2023/10/10

 

 

 


 ばり、ばり、小さく柔らかそうな子どもの手が、包装紙を容赦なくちぎっていくのを見るのは面白い。うさぎとハートのパターン模様は無惨に引き裂かれ、絨毯の上に尻をつけて座る一陽の膝下に花びらのように積もってゆく。こういうのは、すぴーどがだいじです、とは本人の談。手早い彼女はとっとと身ぐるみを剥がすと、出てきた白い紙箱のふたを開けて中身を引き摺り出した。
 はじめ、引き伸ばされた猫のようだと思ったのは、よく見れば黒い衣服だ。タイムレスなシルエットを際立たせるフレアカットと、ボタン付きクロスカラーが魅力的な、カシミヤフェルトのコートだった。古き良きメゾンのアーカイブを思わせる、クチュールらしいモダンなデザインだ。すぐさまフランスの著名なファッションブランドの名が頭をよぎり、肝を冷やすはじめ、一方純太は何でもなさそうな笑顔で、一陽の小さな肩に手を置いた。
「どう?」
「おとうさまにしては、よいです」言葉とは裏腹に、彼女は取り出したコートを丁重に持ち上げ、ソファにかけた。それから、もじもじとたたらを踏み、何か言おうと唇を動かすも、目的の挙動になかなか辿り付かない彼女だった。彼女の言葉が形をなさないうちに、廊下の方でも歓声が上がった。
「おかあさん! おかあさん! おかあさん!」
 ガラスの扉をたたき開けて、廊下から飛び込んできたのは一月だ。発熱を懸念してこちらが心配になるほど、顔を赤くして、身体全体を震わせて、一生懸命母親の名を叫んでいる。
「落ち着け、どうした?」
「えっと、えっと、……えっとだよ!」
「はじめも見てくれよお、俺奮発しちゃったよ」
 照れ笑いで、純太、セーターのハイネックに口元を埋もれさせる。半ば強引に腕を引かれてはじめは廊下に連行される。
 玄関正面の吹き抜けの螺旋階段、その付近には、アンティークの時計やドライフラワー、季節の花を飾っておくのだが、いまはアルザスの小さなクリスマスツリーを置いていた。月の初めに子どもらが買ってきた、ブルーを基調としたボールやジュエリー、ミニリボン、金色の星、ハート、プレゼント、ワイヤーメッシュオーナメント、雪の結晶や天使の人形が小ぶりな枝葉を華やかに仕立てている。その、世界でもっとも美しいツリーの根元に、あきらかに歪な、整形し損ねた台形のようなかたちで包装紙に包まれた物体が置いてあった。上部にちょんとリボンが結んであるので、かろうじてプレゼントとわかるくらいのものだ。
「おかあさん開けて」
「自分で開けなさい」
「おとうさん!」
「自分で開けろよ、きっと大丈夫だから」
 純太に諭されて、一月はようやく、しかし半泣きになりながらリボンを引っ張った。包装紙を引き裂くのがためらわれるのか、びりびりと端からゆっくり開け始めたのだが……すぐにもどかしくなって破りはじめた。現れたのは、黒のボディにグリーンのロゴの、ピカピカしたフレーム。スリムなシルエットの硬質なホイール。下方向に湾曲したハンドル。特徴的な形のペダル。ロードバイクだ、それも、純太と同じキャノンデールの!
「お、お、おとうさん」
「大事にしろよ。これからはライバルだ」
 ふああ、呼吸とも悲鳴ともつかない声音で一月は、憧れのロードレース選手にして父親の宣戦布告を喜んだ。何やら興奮した様子で、唇を舐めたり、手のひらをしきりに叩いたりした。
「なんですかおにいさま、うるさいです」
 新品のコートにレザーブーツを身につけ、キャベツを伴って廊下へ出てきた一陽は、すっかり興奮し切った兄のタックルを受けて後ろに倒れ、フローリングに頭を盛大に打ち付けた。

 ダイヤモンドキルティングのフーデッドコートを身につけた一月が、右手を父親と、左手を母親と繋いで、日本水仙の可憐に咲く雨上がりの道を上機嫌で歩く。彼の小さい足が前進するたびに、タータンチェックのフードが動くのがかわいらしい。コート姿の一陽はといえば、純太の肩に脚を巻き付け、もじゃもじゃパーマの頭を胸にしっかり抱き込んだ肩車の姿勢で、いかにも不服そうに唇を曲げていた。「おとうさまのだっこはいやだからです」本人は言うが、実際、順番を待っているのだろう、両親の手のひらの占有権が兄から譲渡されるのを。
 私立山百合学院幼稚舎は、手嶋家住宅とほとんど隣同士の土地に立地する、歴史あるミッションスクールの幼稚部だ。敷地内には校舎や遊具、教会堂のほか、東伏見宮依仁親王がかつて別邸として用いていた、白い壁面の美しいカンディダ・マリアハウス、イエズス会修道院がある。葉の落ちた銀杏並木の門をくぐれば、同様に連れ立って歩く家族連れの姿がちらほらとみられた。
「忘れ物ないか?」
「だいじょうぶ、スリッパと、保護者証だけ」
「保護者証? どこ?」
「首にかけてるの、保護者証」
「変なとこないかな」
「純太、気にしすぎ。だいじょうぶ」
「おとうさま、うごかないで! ゆれます!」
 深い藍色の美しいホップサックのスーツに本皮の編み上げ靴、オートクチュールのネクタイ、金のタイピン、純然たるオイスター・パーペチュアルを左腕にはめて、純太はまるで子どものように右往左往した。額に汗を滲ませながら落ち着きなく、保護者証を裏返してみたり、後ろに固めた前髪をいじってみたり、ネクタイの結び目をひっぱったりした。家族連れの、特に母親の方が、まずスーツやアクセサリーを見て目を丸くし、顔を見てさらに息を呑み、最後全体を見渡して、一転、呆れたような微笑ましいような顔になるのがなんとも恥ずかしかった。いちばん良いシルクシャツをこの日のためにおろしたはじめも、向こうで各界の名士たちと渡り合ってきた彼に見劣りするのではないかとちらり思ったが、この様子だと、むしろ純太の方が心配だ。今に限っては、完全に服に着られている状態だった。こうした行事にまともにかかわったことがないから、仕方ないのかもしれないけれど。
 ピンクのクリスマスローズで飾られた正門の前で記念撮影をした。親切な母親が申し出て、純太が持ってきた剛健なペンタックスで(彼女の細い腕にはさぞかし辛い仕事だっただろう)写真を撮ってくれた。「うちの子がね、一陽ちゃんのこと大好きだっていうんです」彼女は微笑んで、はじめにそう言った。
「そうなんですか……一陽?」
「おともだちなので」
「子どもは、あまり話すのが得意ではないんですけど、一陽ちゃんがリードしてくれるので、最近は積極的にみんなの話にも混じれるようになったと聞いています。そういうことで、すみません、一方的に存じ上げていました」
 頷くはじめと、照れる一陽の後ろで、純太は感極まって泣いていた。
 保育室の前で子どもたちとは別れた。二人はパッと両親の手から離れると、引扉手前の机に走っていって、各々、出席帳の今日の日付の欄にシールを貼った。親は校舎内のホールに案内され、前の方からずらりと並ぶ長椅子に、順番に座るようにとの指示を受けた。開演までは、耳と唇が触れ合うくらいの距離で、離れているあいだの子どもたちの様子について話した。月に何度かの電話だけでは足りなかった。一陽が、姫君の童話集に感銘を受け、大人びた会話の言い回しや、はじめも知らないような難解な単語を使うようになったこと。一位景品のおせちが欲しくて塗り絵コンテストに応募したら、二位の景品でかまぼこが送られてきて、悔しさのあまり声を上げて泣いたこと。初めてのピアノの発表会でも失敗して泣いたこと。それでも、彼女が泣いたり、喚いたりして理性を失うのは珍しいのだということ。一月が純太のレース映像に異様なほど熱を上げていること。ピアノの発表会で、グラドゥス・アド・パルナッスム博士を弾いて周囲を驚かせたこと。キャベツの名前がダサいと言って、新しい名前を考え中であること。十までの漢字を覚えたが、四以降の漢字に疑問を持っているのだということ。はじめが辿々しく語る一つ一つの話題に、純太は微笑し、気の利いたジョークを言った。
 明かりが落ちて、開演の知らせがなされた。電子ピアノめいたオルガンの演奏とともに、天鵞絨の緞帳が上がって、青いロングワンピースに、ラッセルレースのヴェールを被った一陽が現れた。はじめはすっかり満足していた。ロイヤルブルーの生地や、レースのふちに縫い付けたビーズが星のように光るのが、華やかな彼女の登壇にぴったりだと思った。ヴェールの内側で、ゆるくうねった栗色の髪が揺れるのも、筆舌に尽くしがたく愛らしかった。
 彼女が台詞を言うと、白い長衣に金の髪飾りをつけた一月が下手から現れて、折り紙の星がついた杖を回して彼女に呼びかけた。二人はしばらく見つめ合いながら演技をした。どちらにやきもちをやいたらいいかわからず、純太がはじめの隣で悶えている。

