2023/09/27

 

 

 


 奥ゆかしく寡黙な割れ目に触れ、指でそっと左右に押し開くと、やはり、薄桃色の肉が忙しなく呼吸しているのだった。日照りの粘膜はしっとりと濡れ、まるでそれ自体が感じやすい生き物であるかのように、うねり、震えて、純太の指や、あるいはまた別のものが触れるのを今か今かと待ち構えている。
 そのとき、純太の魂をにわかに覆ったのは、欲情や期待といった、ありふれた感情ではなかった。失望、落胆、幻滅などという、身の程知らずで礼儀を欠いた感情でもない。裸の胸に、光速にもにた激情の矢が静かに突き通って、純太は、そう、安心したのだ。彼女がどこにでもいる普通の女だということに。愛を囁き、手を握ってやり、裸に剥いて感じやすい部分をいやらしく撫でてやれば、股が濡れてくるような生き物だっていうことに。

 

 当人たちにとっては、喜ばしい恋の一ページだったのだろうけど、鏑木一差には完全なフェータルエラーだった。
 申し訳なさそうに頭を下げた親友と、その隣で困った顔をする彼の恋人の前で、十九歳男性・大学一年生・住所不定の一差は、あろうことかごねて暴れた。題目としては、どうしてオレに相談しなかったんだ、おまえはオレより女の方が大事なのか、オレは明日からどこで住めばいいんだ、というところだった。冷静になってよく考えれば、上京してから三ヶ月、いまだに住むところを決めずだらだらと部屋に居座っていた一差が十割十分悪いのだが、親友は三人兄弟の長男で一差にもとことん甘かったし、彼の恋人は実に慎み深い性格だったので、誰もそのことに言及しないまま、三人揃ってまんじりともしない夜を過ごした。
 結局、折れたのは一差の方だった。頭が冷えてくるにつれ、二歳にも満たない子どもの頃から絶えることなく自分のわがままに付き合わされてきた親友を、哀れに思う気持ちが芽生えてきたのだった。親友が丹念にアイロンをかけた服、親友が綺麗に揃えて本棚に整えておいた教科書の類、親友が揃えてくれた生活必需品、冷蔵庫の中に入っていたおにぎりのパックを三つほどスーツケースにつめて、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら部屋を後にした。「幸せになってくれ、段竹」いっそ清々しいほどの被害者面で笑い、親友にひどい罪悪感を植え付けたのを最後に、一差は彼のアパートを出た。まではよかった。
「古賀さあん、オレ、今日から家無しなんすよ……どうしたらいいんすかね……」
 早朝の教室にはまだ、明け方の雨の匂いが濃厚にたちこめている。わずかに開けた窓の隙間から白い霧が漂ってきて、長机に突っ伏したままの一差の鼻先を甘くくすぐる。降水こそしていないが分厚い雨雲に面隠した空は灰色だ。そこから半透明の垂れ幕が落ちて、湘南台の街全体を仄暗く覆っている。前列に座り、昨日の小テストの採点をしていた古賀が、いつになく憂鬱なため息とともに赤ペンを置き、無言で窓を閉めた。「ホテルにでも泊まればいいんじゃないか」
「だからあ……お金ないんですよ、実家戻るのもアレだし……はあ、サイアクだな……」
「鏑木、お前、俺になんとかしてもらおうと思ってるだろ」
 鏑木を振り返り、堅物な黒縁眼鏡を押し上げて古賀がほくそ笑む。伏せた頭をこづかれるが、その手つきはどこか優しい。
 良い人だと思う。古賀公貴、三年生、入学式後の言語オリエンテーションの際に、大ホールで迷ったのを助けてもらってから、なんだかんだ世話になっている先輩のひとりだ。英語はおろか日本語すら若干あやしい感じの一差が、フランス語クラスでなんとかやっていけているのも、本校舎の自転車競技部に入部できたのも彼のおかげだ。その上で、もう一声だ、鏑木は椅子を激しく揺らして立ち上がった。
「なんとかしてください、古賀さん!」
「少しは自分でナントカする気概を見せたらどうだ」
「頼みますよ! もう古賀さんしか頼れる人いないんすよ!」
 傍らのスーツケースをばたばたと叩けば、教室前方にポツンと座っていた生真面目な同級生が驚いて振り返った。古賀はそんな一差を眼鏡越しに横目で見て、仕方ないとばかりに小さく肩をすくめる。手前の椅子にどかっと腰を下ろしたかと思うと、まあそう情けない顔をするな、と急に声色を和らげた。
「いいことを思いついた」
 ジャケットの懐から、黒に金の箔押しをした小さな箱を取り出しながら、視線を伏して言う。
「助けてくれるんすか!」
「いいから座って聞け。俺の家は北鎌倉の方にあるんだが、一つ空いている部屋がある。家賃なし、三食昼寝つき、その他大抵の家事は家の方でやってくれる。このキャンパスに通うにも自転車一つあれば十分事足りるし、天気が悪いなら俺が車を出してもいい。その部屋を、お前に貸してやる」
 もぞもぞと座位を正した鏑木の顔を眺めて、古賀は何かことありげに微笑した。平たい唇に咥えた煙草の先端に、左手のライターから火が移って、彼が息を吸うのに合わせて赤い光を帯びた。
「ただし、お前に三つの掟を課す。これを遵行しろ。できるか」
「はあ? ルールってことすか? 余裕すよ、オレ、高校んとき一回も校則破ったことないんで!」
 胸を張って威勢よく言い切れば、彼は言葉なく首肯し、背後の小テストの嵩から一枚取り出したのを裏返して鏑木の前に置いた。硬質な明朝体が白い紙面に澱みなく展開する。
 ・家の中で起きたことは口外しないこと
 ・余計なことはしないこと
 ・家人の協力要請には可能な範囲で応じること 以上
「ヨウセイって、掃除しろ〜料理手伝え〜みたいな感じのことですか?」
「まあ、そうだな」
「わっかりました! 任してください!」
「サインしてくれ、ここに」
 二つ返事でペンを取り、その文字列の下に大きく氏名を記入する。書き上がるとすぐに、古賀は紙面をスマートフォンのカメラ機能で撮影し、メッセージアプリを立ち上げて何方かへ送信した。裏返したのは鏑木に返却された。
「げ……」
 それは鏑木が昨日四苦八苦しながら埋めた、フランス語クラスの小テストだった。単語が一つかろうじて引っ掛かってるの以外は、赤ペンで大きくチェックをつけてあった。家探しもいいが、勉強ももっと頑張れよ、古賀がため息まじりにつぶやく。

 鎌倉市山之内の丘陵麓に立地する旧手嶋邸別邸、通称鶯吟邸は、江戸後期に建造された桟瓦葺きの民家だ。三方に巡る板張りの縁側に腰付き格子ガラス戸、太い梁や柱に支えられた三つの和室に土間、囲炉裏に作り付けの書棚と、江戸の庶民の暮らしを豊かに反映した和風建築だ。もとは二階建て構造で、練馬区の農家が住居としていたのを、京都の手嶋本家が買い取って移築し、ゲストハウスとして用いていた。それがなごって現在も、浅井に雇われた庭師が広大な庭園と家屋とを手入れしており、先年にはその明媚であることから市の景観重要建造物にも指定されたばかりである。古賀が住んでいるのは、その鶯吟邸の一室なのだという。
 運転席の古賀の、淡々とした解説をほとんど聞き流しながら、一差はドアウィンドウに張り付いて外を眺めていた。湘南台のキャンパスから南下して辻堂駅藤沢市街を通過して、いかめしい黒のメルセデスは県道二一号線に入っていた。モノレールの高架線をくぐり、北鎌倉駅の白い木造の駅舎を横目に過ぎれば、街並みもひとときに古都鎌倉らしい趣のあるものに様変わりする。円覚寺の背の高い黒松、まだ緑の葉のもみじの木、塗り壁に瓦葺きの山之内会館、長い石畳の東慶寺。住居やカフェ一つをとっても、どこか経年を感じさせる貫禄があった。
「住人は、俺以外にふたりいる。仲良くとは言わないがうまくやれ」
 唇に笑みを含んで古賀は、威嚇する動物のような顔つきで背を伸ばした鏑木を振り返る。「偏屈で癖のあるやつらだ」
「へ、変な人ってことすか」
「変……ではないかな。そういう意味ではお前の方がよっぽど変だ。ああ、はじめとは気が合うかもな」
「はじめ?」
「青八木一。女だ。いいやつだから、お前も気にいると思う」
「女がいるんすか!」
 にわかに慌て出した鏑木を、古賀は喉だけでくっくっと笑った。
 第三鎌倉道踏切を渡って、手前のT字路を左折する。道が悪くなり、座る鏑木も、窮屈そうに納まった彼の白いフェルトもガタガタ揺れる。少し進んだところをすぐに右折し、大きな銀杏の木を過ぎれば、ゆるやかな傾斜の道にさしかかった。鶯吟通りだ。左手には石で舗装された小川、カフェや住居に渡るための小さな橋がかかっているのが可愛らしい。右手には苔むして深緑色の崖、青竹やヤツデ、シダの類が、手前に向かって静かに首を垂れている。一分もしないうちに車は突き当たりの、竹と石で組んだだけの慎ましい門前に到着した。銅製の表札がかかっていなかったら、禅寺の表門かと思ったかもしれない。
「公貴、おかえり——」門扉をガラガラと開けて、Tシャツにハーフパンツを引っ掛けた格好の、きやすい感じの青年が出てきて二人を迎えた。「ああ、お前が例の」
「か、鏑木一差っす、えっと」
「手嶋だよ。手嶋純太。鏑木、降りてきて荷物出せ、こっから徒歩だから」
「ええ?」
 バックドアを開け、フェルトと一緒にひとまず降車する。外してあった前輪を取り付け、軽く前後させて挙動を確かめれば、おお、と手嶋が声を上げた。
「鏑木も自転車乗りなんだ」
「あ、はい、古賀さんとおんなじで」
「おい純太」
「はいはい——鏑木、俺んち車停めるとこないから、いつもパーキングに停めてんだ。公貴が行ってくれるらしいから、俺たちだけで先に行こう」
 一差の、オレンジのスーツケースを担ぎ上げて、手嶋が笑った。右に傾げた頭から、つややかなパーマヘアが波打ちながらこぼれた。女性的というわけではないが、腕も脚も痩せているし、所作にもどこか品格があるので、中性的で優美な雰囲気があった。そのままくるりと踵を返して扉の中に入ってゆこうとするので、一差も慌ててフェルトを抱え、その背中を追った。
 平たく舗装された白い石の道は終わりが見えないほど長い。ヤマモモ、サワグルミ、クヌギケヤキ、紅葉に蝋梅、さまざまな種類の木陰の中を縫うように進む。道に沿って植えられた紫陽花の木、その無数の手まり咲きが、極めて明媚だった。白や薄藤色もあったが、ほとんどが目の覚めるような青だった。狭い道にあってフェルトのホイールやハンドルが突っかかるたびに、装飾花が揺れてみずみずしい露が飛んだ。二人は長い石段を踏み締め、竹林庭園を抜けた。本邸までが無駄に長い、左腕で汗を拭いながら、一差は内心ため息をつく。
 葉ずれの音がさざ波のように寄せては返す。湿った風が一差の耳もとでつむじを巻く。一差は、ふと、生い茂る紫陽花の葉の群れ、剛健な木々の幹の向こうに、白い霧のかたまりのようなものを見た。脚を動かしながらもよく見つめればそれは一匹の白い雌鹿だった。菖蒲の花びらのような耳を伸ばし、可憐な桃色のはなづらをすっと西の方に向けて、静かに歩いていた。聡明そうな琥珀色の目が木漏れ日を呑んで光をたたえた。かと思えばそれは裸身の女だった。生まれおちて間のないような、つややかで痛々しいからだだった。黄金を漉いたみたいな髪、オパールセントガラスみたいな白い肌だった。繊細そうな細い脚が、地面につき立つみたいにしゃんと立っていた。
 息を飲み込むより先んじて白昼夢は終わった。後ろから追いかけてきた古賀が、「鏑木」、声をかけたからだ。
「何してる、ついたぞ」
 一差はおお、と思わず声をうわずらせた。武家屋敷というには粗末な桟瓦葺きの平屋だが、黒い漆塗りの壁や柱の重厚な雰囲気には気おされる感じがした。障子作りの玄関扉の手前、庇のある部分に、黒いキャノンデールが停まっている……手嶋のだろうか。前庭の開けた空間は芝生敷になっていて、ぽつぽつぽつと、渡って歩くための飛び石が置いてある。
「お前の部屋、裏から入るんだけど、先にこっちでお茶でも飲んでく?」
 扉のわきにスーツケースを置きながら、手嶋が尋ねる。一も二もなく頷いた。
「覚えてるか」一差からフェルトを取り上げてキャノンデールの隣に揃えて置き、たまさか、古賀が言った。「余計なことは言うなよ」
 産毛が立つような悪寒を、気のせいだと思った。だがその正体はすぐに知れた。引き戸を開けて土間に入った手嶋が、なんの前ぶりもなく、シャツを脱いだのである。言葉もなく硬直する一差を追い越した古賀も、なんでもないことのようにジャケットを脱ぎ、なんでもないことのようにスラックスを脱いだ。布連れの音が妙に冴えて聞こえて来る。冷たい血が足元から上ってくる感じがする。二人の男は、まるで靴を脱いで靴箱に揃えるみたいなくつろぎようで、下から上から裸になった。手嶋はすでに全裸だった。古賀は一つ肌着を残していたが、手嶋が背伸びして彼にキスして、そのまに慣れた手つきでそれを脱がせてプラスチックのかごに放った。
「おかえり、公貴」
「ただいま……純太」
「汗流したいんだろ、手伝ってやるから待ってな」
「ああ」
 ブロンズを思わせる、頑丈に張り詰めた美事な姿態に、小柄だが引き締まった鞭のような肉体が絡んだ。自転車乗りの剛健な身体だが、それでも古賀の長身の前にありながら、手嶋は力無い女のようだった。太い腕に抱かれて、手嶋はふたたびつま先立ちになり、古賀の唇を貪る。無理な姿勢に震える脚の間に古賀の膝が入る。無骨な指は手嶋の顎をさわり、肩甲骨をすべり、背骨の隆起を数えて脇腹にまわった。
「あっあ……あッ……」
「純太……」
「公貴……あと、あとで、な」手嶋の耳がらにかぶりついていた古賀が、はたと目をしばたかせた。皮膚を離れて彼の唇はつやつやと湿っていた。「俺、お茶淹れてくるから」
「いやいやいや、何やってんすか!」
「これがうちの家流なんだわ」白けた声で、古賀から身を離した手嶋が言う。
 唖然として立ち尽くす一差をあと目に、古賀は全裸のまま板敷きにあがり、縁側を渡って手前の和室に入った。手嶋はというと、自分の分の靴を几帳面に揃え、板敷きを叩いて一差にも家に上がるよう促した。
「俺たち愛し合ってるの。だからルールを決めた。そのうちの一つが、家では何も身につけないで過ごすこと」
「はあ……」
「悪いな、公貴が説明しないで連れてきたんだろ。ま、お前まで付き合う必要はないし、そのうち慣れるだろうし、大丈夫さ。公貴と一緒に手前の部屋で待ってな」

 

センチメンタル・フラグメンツ

 

 

 

