてきて、カウチの下に垂れていた、一の脚の片方を丁寧に折りたたんだ。靴を脱がせようとしているのだと気がついて、一は押し殺した笑みを漏らす。
「早急だな」
「時間がないからな」
 放り出された木靴が、大理石の床を打って乾いた音を立てる。その隙にとばかりに、罪深い唇に、鼻先や頬へ触れられる。一も彼の本懐を心得て、首まで几帳面に留めたボタンを、焦ったく外す。肉の奥に潜り込んだ声帯を思わせる、首元のほのかな突っかかり、鎖骨、鳩尾、貧弱に浮き上がったあばら。薄い乳房。魔のものに感応して濡れる、罪深い肉体。神のために、教会のために蝕まれてきた身体は、審判のその日に穢れたものとされ、確実に地獄へと落とされるだろう。だがそれを見下ろす彼のまなざしは優しい。一の清らかな心は、霊障による痛みと、女としての期待に、よるべなく揺れる。
 彼の長い髪に包まれて、一は恒久の暗夜の中に解き放たれる。異国の香の匂いで意識はぼんやりと霞む。骨ばった指が、機能不全の乳頭を摘み、緩やかに揉み込んだ。一の身体はこれを歓待し、すぐさま、嘴から乳に似たものを分泌する。
「悪魔も、母親の乳が欲しいと思うもの?」
 赤く血の気を帯びた皮膚に、かじりつこうとする唇の、蠱惑的なことを眺めながら、一は彼に問うた。
「悪魔だって、出生の仕組みは人間と大して変わらねえよ」
「そう?」
「俺は、母親が人間だから、精神はともかく、肉の仕組みはなおさら人間に近い。乳は、こうやって吸うし」
 舌で敏感なところをくすぐられて息が詰まる。
「女だって抱く」
 すがめられた黒い目が、ぎらぎらと獣の性質を帯びている。
 悪魔祓いとしての本能が激しく警鐘する一方で、女の肉体は、陶然と彼の欲望を受容する。子宮が、その本懐の成就を期待してぐずぐずと濡れてくる。乳はとめどなく流れて彼の唇を白く汚す。一は自らの罪深さと堕落を自覚し、静かな恐慌に陥りながらも、彼のより深い進入を求めて僧服の前止めを次々に外していった。恐怖と、目が眩むほどの高揚。今まで、数えきれないほどの男に肉体を許してきたが、これほどまでに官能を激しく揺り動かされることは、なかった。それは、彼が悪魔だからかもしれない……それだけではない……彼の、上気して、匂いたつ首筋に縋り付く。
「純太」
 頸の皮膚を吸う。不完全な愛撫でも、彼は、静かに息を詰めた。
「純太……純太……」
「はじめ」
 祈るように、唇と唇を出合わせた。涙が出そうだと思ったが、泣かなかった。腕から腰から、僧服を脱ぎ落とし、青白い闇の中で裸になった。彼は、綺麗だ、と言って、散らばる傷跡や、四肢に現れた聖痕を慈しんだ。骨と皮ばかりの貧弱な脚の間に、膣穴が、卑しく湿っているのを見た。それを、指や舌で、たいそう丁重に愛でた。
「安心しろよ。お前は俺のことを愛している、のかもしれないけど、実際それは錯覚だ。極限状態で気がおかしくなってるだけだ。次に会う時は、俺は三十三の地獄の軍団の長で、お前は教会の執行者、殺し合っておしまいだ」
「純太」
「そうでなくても、悪魔憑きのお前は、俺のそばでは、長くは持たない。目が覚めたら、大司教のところに行って、全て済んだと言うがいい。俺は——」
 太い指が肉の中に入ってきて、柔らかくひろげる。
「お前を犯すことで盃を満たし、全ての悪魔の宿願を果たす」
「いいよ」
 一は言った。

XIII

 

 