 朝方の雨で濡れたコンクリートも乾き始めた昼下がり、帰宅した一月はコートを脱ぎもしないまま、引きちぎられた包装紙の上に取り残されていたバイクを、倒した。早速外に持ち出そうとして失敗したのだった。居間から純太が飛び出してきて彼を助けようとしたが、ジャケットは頭に引っかかりっぱなし、シャツのボタンも半分開けっぱなしの、酷い格好だった。なにしようとしてる?、首を傾げるはじめを振り返り、二人揃って言った。「走りに行ってくる!」
 はじめも久しぶりにサイクルジャージに腕を通した。ブルーの生地にライトイエローのラインが入った、なつかしいサイクルジャージは、箪笥の奥底でひっそりと呼吸していた。ビブショーツを履き、ビンディングシューズを着け、胸元のジッパーを締めると、それだけで胸がすくような思いがした。最後、穴あきグローブに指を通すと、自然身が引き締まる。廊下に出ると、ちょうど上階から降りてきた、体操服姿の一陽と遭遇した。
「おとこのひとって、いつもこうですね」スニーカーのテープを締めて、殊勝なことを言う。
 午後の光の中、盛りを迎えた薄桃のジュウガツザクラの低木のそばで、アシッドライムのキャド十三を携えて立つ純太の精悍な身体に、しばし見惚れた。硬質な黒のジャージに包まれた身体は、痩せてはいるが、硬い鉱石さながらの重々しさと鋭さが漲っている。ぎっしりと中身の詰まった肉だ。だというのに、扉を開けたはじめをすぐさま見つけて、彼は甘い笑顔で手のひらを振るのだった。
「ジャージ似合ってる。近くでもっとよく見せてくれよ」
「純太」
 アプローチの階下から差し伸べられた手をとり、握り返した。かと思えば、小さな子どもにするように抱きしめられて胸が詰まった。キスをされる。細胞の一つ一つを愛おしむような丁寧な接吻が、ひでりの唇に惜しげもなく与えられる。はじめは面食らいながらも、瞬時にして、彼独特のリズムの中に取りこまれていく。きんと凍りつくような外気にあって、純太の唇は冷たい。だが抱きついた身体は燃え盛って熱い。瞼に耐えがたい熱が集まってくる。
「かわいい」
 言いながら、純太はくすくす喉で笑った。
 はじめは、学生時代から乗っている白にブルーのロゴのコラテック、一陽は昨日まで兄が使っていたキッズバイクに乗った。純太が先導し、はじめが最後尾を走った。正面門から西に向かってゆるやかな坂を下れば、県道二〇三号線、さらに北西へ進めば逗子海岸沿いの国道一三四号線に出る。群青色の海に向こうに遠く涼しげな富士山が見える。潮風が顔に吹き付けてくるのを気持ちよく感じた。純太は、中途で出会った、彼のファンだというロードバイク乗りのサイクルジャージに、サインをしてやったりしていた。
 帰宅したあとは、交代で風呂に入り、きもち豪勢な晩餐に預かった。キャベツにも特別なドッグフード、煮干しが入ったやつだ、が与えられた。子どもたちを寝かしつけて、夜半、早急に求められた。子どもたちにそれぞれ個室を与えておいてよかった。まだ若い妻に純太がしかけた情熱的なキスは、とても、彼女たちには見せられないものだったからだ。
 褥の上に黙って無害に横たわるはじめは、湯上がりでしっとりと熱を帯びた身体に、透け感のあるシルクのパジャマをそのまま着けていたが、すぐさまに脱がされた。あらわになった脇の肉にさわった指が熱くて、しぜん、呼吸も心拍も早急なものとなった。純太は寡黙に唇を結び、はじめの身体を丹念にしたくした。うなじの薄い皮膚、鎖骨、冬の冷気の中に張り詰めた乳頭、摘み上げられて白く乳が流れ出し、無骨な手のひらを汚した。へそや脇腹もくまなく撫でられた。焦ったく急かせば、六年も前に子どもを産んで、いま、淫らに濡れている狭い穴を、太い指に乱暴にほじくられる。
 はじめ。甘くやさしく、この上なく愛しいものに語りかけるための声で囁かれると、興奮のあまり胸を掻き毟りたくなる。キスのために降りてきた彼の顔を見つめるとき、頬にかかった柔らかい髪をくすぐったく思うとき、切なさのあまり泣き出したくなる。「ごめん。久しぶりだから、余裕ない」純太が笑おうとして顔を歪めた。彼の大きな手でがっしりと掴まれた足首の先がじんじん痛い。その痛みにすら恍惚とするはじめは、まったくどうかしてしまったに違いないのだ。
 二人のからだは、縁から少しずつ、更けゆく夜の一部と化していった。

 

2023/10/06

 

 

 