センチメンタル・フラグメンツ


 そのとき、親弘は白く結露した窓のそばに座って、三年前の日付がついた少年漫画雑誌の巻頭カラーを緩慢にめくっていた。何をするでもない、ゆるやかな日曜の午後。部屋でダラダラと過ごすのにも飽きてきて、かといって外出するには時の流れが穏やかすぎて、どう過ごすかということにすらうまく頭が回らない、そんな休日。
 後ろでは、ポットから噴き出る蒸気音や恋人のまりなが忙しく働き回る足音がするものの、会話はない。喧嘩をしたというわけではないが、前のように逐一愛を囁くのも違うような気がして、まりなとはかれこれ半年もの間こうした付かず離れずの関係を保ってきた。十年近い付き合いの彼女とももう静かに終わりゆくばかりなのかもしれない。別れを選択するほど軽い愛情ではないはずで、しかし結婚にも踏み切れずにいる、自分の内側の柔らかく臆病な部分を持て余す親弘である。
 ヒーローの台詞にまだら模様の影が散る。親弘は顔をあげ、外で雪が降り始めたことを知った。
 軽やかな銀色の結晶が、ぶあつい曇り雲の隙間からこぼれる光を含んでまたたいた。その反射のまぶしさに、彼はふと楽しかった少年時代に立ち返り、彼と、まりな、そしてそこにいたはずのもう一人の少年をたしかに幻視した。雪玉を投げた投げないで転げながら揉み合う二人を、銀の、それこそ雪や北極の星の色の目をすがめて見ながら、まるで子供をたしなめる親の顔をして微笑む少年のことを。少年は、もはや二人のそばにはなかったが、親弘が、またまりながあらがいようのない逆境に立たされたとき、それでも心を奮い立たせるのはいつも彼のその瞳の光だった。親弘やまりなの髪一本までを愛おしく得難いもののように見るのだ、その時はただくすぐったく、心もとなく思ったが、今思えば、それは日常のあらゆる要素から切り離された彼の精一杯の求愛だった。どれだけ言葉を重ね、肉と肉を擦り合わせても、彼の——沈黙を、打ち消すことはできなかった。
 親弘の精神は回想の中にしんしんしんと落ちていく。灰紫色の薄暗がりの中に、痩せて骨の浮き上がった生白い肋が浮かんでくる。手のひらで脇の皮膚をくすぐると、親弘の耳元で小さく嗚咽がはじけた。そう、はじめて抱いたとき、彼は泣いたのだ、春の花びらを重ねたような薄い下瞼に慎ましく涙を滲ませて、幸せだ、と言った。泣き顔どころか、笑顔すら珍物扱いされていた彼の、涙。まりなのやわらかい指が彼の頬を拭った。親弘は、指先まで茹だるような気分になって、彼が生来抱えてきた辛苦を思うままに揺さぶった。
 あのとき彼がどんな思いで自分の幸福を告白したのか、成人した今であっても、親弘には説明がつかない。
 庭に茂った南天燭の中で燃えるような赤毛が翻る。孤独な彼の名前は小銀といった。

 

 雪の日、素性の知れない子供を抱いて訪ねてきたのは小銀だった そのときすでに最後に会ってから五年が経過していた 親弘は……その子供が小銀の子供だとすぐに気がついた 
小銀は、相変わらず目の覚めるような赤い長髪を天鵞絨のコートの中に靡かせ、少し老けた様子の美貌で笑みの形を模っていた 後からやってきたまりなは彼を見るとわっと慌てたようになり、腕を引いて彼を部屋の中に引き入れた 唇がほの赤い 雪道の中一人歩いてきたのは火を見るより明らかだった 
「蜜月だった」 
小銀は子供の母親について多くは語らず、ただポツリとそう言って退けた。雪の日特有の不気味なほどの静けさ、曇天に希釈された朝の光の中で、キリストを抱いた聖母の憂いを冠して、小銀の不幸せは鋭く輝いていた。 
親弘は小銀の肩をソファに押し倒し、噛み付くようなキスをした。ささくれひとつない粘膜にありふれた幸福の残り香が漂っている。シャツのボタン留めを解くと、なめらかな頸からこぼれる銀の十字架に、まりながハッと息を呑んだ。 
「お前、神なんか……」 
小銀は首を振る。 
「あいつが信じた。きっと今もそこにいる」 
まりなが、仰向けになった小銀にもう一つキスをした。 
「まりな……泣いてるのか」 
「あなたが泣かないから」 
困ったような小銀 親弘はまりなにも優しいキスをして宥めた 

 子供の頃は、チョコレートケーキかショートケーキかでずっと悩んでいられたし、最終的に両方選んでしまう、これも全く問題のないことだった。 
しかし、大人になり、分別と引き換えに無謀さを失って、二つどころか、一つでさえ胃もたれを起こしてしまう昨今である。現に親弘は今、暗がりの中で秘めやかに吐息を絡ませる男女を見て、昂るどころか卒倒しそうな思いでいる。 
小銀は嗚咽のやまないまりなの肩をゆるやかに抱え、骨張った中指で濡れた膣をほぐしていた 手入れのされた爪が、膣壁の上を擦る、親弘も知っていることだがそこは少女時代からまりなの弱点だった 二人の男に丁寧に開発されたのだ まりなは首を後ろに傾げ、浅く湿った息を頻りに吐き出した 青い目が遠くの灯台にも似てちかちかと 
激しく昂らせるための動きというよりは、心底気を遣って労っているような 細君にも同じようにしたに違いない 
そう思ったらもうたまらなくて、親弘も小銀の背後に回った 「どうだよ」血の気の薄い真っ白な首の皮膚を吸い上げながらささやく 普段は長い髪に隠された柔らかい耳、これは小銀の急所だ 
「いらない」 
「そのままぶち込むぜ」 
「構わない……」 
陰茎をねじ込んでわかった、洗浄してある 女の膣にも似て、しかし種を異にする粘膜、粒立った肉に引きずられ、親弘は思わず低く唸った 
「あ、……親弘」 
甘くうわずった小銀の声 その拍子に変なところを擦ったのか、まりなが 
「小銀……」 
「いれてやれよ、お前だってしんどいだろ」 
「嫌だ」 
「あんだよ、今更義理立てか?」 
「ちがう……まりなは、お前の、俺はもう昔みたいにやれない」 
親弘は鼻を鳴らして小銀から出ていき、まりなにいれた 涙を流して喜ぶ 
「親弘、小銀、すきよ」 
「俺もだ」 
震えるまりなの唇に小銀がキスをする 
親弘は、宗教画みたいだ、なんて柄にもないことを思いながら、サイドテーブルのウイスキー瓶を引っつかんで飲んだ やってらんねえ 
途中でゴムを忘れたと気付いたが止まれずに射精した 

小銀は口でまりなを愛した 
愛液や、奥から垂れてくる親弘の精液を啜った 放逐されてまもない精液は白く濁って、小銀の唇を汚した 
親弘は散々迷って、結局もう一度小銀にいれた「なあ余計なこと考えんなよな」 
「お前がどうこうしたって贖われる罪があるもんかよ」 
「子どもは俺を恨むかもしれない」 
「怖いか」 
首を振る くしゃくしゃの前髪が揺れた 
「不思議な気分だ。静かなんだ」 
「小銀」まりなの女の手が小銀の頬に触れる 「悲しいっていうのよ」
「言葉にしたら終わってしまいそうで」
親弘は彼の背中を思い切り抱いてやった。「わかってるっつーの」そのまま抱いていると、不意に、首の後ろで控えめな嗚咽が弾けた 
「親弘、愛している」 
「ああ俺もだよ、お前も、まりなも、お前のかみさんも、あのチビのこともな」 


「不足なく愛してやれたらと思っていた。俺がそうしてほしかったから」 
囁く声は秘めやかで、冷たい 
「そんなところまで似なくてよかったのに」 
子どもが目を覚ます……おとうさん? 


小銀はいつだって大事なことを言わない  
夕方、空っぽのベッドに十字架が残されて、キリストが処刑されたあとのゴルゴダの丘はこんな風だったろうと思った 
「結婚しよう」 
 待たせて、悪かった。少し声が震えて、喉の奥で笑った。 
 立ち止まって、困ったように微笑みながら、泣かないのよ、とまりながいつしか雫の伝う俺の頬に触れる。そういうまりなもまた、泣きそうに、眉を寄せていた。 

 

 

 

 

 

 十年余前のこと、八ヶ岳の麓に父が別荘を買った。一帯が避暑地として活用されている場所だったので、その隣にも同様に別荘があった。白っぽくペンキの塗られた、木造の、芝居か何かのセットかと思うほど綺麗な家、玄関には小さく素朴なポーチが設けられていて、そこから土の上に降りる低い階段は、座って外を眺めるのにちょうど良いように思われた。そこには、いつもくたびれた感じのセーターを着ている五十歳ほどの男性と、まだ若いらしい彼の息子が二人で暮らしていた。
 息子はどこか外国の血を継いだクオーターだというので、人参色の赤毛を肩まで伸ばしていた。寡黙だったが、赤毛のアンみたいだと妹に言われた翌日、おさげに結った状態で私たちの家におかずの差し入れにやってくるような、子供みたいな一面もあった。夏のあいだ私と妹はそこに通って、父親が自室で弾いているらしいチェロの音を聴きながら、息子の作った昼食に預かったり、夏休みの宿題を見てもらったりした。
 ある日、おもしろ漢字ドリル(ひろうの項に、手を合わせてひろうから拾、と書いてあったのだけ覚えている)を終わらせるために、私は彼らの家にいた。妹は母とアウトレットに出かけるというのでいなかった。サロンは静かだった。窓からの琥珀色の光で色褪せた床は明るく輝き、その上で、私が鉛筆を紙の上に走らせる音や、息子の指が紙面を軽く叩く音ばかりが無音の冷たさを和らげた。いくらかページをこなしたところで、息子が言った。
「休憩にしよう」
 小さい私は喜ぶ。彼の作るレモンアイスティー、甘かったからむしろジュースの部類だったかもしれないが、とにかく美味しいのだ。ロックアイスを入れたグラスに濃いめに淹れた紅茶を注ぎ、レモン果汁と炭酸水で割る。気泡の弾けるティーソーダに、透明なシロップが渦を描きながらグラスの底へ落ちて行く。シロップ一つでいいか、うん、私の答えに息子は、
「お父さん、病気なんだ」
 ティーソーダに視線を伏せたまま、不意に声のトーンを落とした。出し抜けにそんなことを言うので、私は、脈絡を把握できないまま首を傾げた。
「脳に、このくらいの腫瘍があるんだそうだ」彼は親指と人差し指で輪っかをつくって示してみせた。「これがレモンくらいの大きさになったら……もしかしたらそれより前に、頭がおかしくなって、何も考えられなくなってしまうかもしれない」
「しゅよう」
「悪いものの塊ってこと」
「治らないの」
 悲しく微笑し、彼は首を振った。
 祖父も祖母も、離縁した親類の彼も、あまりにも元気だったので、当時私は有機物が滅びゆくものという純然たる事実に少しも見当がついていなかった。まして、それが身を引き裂かれるような激しい悲痛を伴うものであるということを、どうして知り得ただろう? 今なら、わかる、祖父はコロナ禍で一人亡くなり、祖母は闘病の末眠るように亡くなった。親類の男は言葉にするのも憚られるほど壮絶な死に方をした。その度に葬式で号泣したわたしは、そのとき、泣くのを必死に堪えながらも、なんとか作ったらしい笑顔を前にして、何の反応も返すことができなかった。
 グラスが空になるころに、表で呼び鈴が鳴って、息子が私を過ぎて玄関に出た。髪が、男性にしてはいやに華奢な肩にこぼれる。
「おかえりなさい、お父さん」
 次の夏、その家には別の家族が住んでいた。夫婦と、妹と同い年の娘、サロンに面した窓には子供の落書きがデカデカと飾られ、ポーチからの階段は華やかな色の花でいっぱいだった。蝶に、蜂に、娘が餌を撒くので野生の鳥もたくさんその家を訪れた。彼らは三年間そこで暮らしたあと、またどこかに引っ越していき、家はすっかり取り壊されて終った。

 

 

 

 

 

 

 カチャは、まだうまく聞き取ることのできないラジオを、一心不乱に聴いている。不自然なほどに冷たい目だ。彼女はこうして、理解するのに焦れと憤懣を感じずにはいられない早口の日本語の中に、自分の名前がはっきりと響き渡る日が来るのではないかと怯えている。 
 戦争はもう一年半にも及ぶ。はじめは両国の国家主席のみを対象とした報道が盛んになされたが、時が過ぎるにつれそれだけではネタに不足しはじめ、やがてその周辺人物、とりわけ血縁者がねんごろに取り扱われるようになっていた。親弘に戦争はわからない。ラジオを聞いたところで、海を遠く隔てた国の事情などわかったものじゃないし、なにより彼は中学の社会科科目を蔑視の目で見ていた。高校には行っていなかった。彼の社会、つまり、わかばハイツの二◯一号室、足立区郊外の寂れた町並み、ラーメン鳳凰堂の厨房で起きたこと、彼にはもったいないくらい美しい恋人、それ以外は割とどうでもよかったし、そうしたものに注意を払ったところでうまくやれるわけじゃない、というのが彼の持論だった。 
 ただカチャは違う。うまくやるかやらないかじゃない。自分の存在と誇りをかけて、彼女は近い将来アナウンサーの早口に乗って告げられるだろう彼女の名前、そしてその向こうで煌めく父親のまなざしに向き合っている。 
 外ではじわじわと蝉が鳴き、空調のないこの狭い部屋を余計に暑くさせた。ラジオ番組がニュースから歌番組に切り替わったのを確認して、親弘はこれを切り、汗でベトついたシャツを脱いだ。カチャは無言だったが、すべてわかっているというふうに立ち上がり、脱衣所に引っ込んだかと思えば、厚手のタオルを三枚ほど抱えて帰ってきた。 
 敷きっぱなしの布団の上で向かい合う。カチャが親弘のズボンの前を焦ったくくつろげ、ボクサーをずり下げて頭をもたげはじめた陰茎にかぶりつくのを、親弘は静かに見下ろした。触れた粘膜が熱い。まだ熱が下がり切っていないのだ。 

 ラーメン鳳凰堂の勝手口のゴミ置き場で残飯を漁っている少年がカチャだった。痩せて肉がなく、重たく伸びた前髪の下でぎらつく目が獣のようだったから、最初は男の浮浪者かと思った。 
 親弘が怒鳴りつけても、彼女は動じなかった。というより、親弘がなぜ怒っているのかわからなかったのだ、そのときの彼女は向こうの言葉しか理解しなかった。親弘の大声が店長を勝手口から引き摺り出したが、彼は気の良い人だったので、身体を覆う襤褸のみを財産として持つこの女に、温かい出汁と少しばかりの糠漬けを与えて落ち着かせようとつとめた。あとから聞いたことだが、本土から貿易船に忍び込んで十二時間、うたた寝しているあいだに貨物は列車に連ねられ、竹ノ塚の駅に着いたところを脱出して合計二十時間、飲まず食わずでいたらしい。店長の親切をすっかり空にしたあと、鳳凰堂でもっとも上等な、七五〇円もする豚骨ラーメンまで平らげて、彼女はようやく人に立ち戻り、なにかしゃべり始めた。親弘も店長も日本語しかわからなかったので、隣のタクシー会社事務所に協力を要請したところ、職員のひとりが知り合いのカザフスタン人留学生を呼んできてようやく彼女が何を話しているのかということが判明した。「警察には連絡するな」要するにこういうことだった。
「なんだ、てめえ、世話んなっといて第一声がそれかよ」
「あたしはそこのゴミでじゅうぶんだったのに、この人が勝手に憐れんで施してきた。見返りを求められても迷惑だ」
 実直な留学生は親弘の粗雑な口調をどう訳すか難儀していたが、女のほうが勝手に親弘の悪意を読み取って報いた。「あんたのことはもっと気に食わない。あたしと、この人の間に、何の関係もないあんたが、口を挟んでこないでくれるかな」
「俺はこの店のジュウギョウインだ」
「この人の奴隷ってこと」
「けんかなら買うけど」
 留学生はけんかをвойна(ヴァイナー、戦争)と訳した。色素の薄い目をまぶたが切れるほど見開いて女が親弘を睨みつけた。
「なあおい親弘やめろよ、相手女の子だろ」店長は冷静に親弘を制し、女に向き合ってたずねた。「名前は?」
 女の名前、カタリナ・クリヴォノギフ、親弘は長ったらしい名前が嫌いなのでカチャと呼ぶことにした。