 生まれてこのかた、特別仲がいい友人も、まして恋人なんて、いたためしがなかった。そのことについて、私本人も、あまり気にしなかった。それでも、親戚のお姉さんが、結婚はしておくべきだわ、と言ったから、女子大を卒業したあとすぐに婚活をはじめた。私と言ったら、無器量で、会話も下手で、目つきが悪くて性格も暗い。五人の男の人とお見合いして、断られて、六人目でようやく、私と結婚しても良いという人が現れた。古賀公貴さん。国立大学卒、商社勤め、私なんかが結婚できるのが不思議なくらいの、えりぬきのエリート。デートとは名ばかりの、目的を達成するためだけの行楽に出て、相手の欠点が耐え難いものでないことを確認して、帰りがけに婚姻届を出した。私は、青八木一子から、古賀一子になった。
 新居、新興団地の一室、狭い寝室ではじめて身体をつなげたとき、ああ、こんなものだったんだ、と思った。人間が生殖することくらい知っていたけど、そのほかは何も知らなかったから……ちょっと夢を見ていたのかも……ほとんど柔らかいままの夫の陰茎がお腹の中を出入りして、生臭い精液を出されて、それを二回ほどやった。ぜんぜん気持ちいいとか、なかったし、のしかかってくる身体が重くて、広げられた股や皮膚が痛くて、すごく泣きたい気持ちになった。でも、子どもは欲しいし、夫の実家もそれを望んでいた。相談して、月に二回くらいはそういう時間を作ろうということになった。
 毎月、第二日曜日と、第四日曜日だけ、夫が家に帰ってくる。気合を入れて作ったご馳走を当然のように腹に入れ、世間話もそこそこに彼は私を寝室に連れていく。部屋が明るくて嫌なのに、服を脱がされて、寝かされて、適当にほぐされた穴に夫が入ってくる。今度こそって思うのに、生理は毎月ちゃんとやってくる。まだ続くのかとため息をつきながら、海外にいる夫に報告の電話をかける。だいたい出ないから留守電を入れる。彩りも、変化もない、原因のわからない吐き気だけが強く染みついた日々。このままじゃだめだと思って、私は、開いたり閉じたりして、くしゃくしゃになったチラシの番号に電話をかけた。

 千葉駅の東口で待ち合わせをすることになった。ロータリーを出たり入ったりする市営バスを眺めて待った。県庁所在地といっても夜は治安が悪いし、特に東口は繁華街だからすごく警戒していたけど、心配しなくたって、可愛くも美しくもない私に声をかける物好きなんていなかった。マフラーに赤い鼻をくっつけて、風に舞い上がるぽさぽさの前髪を眺めていた。
「いちこちゃん?」
 七時きっかりに、彼は現れた。声だけで、おととい電話に出た人だとわかった。
「ジュンです。待たせてごめんね」
 無言のまま顎を引いて、私は、少し背の高い彼を見上げた。私なんかを抱いても良いというだけあって、よっぽど趣味が悪い人なんだろうなと思っていたけど、目の前の彼はふつうの、ふつうのというのも変かもしれないけど、モデルか、俳優みたいにかっこいい人だった。キムタク? ケンティー? さいきんの芸能人のこと、知らないけど。鼻が高くて、眉がキリッとしていて、髪の毛はくるくるパーマで、子どもみたいな目をしているのに、濡れた赤い唇がエッチな感じだった。くすんだ緑のハイネックの首に、シルバーのネックレスをしているのを見つけて、私は彼の顔じゃなくてそのネックレスのチェーンばかり見ていた。
「寒くない?」
「……、……えと、べつに……」
 やっと絞り出した、蚊の鳴くような声。恥ずかしくてみじめで俯くのに、彼は文句も言わず、私の指を優しく握ってくれた。
「でも、指、冷えてる。ずっと待ってたんだね」
「……」
「行こっか。ホテルまで手繋いでていい?」
 肯定も否定もしないのに、彼は勝手に私の手を取って、上等そうなコートのポケットに入れた。
 子どもみたいで恥ずかしい。今夜、私はこの人に抱かれるのに。厳密に言えば、入れたり、出したりしないから……抱かれるというか、いじくられるというかなんだけど。だから不倫じゃない。あくまで公貴さんのために、私は、この人に女にしてもらう。公貴さんの子供をつつがなく産むために、彼の施術をうけるのだ。
「おねがい、あるの」
 歩きながらボソボソと呟いた私を、彼は、静かに見下ろしていた。
「名前呼ばないで。私、古賀一子だから。古賀さんって呼んで」