 ——手嶋純太、山岳賞! やりました! 山岳賞! 日本、日本人が再び栄光の表彰台に上ります、手嶋純太、イタリア・オクシタニーの山岳を獲りました——
 興奮冷めやらぬ様子で捲し立てる実況の声に、五歳の一月はすっかり聴き入っている。恐竜のパジャマを着たまま絨毯の上に正座をし、膝にキャベツを乗せた状態で、食い入るようにテレビの液晶を見ている。彼の目前では、アシッドグリーンのジャージを着た日本人選手が、ロードバイクに乗ったまま腕を広げて空中を仰いでいた。ヘルメットを飛び出したパーマヘアから、汗の飛沫が四方へ飛んだ。……はじめはため息をつき、リモコンでテレビのスイッチをオフにした。
「お母さん、何するの、やめてよ!」
 一月は顔をくしゃくしゃにして早速抗議に入る。
「もう遅い。また明日にしろ」
「あと少しだから!」
 六月、純太がはじめてワールドマッチで山岳賞を獲得してから、一月はすっかり自転車競技に夢中だった。当時ははじめもエキサイトが止まらず、彼を取り上げる中継やニュース番組を端から端まで録画し、折に触れて見返したものだったが、一月の執着はとりわけて異常だった。食事、睡眠、幼稚園にいるとき以外は、テレビに齧り付いて離れない。父親が山岳賞を獲得する瞬間を、昆布をしゃぶり続けるみたいに何度も何度も再生し、見る。付き合わされるはじめが、実況のセリフを覚えてしまうほど。
 咎められたにもかかわらず、一月は母親からリモコンを取り返し、再びスイッチを入れて続きを視聴しはじめてしまった。はじめはほとんど諦め、ソファにゆったりともたれて手元の作業を再開しようと試みた。かと思えば、
「おかあさま、おかあさま」
 上階から降りてくるスリッパの軽やかな足どり。古めかしいドアノブの回る音。清楚で慎ましい白椿のように成長しつつある娘の一陽は、右手に白いパニエのミディアムドレス、左手に黒のノースリーブ・ロングドレスを掲げて、はじめの前に躍り出た。
「どちらがよいとおもいますか?」
「……どちらも同じじゃないか」どちらにも一陽が好きそうな、キラキラと輝くラメがついている。
「わかっていませんね、おかあさま。くろはじゅんけつ、しろはきよらかさをひょうげんするのですよ」
 それなら、わたしにはくろがにあいますね、じゅんけつのじゅんはじゅんたおとうさまのじゅんですし、彼女はさっさと納得して、白のドレスを母親に押しつけた。揃いのデザインのリボンに、バレエシューズ、セボンスターのアクセサリーまで用意して、つけたり外したり、矯めつ眇めつしている。
 一月は周囲の子どもたちより格段に言葉が速かったが、近頃は一陽もなかなかのものだ。昨年のクリスマスに、大人の語彙を意識して、世界の姫君たちの童話集を買い与えたのが、うまく型に嵌ったらしい。純太譲りの明晰な頭脳のなすことだ。子どもたちを幼稚園に送り届ける際、他の母親たちに驚かれ、誉めそやされるので、はじめはそのことを誇らしく思っていた。
「おにいさまは、またテレビですか?」
 早々とドレスに着替えて、一陽が一月の隣に座した。山岳ラインを切る瞬間に夢中で、全く意に介さない兄のパジャマの袖を、「ねえ、おにいさま」、くいくい引っ張る。
「なに、ひなた」
「わたしとも、あそんでください、おにいさま」
「今いそがしい……」
「おにいさまは、わたしがきらい?」
 一月が明らかに言葉に窮した。妹はここぞとばかりに食い下がり、その胸にしがみついて戯れた。うとうと、寝ぼけ眼だったキャベツが飛び上がる。聡明な兄は、仕方なさそうにため息ひとつして、愛らしい妹に向き直った。
「……しょうがない。じゃあ、ジテンシャキョウギしよう。ひなたも、そうこから、じてんしゃ持ってきて」
「はい!」
「おい待て、待て二人とも」
 それぞれの襟首を掴み、ソファに引き倒した。一月はグロスベロアのクッションに尻をぶつけ、一陽はうまく母親の腕の中におさまった。「明日早いんだろう、もう寝なさい」
「でも、まだ九時だよ」
「九時は十分遅い」くりんとカールしたくせ毛の頭を撫で、不服そうにすがめられた青い目に視線を合わせる。「それに、明日はクリスマスだろう。遅くまで起きていて、サンタさんが来なくても良いのか」
 二人はにわかに顔を赤らめて、パッと視線を交えた。双方の瞳から、露骨にむくむくと好奇心が湧き出しているのを確認して、はじめは呆れて肩をすくめる。
「そうです。わたし、あしたのげきで、マリアさまのやくをやるの」
「わかってる。明日には衣装も完成させておくから」
「ひなた、はやくねないと、サンタさんがこない!」
「はい、おにいさま!」
 おやすみなさい! 挨拶もそこそこに、二人は我先にと階段を駆け上っていった。
 明日はクリスマス。神の子がこの世に誕生した聖なる日。そろそろ純太が帰宅するころと思って、家族でのパーティーはずっと先延ばしにしてきたのだが、明日はそうもいくまい、ケーキを食べたがって子どもたちが大騒ぎするだろうから。
 ソファに深くもたれかかり呼吸する。白いレースのカーテンが、窓の天辺からはじめの頭の上へ静かに流れている。薄いガラスの窓に蝋燭の小さな火が反射する。手作りのキルトのクッション、ソファカバー、四歳のころの子どもたちを描いた鉛筆画、家族写真、スイス製の、十九世紀にアメリカで流行ったというオルゴール、木製の糸紡ぎ機に壁つけの大きな本棚——今はウィル・デュラントの、世界文明の物語を読んでいるところだ——ラタン編みのブランケット入れ、使い途のない緑青がかった鳥籠、子供達が寝転がるためのシャギーラグ。手元にはロイヤルブルーのロングワンピース、明日一陽が舞台上で着るための衣装だ。せっかくだから、裾にビーズをたくさんつけてやろうと思ったのだ。
 まち針を抜き取り、針山に刺してあった刺繍針を再び抜き取る。穴あきビーズをいくつか通して、布の裏側へ針を潜らせ、再び表に出し……純太はどうしているだろうか? アメリカにいるなら、誰かと教会にでも行っているのかもしれない。あるいは、一も二もなく、トレーニングに勤しんでいるか。どちらにせよ、はじめのところに帰ってくることはない。

 夢を見なかったのか、それとも虚空の夢だったのか。それまで茫漠と闇を湛えていた視界に、ふと、白い光が滲んだ。その裾野までが冴え渡る、清らかな朝の光だった。湿っぽい無意識に浸っていた精神が洗われてゆく。すがすがしさが、果てしない遠方から胸の方まで、にじむように広がってくる。そのとき、呼吸のために薄く開いた唇に、何かぬくいものが触れたのを知った。続いて、豆だらけの硬い皮膚に額をくすぐられ、髪をやさしく撫でられた。なにやら懐かしい感覚、ふわふわと柔らかい幸福感。それが、はじめを眠りの漣の中から静かに引き上げた。
 雨が降っていた。しかし、薄絹を地上へ落としたような、繊細な雨だった。そうした感じの音がした。瞼をあければ、波の退いた砂浜のように淋しく陰った、青白い天井、それから……ああ、こちらを覗き込んでくる、その人の顔が美しい。窓からの光に縁取られて、パステル画の肖像画のように見える。幻のようで、作り物のような。
「じゅん——」
 唇の志向がかなわなかったのは、再びやってきた優しい唇がはじめの言葉をねんごろに塞いだからだった。はじめはまだ寝ぼけながらも、しかし身体の方は、ゆっくりと、慣れ親しんだ軽やかな重みに圧され、馴染んでいった。腕の中にしっかりと包まれたのがわかった。はじめも腕を背後にまわしてみたが、鍛え上げられた広い背にかなわなかったので、ただ肩甲骨のあたりに手のひらを置いた。
「ただいま、はじめ」
「純太……どうして?」
 はじめの薄い唇の上で、純太が笑う。「クリスマスだから」
「あ……」
「俺がプレゼントってな。会いたかったよ、はじめ。はじめは俺に会いたくなかった?」
「そんな……わけ、ない!」
 こんどはこちらから腕を引いて誘った。純太はソファに片膝だけをついて——はじめはあれから、ソファに座ったまま寝こけていたのだ——こちらに身を乗り出す姿勢ではじめの唇を貪った。夜色のパーマヘアが垂れてきて、夫妻がふれあう部分を外界から隠す。剥き出しになった鎖骨から、スパイスやサンダルウッド、南国の果物の香りが漂ってきて、脳髄のはたらきを鈍らせる。指で触れると、シャツの下で雄牛のような身体が張り詰めているのがわかって、はじめの喉を意図せず細い悲鳴が割った。
「純太……する? するの?」
 純太は答えなかった。無骨な指で、はじめの絹糸めいた髪をとってすいた。かと思えば、しなだれかかる重みで細い身体を押し倒し、そうして肘をついて身体を支えると、熱っぽい目で瞠目したまま徐に自身のシャツに手をかけ——
「おとうさん、おかえりなさい!」
 出し抜けに扉がばたんと開いて、子どもらが雪崩れ込んできた。
「ついにかえってきましたか、おとうさま。なにをしているんですか?」
「え! いやあ、……」
 はじめにのしかかった姿勢のまま、純太、何やらもごもごと言いたげにしているのを慌てて手のひらでおさまえた。「なにもしてない。二人とも、おはよう」
「おはよう、おかあさん、おとうさん」
 片腕に熊のぬいぐるみを抱えた一月は、起き抜けのまだおぼつかない足取りで、父親の腰に抱きつく。一陽も、母親の隣にやってきて「おかあさま」と抱っこをねだる。キャベツが尻尾を揺らして寄ってくる。昨日まで冷えて感じた部屋が、ひとときに明るく温かいものにさまがわりしたように、はじめは感じていた。
「ほんとはいやですが、おとうさまのこともだっこしてあげます。うれしいですか?」
「はいはい、一陽もただいま」
「おかえしは、ひゃくまんおくえんでおねがいします」
「ねえ、おとうさん、アメリカはどうだった? じてんしゃのはなしきかせてよ」
「おとうさま、ひゃくまんおくえんは?」
 そんな感じで、手嶋一家のクリスマスがようやく始まった。