 午後、カチャが親弘を射精させたあと、恋人が訪ねてきた。
「よお、小銀」
 カチャを押し入れの中に閉じ込めて彼女を迎えた。大学帰りの彼女は、髪を高いところで一つに束ねてうなじの薄い皮膚を熱気の中に晒し、丈の短いホットパンツから細い脚をむき出しにして、鉄製の外廊にしなやかな竹の佇まいで立っていた。そうして、美しい顔にうっすらと涼しく微笑さえ浮かべていたが、親弘は並外れた嗅覚を持ってして彼女の内側の肉がすでに濡れていることを悟った。親弘が彼女の肩を抱いて汗ばむ鎖骨にキスをすると、そのにおいはいよいよ強くなった。
 重たそうなリュックが靴箱の横にたてて置かれる。スニーカー、謹厳な白靴下を脱ぎ、桜色の爪が慎ましく指に重なる小さな足がふたつ明白なものになる。それがさっきカチャがひざまづいていたあたりの床をぺたぺたと歩き回った。麦茶いるか、いらない、でもお前かお赤いぜ……白々しく言うこと、笑い出しそうになるのを抑え、親弘は彼女が湿りを持て余して縋り付いてくるのを待った。が、彼女はあの微笑みをキープしたまま布団の上に膝をつき、「ほんとに大丈夫ださっきそこでお茶を買ったから」その顔にまったくそぐわぬ震え声で言った。
 親弘はカーテンを閉めきり、正座する彼女の横にぴったりとくっついて座って、やわらかく外に迫り出した胸を揉んだ。下着を外してきたらしくシャツの上からでも勃起した乳頭を簡単に摘めるありさまだった。彼女は平静を装おうとしているようだが、踵の上で腰を揺らしておこなう秘かで浅ましい自慰に親弘が気づかないはずがなかった。
「もうすぐ夏休みだろお、どこか旅行にでも行こうぜ」
「……マレーシアがいい」
「お、良いチョイス。どうせならシンガポールにも行きてえ」
「悪くない……けど、おい。親弘。ちかひろっ」
「ん」
 後ろから覗きこんだ顔はかわいそうなくらい紅潮し、こちらを伺う目までが熱にあてられて潤んでいた。布団にまで垂れた分泌液が白く濁って粘ついているのがいっそ哀れなくらいだ。
「暑いから、親弘……」
 蒲柳の身体がついに親弘の肩にしなだれかかる。彼女の全身は汗ばんで濡れていたがきっとそれは暑さのためだけではない。期待のために薄い唇はかすかに震え、湿った呼気をひっきりなしに吐き出している。熱くざらついた舌が親弘の首のあたりを必死に舐める。それでもまだ、親弘は我慢する。飢えは抑えておけるだけ抑えておくのがよい。乳頭をはなれて外郭を指先でつついたり、脇の下のやわらかい肉を撫で回したりする。しかし笑みばかりは抑えても口角へ駆け上る。
 恋人の手がついに親弘の腹筋に触れたとき、彼はその不躾な手首を思い切り掴んで引き留めた。
「なんだよ」
「わかってるくせにきくな」
「言葉にしてくれないとわかんねえな」
「おまえ——」
「言ってくれたらなんでもしてやるから」
 親弘には彼女のすべてが見えている。思考も、感情も、理性も、おさえきれない欲求も、すべて筒抜けである。そしてそれを正しく把握し、その上で赦している。許容している。だから、彼女は恥も外聞もなく、ただこう言わざるをえない。
「舐めて」
「なにを」
「おまんこ……」
 言い終わるより早く、親弘は彼女の身体を布団の上に押し倒していた。焦れて先をせく指でホットパンツのボタンを外し、ジッパーを下ろして、彼女の脚から引き摺り下ろす。快活な印象の服装とはそぐわない、風俗嬢が好んでつけるような黒いレースの、クロッチ部分が裂けたデザインのショーツが露わになる。いまさら手のひらで覆って隠そうとする無粋な手を男性の力を持ってして引き剥がし、恥じらう彼女の声すら聞きとれぬ忘我の地平で、親弘はにおいたつ陰唇、淫猥に潤んだ膣口へ、思いのままに齧り付いた。
「あっ」
 悲鳴を上げて彼女は、間髪入れずに襲いくる快楽から逃れようと腰をくねらせ、それがかえって親弘に恥部を擦り付けることになるのだった。親弘はもはやほくそ笑みを隠すこともなく、たっぷりと熟した肉ひだを左右に分けながら、ぽっかりと開いた女の穴を丹念に舐る。甘酸っぱい粘液が多量に分泌されて親弘の高い鼻梁や唇を汚す。
 今すぐにでも襲い掛かりたい男の獣性をいっそう縛り、親弘は彼女がもっとも望むようにしてやった。つまり、さきほどから鼻先を何度もかすり、また彼女本人も意図してそのようにしているはずの、とがりきった小ぶりな陰核を、歯と歯とでやさしく噛んだ。上がる悲鳴、尿道から間歇的に塩っぽい分泌物が吹き出し、親弘はそこに唇をつけて余すことなく吸い上げた。
「いや……いや、恥ずかしい」
 泣き言を漏らしながら彼女はなおも潮を吹く。親弘は顔に、火花が散るような動物的な美しさをひらめかせ、自らの前で途方もなく無力なものとなった恋人の陰核を無情にも弄び続けた。甘噛みしたかと思えば、すぼめた唇で吸ってみせ、尖らせた舌で触れて細かく震わせる。彼女の下半身がいよいよ無様に痙攣を始める。親弘がとどめとばかりにその勃起しきった突起を押しつぶしたとき、恋人はとうとう、喉も詰まるような悲鳴とともに果てた。
 脱力する恋人を途方もなく残酷な気持ちで見下ろして、親弘はうっそりと微笑した。そう、彼女のこの哀れな臓器は、親弘に底なしの快楽を与え、親弘の子を孕むただそれだけのために存在する。ほかのどの用途に使われることもないというのに、この臓器のために彼女は一ヶ月に一度濁った血を吐き出し、寝込むほどの苦痛にさらされる。親弘は苦しむ彼女を善良ぶって看病してやり、七日経てば、またこの臓器を思うままにして愉悦する。
「大丈夫か」
「うん……」
 冷徹に謀計を巡らせている親弘であると知らずに、彼女は差し伸べられた手に愛おしそうに寄り添い、熱い頬で擦り寄った。愛していないわけではないのだ……この世の誰よりも、彼女が好き、ほんとうだ。彼は指を頬からつうと口許まで這わせ、呼吸のためにかすかに開かれた唇に、人差し指と中指をゆっくりと差し入れた。舌を掴んで引っ張り出す。そのまま、二本の指で挟み込み、しごくように上下させる。
「お、ひふ」
 彼女は親弘の名を呼ぼうとしたが、言葉にならなかった。口の端からたらりと唾液がこぼれて布団カバーを濡らす。彼女は涙を溜めた目でこちらを見つめて解放を哀願する。「いいか」ひそやかに低めた声で、親弘は彼女の耳柄に命令を吹き込んだ、「これ挿れて待ってろ、俺、夕メシの買い物に行ってくるから」ショッキングピンクの電動ディルド、そこかしこにイボがたち、敏感な彼女の膣壁を擦ってめちゃくちゃに刺激するだろうもの、親弘が戸棚からそれを取り出した瞬間、過去の調教の記憶を顧みて彼女が青ざめる。
 弱々しく抵抗する身体を押さえつけて股を開かせ、十分に湿り気を帯びた膣穴に一息にねじ込んだ。無理に拡張されて骨盤が軋み、彼女はことさらに顔を歪めた。薔薇色に上気したほほをやさしく愛撫する。後ろ手で縛り、押し入れに背を向けさせるかたちで布団の上に転がす。そのまま、ものをしまうふりをして彼女の後ろにまわり、押し入れの仕切りを細く開けて中の様子を確かめた。暗く狭い、じめついた空間で、カチャは涙を流しながら股を濡らしていた。親弘の陰茎はともかく、女が快楽に乱れ狂うさまなど見たことがないに違いない、この生意気な小娘は。「俺がいないからって外に出るなよ、わかるな」
「あの子に何したの」縺れもつれの英語でカチャがささやく。
「あいつがしたいようにしてやっただけだよ」
「嘘つき。泣いてるじゃないか」
 バイブが激しく振動し、膣肉を刺激する音で恋人は二人の会話に気づく様子もない。親弘は満足げに目を細め、口角をひどく意地悪くつりあげて、押し入れの仕切りを閉めた。
 親弘は、すでに何度か気をやって布団カバーを湿らせる恋人を背後に、わかばハイツ二◯一号室を辞した。サンダルの足で外廊を渡り、階段を降りて地上へ降りる。奥の母屋に住む大家が駐車スペースを箒で熱心に掃除していたが、親弘に気がつくと、上品に腰を曲げてあいさつをした。「ごきげんよう」「こんにちは、利江さん」彼女のそばを過ぎるとようやく車道に出る。
 さて、彼は海外渡航を多数の趣味の一つに認識していたが、その際により手軽に交信する手段としてアマチュア無線の資格を所持していた。彼がイヤホン型の小型無線機を耳に装着すると、あらかじめ自宅に設置してあるトランシーバーが聞き取った室内の音声が、彼の耳に直接流れ込んできた。
 外を豆腐屋が回る音、やかましいほどの蝉の鳴き声の中に、淫猥な女の声がかすかに混じっている。すでに喉にかかった、プライドも臆面もないメスの獣の声、彼女は誰もいないのをいいことに思う存分乱れ狂っているというわけだ。
『ち、ちかひろ、ぉ……お、っおおぉ、ひぉっ』
 無線を通して、快楽のためにタガが外れ痙攣し続ける身体の動きが手に取るようにわかる。
 彼女の媚肉に突き刺さったディルドのモーターが間断なく回転し、いまもなお、彼女を苛んでいる。辛いだろう、口惜しいだろう、メスの本懐を果たせず、ただ無機物に蹂躙される気分はどうだ。手足を動かすこともままならず芋虫のようにのたうち回る、美しい彼女のことを思うと親弘は内臓までを洗われるような深い感慨に打たれるのだった。往来だというのに舌なめずりが抑えられない。
『おおっ、ぉ……は、激しい……ひっ、ひっひぃっ、お、おっ、おぐぅっ! い、イッちゃう、また、ま、まんこでぇ、イクっ!』
 親弘はうっとりと空を見上げた。夏の雲が真っ白に燃えている。

 歩いて三百メートルほどの地点に、オレンジのクローバーに緑地のロゴが印象的なライフ竹の塚店がある。親弘はそこで野菜を買い、ついでにビールも三缶ほど買い上げたが、無線の向こうの恋人の悲鳴がさらなる熱を帯びるのを待ちたいと思い、続いてラーメン鳳凰堂にも立ち寄った。店主の厚意で、ビールと引き換えに豚骨ラーメンをいただいた。麺を啜り終わった時ようやく、恋人が親弘に許しを乞い始めたので、親弘は立ち上がって店主にいとまを申し出た。
 玄関扉の錠を開いてすぐ、親弘の鼻先にじっとりとこもった女の匂いがたちこめた。冷蔵庫に野菜とビールを入れ、ビニール袋を縛ってこれも戸棚の中に入れた後でようやく恋人に近寄ると、彼女は汗と尿と白濁した膣液でずぶ濡れた布団カバーの上で、なおも激しく振動するディルドに狂ったように身体をくねらせていた。手足を縛るロープがことさらに彼女を無様なものにした。親弘が戻ってきたことに気づいて顔を上げ、彼女が希望と涙に塗れた目で親弘を見る。「ご、めんなさ、ちかひろ」
 声はすでに掠れてほとんど聞き取れない。頼んでもいないのに、彼女はサンダルを脱いだばかりの親弘の素足を懸命に舐めた。足の指一本一本を薄い唇でしゃぶり、踵の裏までを小さい舌で湿らせるように愛撫する。親弘はひどく優しい表情を作って彼女のところにかがみ込み、脚の拘束を解き、赤くなった紐の跡を指で撫でた。かと思えば再び立ち上がって、恋人の唾液で濡れた足先で、膣穴に埋まったディルドを乱暴に掻き回した。
「お、ふぅうっ!」
 勃起した陰核までもがディルドの肢の部分に押しつけられ、びくんと全身を痙攣させて彼女は達した。そこでようやくモーターの電池が切れてディルドが停止した。

 

 

 