 お店に電話してジュンさんが出たとき、私は、自分がすごく汚れたものになったように思えて、怖くて悲しくて泣いてしまった。
 もう長らくセラピストをやっているけど、電話の段階で泣いちゃったの、奥さんがはじめてだよ、と電話口で彼は笑った。それから施術は不倫じゃないよとも教えてくれた。エアコンが壊れて、修理を外注したり、家事代行を頼んだり、タクシーで駅まで運んでもらったり、整骨院でマッサージしてもらうのと同じだよって。ぐずぐず鼻を鳴らしながら、優しい彼に私も"業務委託"した。
 夫とのセックスで感じない。子供がほしいのに、痛くて、気持ち悪くて、セックスに積極的になれない。でも夫は、こんな私を受け入れてくれた人だから、正直なことを言って困らせたくない。夫とのセックスが初めてだから、よくわからないけど、感じるようになったら、たぶん、もう少し積極的になれると思う。感じるようになりたい。子供ができやすいからだになりたい。的を得ない自分の話が恥ずかしかった。オナニーはするの? と聞かれて、よくわからなくて聞き返してしまったのも恥ずかしかった(ひとりセックスのことらしい)。彼は、じゃあ俺が行くよと言ってくれた。サイトを紹介してくれたけど、男の人たちのプロフィールがたくさん載ったページを見ても、良いとか悪いとかよくわからなかったので、おねがいすることにした。
 彼が選んだ、天蓋付きベッドの部屋に入る。ラブホテルって入ったことなかったし、公貴さんもそういうのあまり好きじゃないみたいだったから、余計に緊張した。手を握って宥めてもらいながら、硬くて小さい椅子に座って、カウンセリングシートを書いた。体調はどうですか? げんき、たぶん。重点的にマッサージしてほしいところはありますか? わからない。女性向け性感マッサージの経験はありますか? ありません。責められたいところはありますか? ……膣。好きな香りは? レモン……とか、オレンジとか。照明の明るさは? 明るいのは嫌。されたくないことは? キス。
 準備している間、お風呂に入っておいでと言われて、シャワールームに放り込まれた。広いジャグジーバスには、すでにお湯が張ってあって……いつの間に準備したんだろう、白い温泉の素が入っていた。すごくいい匂いがする。シャワーを浴びて、お風呂に入って一息ついて、ほどよくふやけたところで、足湯状態のまま全身の毛を剃った。もともと毛の薄い方だし、股には生えてさえいなかったから、赤ちゃんみたいで恥ずかしいけど、このときばかりはかえってよかった。全身鏡の中に、カリカリに痩せた生白い身体が立っていて、これが夫以外の男のひとに抱かれる身体なんだって思ったら、また涙が出そうになった。
「古賀さん、おかえり」
 バスローブに包まれた浅ましい身体は、部屋に戻ってすぐ、上半身だけ裸になったジュンさんの腕の中に閉じ込められた。部屋は、ひな祭りのぼんぼりみたいな形の照明が二つ、おだやかに光っているの以外は、うっすらと暗かった。いいにおいのアロマも焚いてある。一泊四千円の安いホテルなのに、なんだか異世界みたいだ。ハグも気持ちいい。ジュンさんの身体からは、ジャスミンのお茶みたいな香りがする。
「……ジュンさん」
「ジュンでいいよ。お茶沸かしたんだけど、飲む?」
「えと、だいじょうぶ」
「じゃあ、はじめるな。ベッドの上にうつ伏せになって」
 バスローブを脱いで、胸を下にしてシーツの上に寝た。剥き出しの背中に、タオルか何かがかけられる感じがした。さいしょは、マッサージから。リラックスしていないと気持ちよくなれないから、まずはマッサージで血流を良くして、股を濡らすんだって。
「肩凝ってるな、仕事なに?」
 首のうら周りにオイルを塗りながら、ジュンさんが聞いた。
「……しごと……してない。主婦……」
 肩甲骨のあたりに、彼の手で温められたオイルがぬるぬる塗り広げられる。あったかくてぼーっとした。ふしぎだ、さっき会ったばかりの人と、こんなことしてるなんて。
「でも主婦ってサラリーマンより大変だって聞くよ。二十四時間働かなきゃいけないから」
「たぶん、私は……えと、夫のほうが、たいへんだと思う。いまアメリカに行ってて、日本にいない……」
「へえ、すごいんだね。研究者かなにか?」
「商社……の人。何してるかは、あんまり……知らない」
肘から手まで、猫を撫でるみたいな手つきで触られる。キッチンに立ってばかりで固くなった足を、大きな手に包み込まれる。マッサージがうまい。私より私のことを知っているみたいだ。エステみたいだ。どんどん眠たくなってくる。うとうとしていたら、足の指の間に、オイルまみれの指が滑り込んできた。あ、と声を上げそうになったのを、頑張って堪えた。「声我慢しなくて良いよ」彼が言った。
 濡れた手は、すねから上へと昇ってきて、ふくらはぎを撫でさすってから、ゆっくりと太ももに移動した。敏感な薄い皮膚を指で触られて、ふ、と息がもれる。ろくに肉もついていないのに、硬い指が触れるのが、狂いそうなほど気持ちいい。しぜん、びくびくと、伸ばした足が痙攣する。びっくりした猫みたいに首を伸ばした私を見て、彼が後ろで、くすくす笑うのがわかった。
「気持ちいい?」
 耳の近くで、ジュンさんの低い声が言った。さっきまでの雑談とは全然違う、熱っぽくて、湿った声だった。返事を待たず、今度は手のひらが、内ももへ、じれったいほどゆっくりと上がってきた。恥ずかしくて耳が燃えるように熱い。背中がぞくぞくとして落ち着かない。お腹が熱い。こんなのはじめてだ。
「……っひあ……!」
 思わず声が出た。股からでてきた何かが、私の内ももをつうっと伝っていったからだった。
「よかった、ちゃんと濡れてる」
「……、え」
「セックスで感じられないって、言ってたでしょ。でも今、膣が濡れてるってことは、古賀さんが感じてるってことなんだよ」
 そう言って、ジュンさんは、私の身体を仰向けにした。私ははっとした。タオルもないまま、つんと尖った乳首も、薄っぺらい胸も、浮き出た肋骨も、突っ張った脚も……はしたなく濡れた股も、ぜんぶぜんぶジュンさんに見られている。
「やだ。やだっ」
「だいじょうぶ。俺にまかせて」
 太い親指で、股の入り口の敏感なところをすりすり撫でられる。寝かせた指の節が、すごく敏感なところに引っかかって、声がとまらなくなって、がんばったけど我慢できなくて、布団を噛んで声を我慢しようとしたら、口の中に彼の左指が入ってきた。舌をいじくられながら、入り口をひたすら優しく触られた。くちゅくちゅ恥ずかしい音がする。はずかしいのに、どんどんとろけていく。さっきからお腹の内側に、くすぐったいような焦れったいような感覚がずっとある。舌を引き出されたまま、泣いてるみたいな声を出す。やだあ、やめてえ、子供みたいに繰り返す私を無視して、ジュンさんは、クリトリスもすりすり撫でてくれた。
 ジュンさんの顔は、くるくるの髪の毛がカーテンのようにかかってよく見えなかった。筋肉のついた分厚い肩にしがみつきながら、しあわせと、恥ずかしい気持ちで嗚咽した。