 

2023/10/05

 

 

 

 それは、老いたはじめの甘美な回想だったかもしれない。あるいは、愛する人とほんとうの家族になった晩、少女のはじめが見たうたたねの夢だったかもしれない。きらきら、きらきら、無邪気な子どもの声がしゃぼん玉のようにはじける。涼しい風が吹いてはじめの前髪を巻き上げ、山吹色の光の気配が、頸の皮膚を悪戯っぽくくすぐる。幸福のためにため息をつき、その心地よさのままに瞼を開いた。
 秋の庭に、はじめは立っていた。先日越してきたばかりの自宅の庭だ。サトウカエデのみごとな紅葉。黄金色の小さな花から芳醇な香りを漂わせる金木犀の灌木。ダリア、竜胆、まだつぼみのままの月下美人。木桶に、ジャムを作るために集めたクラブアップルの実。その向こう、ガーデンフェンスごしに見える葉山の海。白群の空。背後に、ハーフティンバー様式の、左右に大きく翼を広げたような佇まいの品格ある母屋。傍らにガラス張りの温室、はじめがこの屋敷を修復するにあたって、不動産屋に細かく指定して作らせたもの。
「まあま!」
 柔らかい腕が背後からはじめに抱きついた。見下ろせば、薄いレモン色のシフォンシャツを着た、かわいらしくいとおしい女の子が、くりくりした青い目ではじめを見上げていた。薔薇色の頬。乾草にもにた肌のにおい。小さな頭の上にお団子が二つ。親譲りの奔放な癖毛をまとめるのは、本当に大変なのだけれど、彼女はこの髪型を気に入って毎朝母親にセットをせがむ。純真で無垢な存在。この世にたった二つの、はじめと、純太の宝物、その片割れ。娘の一陽だ。今年で二歳になる。
 はじめは、おやつのためのアップルパイを作るのに、庭の青リンゴを収穫しようとして、表に出てきたのだった。キッチンに立っていたときのまま、青いチェック柄のエプロンにロマンチックな紅椿をあしらったスカーフを巻いて、生白い素足のまま、灌木の幹のそばに立っていた。ふわふわと柔らかく跳ね上がる前髪を優しく撫でてやる。えへへ、ともうふふ、ともつかない笑い声をあげて一陽、「たあねぎ」
「玉ねぎ?」
「あい」
 小さな手のひらが固くむすばれていたのを、もったいつけながら開く。泥まるけの小さな手の中に、”玉ねぎ”が、すでに緑の芽を窺わせて……慌てて彼女を顧みれば、すっかり茶色く汚れたタンガリーの外ポケットから覗く、大小さまざまの玉ねぎたち……玉ねぎではない、球根だ、チューリップの!
「んふふふふ」
 伸ばした手のひらをすり抜けて、冬生まれのおませな王女殿下、無邪気にくすくす笑いをする。
 彼女らが生まれて初めての春、まだ都内の狭苦しいアパートで暮らしていたころに、色と品種を厳選して選んだチューリップの種、この庭に移してからも、種類ごとにかためて埋めておいたのだが。使い終えたときのくちゃくちゃになったパレットのさまを、来春、ちぐはぐな場所で咲くであろうチューリップたちに重ねながら、はじめは反射的に身を翻して娘を追いかけた。
「一陽」
「きゃ!」
 二歳の足で走れる距離などたかが知れている。とはいえ、悲鳴を上げながら逃げ惑う小さな獣を追いかけ回して捕まえるのは、もうそこまで若くもない身、まったくもって簡単なお役目とは言い難かった。彼女はクラブアップルをためて会える木桶を盛大に引き倒し、まろびでる小さな果実に転ばないだろうかと母親をハラハラさせ、かと思えば睡蓮の水瓶に額を強く打ってよろけ、そのまま盛りを迎えた秋薔薇の茂みに勢いよくダイブ、するところをなんとか抱きとめた。
「まあま、おあな!」
 母親に抱っこされて、一陽は嬉しそうだ。舌足らずに何か言った。元気よく動く、そのふくふくした頬に唇を寄せる。
「あまり心配させるな」
「あいー」
 大事はなんとか避けたが、せっかくのブラウスが土だらけでだいなしだ。突っ込んだ勢いでちぎれた薔薇の葉も何枚かくっついている。このぶんでは、一度風呂を沸かして入れなければならない。ともかく、ほっと一息……つく間もなく、こんどは背後でけたたましい鳴き声が上がったのに、はじめは肩をびくつかせた。ネオンブルーのフレームがまぶしいスペシャライズドのキックバイク、幼児にはあまりにも立派すぎる代物、から転がり落ちて、男の子が泣いていた。そばで聡明なボーダーコリーの幼犬・キャベツがおろおろしている。
 はじめの宝物の、その片割れ。名前は一月(いつき)。不躾かもしれないが、はじめは、泣いている息子を前にして、胸に迫り上がる幸福を抑えることができずにいた。一陽と一月は双子の兄妹で、一月の方が数時間早くに産まれたのだが、体重二千グラムに満たない未熟児だった。先天的な腸閉鎖があり、早急な手術が求められた。母親に抱かれるよりも先んじて腹をメスで開かれ、保育器に入れられて、さまざまな種類のチューブやコードに繋がれた彼を見るはじめの心は不安と懺悔のために今にもひしいでしまいそうだった。それが今、自転車を乗り回し、転んで泣くくらいに元気にやっている。
「一月」万感の思いで彼の名前を呼んだ。
「ままあ」
「まずは自転車を起こして、立てるか」
「んんー……」
 脚に一陽を張り付かせたまま、はじめが補助に回ろうとすれば、小さな手がそれを跳ね除けた。勇敢な王子殿下はブラウスの袖で汗と涙で汚れた頬を拭い、ハンドルを起こして、よろよろと立ち上がった。誇らしげに胸を張りながらも、大きな自転車を抱えてバランスの崩れた小さな身体を抱きしめる。怪我はなさそうだ、妹同様、クマの刺繍のついたタンガリーは泥と芝生だらけだけれど。
「えらいぞ。さあ、お風呂に入って、それからおやつにしよう」
「おあな?」
「お花じゃない。りんご、擦ったやつ」
「りんよ!」
 はしゃぐ一陽の手を取り、一月を右腕に抱き上げ、キャベツを左脚にじゃれつかせて、はじめは母屋の方を振り仰いだ。琥珀色の光でみな天の金属のように輝く、夢のような秋の午後だ。