 長く続いた赤い荒野もそろそろ終着だ。宙の方へ手を差し伸べるような形で切りだった崖の向こうに、光の帯が幾筋も揺れて輝く海が見える。最初にそれを見つけたのはまりなだった。極めて健康的な生活習慣によって子どもの頃から一切損なわれることのなかった視力が、荒野の終わり、それからその向こうへ無窮に広がる海の広がりを確かめた。オープンカーのフロントガラスに手をかけ、大きく身を乗り出して、彼女は歓声を上げた。
「あぶない!」
 運転席から白い腕がぬっと伸びてきて、洗いざらされた柄もののシャツ裾を強く引いた。まりなは悲鳴を上げて、そのまま後ろにひっくり返った。座席の頭おきに背中を強くぶつけて涙目になる。
「何するの!」
「何するのはこっちのセリフだ、ばか! 落ちたらどうするんだ」
 ハンドルを握って正面を向き、繊細な薄い唇に煙草を咥えたまま、小銀が器用にまりなを叱りつける。まりなは彼女を愛していたので、背中をぶつけたことはいったん不問ということにして、おとなしく助手席に納まった。彼女はまりなを一瞥し、大人しく従ったことを確かめてすぐ視線を正面に戻した。ディオールのバタフライ・サングラスのふちがきらりと夏の白昼の光を帯びる。流れる風に吹かれて、無造作に巻いた赤毛が勢いよく後ろに散らばる。
「海が見えたの」跳ねっけのある髪を指でもてあそびながら、まりな、「だからもう少し見たいなと思って」
「崖のそばにモーテルがあるから、そこで見ればいい。飲食店もあるはずだな」
「ビール飲んでもいい?」
「仕方ないな」
 やったあ、まりなが彼女に抱きつくと、今度こそ運転が大きく乱れた。またお小言を頂戴する前に、剥き出しになった生白い首にかじりつく。そのまま唇をぴったりとくっつけ、鼻で汗ばむ皮膚のにおいを嗅ぐ。夏を過ぎて熟れきった花、彼女の身体の香りに、男ものの香水のにおいが混ざる。小銀はあまり身なりに気を遣わない。身だしなみが悪いというわけではないが、女のように着飾りたいと思っていない。化粧もしない。それでも、彼女はこんなにも魅力的だった。
 崖の先にある店は、飲食店というより、ここ一帯によくある質の悪いカフェーといったありさまだった。客がどことも構わず煙草を吸うので窓も壁も煤だらけだったし、テーブルも椅子もがたがきて不安定なものばかりだった。言葉は通じない。それでも、身振り手振りを交えて注文を終えて席につくと、疲労がどっと押し寄せて来た。それでもビールばかりは瓶詰めになっている比較的新鮮なもので、冷たく、炭酸もまだ少しばかり残っていた。まりなはネグラモデロ、小銀はコーヒーとミートパイを注文した。彼女のいつものセレクトだった。
 尻の小さい黒人のウェイトレスが、盆に乗せて運んできた。大してうまそうでもないのに、小銀は泥みたいなコーヒーとミートパイを表情もなく黙々と食べた。さて、キッチンで調理を担当しているらしい太った男の店員が、ジロジロとこちらに視線をやっているのに気づかないふたりではない。この国では、彼女のような、美人で色の白い女に需要があるらしい。代金とチップを渡して店を出、ついでモーテルに入りカウンターに向かうと、さっきの男の店員が出てきた。
 男は嫌いだ、と、まりなは思う。粘着質で寂しがりやで、夢見がちだ。まりなには幼なじみの男の子がいたが彼もたいがいそんな感じだったと思う。もうしばらく顔も見ていないから、具体的には思い出せそうにないけれど。
 室外機のモーター音が殊更に気に触るような夜半、駐車場、つまりふたりがとった部屋の壁を挟んだ向こうで、何者かが金属の部品をこじ開ける音がした。はっと顔を見合わせ、ベッドから外に出たふたりが駆けつければ、もう誰もいなかったが、オープンカーの給油口が開け放たれていた。ほぼ満タンにしておいたはずのガソリンがない、トランクを覗けば備蓄分もまとめて持ち去られている。まりなが憤慨する横で、小銀はフロントガラスに貼り付けられていたレシートのような白い紙を睨みつけていた。どうしたの? 聞くまでもなく、振り返って彼女が微笑した。
「すこし外す」
 物分かりの良いふりをして頷く、それ以外に、まりなに何ができただろう? ガソリンがなければ帰れない、帰れないということは、ここで死ぬということだ。死ぬわけにはいかないので、頷く、それだけだった。
「いいのか行かせてよ、ぜったい無事じゃすまないぜ」
 建物の角に消える彼女の、ほっそりとした頼りない背中を見送って、まりなの隣にいた男の幽霊が言う。首を振って否定の意を示せば、彼は口角を吊り上げてまりなを嘲笑した。
「ずいぶん利口なんだな。情けねえこった」
「いいの……あなたになんて一生わからないことだわ」
「そりゃ、そうだなあ」
 幽霊にわかるわけがない、一生なんて、彼にははじめから存在しないのだ。
 薄い壁越しにかすかに聞き取れる物音が途切れたと思ったら、彼女が戻ってきた。酒に酔った感じでふらつきながら、ドアを開けて迎えたまりなの胸元に、紐を解いた花束のように落ちてくる。体温が高く、呼吸も脈も早い、それなのに身体は異常なほど震えている。皮膚からあの好ましい香りが失われ、代わりに強いマリファナの匂いがする。まりなも同じようにぶるぶる震えながらその身体を抱いた。冷たくて嫌な汗が全身に滲んだ。
「ガソリンは……戻ってるはずだ」
「うん、うん」
「まりな……」
 キスをねだられてそのとおりにした。脱がせるまでもなく彼女は裸だったから、その薄っぺらな肉体を薄っぺらなベッドに引き倒して、まずは緩んだ膣口から大量に注がれた大量の精液をかき出した。ぬめぬめとした白い粘液の中であの男の精子が無数に泳いでいるのかと思うと、鳩尾のあたりに堪えきれない吐き気が訪れた。涙も流れた。彼女が乾ききって泣くことすらできないのが悔しかった。ああ、あんなにも欲しかった彼女がいま、手の中にあるというのに、こんなにも苦痛と不安ばかりなのはなぜ? ふたりの間に束ねられたものが不幸せの花ばかりなのはなぜ? 
 あざだらけの乳房、乳頭を吸い、生理的に濡れる陰唇を弄る。陰核を指先で強く擦ると小銀は短く息を呑んで達したが、声を上げることもなければ、快感を貪るでもなかった。彼女の肩にすがりながら、まりなは大声で泣いた。
 モーテルを出るさいの見送りは、男ではなく、あの色の黒いウェイトレスだった。彼女が金を払っているあいだに車を確認しに行くと、給油口にもトランクにもガソリンが戻っていた。それを確認し、冷えた心のまま助手席に戻る。ふいに隣から声がしたかと思ったら、幽霊がにやにや笑いで運転席に納まっていた。小麦色の腕を座席のふちにかけ、もう片腕で頬杖をつきながら、脚を組んで座っている。
「まだ、戻る気にならねえか」
 存外に冷たく言われて、まりなは俯いた。
「あなたに何がわかるの……」
「さあな、だが、俺は行く。うまくやれよ。まりな」
 苦々しい思いで、どの口が、と吐き捨てる。車の収納を開けて探り、取り出した新品の煙草に火をつけて思い切り吸う。すぐに咳き込んだが、煙を吐き出すと心は少し落ち着いた。
「あなただって……だめなの、どうして、連絡も寄越さないで! どうしろって言うのよ!」
「だから、うまくやれ、って言ってるんだ」
「……」
 チェックアウトを終えた小銀が戻ってくる。美しい赤毛が強い陽光に輝く。そして、彼女に視線をやった一瞬の隙に、幽霊は消えた。視線を再び隣の席に向けた時には、既に姿は見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 長野県木曽郡の南部に位置する山間の村、舟樫村が、吉野まりなの故郷だ。東を木曽山脈、西を阿寺山地に挟まれ、JR舟樫駅と県道十九号線以外に外界への扉を持たないこの閉鎖的空間に彼女は生まれた。人口およそ五百人ほど、そのうちのほとんどが高齢者、彼女と同い年の子どもは近所に住む金子親弘ただひとり、それも小学校に進学するまでお互いがお互いの存在を知らなかった。小学校と中学校は村の中にあったが、高校は電車で三十分ほどかかる上松町まで出向かなければなかった。そこで榊小銀に出会った、彼女もまた舟樫村の生まれで、しかし中学までは東京から呼び寄せた家庭教師に勉強を見てもらっていたらしい。親弘は彼女にすっかり惚れ込み、まりなが知らないうちに二人でとっとと籍を入れてしまった。
 舟樫村の人々は、大地主の娘である小銀を眼下のたんこぶと嫌い、その一方で親弘とまりなが結婚して村に住み着き子どもを増やすことを期待していたので、二人の結婚は歓迎されなかった。そういうわけで、二人は卒業と同時に東京に出ることを決めたらしかったが、まだ二年も余裕があるということで村で好き好きに遊んでいる姿が見られた。上松町の、県道沿いにあるラブホテルに出入りすることもしばしばだったが、教師もホテルの支配人も榊家に土地を握られているためとても口出しできないのだった。子どもができ、五か月めに流れた。しばらく沈んでいた二人も、時が経てば殊更に熱っぽく、激烈に愛し合うようになった。まりなはそれを微妙な気分で眺めていた。それでよかったのだが。この状況はなんだろう?
 目を覚ましたまりなは、自分が全裸で床に転がされているのだということにすぐ気がついた。慌てて手で身体を覆おうとするも、何かで手首を後ろにくくられているらしく身動きが取れない。脚は自由に動く。そこでようやく、周りの状況を確認する余裕が彼女に訪れた。
 けばけばしくカラフルな色取りの天井、四方全面ガラス張りの壁、安っぽい赤の絨毯を貼った床。まりなが今転がっているのはここだ。電源の落ちたテレビ、首振り式の扇風機、目と鼻の先に大きなベッド。その上で、裸になって絡み合う親弘と小銀。乳房を震わせ、身をくねらせて抵抗のそぶりを見せる小銀の濡れた陰唇、そこへ盛んに出入りする勃起した陰茎を目撃して、まりなは腹の底から大声を出して叫んだ。
「お、目えさめたか」
 網の中に囚われた哀れな魚のようにもがく幼馴染を見下ろし、愉快そうに口角を吊り上げて親弘が笑う。「わりいな、ちっと待ってろよ」言いながら、ただでさえ細く壊れそうな小銀の身体を布団の上へ強く押しつけて腰を振った。上から圧力をかけて押し潰されて、彼女は、まりなの愛する彼女は、喉にかかったあえやかな声で嗚咽する。圧倒的な上位種族が、かよわく小さな生き物を鋭い牙を持ってして捕食するようなセックス。肉を断たれ、骨を砕かれて、女は自分がなすすべなく劣等種だということを思い知らされる。いつも涼しいまなじりで、どんな理不尽にも、どんな不条理にも立ち向かってゆく勇敢な彼女。透き通るような美しい皮膚にかすかな血色をのぼらせながら、親しげにまりなに微笑んでくれる彼女。その彼女が、恥も外聞もなく泣き叫び、男に助けを求めている。腰をくねらせて男に媚びへつらい、濡れた肉を持ってして男を歓待している。汗みずくになりながら、涙と生理的な洟水に凛とした顔を濡らしながら、屈服させられる悦びに耽溺している。
 すべらかな背中をそらして彼女が絶叫する。親弘が満足げに息をつく。それでも屈強なままの彼の陰茎が引き抜かれて、弛んだ膣口はねばついた精液を大量に吐き出した。尿道からは断続的に透明な体液を漏らしている。あまりにも無様な女の痴態に、激しい興奮と拒絶感を持て余してまりなはその場に嘔吐した。親弘が半笑いでベッドから降りてくる。全裸の小銀やまりなとは対照的に、彼はまだ制服のスラックスを履いたままだ。
「なに笑ってるのよ、あ……なたのせいでしょ、こんなところに連れてきてどうするつもり」
「おーこわ。そう怒るなよ、悪いけど今回のユダは俺じゃないぜ、なあ?」
 肩をすくめて親弘が視線を投げかけたのは、ベッドの上で脱力したままの哀れな小銀だった。彼女はぐったりとして焦点の定まらない瞳でまりなを見た。可憐に微笑む。
「まりなが……わたしのせいで、ずっと前に進めないでいるって、親弘がいうから、だから……」
「そういうわけだから、今日は俺たちがおまえを抱いてやる」
「は……いや、やめて、離して!」
 親弘に抱え上げられてまりなは喚いたが、この部屋自体に防音処理がされているということは容易く想像できたし(いくら田舎の建築とはいえラブホテルなのだ)、後ろ手に縛られた状態で逃げようとしたところでたかが知れている。そのまま小銀が横たわるベッドの上に転がされた。
「まりな」
 ほっそりとした冷たい指が、さらに何か言い募ろうとするまりなの唇をそっとおさまえた。視界いっぱいに広がる、早朝の新雪でこしらえたような、白く静謐な小銀の美貌。鼻先が触れ合うほどの距離で見る彼女の瞳の中では、まりなが小さくなって怯えていた。
「まりな、大丈夫だ。怖がらないで」
 ふっくらと柔らかな唇が、まりなの唇に重たく触れた。冷たい舌の感触を下唇に感じてまりなは小さく悲鳴をあげた。神経質な粘膜をやさしく愛撫される、頭が甘く痺れる。小銀、まりなが愛するたった一人の女の子、手に入れたいと願いながらも、先に男に掠め取られてしまった愛おしい彼女。その彼女が、こんなふうにまりなを愛してくれるなんて。
 夢にまで見た彼女とのキス。舌は歯の内側に入ってきて、歯茎を舐めまわし、口蓋をくすぐり、喉の奥で怯えるまりなの舌に絡んだ。彼女の唾液は蜜のように甘い。しぜん、まりなも夢中になってゆく。彼女のふわふわの髪をかき抱き、積極的に舌を絡め返した。
「はいストップ! 俺のこと忘れてんなよな」
 親弘の乱暴な手がまりなの夢を邪魔する。彼は、軽く息の上がった小銀に軽くキスをして抱き締めると、振り返ってまりなの唇を奪った。小銀のものとは違う、かさついた熱い唇が、まりなの唇を吸う。雑で荒々しい口づけ。すぐに舌が侵入してきて口腔内を掻き回し、音を立てて唾液を泡立てるのが、塞がれた耳がらの中で克明に響く。頭の芯まで親弘に犯されている。まりなはぎゅっと目を瞑って恥じいる。
「はは、かわいー顔」
 ようやく唇を離した親弘が、舌なめずりをしながら、ひどく意地悪な顔でまりなを見下ろした。「そうしてると最高にそそるぜ、委員長さん」
「親弘、あまりまりなをいじめるな」
 優しい小銀は、まりなの手首を拘束していた麻紐を解いてくれた。きつく痕のついたそこにキスをされ、くすぐったさに思わずあえやかな声が漏れた。

 

 

ムーンライト・イン・シドニー

 

 

 


   ムーンライト・イン・シドニー

 

 UCIワールドツアー二〇二四、その開幕を飾るサントス・ツアー・ダウンアンダーの第六ステージ。総合優勝を賭けたゴールスプリントがいま終わろうとしていた。
 ロフティ山、麗から斜面を覆っていたワトルがふと開け、白昼の光の中に霞む青いゴールゲートが見える。その一点をめがけて、つい先ほどチームのアシストを切り離したばかりのジュンタ・テシマと、全大会覇者、今度も山岳賞キングオブマウンテンを総なめにしたリッチー・ポルトが並んで疾走する。何度も草薮を擦ったフレームは塗装がはげ、銀のアルミ面を顕にする、路面を駆動する音すら置き去りにしてホイールが唸る、クラッチが回る、ビンディングペダルケイデンスを上げる、群がる群衆すら跳ね除け、二台のロードバイクが十三・三パーセントの激坂を駆け上る。
 ゴールまで残り百メートル、ハンドルを引きながら、テシマはもう喉奥に血の味を感じていた。本当はこんなはずではなかった。チームに引き入れられたばかりのジャパニーズ・クライマーは、知略とはかりごとで臨機応変にメンバーを動かし、最終的にはゴールまでコスタリカ人のエースを引く予定だった。しかし直前でエースが集団落車に巻き込まれ、結果、経験にも実力にも欠けるアジアの新人に、ゴールを狙えとのオーダーが出た。奥歯が割れるほど食いしばった歯の間から、下品な舌打ちが漏れる。シッティングではどうにもたちゆかなくなり、サドルから腰を上げ、ダンシングに切り替えた隙にリッチーが先行した。
「YouMustGet! If you can!(あんたが獲るんだ!)」
 八十メートル後方で、ここまでテシマを引いてきたアシストの、中南米訛りの叫び声が弾けたのが、雪崩のように押し寄せてくる雑踏の中ではっきりと聞いてとれた。素体が違う。体質が違う。そんなの理由に出来ない。ここまできて、もう言い訳などできない。左右に揺れるリッチーの背中の向こう、ゴールしか見えない。肩甲骨を押し上げ、ことさらに前傾してペダルを踏む。エンジンでも乗せているかのような速さで回る後輪に、自身の前輪を張り付かせる。脚に血管が浮く。ハンドルにしがみつく腕が痙攣する。ブラックグリーンのキャノンデールがBMCの赤い車体に並ぶ。
「Must! Must! Must!」
「Go! Boy!」
「TESHIMA!」
 狭い沿道で横断幕やプラカードを掲げ、群集が好き勝手に騒ぐ。その、じっとりと張り付くような熱気さえ切り裂いて、いま、両者最後のスプリントに入る。ギアを上げる。時速五十キロを抜ける。酸欠のためにテシマの視界は白みはじめる。残り二十メートル。
「純太」
 ふいにテシマは、網膜を焼くほど強い光の中で、その女の姿を見た。
「来い!」
 ゴールゲートの柱のそばに直立して、女は楚々として、夏の光のヴェールをかぶって立っていた。女の薄いくちびるが微笑み、テシマは強く頷いた。
 残り五メートル。ついに何も見えなくなる。勘だけで最後のペダリングを終え、テシマは震える腕を突っ張り、前方へと大きくハンドルを投げた。