 俺は、純太。手嶋純太。ジュンってついてるくせに、あんまり純じゃない。自分で言うのもなんだけど、性格は最悪だ。陰湿で、臆病で、視野が狭くて、見栄っ張り。親に黙って女風セラピストなんてやってるし。もう二十五だし、一人暮らししてるし、親とか関係ない、んだろうけど。でもこうして、見ず知らずの女の人の股を触っているとき、ふと、我にかえることがある。
 べつに、昼職がうまくいってないわけじゃない。電気作業員の仕事は悪くない。就職して三年、市営住宅を二つ三つ丸ごと任されているし、最近第一種電気工事士の資格をとって、大きなビルとか、ショッピングモールとかの案件もやらせてもらえるようになった。給料は三〇万たらず、わりと良いレストランで食べられるくらいボーナスがもらえることもある。それでも……胸に引っかかるものがデカすぎて、俺は、女の人の優しさに漬け込んでいる。最悪だ。
 俺を呼ぶお客さんは、だいたい三十代から五十代くらい。既婚が圧倒的に多い。というのも、俺は旦那とうまくいっていない、また旦那との生活に飽き飽きしている大人のお姉さんを、甘やかしたり、はたまた彼女たちに甘えたりすることが、すごく得意なセラピストらしい。俺も若い子より、彼女たちのほうを扱いやすく感じてたから、年上女性の依頼を積極的に受けてきた。
 古賀一子は、そんな俺のところに、泣きながら電話をかけてきた。
 かわいいとか、かわいくないとかいう前に、扱いやすそうだなと思った。リピートしてくれそうだとも。彼女は俺とタメで、でも人妻で、旦那とのセックスに不満があるタイプの客だった。それで、旦那以外との経験がなかった。とりあえず会ってみよ……そう思って千葉駅に行ったら、案の定、小さくておどおどしてて、騙されやすそうな女の子が待っていた。茶髪でおかっぱ。髪はぼさぼさで化粧っけもない。一言でいえば地味。しかも、声ちっさすぎ。電話でも思ったけど。
 まあ仕事だし、さっさとホテル行って適当に済ませよ、と思って、俺は彼女と手を繋いだ。彼女は終始寂しそうな目をして、雨上がりの繁華街を歩いていた。
 気づいたら、彼女は、とろとろになって失神していた。膝立ちになって震える俺の前で。俺はありえないほど興奮して、時間ずっとすぎてんのに、彼女の身体をいじくり回していた。ずっと名刺に、昼職の、緊急用の携帯番号をアホみたいに書き込んで、緩慢にひらいた小さな手に握らせた。プロとして完全に失格だ。それでもまだ……気のせいだと思ってた。
 何を? 彼女に惹かれる自分をだ。