 早々に風呂から上がり、濡れ鼠のまま駆け回る子どもたちを捕獲してバスタオルに包む。ふと、ダイニングの方で、電話のベルがけたたましく鳴るのがこちらにも聞こえてきた。身体にタオルを巻いただけの格好で足早にダイニングに向かった。
 ダイニングルームは、この邸を改装するにあたってはじめが細かく注文つけてこだわった部屋の一つだ。壁紙には英国の、ファローアンドボールのエメラルドグリーン、電灯や燭台はイギリスで買い付けてきたとても古いもの、ダイニングテーブルはかわいらしい猫脚のマホガニー。フレンチアンティークのカップボードには、はじめにはよくわからないものの、純太が気に入って集めてきたカップやソーサーなどが飾ってある。南向きのベイウィンドウからは昼下がりの清潔な光が差してきて、よく磨かれた木のフローリングを白く温めている。
 壁掛けの古い木製の電話は番号が表示されないタイプのもの。一も二もなく、受話器を取って耳に当てた。
「はい、手嶋ですが」
「よ、はじめ、元気にしてるかあ?」
 姿は見えなくとも、電話越しに話しているのが、世界で一番大好きなその人だということはすぐに知れた。艶々と潤いのあるセクシーな男の声だ。
「純太」
 彼の声はいつだってはじめの心を柔らかにくすぐる。「時間、だいじょうぶなのか」
「大丈夫、今の今まで走り込んでたとこ。やっぱワールドマッチを走るチームはちげえや、イタリアにいたころも頑張ってたつもりだけど、段違いだよ、夜中だろうが早朝だろうが起きてようが寝てようが練習練習、トレーニング、レース、って感じ。汗だくだよ、もう、早く家帰りてえー!」
 純太は、サイクルロードレース・ワールドチームの選手で、年始から秋の末までをホームタウンのニューヨークで過ごしていた。去年まではイタリアにいたのが、春先、チームの合併であちらに異動になったのだった。小柄で貧弱なアジア人のハンデを背負い、強豪チームのネームバリューを背負って、すでに心身疲れ切っているだろうと思われた。つとめて優しい声で、はじめは彼の言葉に相槌をうった。
 深夜のマンハッタンの喧騒が彼の呼吸に混ざる。車のクラクション、若者たちの活気ある話し声、自転車の車輪の音、セントラルパークの、どこか大通りに近いところにでもいるのだろうか。目を瞑って彼の視界を夢想すれば、吐息だけで微かに笑う気配がした。
「はは、ごめん……嬉しくてさ。さっきまでもう寝そうってくらい疲れてたのに、こうやっておまえと話してたら、なんだかすぐ元気になってきちゃった。ああ会いたいなあ、はじめ、子どもらにもさ、元気にしてるのか、あいつら……」
「毎日、賑やかで楽しい」
「頼もしいよ」
「一月は……月はじめのブルターニュを観て、感動したらしい、毎日自転車練習してる。このあいだもすごく熱が出て……乗りたいって泣いてた。一陽はあいかわらずだけど、元気だ、よく食べて、よく遊んで……最近は少しわがままも言う。パパに会いたいって。いい子にしてるよ、二人とも」
 うれしい。知らず、語る言葉に力が入る。ひどい時差がある中で、疲れた彼に甘えてしまって申し訳ないとは思うのだけれど、久しぶりに聞く彼の声や言葉は、はじめが今でも彼に恋をしていることを思い出させてくれる。受話器を耳に押し当てたまま、はじめはダイニングを振り返った。子どもたちは、どこから持ってきたのだか知れない菓子の空き箱を、積み木にして遊んでいたが、母親の様子から電話の向こうの存在を賢しく察したようだった。一月のほうがフローリングから立ち上がり、つたない足運びでこちらへ近づいた。
「ぱぱ」
 一月の呼びかけに、電話の向こうで純太が息をのむ。くるんと栗毛が渦巻く小さな頭を片手で撫でてやり、はじめは目を細めた。不在の父親の存在をあの手この手で刷り込んだ結果だ。電話の音量をあげ、伸ばされた手のひらに、受話器をそっと握らせてやった。
「そうか、もうパパって言えるんだな」
「いつきジテンシャする」
「え、あれ、すごくね? はじめ!」
「賢いんだ、一月は」
「りんごする」
「そうかー、りんごか、一月はすごいなあ」
 受話器から零れる、歌うような声は、優しくあたたかで、清らかだ。それに一月の、心なしか嬉しそうな応酬が追随する。目を閉じて静かに聞き入った。

 暖炉の低い焔が、時々ひら、ひら、燃え上がる。オレンジ色の光が、鉄のファイアーツールやウッドホルダー、銅製のやかんと蓋付き小鍋、ハトとオリーブをあしらった小さなステンドグラスの窓、カシュマール産絨毯の鷹揚なブルー、ほっそりとしたはじめの座姿を詳らかにする。はじめは、天鵞絨のカウチにゆったりと腰掛け、オケージョナルテーブルの上に飾った花や小物を鉛筆でスケッチしていた。ロイヤルコペンハーゲン青い花瓶に、アジアティックリリー、黄色やピンクのデイジー、種になったレタスポピー、可愛らしいディル、それから庭で収穫された歪な形のりんご、オールドファッションのガラスの水さし、二十世紀のドイツで作られたという、末広がりのローゼンタール・ティーカップ。寝ているキャベツがころんと寝返りを打つ。ピンクのお腹を見せる。
 やわらかい鉛筆の先を緩慢に動かしながら、いとおしいかの人の声をいまでもリフレインさせるはじめである。純太、大好き、言外に寂しさを訴える妻に、しかし彼は答えなかった。
「俺も——おやすみ、はじめ。愛してる」彼はマイクに軽くにキスをして、そのまま電話を切った。そのときのことを回顧すれば、耐え難い寂寞が胸中押し寄せてきた。子どもがいたって、まだ三十にも満たない若者なのだ、いくら気の長いはじめとて、夫の不在にいつまでも耐え続けられるわけではなかった。クロッキー帳を放り出し、キャベツの腹に顔を埋めて少し泣いた。
 さて、時刻は二十一時を回り、子どもたちを寝かしつけてからそろそろ一時間ほど経つ。一陽あたりが起きて遊んでいてもおかしくない。キャベツを起こさないよう努めて静かに立ち上がったが、一歩スリッパの足を踏み出した瞬間にびくりと身体を振るわせ、ぴょんとカウチから飛び降りてはじめに追随した。
 灯りを持って応接室から廊下に出、吹き抜けの階段を静かに上る。キャベツも器用に前足で段差を上りついてくる。二階の、一番大きな和室がはじめと子どもたちの寝室だ。はじめの敷布団の両側に小さなものを二つ敷いて、一月と一陽、それぞれに割り当てているが、だいたいはじめが寝る頃にはひどく寝返りを打って無秩序なことになっている。実際、ふすまを開けて中を伺ったはじめが最初に見たのは、床の間に頭を乗り上げた姿勢のまま寝ている一陽の姿だった。
 キャベツを廊下に残したまま、音を立てないよう忍者のように部屋へ入り、まずは一陽にとりかかる。小さな身体を抱き上げれば、によい、と、何やら寝言を言ったが、起こしては大変なので返事はしない。頭から敷布団の真ん中に寝かせてやる。タオルケットをかけ、寝息が安定したのを確認してから、今度は一月の布団へ向かう。
 妹と比較して、一月の寝相はだいぶんよい方だ。うつ伏せか、横向きか。布団を蹴飛ばすようなこともない。しかし、今日は何故だか仰向けだ。はじめが感じた最初の違和感はそれだった。なんともなしに、額にかかった前髪を払ってやろうとして——熱い! 見当もつかぬまま指を離し、遅れて、彼に異変が起きているのだとようやく察知した。今度は手のひらで額を触る。熱い。汗ばんでいる。熱がある、それもかなりの。思わずその顔を、唇に何かついているのを見て、はじめはすんでのところで悲鳴を上げるのを抑えた。背中に冷たい汗が滲む。触れた指先が震え出す。
「一月」
 はじめ自身が驚くほど、小さく弱々しい、覇気のない声だった。潤んだ目がはじめをぼんやり、見た。
「まま、いたい」
「一月——」
 慌てて和室を飛び出す。もつれる足をなんとか奮い立たせ、階段を下り、ダイニングに駆け込んで電話機に縋った。ダイヤルを回そうとするのに、震える指先はとても使い物にならなかった。落ち着け。落ち着け。深呼吸を繰り出すが動悸はいっこうにおさまらない。そうだ、クイックダイヤル! テーブルに置きっぱなしにしてあった端末を取り、電話機能を探し当て、あらかじめ登録してあった三桁になんとかダイヤルした。
 救急車はすぐにやってきた。一月の脈をとって熱を測り、意識の状態を見て、可能性は低いが、腸閉鎖が再発している可能性があるのでこのまま医療施設に運ぶ、と告げた。同乗し、一月が処置されている間、何度純太に連絡を取ろうと思ったか知れない。ニューヨークはいま朝だ。妻が遠方の夫に連絡したとて何の支障もない時間だ。しかし、彼は今週末イル・ロンバルディアを控えていた。彼には万全のコンディションで臨んでもらわなければならない。とにかく今は駄目だ。処置室の前の長椅子に座り、額を伏せて、一月の無事を一人で願うばかりだった。
 結局、一月は、腸閉塞を再発させたわけではなかった。重ためのウイルス性胃腸炎とのことだった。数時間点滴されたあと、処置室から出てきた一月は、まだ少しだけぐったりとしていたけれど、先よりはずいぶん顔色が良かった。薬を何種類か持たされて、朝方、タクシーで帰宅した。別の部屋に一月を寝かせたあと、はじめは再びダイニングに降りて、電話機から純太に連絡を取った。
「純太」
「おはよう、はじめ。どうした、こんな時間に、珍しいな」
「純太……」
「……はじめ、なんで泣いてるんだ? 何かあったのか? はじめ……はじめ?」