 六日間に渡る激戦が終わった。日本の新人クライマー:ジュンタ・テシマは、コンマ十一秒というほんのわずかな時差で王者リッチー・ポルトを抑え、見事黄土オークルを覇した。日本人選手の称号獲得、のみならず総合優勝するというのは、大会開催史上初めての快挙だった。その日の夕方には、エキサイトするチームメイトの面々にもみくちゃにされるテシマの姿が、オーストラリア中に知れ渡った。
 その、話題のダウンアンダー王者が、たった一人の女に手を焼かされているので、古賀公貴はさっきから気が抜けて仕方ないのだった。
「慣習なんだから仕方ないだろ」
「純太、喜んでた」
「喜んでない!」ツンと鼻先をそっぽに逸らしたはじめの、頼りなさそうな、薄っぺらい肩に、純太の腕が情けなくすがる。
「あれはポディウムガールって言ってさ、フンイキの、演出をするための……」
「関係ない。純太の浮気者
 公貴は指だけで青いジタンの箱を開け、一本を咥えたままライターで先に火をつけた。黄や紫色の街明かりの滲む紺碧の夜空に、白い煙が音もなく立ち上る。純太が用意したレストランは、オーシャンビューで、テラスにもカウンターがあって、カリビアンなファニュチャーの広いラウンジから、夕焼けにオペラハウスがシルエットになる、インスタグラマーの聖地みたいな場所だった。ノリの良い九十年代のポップスに混じって、若者たちのくすくす笑いがそこかしこに溢れていた。公貴がこうした場をセッティングしようとすると、どうも風情のないジャパニーズレストランの類になってしまうのだが、それはそうとして、純太にやらせるとこうも振り切れてしまうのを忘れていた。
 ビールを頼んだはずなのに、運ばれてきたレッドアイを眺め、公貴は何度目ともわからないため息を吐く。持ち手がハートを模したジョッキに、レインボーの綿菓子が大きく乗っている。ようやく気が済んだらしいはじめは、大きなゴブレットにレモンピールのスクリューと星が浮かぶ、グリーンのカクテルなんかを頼んでいた。
「じゃ、俺おめでとってことで。かんぱーい」
 心なしか力無い純太の声が言って、三つのグラスが軽快にぶつかる。
 しぶしぶジョッキに口をつけながら、公貴は目の前でへらへら笑う男の座姿を観察した。愛嬌のある、明らかなヤング・ジャパニーズのフェイスが乗ってはいるが、首から下は剛健なアスリートの肉体だった。目も耳も鼻も手足も内臓も、どこもかも健全で頑丈そうな、均整のとれた体格に、いかつい岩のような筋肉が乗っている。キュートなグラスを持つ手は肘の上まで血管が浮き出て、肩回り、二の腕の張った輪郭が細身のシャツを押し上げていた。
 高校生の時、二人は一介の自転車部で選手をやっていた。そのとき、純太は女と見分けがつかないような、ガリガリに痩せた貧弱な体格の少年で、実際力もなかった。いま異国の地で覇者となったこの男を見ていると、まるで夢の中にでもいるかのような気分になる。
「やー、公貴もありがとな。てか来てるの知らなかったよ。いつから?」
「一月の初めからだ。はじめのスプリント見たら帰ろうと思ってた」スライスしたポンドステーキをかじりながら、公貴、「そしたらはじめが、メンズも見てけ、って言うんでな」
「どうだった? はじめ、かっこよかっただろ」
「惜しかったな。三日目はいいセン行ってたと思うんだが。最後、クリート外れてただろ」
 早速サラダをかた付けたはじめが、ポークリブに齧り付きながら、明らかに眉を顰めた。女子第三ステージ、二つ目のスプリントポイントを目前にして先行していたはじめが、ピンティングペダルの故障で失速しスプリント賞を逃したことは事実だった。「メカトラさえなければ、スプリント賞もあ りえたかもしれないな」
「それだっても総合十一位だろ、十分すごいよ」
 ブルーキュラソーでうっすらと濡れた純太の唇が、拗ねるはじめの頬に押し当てられる。
 カチャカチャと鳴るカトラリーの音。子供のころに聞いた懐かしいポップス。キュートで賑やかなレストラン。愉快な男友達に美しい女友達。上質のオージービーフに香ばしい醤油ソース。昼間、ゴール付近で流れた時間と比べたらおそろしくゆったりとした、濃度の薄い時間が過ぎゆく。不思議な気分のままジョッキを煽れば、時差ボケも薄れてきた交感神経にじわりとアルコールが滲む。
 酔ったそぶりで白い花の刺繍が入ったクッションにもたれ、ショッキングピンクのモヒートで静かに喉を潤しながら、純太ははじめの肩をゆったりと抱いていた。ヘーゼル色の瞳を強いアルコールに蕩けさせた彼女が、差し出されたグラスの縁を唇に含む。ふっくりとふくらんだ小さな口元から、こぼれそうになるマティーニをやさしく拭うのは純太の親指だ。
「夢が一つかなっちまった。これからどうしようかなあ」
 夢見心地につぶやいて、純太がはじめの小さな頭を熱い胸板の上にのせる。彼女はほとんど船を漕いでいた。
「子どもでもつくればいいんじゃないか」
「嘘だろ、シーズンはまだ始まったばかりなんだぞ」
「お前たちふたりはともども強化指定を受けた、いわばロードレースのエリートだ。その間に生まれる子どもをJFCは喉から手が出るほど欲しがっている」
「ロードをやらせるために子どもを作るんじゃないぜ。俺もはじめも、まだ現役だし」
「そうでなくとも、俺たちももう二十八になる。そろそろ本腰を入れてもいい時期なんじゃないか。はじめも、たぶんそれを望んでる」
 吹いた先から広がる薄紫色の煙の向こうに、純太の、寂しいグリーンアイがきらめく。彼は鼻から下をはじめの髪にうずめ、物言わぬまま粛として俯いた。

 チーム・キャノンデール・ガーミンのマネージャーが、アメリカへのフライトまでに若干の猶予を残す手嶋夫妻のために用意した部屋は、グランドハイアットの客室の中でも最も上等なプレミアムスイートだった。大理石の暖炉やバーカウンターに、八人がけの鷹揚なダイニングテーブルを配置したリビング、最新式のキッチン、パノラマビューを一望できる屋外テラス、サウナとジャグジーのついたバスルーム、それからキングサイズのシモンズベッドを備えた二つのベッドルームと、極東のアジア人がふたり、数晩過ごすにはあまりにも贅沢すぎるハーバーサイド・レジデンスだった。パンプスを脱ぐや否や、飛び出したはじめがガラス張りの窓に張り付いて表情を明るくする。明朗なライム色にライトアップされたオペラハウスに、行き交う緑やゴールドのフェリー、満月の光を孕み幻想的な輝きを見せるシドニー湾、海岸線に沿って並び揺れる椰子の黒い影。純太は彼女の白くやわらかい腕を優しく掴んで引き寄せた。
「先に風呂に入っといで」掬い上げた頬を啄むと、はじめは少し照れたようにうつむきながら、素直に首肯して踵を返した。開けたスーツケースから変えの下着と、純太が買い付けてきた、こまごまとした化粧品の類を取り出してバスルームに向かう。
 純太も堅苦しい革のローファーを脱いで初めて人心地のついた気分になり、ソファセットにジャケットを放り出すなり冷蔵庫を開けて物色した。アデレード産赤ワインのボトル、ミネラルウォーターが二つ、いくつかのソフトドリンクの瓶、チーズにナッツ、チョコレート、クラッカー、ストロベリーやパイナップルなどのドライフルーツ、みな部屋付けのものだ。その中からシュレップスの黄色い瓶を選び、栓を開けて飲んだ。その格好のまま左の寝室に入る。海に向かって開けたバルコニー、リネンで清潔に整備された白いベッド、その左右に大理石の天板を取り付けたベッドサイドテーブル、ユーカリやグレビリアの花を用いたワイルドフラワーの花束にフルーツ盛り、"Congratulations for theVictory!"と金字で書かれたウェルカムボード。穏やかなオレンジ色の間接照明が、広い部屋全体をリラクシングな空間に仕立て上げている。ウォールナットのサイドラックを開けると、一段目にはインフォメーションブック、仏教やキリスト教の聖書、二段目には丸めたタオルやアメニティの類がまとめて収納されていた。スキンの類まであるが、これは……おそらくマネージャーが気を利かせたやつだ。テーブルに一つ出しておいた。
 シュレップスの瓶を屑籠に捨てたところで、入浴を終えたはじめがバスローブを纏って寝室に入ってきた。もう出会って十何年にもなるが、純太はいつでも彼女への想いを新鮮なまま抱えている。
 はじめは長い小麦色の髪を濡らしたままだった。前髪のひと房から溢れた水が、美しく流麗な眉から瞼、睫毛、下瞼からふっくらと健康的に上気した頬へと、それからいたずらにも、痩せて尖った顎から布の合わせ目に隠されたささやかな乳房の方に伝っていった。ほんのり花の色を帯びた鎖骨が濡れて光っていた。胸のあたりに滞留する青白い影からは、学生のときインドネシアでかいだ、南国の花の湿った香りがした。化粧っけのない、どこか幼さの残るミルク色の素肌が、この世のものとも思えないほど美しい。純太を見つけたはじめが悠然と微笑した。抗えないまま腕を伸ばし、タオル生地ごしの、薄い背中のおうとつ、細腰の輪郭、みずみずしい肉の感触、その温かさを確かめた。よく焼けた、太く剛健な覇者の腕の中にあって、はじめの身体は幻想の国のガラスの花のように繊細だった。
 ベッドに座したまま、春の若鹿を思わせるしなやかなスプリンターの脚に唇を滑らせる。優しく慰撫するような独特の静けさを纏った脚。陽に焼けることを知らない内腿の、柔らかい部分に歯を立てると、はじめが微かにうめいた。
「脱いで、はじめ」
 熱に浮かされたようすで頷く。遠慮がちな指がゆったりと開いて、バスローブの紐を摘んで解いた。象牙の滑らかな膚が詳らかになってゆく。ほのかに外界へと持ち上がった、あずきの豆のような桃色の乳頭と小さな乳房、肋の浮いた脇腹、うっすらと筋肉のついた腹に淑やかに結ばれた臍下。純太がよこしたマッサージャーが、香油と乳液とで手入れをしてきただけあって、ほっそりとした肉体には傷もあざも見当たらない。それでも、日々ペダルを踏む小さな足に限っては、繕っても繕いきれない傷がそこかしこに散見された。純太はそこにもキスをした。
 吐息が湿りを帯びはじめる。純太は彼女の腰を支え、肩を抱いたままつとめてやさしく、その身体をシーツの上へ横たえた。完全に生まれたままの姿になった彼女は瞼を伏せ、表情だけで電気を落とすように懇願した。純太にその気はない。ごつごつとふしくれだった四本の指で、下腹から無毛の恥部までをなぞる。それだけで感極まったらしいはじめが仔犬のように鳴いた。
「純太」
 請われて、純太ははじめにキスをする。唇同士が触れるキスは、実に、一週間と二日ぶり。ダウンアンダーが開催している間、純太はチームがアデレードにとったシティホテルで寝泊まりしていたし、はじめもはじめでトレーニングに奔走していた。毎日顔を合わせていても、キスをする余裕などとてもなかった。戦いを終えて、二人の捕縛されていた心がようやく、シーツの上に解放された——純太の歯が、ドライ・ジンの香りが残るはじめの下唇をやわらかく甘噛みする。はじめの両手が純太の頬を包み込む。うにみたいに可愛らしい小さな舌が、開いた唇の隙間を割って入ってくる。こちらが何もしていないというのに、はじめの腰は勝手に揺れはじめる。もぞもぞと物欲しそうに脚どうしを擦り寄せている。見れば、恥部にうずくまった慎ましやかな女性器が、すっかり充血したっぷりと潤みを帯びていた。
 可憐な唇を捕まえたまま、純太はおもむろに右手を伸ばした。窮屈そうに勃起した乳頭まわりにだ。唇や舌でのまぐわいは止めないまま、皮の厚い親指で乳輪の色づいた部分をくすぐる。
「あっ、純太!」
「はじめ……」
 一年前、あのツール・ド・フランスでワールドチームのエーススプリンターをぶっちぎり、一夜にしてスターになったジャパンアイドルスプリンター、ことハジメ・テシマが、快楽のあまりついに悲鳴を上げた。純太は今すぐにでも彼女をめちゃくちゃにしたい衝動を抑え込みながら、また右手で乳輪を撫で続けながら、左手だけで器用にシャツを脱いだ。裸になった分厚い胸筋ではじめに真上から伸し掛かった。純太の右手がついに敏感な乳頭へと到達し、はじめは嗚咽することをやめられない。
 五感で確かめる、はじめの身体がどこもかしこも美しいということ。純太は指や唇や、ときには歯を立てて、小ぶりな乳房や蕾のような乳頭の味を官能に染み渡らせた。はじめは激しく首を振り、密着した純太の肩を細い腕で突き放した。見れば、やるかたない情動と懇願をたたえたヘーゼルの瞳が、自らを征服せんとする男を情けなく見上げていた。彼女は、純太の樫の木の幹のような焼けた首に腕を伸ばし、しなやかな両脚で持ってして純太の腰を拘束した、ついに、屈服の意に則した囁き声が、純太の耳がらに静かに立ち上ってきた。
 左手の人差し指で、熟れに熟れた陰核を可愛がる。
 とめどなく分泌する膣液で湿った皮を押し上げる。手入れの行き届いた爪で、ぷくん、と勃起した小さな肉の裏筋を掻いてやる。たちまちのうちに、彼女の声色が切迫したものに変わった。純太の指の動きただひとつに可哀想なほど翻弄されて、はじめの高潔さ、矜持が、あられもなく乱れてゆく。
 指だけでぬめる膣口を探りながら、純太は、はじめの膣が夫を求めて淫らな痙攣を始めていることを知っている。自身の陰茎もすっかり張り詰めてかなわない。それでも、まだ、純太は妻の子宮の成熟を待つ。彼女の脚を掴んで開き、ぐずぐずに濡れた恥部をぼんやりとした明かりの中に晒す。小陰唇の端から粘液が溢れて肛門に流れる。純太は、また新しく流れようとする雫を、そうなる前に舌で舐めてとった。
「純太!」
 抗議の声は、陰核を喰まれたことで中途半端なものになった。
 優美な指が、純太のうねる黒髪の中に入ってくる。淫らに腰をくねらせ、太腿を痙攣させながら、はじめは陰核での快楽に感じ入っている。「純太、純太、ああ……純太」……夫の名を呼ぶたびに彼女の陰核はことさらに膨れ上がり、膣は呑み込んだ指をきつく締め付け、とろとろとだらしなく粘液を分泌する。純太はあまりの興奮に舌なめずりをやめられない。狙いを定めた陰核に、犬歯で思い切り噛みついた。上がる悲鳴。抵抗の意志を完膚なきまでに挫かれたはじめは、純太の頭を股の間に抱えたまま、尿道から激しく潮を吹いて果てた。純太は、脱力してくたりとなった妻の婉容を抱きしめた。