 

XI

 

 

 月のない深夜の東京郊外、街灯の白々しい明かりばかりを光源にして、華奢に骨ばった身体が陰翳の中へ浮かんでくるのを、恍惚とした気分で見下ろしていた。
 ふっくらと持ち上がった繊細な指が、広げたり閉じたりを所在なさげに繰り返す。尺骨の形にくびれた手首は皮の手錠に拘束され、ベッドのフレームに繋がれている。すらりと水が流れるみたいな四肢、薄っぺらい肩、慎ましく迫り出した鎖骨の形。その、小さくて可愛らしいパーツの輪郭を、豆だらけの硬い手のひらで探り当てる。それだけで、恋人はいっそすぎるほど敏感な身体に微細な快楽を溜め込んで、解放を求めて弱々しく啜り泣く。つやつやと濡れた唇がものいいたげに動く。
 湿った脇の下から鳩尾へ指を滑らせたところに、雪の中で開花を待つ桃の蕾を思わせる、色素の薄い乳輪がある。柔らかい皮膚が静かに、清らかにふくれている。その肉に潰されるようにして、真っ赤に充血した乳頭が陥没していた。手嶋は、本人ですらそれとわからない間に、唇の端を舌で舐めていた。この上ない美食を前にして、獣の本能がだらだらと涎を垂らしている。
「純太——」ほとんど吐息みたいな声だった。春の花びらみたいな唇を何度も舐め、足の指でシーツを掻いた。怯えている。手嶋は怖がりな恋人にやさしく無邪気に笑いかけた。震える瞼をそっと撫でてやった。その格好のまま、親指と人差し指の爪で、乳頭ごと乳首を捕らえて、
「あ、あッ」
 つまみ出した。虐待という言葉が相応しいくらいに、粗雑な愛撫に応じて、二つの肉は卑屈に勃起する。
 汚れのない真っ白な身体に相反して、乳頭は赤く熟れ肥大して、露骨にメスの性を呈している。期待のあまり粒だった肉にはピアッシングで開けた穴が一つずつ、瘡蓋になりかけているが、すこし弄ればすぐさま剥がれて無様に血を流すだろう。散々針先でいじめた乳管は広がってぷっくりと腫れている。男の手で調教され切った乳首だ。興奮のあまり遠のく意識をなんとか押さえつけながら手嶋は、薬指の先で窪んだ乳輪をほじくった。
「青八木かわいい。期待してんの」
「して、ない……」
「嘘。だってすげぇ勃ってんじゃん。乳首ビンビンにして、涎垂らしてさ、淫乱」
 恋人の勃起乳首を押し潰す。
「お仕置きが必要かな?」
 潤んだ瞳の中に、恐怖の色がよぎった。彼に何か言わせる間もなく、手嶋は右の柔らかい瘡蓋に指を食い込ませ、渾身の力で引きちぎった。
「ぃ゛ッ……ぅ……っァ! ——あああ!!」声もなく悲鳴を上げて恋人は、ねばついた濃い粘液を自らの腹の上にぶちまけた。全身が激しく痙攣し、拘束具ががちゃがちゃと音を立てて揺れた。痙攣がおさまらない。快楽の果てから戻ってこられない。気つけがいるだろう。手嶋はサイドテーブルに散らばしてあった金属の針の中から、細く鋭利なものを選び取り、新鮮な血液で甘くふやけた粘膜に鋭利な先を潜り込ませた。容赦のない暴虐。蹂躙。容赦のない暴虐。蹂躙。絶叫が上がる。涼しげに持ち上がった眦から、ついに、苦痛と悦楽のために涙が一粒こぼれ落ちた。
「ぃ、いた……っ! いたい、ぃッ、純太ぁ……」
 痛ましい。非道だ。細い血脈が切断されてゆくたびに恋人が嗚咽する。だが手嶋はいっかな萎えたりはしない。汗に濡れた髪を優しく撫でてやる。だが侵寇する針は止まらない。先端が完全に乳頭を貫いたのを確認して、手嶋は無造作に針を抜き、首輪と鎖で繋がった細いピンチャーを差し込んだ。両端にぶら下がった錘が揺れた。”お仕置き”された恋人は、今やほとんど身動きの取れないありさまだったが、それでも気もちよさそうに頰をばら色に染め、唇を薄く開いていた。

 

2023/10/04

 


   

 踊る女たちに囲まれて、悠然とみくらに座したウブドの王が、金の額縁から眼下の二人を見下ろしている。はじめは、そのまなざしが存外にやわらかいものであること、ほとんど飛びかけた意識のうちに知覚した。
 ラタンの天蓋から厳かに垂れた薄いレース布越しに、白い光が静かに降ってくる。ヴァンガロー裏に沸いた泉から、水が沸いてこんこんと音を立てる。冠白椋の求愛の声、はばたき、鼻先へ甘く漂いくる渓谷の霧、頬の上へ落ちてくる冷たい汗。時刻は知れない。朝か、あるいは夕方か、まだ目覚めているのか、夢の中なのか、はじめにはわからない。ただ意識は茫漠として無意識の海を泳ぎ、かわって鋭い快楽ばかりが、浮遊する肉体を捕まえて現実のものとする。
 顎をやさしく掴まれた。熱っぽく名前を呼ばれて、はじめはようやく王宴の白昼夢から揺り戻された。手嶋純太は、妻の無頓着を言葉で咎めるかわりに、細い銀のピンセットをつまんで尖った部分を舐めた。濡れた先端はすぐさまはじめの淫部に向かう。勃起した状態で吸引機に固定された陰核、膣鏡で無様に晒された膣口、なまなましく濡れてただれたサーモンピンクの肉。金属を伝って粘液が会陰を流れ、その感覚にすらはじめは、ひッ、と息をつめて身悶える。熱傷の予感に全身が戦慄く。
「余裕かよ。気に入らねえなあ、はじめ」
 底意地悪く笑って純太は、プラスチックのシリンダーを指でつつく。不意に、尿道口を鋭利なもので引っかかれる感じがして、はじめは声もなく悲鳴を上げた。それでもなお絶え間なく、また容赦無く薄い粘膜を掻きむしるのは、先ほどのピンセットだ。鋭利な鉤に傷つけられ、痛めつけられて、流血さえしているというのに、苦痛と紙一重の愉悦がじくじくと粘膜を苛むのだった。そのように、この男に仕向けられたのだ。開発されたのだ。田に水を引くように、果樹の根に堆肥を撒くように……彼女の知性と気概にはいささかの瑕疵もなかったが、肉体においては、夫の支配に抗うことのできない奴隷の気性があった。
「信じらんねえくらい無様だよ、お前」
 純太の声は昂奮と欲情に熱っぽく掠れている。「ほら涎出てるし。スプリンターだろ、ワールドチームの、まんこいじめられてこんな顔してていいのかよ」
「純太——っ、純太、いやだ……」
 妻の哀願を、酷薄として笑う純太の顔に、火花の散るような動物的な美しさがひらめく。
 はじめの言葉を承知してか、まるで部屋の掃除でもするかのような懶惰な手つきで、純太は吸引機を固定していたねじを緩めた。シリンダーから、充血し切って真っ赤に膨れ上がったクリトリスがぬるりと滑り出た。ピアスの穴を二つも通してあったが、ひどい勃起のためいやらしく肉にうずまっていた。そこが外気に触れただけで、はじめは両腿をがくがくと痙攣させて感じた。
 一も二もなくピンセットがやってきてそこを捉えた。もとをつまんでねじり上げ、鉤の先で弾いて、ことさらに敏感になったところをしごいてさいなんだ。はじめは激しく身をよじるが、拘束具がぎしぎしと軋みを上げるばかりで逃れるすべにはならない。目ざとく抵抗を感じ取った純太が、バラ鞭で無防備な下腹を強かに打ち据える。皮膚と肉を通して骨を打つような苦痛が走る。かと思えば、神経がむき出しになった恥部に、熱くやわらかな感触が落ちてきた。それが舌であることはすぐに知れた。ざらついた粘膜が薄い包皮の下にもぐりこんだ神経の束を容赦なくこすりたてた。純太は酒で身を壊したことも、ドラッグに逃避したこともないはずだが、愛撫に関しては明らかに病的だった。異常なまでに執拗で嫉妬深かった。嗚咽するはじめの流麗なまなじりから、涙が一粒こぼれて痩せた頬へ流れる。乾いた舌で無遠慮にこすられ、あるいはつつかれて、はじめはその晩はじめて快楽を窮めた。尿道から塩っぽい液体が吹き出して純太の鼻梁を汚した。
「いれて、入れて純太」
 彼女はとうとう泣いて乞うた。

 毎年、十月に行われるステージレース:ツアー・オブ・広西を持ってして、自転車ロードレースの年間シーズンは終了を迎える。チーム・キャノンデール・ガーミンのクライマー手嶋純太は、一月のダウンアンダー総合優勝を皮切りに、五月ジロ・デ・イタリアでは先頭集団に遅れをとりながらも第二十ステージで山岳賞一位、九月イル・ロンバルディアでは総合二位を獲得し、個人優勝は逃したものの、チームのシーズン優勝に大きく貢献した。彼の妻:キャノンデール・NIPPOのスプリンター手嶋一(はじめ)も、九月ブエルタ・ア・エスパーニャで敢闘賞を獲得するなど健闘し、彼女のこの年の成績は日本人女子選手の記録を塗り替えるものとなった。シーズン終了をもって、チームは二人の契約継続を決定し、同時に一ヶ月弱に渡る休暇を与えた。
 インドネシア・バリ島。赤道直下の神の島。南緯八度、東経一一五度、面積五六〇〇平方キロ、東京の二.五倍。 平均気温は27度、ただし観光客で賑わうクタなどの南町と、ウブドのような高原地帯ではかなりの気温差がある。椅子の背にもたれ、パームワインを舐めていた純太が、思いきりくしゃみをした。「さみい」、ポケットからティッシュを出しながら言う。
 チャンプアン・ホテルのレストランは、バリの伝統的な高床式建築のヴィラを改装して作られた、古典的でエレガントなエクステリア空間だ。涼しげなラタンの切妻屋根、大理石のテーブルにピンクの仏炎苞のアンスリウム、三方の壁は繊細なレリーフやレザーブラウンの煉瓦で覆われ、バルコニーからは、かわいらしいバンガローの藁葺きの屋根が強い陽に焼けるさまや、棕櫚の木が風に靡くさま、マゼンダやオレンジ色の南国の花、緑したたる渓谷、伝統的なバリの家寺などがミニチュアめいて見える。
 はじめは向かいの純太が鼻をかむのを盗み見ながら、ピンク色のジュースを飲んだ。実から搾られたばかりの青くさいマンゴーの果汁に、パイナップルや、鼻も通るような新鮮な生姜の香りがかすかに混ざるのを、乾いた舌で愉しんだ。ダウンアンダー以来東洋の山岳覇者としてアジア圏若年ライダーから絶大な人気を博したこの男は、口をつぐんで座っていれば、どこにでもいる感じのヤング・ジャパニーズだ。気さくで、ほどほどに意地悪だ。その彼が……過酷な冬の獣のようになって、先行するバイクにくらいついてゆくさまを、知っていた。
「何見てるの」
 頬杖をついて純太は、彫りの深いエキゾチックな顔で嫣然と微笑んだ。傾けた頭から、剛健な肩の方へ、つややかなパーマヘアが滝のように流れた。顕になった耳たぶにさりげないシルバーのピアスが光る。くつろげたアロハの襟から、窮屈そうに張り詰めた小麦色の胸筋がのぞく。と、そこに瘡蓋になりかけた歯型を見つけた。
「見てない」
「見てた」
「見てないって……」
 現地人のウエイターの、ぐんと太い腕が伸びてきて、大判の平皿をテーブルいっぱいに並べた。黒胡椒で味をつけたナシゴレンサニーサイドアップつきミーゴレン、ナシ・チャンプル、土製の小型こんろに載ったサテ、油で揚げたロールチキン、キヌアとチョリソーのサラダ、大豆を発酵して作るテンペ、付け合わせの香辛料サンバル。現地で購入した贋作だらけの指がテンペをつまんで、真っ赤なサンバルにディップした。それが素早く厚い唇へ運ばれる。下腹に重たく澱が降りてくる。悩ましくはじめは湿ったため息をつく。なすすべもないまま、純太に倣ってサテの串をとった。
「いいや。見てた」ニヤニヤしながら、なおも言い募る純太の声は場違いに甘ったるい。「わかんないと思った?」
 顔を背けるはじめの頬に、無骨な右手が伸びてくる。硬い指の腹、人差し指と中指が、なめらかな仕草でゆっくりと頰骨を撫でる。細い顎を伝って、耳の下に指先が滑りこむ。くすぐられる。はっとなってはじめは首をすくめたが、同時に、ひたひたと潮のように押し寄せ満ちるものが彼女の中で克明になってゆくのだった。油で濡れた純太の唇が楽しげに片端だけ吊り上がる。
 ラタンの椅子に座るはじめは、ろうけつで染めた更紗のワンピースに首からくるぶしまでを包まれていたが、そのほかには何も身につけていなかった。それが純太の命令だった。乳頭が勃起すればそれは布地を押し上げて欲情があからさまになるだろうし、膣穴が濡れれば、夫のペニスを求めて飢える肉の存在が誰にも知られるだろう。陰核には小型の吸引機が取り付けられて純太の意向次第でいつでもスイッチが入るようになっている。
「どうする? この辺走ろうって話してたけど……部屋に戻りたい?」
 指で掬ったサテのソースを、唇に塗りつけられる。はじめはほとんど屈辱的な愛情に責めさいなまれて、自ら舌を出し、純太の指をねっとりと貪った。彼の指先はほのかにソースの塩っけがあって、肉の刺身のような味がした。はじめはそのあたたかくて硬い指を、水かきにまで舌を這わせて綺麗にした。そうしているとなぜだか泣き出してしまいそうなくらい胸が熱くなった。純太が静かに息を詰めた。その眦にはすでに恍惚とした気配があった。
 レストランにはほかに客もない。ウエイターたちは物陰で忙しく立ち働くのみで、こちらがどんな立ち振る舞いをしているのかなど興味もない。はじめは狭い椅子の上から身を乗り出し、夫の唇に肉薄しようとした。
「Dan dia gila bingit, dia bodoh......selalu magabut......」
 ふいに背後が騒がしくなって、ふたりは弾かれたように身体を離した。
「Bikin KZL aja!」
 観光客の一団だろうか? 言語はわからないが、宿に着いた修学旅行の生徒がするみたいな雰囲気のおしゃべりだ。にぎやかすぎて何が何だかわからないくらいだ。誰かが何か言って、他のものが大声で笑う。気が抜けて、はじめはぐったりと椅子に腰かけなおしたが、純太はテーブルに乗り出した姿勢のままぎこちなく固まっていた。
 なんのことはない、よく焼けた健康そうな現地の若者が何人か、シャツとハーフパンツだけを引っ掛けた格好でがやがやとレストランに入ってきたのだ。だが純太は、東京湾からネッシーが出てくるのを眺めているみたいな目で、その一団を見ていた。はじめも彼らに視線をやった。黒髪の青年たちの中に、一際派手なオレンジ色の染髪が目についた。
「鏑木?」
 純太の声がそう言ってようやく、はじめも、その男の横貌とオレンジ頭に見覚えがあることに気がついた。
「ん?」
 愛嬌のあるアジアンフェイスが振り返る。
「あ? あれ……手嶋さん……? と、青八木さん? なんでこんなところにいるんすか? ここインドネシアすけど……お、もしかして、表の黒いロードって手嶋さんのすか? かっこいいやつ! あっ! わかった! し……んこんりょこうっすね、もしかしなくても! う、うひゃー! 青八木のエッチ!」
 思わず、二人は顔を見合わせていた。