 先だっての激しいゴールスプリントの余韻に加え、愛する女の艶やかな姿を目前にしたことで、精巣からテストステロンが大量に分泌されて純太の全身を満たし、彼の官能は燃え盛る炎よりも激しく、また南氷洋の氷柱よりも冷酷にはじめを求めた。ぐったりと力を失った彼女の身体をオーシャンビューのガラスに押し付け、獣のような格好で覆い被さる。バスローブの紐で手首を縛られたはじめの両手が、頼りなさげに尻の上で震えている。
 シドニーは深夜だが、目下、海岸線沿いに設置された遊歩道では人の往来もちらほらと見られる。はじめは見られることを恐れたが、そんなことには構うこともなく、ラテックスに覆われた純太の陰茎が彼女の湿った内側に侵入した。温かくぬかるんだ媚肉が陰茎の形にぴっちりと吸い付いてくる。もうほとんど、限界という限界を突破していた純太は、そのいやらしく揉み込むような動きに、抗う姿勢を見せることもできずに射精した。
 中途半端な状態で抜き取られくずぐずと膣口を夜泣きさせるはじめを連れて抱き上げて寝室を出、アイランドキッチンの調理台に乗せた。清潔に磨かれていた白い大理石が、脚にまとわりついていた汗と、膣から絶え間なく分泌される粘液ですぐに汚れた。冷たい石の表面に陰核を擦り付けるはじめを制止し、ちょうど純太の腰の位置にやってきた膣穴に陰茎を押し込む。調理台の縁を掴んだはじめの細い指が白む。
「大丈夫?」
 口では案じるていを取りながらも、純太の猛攻は緩むことなどない。一度の射精では全くもって萎えることのない陰茎、その熱りたった亀頭が、ただれた膣壁のおうとつに引っかかりながら奥まで侵入する。腰を掴み、軽く浮かせては落として、深く挿入したまま揺さぶる。はじめの背が弓なりにしなる。彼女は首を振って涙を散らしながら、おぼつかない声で愛おしい夫の名を呼んでいる。純太は、彼女のあまりに淫らであることに気が遠くなるような心地になりながら、それでも抜き差しを止めようとしない。
「俺が勝てたのは、お前のおかげなんだよ」
 噴き上がる欲情のためか、それとも絶えず心を温める愛情のためか、ふと、純太はそんなことを口走っていた。
「これからも、俺を、支えてくれるか……はじめ……」
 返事を得ることのないまま、純太はカーペットの床に寝そべらせたはじめの上にのしかかり、二度目の射精に向かって動いた。左手で乳頭をつまみながら早急に挿入すれば、ワールドマッチを走るスプリンターの脚が、骨盤を割りかねないほど強く腰にしがみついてきた。純太の下ではじめの腰が若鮎のように何度も跳ねる。透き通るような髪がしなやかに揺れる。時刻は午前五時、シドニー湾の向こうで朝陽の気配が濃密になってくる。薄明の空にレモンの香気を思わせる明色が滲み、こちらに差してきたやわらかな光芒が、はじめの、ゴールドコーストの砂浜の色をした身体を神性なものにした。喉の奥から、掠れたささやき声で、「純太……好き」……はじめが純太を呼んだ。
「うん、俺も……」
「お願い……お願い、純太、赤ちゃんほしい」
 降りてきた子宮の入り口に亀頭が密着する。
 純太はにわかに青ざめた。避妊具を装着するのを忘れていたのだ。そして、その数秒の間に逡巡を重ねた、まもなく純太は彼女の腰をつかんで押し入り、勢いのまま再び射精するだろう。そうすれば彼女はほとんど間違いなくそれを結実させ(なぜか知らないが純太には確信があった)二人の遺伝子を受け継いだ子どもが生まれ、その子どももまたロードに魅了されて、無限に広がる可能性の海へ飛び込んでゆくだろう。だめだ、純太は思う。
 純太の脳裏に色けざやかな曼荼羅が展開する。絞られてゆく視界の中に涅槃を幻視する。続けて、愛にともなう虚無感のようなものがふいに全身を襲った。気づけば、ぐったりと横たわるはじめの薄い腹に、純太は大量の精液を排出していた。

 クライムよりもぜんぜん集中した気がする……
 ケント・ストリートに沿うかたちで配置されたガーデンテーブルのテラス席に座って、寝不足の純太はフィッシュ&チップスを齧っていた。昨年ツアー・オブ・ブリテンのために遠征したイギリスでは散々辛酸を舐めた彼だったが、この店のはなかなか悪くない。中身はサンド・ホワイティング、キスの一種だろうが、臭みもなく淡泊な味は純太好みだ。インスタグラムを開くと、昨晩アップした表彰式の写真についたたくさんのリプライが立て続けに通知された。その一つ一つにリプライを返す。
「それで、はじめを置いてきたわけか」
 眼鏡のブリッジを押し上げながら、公貴は不機嫌そうだ。
「仕方ないだろお、大盛り上がりだったんだから」
「みなまで言うな。はあ、お前はともかく、はじめには帰国前にもう一度会っておきたかったんだが」
「ホテル寄ってく?」
 心底嫌そうな顔で首を振る公貴を、チャイニーズの恋人がおろおろしながら見守っている。初めて会ったが、性根の良さそうな青年だった、公貴よりもずっと。
「これで公貴ともしばらくお別れか。帰ったらどうすんの」
「休暇をとったぶんしっかり働くさ、お前と違って忙しいんでな」
「俺らも今日の夜の便でコネチカットに帰るよ……次に向けてトレーニングしなきゃなんないし」
「次?」
「今回だいぶ脚使ったからな、行かされるんなら五月のジロかなあ」
 顔を上げた公貴が苦々しく笑った。
「そうか」
 二人が去ったあともダラダラと席に居座っていた純太だが、食べ物も飲み物も注文しないままでいたので、恰幅の良いメスティーソの女主人にすげなく追い出されてしまった。下町の人々は、たとえ相手がダウンアンダー王者だとしても遠慮はしない。いくらかチップを置いて立ち上がり、古めかしいベンチに括ってあったキャノンデールの鍵を外す。昨晩のうちにフラットタイプに戻しておいたペダル、傷もほつれもない新品のホイール。洗車されピカピカになったフレームを眺めていると気分が上がる。
 サドルに跨って走り出そうとすると、さっきの女主人が奥から出てきて、オーストラリアンらしい、ちょっと古めのデザインがオーソドックスなジャージを差し出してきた。体格に似合わず遠慮した様子だ。
「Big fan of you I am, may I have your autograph」
 純太は彼女の要望を歓迎し、ジャージと一緒に受け取ったサインペンを歯で開ける。イエローとグリーンのストライプの下に大ぶりなサインを書き込んだ。喜びのために頬を上げて笑う姿がちょっとはじめに似ている。そう思ったら、スイートルームのベッドに一人残してきたはじめに猛烈に会いたくなった。
「Keep it up!」
 ウインク一つ飛ばして、純太は今度こそ朝の光の中に飛び出した。

 

2023/08/16

 


 UCIワールドツアー、その開幕を飾るサントス・ツアー・ダウンアンダーの第六ステージ。総合優勝を賭けたゴールスプリントがいま終わろうとしていた。
 ロフティ山、麗から斜面を覆っていたワトルがふと開け、白昼の光の中に霞む青いゴールゲートが見える。その一点をめがけて、つい先ほどチームのアシストを切り離したばかりのジュンタ・テシマと、全大会覇者、今度もKOM(山岳賞)を総なめにしたリッチー・ポルトが並んで疾走する。何度も草薮を擦ったフレームは塗装がはげ、銀のアルミ面を顕にする、路面を駆動する音すら置き去りにしてホイールが唸る、クラッチが回る、ビンディングペダルケイデンスを上げる、群がる群衆すら跳ね除け、二台のロードバイクが十三・三パーセントの激坂を駆け上る。
 ゴールまで残り百メートル、ハンドルを引きながら、テシマはもう喉奥に血の味を感じていた。本当はこんなはずではなかった。チームに引き入れられたばかりのジャパニーズ・クライマーは、知略とはかりごとで臨機応変にメンバーを動かし、最終的にはゴールまでコスタリカ人のエースを引く予定だった。しかし直前でエースが集団落車に巻き込まれ、結果、経験にも実力にも欠けるアジアの新人に、ゴールを狙えとのオーダーが出た。奥歯が割れるほど食いしばった歯の間から、下品な舌打ちが漏れる。シッティングではどうにもたちゆかなくなり、サドルから腰を上げ、ダンシングに切り替えた隙にリッチーが先行した。
「YouMustGet! If you can!」
 八十メートル後方で、ここまでテシマを引いてきたアシストの、中南米訛りの叫び声が弾けたのが、雪崩のように押し寄せてくる雑踏の中ではっきりと聞いてとれた。素体が違う。体質が違う。そんなの理由に出来ない。ここまできて、もう言い訳などできない。左右に揺れるリッチーの背中の向こう、ゴールしか見えない。肩甲骨を押し上げ、ことさらに前傾してペダルを踏む。エンジンでも乗せているかのような速さで回る後輪に、自身の前輪を張り付かせる。脚に血管が浮く。ハンドルにしがみつく腕が痙攣する。ブラックグリーンのキャノンデールがBMCの赤い車体に並ぶ。
「Must! Must! Must!」
「Go! Boy!」
「TESHIMA!」
 狭い沿道で横断幕やプラカードを掲げ、群集が好き勝手に騒ぐ。その、じっとりと張り付くような熱気さえ切り裂いて、いま、両者最後のスプリントに入る。ギアを上げる。時速五十キロを抜ける。酸欠のためにテシマの視界は白みはじめる。残り二十メートル。
「純太」
 ふいにテシマは、網膜を焼くほど強い光の中で、その女の姿を見た。
「来い!」
 ゴールゲートの柱に身体を預けた姿勢で、女は楚々として、夏の光のヴェールをかぶって立っていた。女の薄いくちびるが微笑み、テシマは強く頷いた。
 残り五メートル。ついに何も見えなくなる。勘だけで最後のペダリングを終え、テシマは震える腕を突っ張り、前方へと大きくハンドルを投げた。

 

 六日間に渡る激戦が終わった。日本の新人クライマー:ジュンタ・テシマは、コンマ十一秒というほんのわずかな時差で王者リッチー・ポルトを抑え、見事オークル(黄土)を制覇した。日本人選手の称号獲得、のみならず総合優勝するというのは、大会史上初めての快挙だった。その日の夕方には、エキサイトするチームメイトの面々にもみくちゃにされるテシマの姿が、オーストラリア中に知れ渡った。
 その、話題のダウンアンダー王者が、たった一人の女に手を焼かされているので、古賀公貴はさっきから気が抜けて仕方ないのだった。
「慣習なんだから仕方ないだろ」
「純太、喜んでた」
「喜んでない!」ツンと鼻先をそっぽに逸らしたはじめの、頼りなさそうな、薄っぺらい肩に、純太の腕が情けなくすがる。
「あれはポディウムガールって言ってさ、フンイキの、演出をするための……」
「関係ない。純太の浮気者
 公貴は指だけで青いジタンの箱を開け、一本を咥えたままライターで先に火をつけた。黄や紫色の街明かりの滲む紺碧の夜空に、白い煙が音もなく立ち上る。純太が用意したレストランは、オーシャンビューで、テラスにもカウンターがあって、カリビアンなファニュチャーの広いラウンジから、夕焼けにオペラハウスがシルエットになる、インスタグラマーの聖地みたいな場所だった。ノリの良い九十年代のポップスに混じって、若者たちのくすくす笑いがそこかしこに溢れていた。公貴がこうした場をセッティングしようとすると、どうも風情のないジャパニーズレストランの類になってしまうのだが、それはそうとして、純太にやらせるとこうも振り切れてしまうのを忘れていた。
 ビールを頼んだはずなのに、運ばれてきたレッドアイを眺め、公貴は何度目ともわからないため息を吐く。持ち手がハートを模したジョッキに、レインボーの綿菓子が大きく乗っている。ようやく気が済んだらしいはじめは、大きなゴブレットにレモンピールのスクリューと星が浮かぶ、グリーンのカクテルなんかを頼んでいた。
「じゃ、俺おめでとってことで。かんぱーい」
 心なしか力無い純太の声が言って、三つのグラスが軽快にぶつかる。
 しぶしぶジョッキに口をつけながら、公貴は目の前でへらへら笑う男の座姿を観察した。愛嬌のある、明らかな日本人の若者のフェイスが乗ってはいるが、首から下は剛健なアスリートの肉体だった。目も耳も鼻も手足も内臓も、どこもかも健全で頑丈そうな、均整のとれた体格に、いかつい岩のような筋肉が乗っている。キュートなグラスを持つ手は肘の上まで血管が浮き出て、肩回り、二の腕の張った輪郭が細身のアロハを押し上げていた。
 高校生の時、二人は一介の自転車部で選手をやっていた。そのとき、純太は女と見分けがつかないような、ほっそりとした貧弱な体格の少年で、実際力もなかった。いま異国の地で覇者となったこの男を見ていると、まるで夢の中にでもいるかのような気分になる。
「やー、公貴もありがとな。てか来てるの知らなかったよ。いつから?」
「一月の初めからだ。はじめのスプリント見たら帰ろうと思ってた」スライスしたポンドステーキをかじりながら、公貴、「そしたらはじめが、メンズも見てけ、って言うんでな」
「どうだった? はじめ、かっこよかっただろ」
「惜しかったな。三日目はいいセン行ってたと思うんだが。最後、クリート外れてただろ」
 早速サラダをかた付けたはじめが、ポークリブに齧り付きながら、明らかに眉を顰めた。女子第三ステージ、二つ目のスプリントポイントを目前にして先行していたはじめが、ピンティングペダルの故障で失速しスプリント賞を逃したことは事実だった。
「それだっても総合十一位だろ、十分すごいよ」
 ブルーキュラソーでうっすらと濡れた純太の唇が、拗ねるはじめの頬に押し当てられる。
 カチャカチャと鳴るカトラリーの音。子供のころに聞いた懐かしいポップス。キュートで賑やかなレストラン。美しい女友達に愉快な男友達。上質のオージービーフに香ばしい醤油ソース。昼間、ゴール付近で流れた時間と比べたらおそろしくゆったりとした、濃度の薄い時間が過ぎゆく。不思議な気分のままジョッキを煽れば、時差ボケも薄れてきた交感神経にじわりとアルコールが滲む。
 酔ったそぶりでクッションにもたれ、ショッキングピンクのモヒートで静かに喉を潤しながら、純太ははじめの肩をゆったりと抱いていた。色素の薄い瞳を強いアルコールに蕩けさせた彼女が、差し出されたグラスの縁を口に含む。ふっくりとふくらんだ小さな口元から、こぼれそうになるマティーニをやさしく拭うのは純太の親指だ。

 

 

 

   神の子らはみな踊る

 

 あんまり愛しすぎていた。幸福だったが、これ以上があってはならないと、シルバーはじゅうぶんすぎるほどに理解していた。
 夜天光ばかりがしんしんとものどもを薄青くする真夜中、シルバーの細腰にしがみつくような形で、彼の腕が覆いかかっている。彼の鼻先が身を起こすシルバーの裸の腹に押し付けられている。無垢な寝息が臍のあたりを湿らせる。シルバーはそうした様子をたまらない気持ちで眺めた。明日、シルバーは彼のもとから去り、永遠に帰ることはない。彼の消息すらわからない北の地平で、生きているか、あるいは死んでいるか、どちらともつかないが、とにかくもう二度と彼には会えない。今ではこんなにも近くに、熱く、たしかな血のめぐりを感じているというのに、明日になれば一様におとぎばなしの世界のものになる。ハインリヒは、王子が蛙に変身させられたさい、悲しみのあまり弾けてしまわないよう心臓に鉄の輪をはめたのだという。シルバーは、どうしてくれよう、この張り裂けんばかりの悲しみを、どうやり過ごせば良いものか?
 瞼を伏せ、静かに眠る彼の顔のつくりを人差し指でたしかめた。どこかラテン的な情緒のある彫りの深い骨格、高い鼻梁、唇はゆるく引き結ばれ、黒いまつ毛が頬に長く影を落としている。瞼の皮膚に触れてみると、彼は居心地悪そうに身じろいだ。そうして、ますますシルバーにしがみつくのだった。ああ、ゴールド。いとおしい人……離愁がシルバーの心に取り憑き、今しがた固めたばかりの決意を粉々に打ち砕いた。シルバーは頭を抱えてうずくまった。やはりだめだ。俺にはできない。翌朝九時きっかり、シルバーはシャフハウゼン行きの列車に乗ることになっているが、このまま彼の胸に顔を埋めて永遠に眠っていられたら……こんな思いをせずに済むというのに……今ならまだ戻ることができる、彼との美しい日々に、目が覚めたらもう十時過ぎ、彼はシルバーの髪を愛しみながら、お寝坊さんだな、そう言ってキスをしてくれるのだ。そうしたらシルバーは、その瞬間に死んでしまったとしてもよいのだ。
 ふいに、彼が仰向けに寝返りを打った。むにゃむにゃとなにか言っている、かと思えば、不自然なほどはっきりと、シルバー、このようにつぶやいた。
 その瞬間、シルバーは頭のてっぺんから爪先までを名も知れぬ感慨に打たれ、泣きたいような笑いたいような、ふしぎな気持ちに満たされた。そうだ、シルバーはひとりごちる。オレが行くのは、いたずらに一人になるためではない、愛に殉じるためなのだ! ばらばらになったかと思われた決意は再び一つになり、今や強固なものなってシルバーを支えた。手や足の先がほのかに熱を持ち、温められた涙が、涼しい目尻から音もなくこぼれた。シルバーはうっすらと微笑んだ。幸福だった。彼のために行くのだ。
 シルバーはふたたび彼を覗き込み、薄い瞼を閉じて、その繊細な唇でそっとくちづけた。皮膚を伝って流れ込んできた温もりのためにシルバーはまた涙を流した。主よ、子キリストよ、彼と、彼のためにゆく私を祝福してください。窓の外では雨が降りはじめ、外界と隔絶された静けさが、ふたりを蕭条と取り囲んだ。さよなら、胸の中だけで呟く。さよならいとおしい人、さよなら、さよなら、さよなら——

 

 少年には神も仏もいない。もし神がいるのならば、信心深い父をきっとお救いくださっただろう。ユーバーリンゲン駅、その小さく牧歌的なターミナルの一角に立ち、濡れ鴉のつややかな羽毛にも似た豊かな黒髪のこの少年は、憎くてどうしようもないとばかりにひとつ舌打ちをした。琥珀を丹念に削ってこしらえたような瞳は憎悪と疑念のために眇められ、ささくれひとつないやわらかな子どもの唇も、冷笑にひきつれてひどく歪んでいた。上等な黒のウールでできたショートパンツから覗く、春の若鹿を思わせるしなやかな脚、それから本革で誂えられたローファーの足先は、不調法な貧乏ゆすりに揺れ、また小麦色の煉瓦の道をさかんに叩く。
 少年はつい先日十四歳を迎えたばかり、ただでさえ思春期特有の臍曲がりを持て余していたが、長時間の移動が彼の不機嫌に拍車をかけた。ニューヨークからフランクフルトまで九時間、別の航空機に乗り換えて二時間、チューリヒからは各駅停車で四十分、ようやくドイツに入国したかと思えばそこからさらに一時間。苦心してたどり着いた町がニューヨークとは似ても似つかぬ田舎町だったものだから、彼はすっかり腹を立てていた。
 主よ、わからずやで怠け者の主よ、どうぞ一刻も早くご逝去あそばしてください。アーメン。
 とんでもない祈り文句を高らかに叫ぶ。どうせ英語の通じない田舎者ばかりだとたかを括っていたわけだが、すぐそばの停留所でバスを待っていた白衣の老司祭が、少年を振り返って眉を吊り上げた。後ろに付き従っていた修道女たちが何か小声で囁き合う。少年は悪びれもせず、あれは救いようのない愚かものだ、キャリーケースに小さな尻を預けて背から後ろに倒れた。神なんかいないんだ、そんなこともわからねえやつは愚かだ。
 午前九時きっかりに、大通りから逸れた黒いメルセデスがターミナルに滑り込んできた。左前の窓が開き、オレンジがかった赤毛を後ろに撫で付けた格好の青年が手を軽く上げて挨拶をした。少年が近づくと、彼は運転席から降りてきて重たいキャリーケースを軽々と持ち上げた。
「君がゴールドだね」トランクを片手で開けながら、流暢な英語で彼が尋ねる。
「……そっス」
「右に乗ってくれ」
 助手席に乗り込むと、バニラとトンカビーン、それからスパイスの香りが鼻腔をくすぐった。おそらく香水のにおいで、少年、ゴールドには大体どこの国のブランドのものかというところまでたやすく見当がついた。彼が戻ってきて運転席に座り、シートベルトを締めてエンジンをかけた。いまだにこちらを睨みつけている司祭を背後に、車は滑るように走り出す。避暑地として賑わう赤い屋根の市街地、ボーデン湖のほとりをすぎ、ちょっとした森のようなリッパーツロイター通りに出たところで、寡黙な彼は再び口を割った。
ヴュルテンベルクへはるばるようこそ。ジークフリートだ。ユンゲブレッターではラテン語を教えている」
 ジークフリートは愛想のない感じの青年で、しゃべっている間一度たりともこちらに視線をやらなかったが、ゴールドもまたさらに田舎へと向かっているのに苛々していたので、さらにそっけなくあごを引いた。
「ども、ゴールドっス」
「知っているさ、ゴールド、十四歳、ニューヨークの名門アンダーソン中等学校二年生、だったのが暴力沙汰をおこして中退。うちの学園(シューレ)に転入することになったんだったな。一体何があったんだ」
 あまりにもあけすけな質問に、ゴールドは今度こそ衒いもなく顔を歪めた。
 昨年度六月、つまり三ヶ月ほど前、ゴールドは中等学校の同級生を立てなくなるまで殴りつけた。それまで彼は信心深い優等生として名を通していたから、この沙汰は少なからず周りを驚かせ、もっぱらの話題にされた。はじめは内輪で済ませるつもりだった学校側もこうまで話が広まると黙ってもいられなくなり、彼は半ば退学させられるかたちでドイツに留学することになった。母親は黙って息子を送り出した。本人は少しも罪の意識を感じていなかったが、母親が責めも叱りもしないのがどうにも居心地よくなく、結果すっかり虫の居所を悪くしている、といった次第だった。いっそ激しく泣き罵倒された方がどれだけましだったことか。
 黙り込むゴールドを、大して気にした様子もなくジークフリートは、ホームセンター横の環状道路で進路を右にとった。車は、ぽつぽつと点在する農村、初秋を迎え今が盛りの田畑以外はめぼしいものもない、殺風景な山道に抜けた。やがて緩坂の向こうに、四つの尖塔を備えた赤い屋根の古城が見えてきた。 
「あれが俺たちの学園、シューレ・シュロス・ユンゲブレッターだ」
 ジークフリートが指を差すのにつられて、ゴールドもまた、身を乗り出してその城を眺めた。
 シューレ・シュロス・ユンゲブレッター、ユンゲブレッター城校は、かつてのバーデン公・マクシミリアン王子の支援を受けて開設された歴史ある寄宿学校(ギムナジウム)だ。十五世紀ごろに落成したハイ・ゴシック様式のユンゲブレッター城でシトー派修道院と居を同じくし、その精神に従って、大学進学を控えた生徒に宗教・倫理、その他一般授業を展開するほか、神学校を志す生徒たちへの専門的な宗教教育も行っている。小学校から上級高等学校までの生徒がここに通い、十四歳ゴールドはグレード八、下級高等学校一年生にあたる。また、ほとんどの生徒がドイツ人だが、ゴールドのようなアメリカ出身者も多く、ほか、スイス、スペイン、フランス、中国、韓国、インド、オーストラリアなど、さまざまな国からの留学生を受け入れている。
 車は山道から整備されたトウヒ並木道に入り、やがて城の前広場で停止した。車を出ると、むせかえるような花の香りが、高原の風に乗ってゴールドの顔に吹き付けた。城の右脇に芍薬や薔薇で桃色一色になった庭園があり、植え込みの中を、金髪をポニーテールにした格好の修道女が熱心に手入れしている。美しいが、ゴールドにはどこかむずがゆく思われる。
 ジークフリートはトランクからキャリーケースを取り出し、車に鍵をかけるととっとと城の方へ歩き出した。ゴールドもその後について歩きながら周囲をキョロキョロと見回す。正面には巨大な薔薇窓を備えた煉瓦づくりのファザード、獅子像が支える正面玄関の尖頭アーチ。左右に均等に配置された三つ窓に、吹き放しになった柱廊。ここ一帯でよく見られる赤い屋根。美しく絢爛なこの棟は、おそらく修道院の礼拝堂だ。幼いころに通った近所の聖堂よりずっと大きい。その奥に同配色の校舎、二つの寮を備えた西塔・東塔に一際大きな北塔、四つの棟を連結する長い回廊。重厚感のある金の窓枠、空白恐怖に近い豊饒な装飾。学園と呼ぶにはあまりにも華麗すぎる城だが、そこかしこを歩くジャケットの生徒たちは気にする様子もない。
 ふたりは礼拝堂を避けて裏の校舎に向かう。警備員がふたり、向かい合って守る正面玄関のマホガニー扉の前で、ジークフリートはふと立ち止まり、背後の少年を顧みた。彼はこちらに近づいてきてゴールドの胸元を見下ろした。
「赤のリボンはキリストの贖罪、神の愛を象徴する重要なものだ。いつでも整えていなさい」
 言いながら、乱れたリボンを結び直してくれた。ゴールドは途端につまらない気分になって、気のない返事をしながら脚の虫刺されを掻いた。

 校舎の左手から化粧漆喰の豪奢な長い回廊を渡り、堅牢な両開き扉から西塔に入ると、一人の男子生徒がロビーで待っていた。
 黒のジャケットにスラックス、赤のリボンと、この学園では一般的な制服の着こなしだが、その左胸には薔薇を模した金のバッジをつけていた。ジークフリートと、いい加減絢爛さに胃もたれしはじめたゴールドを迎えて、彼は丁寧に頭を下げた。ジークフリート先生、ごきげんよう、教師と生徒の間柄にしてはやや堅苦しいくらいの口調で挨拶をしてから、鋭い碧眼がゴールドにも向けられる。
「グリーン・オーク、四年生だ。パウロ館の寮監、生徒評議会(カウンシル)議長を兼任している。ここからはお前の部屋までは俺が案内する」
「うす」
「伝統あるユンゲブレッターの生徒なら、背筋を伸ばし、はっきりとした声で返事をしろ。わかったな。先生、私たちはこれで失礼いたします」
「……ああ。ゴールド、またラテン語の授業で会おう」
 ゴールドはほとほと嫌気が差していた、杓子定規の優等生がまたひとり、暑苦しいったらありやしない。肩をすくめて適当に受け流すことにする。ジークフリートが苦笑しながら手を振り、ふたりの背中を見送った。
 パウロ館は五階建ての西塔全体のことで、主に一般生徒の寮として用いられている。一階にはロビー、二階から四階には寮部屋、五階には寮監室と、上級生のためのサロンが設けられている。中世の古城だ、エスカレータやエレベータの類はもちろん存在せず、ゴールドは長い螺旋階段を地道に登って五階までを踏破した。キャリーケースを抱えた状態でだ。最後の段を上がるころには、彼の足は木偶になっていた。グリーンはそんな彼を意に解すことなく廊下を進み、薔薇と天使を浮き彫りにした扉の前で立ち止まった。
「寮監室、俺と、副監のレッドが日中滞在するのがここだ。館内で何かあればすぐに知らせに来るように」
 次に塔の中央に位置するサロンを訪れ、細々と説明したあと、再び四階に戻り、ようやくゴールドに自室を与えた。マスターキーで扉を開けてゴールドを通し、「入学式は十一時からだ。それまでに正装を整えて礼拝堂に来い」と言い置いて出ていった。
 グリーンに振り回され、ゴールドはすっかり疲れ果てていた。ひとまずどこかで休もうと部屋を見回し、これが二階建て構造になっていると知った。もともとは上下に配置されていたのを改装して繋げたのだろう、吹き抜けと木製の螺旋階段を介し、二つの部屋が繋がっている。中は上品な色合いの家具や壁紙で統一され、一階部分は石造りの暖炉を中心に生徒が憩えるよう上品なペルシャ絨毯が敷かれている。左手にはバスルームにつながる扉、右手階段下にはコンロを三つも備えた立派なキッチンと食器棚。天鵞絨の赤いカーテンに覆われた、ゴールドの身長の二倍ほどある高いアーチ窓からは、ユンゲブレッター城が位置するセイラムの街、彼が車で上ってきた山道、田園地帯、ヴュルテンベルクの町、それから雄大なボーデン湖までを一望することができた。二階には、本棚や勉強机、クローゼット、それから簡素な天蓋付きのベッドが二つ置かれ、そのうちの左側のベッドの中に、誰かいるらしいこともわかってきた。
 ゴールドはひとまずもう片方のベッドに寄せてキャリーケースを置き、リボンを解きながら階下のバスルームに向かった。昨日の朝にニューヨークを立ってから一度もシャワーを浴びていないのだ。バスルームもまたシックな雰囲気で統一された美しいところだがゴールドは脇目も振らず服を脱ぎ、シャワールームに入って暑い湯を全身に浴びた。全身の汚れを落とし、ようやく人心地ついた気分になる。
 スラックスを履き、軽くシャツを羽織った格好でバスルームから出ると、さっきベッドに入って眠っていた同室の生徒が、パジャマのままキッチンに立っていた。髪を短く刈り、切り損ねたアホ毛を二本額の前に垂らした少年で、彼はゴールドに気づくと気の良さそうな笑顔で応じた。
「君がゴールドくんでやんすよね。おいらはジュリアン。会えて嬉しいよ、よろしく!」
 ジュリアン、というのは、ドイツではごくありふれた名前だし、彼の英語はいかにもな田舎なまりだった。ゴールドが名乗ると、彼はさらに顔を輝かせて握手を求めてきた。
「留学生が来るってことは聞いてたけど、君みたいな都会っぽい子とは思わなかったでやんす。ココア、作ったんだけど、ゴールドくん飲むでやんすか?」
「……、おう」
「ザクロもあるけど、入学式のあとはきっと豪華なご飯が待ってるだろうから、今日は我慢でやんすよ」
 彼がかき混ぜるコーラルピンクの小鍋から甘い香りが漂ってきて、ゴールドは思わず腹を慣らしていた。ジュリアンがにっこりする。
「もうすぐできるでやんすからね」
「それはいいけどよ、ジュリアン、着替えなくていいのかよ? 入学式十一時からだろ。もう十時半だぜ」
 ジュリアンははっと壁時計に目を写し、途端に慌て出した。鍋ほったらかしでドタドタと二階に上がるので、ゴールドはニヤニヤしながらコンロの火を消してやった。鍋の中身も一なめ拝借する。ミニマシュマロが大量に染みていることもあって、甘ったるいくらいに甘い。