 

2023/10/02

 

 

 


 長い冬がすぎ、この家にも春がやってきた。
 鶯の赤ちゃんが鳴くのにも先んじて、クラブアップルの低木に、白、ピンク、赤藤色と、それは見事な花が咲く。追随するようにして野薔薇、まるでそれ自体が花束であるかのように立派な、こがね色の雄蕊の冠をいただいて、白く小柄な花弁を開く。黄色やアプリコット色の水仙、葉には毒があると教えたら二人して怖がっていたっけ。ナデシコ、クロッカス、タイム、ピンクの芝桜に紫のオダマギ、八重咲の芍薬の小径、勿忘草、デルフィニウム、目も覚めるような、あざやかなヴァイオレットのライラック……薔薇にも色々あって、強いダマスク香が特徴的なマダム・ハーディー、薬種屋の薔薇との異名を持つ椿色のガリカ、ロサ・ギガンティアは、ミャンマーの高原からやってきた剣弁咲きの蔓薔薇、ローズマリーは……薔薇ではなくてハーブだけれど……小柄で可憐なナスターチウム、薄紫のカンパニュラ・ラクティフローラ、もうすぐ盛りも終わるスイートピーの家族。白いポピー……鋭く突きとおるような痛みが右手指に走って、はじめは思考するよりも早く手のひらを翻した。冷たい新雪の色をした、ほっそりとした人差し指から手首にかけてを、血の滴が滴り、やがて薄い皮膚を離れた。ポピーは蕊を中心にじんわりと赤らんで、リメンブランス・ポピーになった。
 刺繍針が、人差し指の肉をかすかに貫いている。ふたたび指先で膨れ上がる血を慌ててティッシュで覆った。明日のために、半年かけて繕ってきた花のブラウス、汚してだいなしにするわけにはいかない。刺繍枠に抑えてある薄桃色のものと、それからすでに繕い終えた、淡青のものが壁にかけてあるのを眺めて、はじめはようやく、二次被害を避けたことにほっとため息をつく。ここははじめのアトリエ。壁に沿って置かれたアンティークのテーブル、それからゆったりと幅のあるロッキングチェア、肩にかけた羊毛のケープに鼻先をうずめてリラックスしてみる。もはや予断を許さない手許を照らすのは、古い水差しを作り変えたかさつきの電気スタンド、その隣に、なつかしい、小さくてふくふくとした指がくれた小ぶりの松ぼっくり、出しっぱなしのパレット、絵筆、行方不明になる直前に撮影したボーダーコリーの”キャベツ”の写真。友人の結婚式次第も、端のよれた鶴の折り紙も一緒くたにしたレター入れは、ヴェネツィア郊外の骨董品屋で見つけた、ハンドルを引き出して蓋を開けるもの。銀の燭台。このテーブルのヘリに、小さな指が二十本ならんでいたときのことを思いだせば、瞼の裏がじんわりと温まる。
 カーテンはマリメッコのプケッティ・パターン、左手で端を持ち上げると、格子窓の薄いガラス越しに初春の冷気が顔を直撃する。見れば、冴えざえとしたミッドナイトブルーの空から、いままさに、白い妖精が地上に降りてくるところだった。やけに寒いと思ったら雪が降っていたのだ……これが終雪になるだろうけど。そろそろ血もおさまってきた指で、刺繍枠を掴んだまま、立ち上がってストーブをつけるか考える。電源を入れるのに、はじめの身長ほどもある八十号を二枚、壁に立てかけているのから退けなければならない。動いたらよほどに寒いだろうし。靴下のつま先を揺らして悩んでいたら、立て付けの悪い扉の蝶番が開く音が背後でした、と同時に、心地よいハイバリトンがつむじの上にやわらかくふってきた。
「はじめ」広東産の陶器のティーカップを二つ、ポットを一つ、盆に乗せて、尋ねてきたのはねぼけまなこの夫だった。「まだ寝ないのか」
 はじめがパレットと鉛筆たてを避けて空いたスペースに盆を滑らせ、部屋のはじから引いてきたスツールに腰掛けて、彼は静かにはじめを見た。はじめは言葉に代え、顎を引いて首肯した。出会った十代の少年の頃から、着実に歳を重ねた彼の、いとおしい顔を見た。年月が経つにつれ、もとの激しく烈々とした性根は鳴りをひそめ、精悍に、また静穏に、老いてきた彼だった。どこか異国の血筋を思わせる影の深い面立ちは、聡慧な美しさをたたえて夜の青に燃え、しかしその目尻にはそう遠くない死の兆しがこっくりと刻まれていた。針を布にとめて、自由になった手のひらで彼の癖毛を撫でた。彼は泣きそうな顔で、はじめの指に頭をゆだね、きっとはじめも同じように目元を歪ませていただろうが、カップから上る白い湯烟がそれを深夜の秘密にした。
「うん」
「もう夜も遅いぜ」
「あした……に、まにあいたいから」言葉が充ちるのを待たず、スパイスの香る熱い皮膚が、声をふくんだままのはじめの唇を訪れた。今もなお愛し合う夫婦の、何処に行くあてもない口づけだった。
「純太——」
 たくましい腕にしっかりと抱かれる。夫の鷹揚な胸の中で、はじめはひっそりと嘆息する。オレンジ色の灯りの中でポピーの赤がつやつやと光っているのを見る。まだ頭の中にあるカンタベリーベルズ。デイジー。クロッカス、待雪草、マリーゴールド、瓔珞百合。明日、このひと組の夫婦のもとから、いとおしい二人の子どもたちが、巣立つことになっていた。