 十一時二分、ゴールドとジュリアンが駆け込むころには、礼拝堂は静まり返ってすっかりミサの準備を整えていた。ミサというのはキリスト教の伝統的な典礼で、この学園では毎朝簡易的なものが実施されるほか、行事毎に大規模なものが執り行われるという話だった。聖書と聖歌集を抱え、ふたりして整列する黒衣の生徒たちの中に紛れ込んで礼拝用の長椅子に座る。正面に祭壇と採光窓を備えたドーム、ステンドグラス、天使や聖家族を模った雪花石膏装飾、左右に背の高い窓、背後には黄金に輝く巨大なオルガンが設置され、そこに例の金バッジの女生徒が現れて演奏台に座った。かの有名な讃美歌一九四番がオルガンによる音色と生徒たちの声楽で演奏される中、白衣にストールをかけた長身の司祭が入ってきた。ジュリアンも生徒たちと一緒になって歌っていたが、ゴールドは、歌詞もメロディも十分に記憶しているにも関わらず、黙ったまますまし顔の司祭の顔を眺めた。侍従の生徒が祭壇の左右に蝋燭を灯し、その中央に司祭が立って、式次第どおりの台詞を吐く。
「父と子と聖霊のみ名によって」
 これに報いて生徒たちが、アーメン、と合唱し、祭典はつつがなく始まった。自らの罪を告白し悔い改めるための〈回心の祈り〉、神からの赦しをこう〈いつくしみの讃歌〉を、ゴールドは寝て過ごし、何度もジュリアンにつつかれた。赦しを得たことに対する喜びをうたう〈栄光の讃歌〉に差しかかるころには、寝言を言って周囲に睨まれるありさまだった。
 様子が変わったのは、〈ことばの典礼〉に入り、聖書朗読が行われる段に入ったときのことだった。生徒たちがにわかにざわつきはじめたのだ。ゴールドも寝入りながらもそれに気づき、薄目を開けて祭壇の方を見やった。天使のものを模した白いお仕着せを着た、小柄な生徒が一人、朗読台に上がったところだった。彼は意味ありげな眼差しを生徒たちに投げかけると、赤いサテンで装丁された大判の聖書を開いて声を張った。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いを愛し合いなさい」
 別段、その生徒が特別だとか、朗読の内容が際立っていたとか、そういうわけではない。彼はどこにでもいる生徒だったし、福音はヨハネによる福音十五章、こうした場ではごくありふれたものだった。しかしゴールドは目を開けた状態で再び閉じることができなかった。
「……これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
 彼が美しかったからだ。遠目から見ても際立つ白い肌、蝋燭の光を反射して艶やかに肩へ流れる赤毛。瞳は天の金属の銀にきらめき、豊頰は神の言葉をたどる喜びに薔薇色に上気して、唇は花びらを張り合わせたかのように繊細で、薄い。ときおり覗く舌が熟れた果実のように赤い。耳や手指など、そのほかのパーツもまるで人形の部品のように小さくてかわいらしかった。また、彼の声にも、聞く者を陶然とさせる力があった。朗々と響くようで、それでいて時折訪れる甘く柔らかい吐息が耳がらをくすぐる。少年でありながら少女の幽眇ささえ感じさせる、まるで神話から抜け出てきたかのような、麗しい生徒だった。
 ゴールドはぼんやりとした意識のままその姿に見入り、その声に聞き入った。彼が聖書をめくる音さえ耳に心地よかった。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」
 朗読を終えて、彼は自分の額、口、胸に十字架のしるしをした。それからふと顔を上げ、そこでゴールドは彼と目が合った。
 一瞬だった。ほんの少し、まばたきをする程度の時間。それでも、彼は確かに微笑んだ、ゴールドに向かって。……そのように思われた。ゴールドが正気にかえるのを待たず、彼はくるりと背を向けて朗読台から降りてしまった。
 生徒たちは再び嘘のように静まり返り、祭儀もまた何事もなかったように続いたが、ゴールドはの後も、その笑みの意味を考えた。彼は誰で、なぜ自分に微笑みかけたのか。そして自分は、どうしてこれほどまでに心惹かれているのだろうか。そう、ゴールドはひどく彼に求心していた。特別仲の良い友人がいたわけでもなければ恋もしたことがないゴールドにとって、こんな気持ちははじめてだった。司教の説教のあいだも、キリストが最後の晩餐でパンと葡萄酒を弟子に配ったことを祝福する、ミサで最も重要な儀式〈感謝の典礼〉のあいだも、ゴールドの頭はあの少年のことでいっぱいだった。
 ただし、ゴールドは切り替えの早い男だった。ミサが終わり、食堂に移動するまでは少年のことばかり考えていたが、テーブルについて、食事が運ばれてきた途端に忘れた。仔牛の揚げ焼きシュニッツェル、肉団子スープにも似たレバークネーデル・ズッペ、それから白やオリーブ色の珍しいソーセージ。小麦パン、プレッツェル、アップルパイの親戚アプフェルシュトゥルーデル。大皿から各自好きなだけ取り分けるビュッフェ形式だったのが、そのテーブルのほとんどをゴールドが平らげてしまい、同卓の生徒たちは仕方なく他のテーブルに応援を要請しに行くのだった。
「ゴールドくんてば食いしん坊でやんすねえ」ジュリアンが苦笑する。
「仕方ねえだろ、昨日の夜から何も食べてねんだ」
「ほどほどにするでやんすよ」
 シュトーレンを両手に掴んで頬張りながら、ゴールドはふと、さっきの少年の姿を食堂の隅に捉えた。彼は一人で、柘榴の実をちまちまと口に入れていた。
「あいつ。あの派手な赤毛のやつ、誰?」
 尋ねられてジュリアンは言い淀んだ。「シルバーくんでやんす」ぼそぼそと、秘密の話をするときの小声でゴールドに耳打ちする。
「ペテロ館の図書委員、下級高等学校一年生、おいらたちと同い年でやんすよ。ここじゃ結構有名でやんす。顔が綺麗だから、初等学校のころはフロイラインって呼ばれて、周りからチヤホヤされて……でもあまりいい噂はないみたいで」
「女か?」
「いや、男の子でやんす」
「ふーん……」
 ペテロ館は、パウロ館と対をなす男子寮で、神学校への進学を志す生徒たちの寮だ。パウロ館と比べて厳格なものが多く(それにしてもグリーンよりひどいのはいない、とそのときのゴールドは思っていた)授業内容も宗教科目に特化してハイレベルである。つまり、あの少年、シルバーもまた、司祭になることをを志して学園に通っているというわけだ。ゴールドはにわかに彼に対する興味を失った。彼は、神とかいうないものを信仰して、ないもののために人生を捧げようとしているのだ。とんでもない愚か者だ。ユーバーリンゲンにいた目つきの悪い老人と同質のものだ。
 食事を終えたあとは寮ごとに分かれて各教室に散り、天井のフレスコ画に描かれた幼いキリストと聖母マリアに見下ろされながら、ジュリアンを含めた同級生たちの自己紹介を聞いた。ゴールドが展開したニューヨークやマンハッタンの話は、ドイツから出たことのない箱入りの少年たちを大いに喜ばせた。

 入学式後の授業をひと通り終えて夜、ゴールドは……迷っていた。
 学園の北にバレーボールコートがあるというので見に行き、雨晒しの空き地が広がっているばかりだったのにがっかりした帰り、庭園に迷い込んで出られなくなったのだ。庭園はラビリントとあだなされるほど入り組んだもので、その複雑さたるや、庭図なしではたとえ四年生でもたやすく出られないほどだった。
 赤や黄色のシンビジュームにステルンベルギア、リコリス金木犀、ブーケンビリアは金属のアーチやアイアンフェンスに蔓を巻き、レースフラワーは小さく可憐な白い花をいっぱいに咲かせている。鉢に寄せて植えてあるのはサフラン、ダリア、水を溜めた瓶の中で八重咲きになっているのが睡蓮。小さく実をつけているのはシュウメイギク。桃色やオレンジ、青、紫など、さまざまな色どりを見せるのはプリムラ。秋ばらやサルビアの大ぶりな花房がこちらに垂れかかり、先へ進もうとするゴールドの行手を阻む。
 薄暮の中、茂るミナ・ロバータの花穂をかき分けながら彼は焦った。このままでは一生寮に戻れないどころか、母国アメリカに帰って母の顔を見ることもままならないと考えたのだ。そういうわけで、背後から声をかけられたとき、彼は天の助けとばかりに喜んだ。振り返ったところに立っていたのは、朝方庭園の清掃をしていたポニーテールの修道女だった。ヴェールをしていないから、正確には修道女の要件を満たさない見習いといったところか。
「どうかしたんですか?」
 棕櫚ぼうきを握ったまま、首を傾げて彼女が言う。ゴールドは自他共に認める女好きだが、目の前の少女はまだ容姿が幼く、彼の守備範囲を大きく外していたので、彼はいっそすぎるほど冷静にそれに報いた。
「迷っちまった。ここから出たいんだが」
「それは大変ですね、よければご案内しましょうか」
「頼む」
 彼女はイエローと名乗った。ゴールドの一つ年上、十五歳で、学園に在籍していれば下級高等学校の二年にあたる。ナーゴルト川に沿って繁栄するカルプという街の出身である。両親は他界したがとおつ年上の叔父がいて、ともども釣りが好きである。こちらは名乗りもしていないのに、こんなにも個人情報を開示して良いものかと他人事ながら不安になるゴールドだったが、彼の肩より少し低い位置で柔らかく口角を上げるイエローを見ていると、そんなことはどうってことないように感じられるのがふしぎだった。
 彼女の手引きで天然の迷路を歩き回って、どうにか庭園を抜けたゴールドだったが、そこからが問題だった。彼女は庭園からゴールドを連れ出しはしたが、出たのは校舎のある西方角ではなく、さらに離れた南方角だった。おまけにイエローは、良いことをしたとすっかり満足し、ではボクはこれで、と引き止める間も無く庭園の中に戻って行ってしまった。今から彼女を追って引き返しても、また迷うのが関の山だ。ゴールドは右も左も分からぬ場所に放り出されたといったところだった。あたりを見回し、ふと行手に光があるのを見つけて、彼は仕方なしにそちらへ歩いて行くことにした。誰か人がいるのなら、校舎の方角くらいは教えてくれるだろう。
 すっかり日が落ちて、暗い紺色に帷を降ろした空に、満月がそこだけ穴を開けたみたいにポッカリと浮かんでいる。名も知れぬ虫の鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。湿った草を踏み分け進むにつれ光は次第に周囲の詳細までを見せるようになり、そこに建っているのが小さな聖堂だということまでわかってきた。昼間の礼拝堂より幾分か背が低く小規模で、装飾も少ない。両開き式の扉を挟んで向かい合う聖母マリアマグダラのマリアのステンドグラスから、色とりどりの光がポーチから階段へかけてを明るく照らしている。
 彼は半ば駆け足になってポーチをのぼり、扉に張り付いた。鍵はかかっていなかった。押せば扉は簡単に開き、煤と少しばかりの黴のにおいが彼を聖域に迎え入れた。中は静かだった。高い天井に奥まった空間、赤く長い絨毯が足元から祭壇の方まで長く続いている。のっぺらぼうの聖人の行列を描いたステンドグラスを通して弱々しい光が射し込んできているが、祭壇の蝋燭を除いて近代的な照明を持たない石の教会のなかは暗く、美しい黒に支配されている。そう、蝋燭が灯されているのだ。実を乗り出して中を覗き込む彼の目は、祭壇の前でひざまづく人影をはっきりと捉えていた。肩甲骨までを流れる、目が覚めるような赤い髪。生白い手足。黒いジャケットにスラックス。細い指をしっかと組んで祈っている。シルバーだった。ゴールドは息をのんだ。さながら、ヤコブの息子、敬虔な少年ヨセフが、自らを地獄に突き落とした兄たちのために祈っているかのようなきよらかさだった。
 ゴールドの足音を鋭敏に察知し、シルバーが振り向いた。暗がりのなかで彼の銀の瞳ばかりが奇しく輝いた。ローファーの足が近づいてくるもゴールドは動けなかった。祭壇の、左の蝋燭が消えて灰紫の煙が上がった。シルバーが近づいてくる。鼻先がふれあうほど近づいてようやく、彼がゴールドと同じくらいの背丈であることが知れた。遠目で見るよりも、彼がはるかに美しい少年であることが知れた。だがそのことこそ、今は恐ろしい。ヴェールを被った女神の石膏像を思わせる、ミステリアス、美と年嵩の不均衡、神話的な敢え無さ。ゴールドの胸に沸き起こる畏れと陶酔。彼の繊細な唇に、かの微笑がふたたび蓄えられた。かと思えば、ふいに彼が爪先立ちになり、ゴールドの肩にやさしく触れて——その唇、糸でくくったような小さな唇、みずみずしい桃の果実の色をした唇が、ゴールドの唇へと軽く触れていた。
 キスをされた。それも、唇にだ。女の子にさえ許したことなどなかったのに!
「何すんだ、手前——」半ば放心状態のまま、ゴールドは薄い胸に手をついて彼を離した。「ホモかよ!」
 彼は何も言わないまま、事態が想定と大きく外れていることにようやく検討がついた様子で目を眇めた。細い指が自身の顎に触る。それから、
「おまえ、オレに手紙よこしただろう」
「人違いだ!」
「……それは」シルバーは気まずそうな感じで横に視線を逸らし、「悪かったな……だがそういうことであればとっとと出ていけ。面倒なことになる」
 ゴールドは、扉の方へ身体を押し返そうとする彼に喚き散らして反抗したが、ふと扉の向こうで靴底が石段を踏む音を聞いて動きを止めた。シルバーもまた同様にその音を知覚したようだ。顔色を変えると、ゴールドの隙をついて口を塞ぎ、祭壇の方へ戻って、裏側の、中に落ち窪んだ空洞へと押し込んだ。なおも声を上げようとするのを人差し指だけで押し止められる。
「しっ、静かにしろ。頼むから」
 シルバーの懇願にゴールドがしぶしぶ肯んじたとき、扉が開いて、誰かが聖堂の中に入ってきた。彼は何事もなかったように踵を返してその誰かを迎えた。
「君がシルバー?」どうやら男だ。声が若いので学園の生徒だろうとたやすく見当がついた。
「はい」
 しおらしく低めた声が静かに応答する。
 ゴールドはつとめて音を立てずに顔だけを祭壇の外に出し、話し声のする方をうかがった。長身の男子生徒が、シルバーの細い腰を抱き、その顎を掬ってキスをするところだった。叫び声を上げなかっただけゴールドは利口者だ。事情はすぐに知れた。男女交際を厳格に禁じられた学園で、シルバー、この美しく寡黙な少年は男めかけのように立ち回り、年長の学生の慰みになっているのだ。
 男子生徒にジャケットを脱がされ、シャツの中に手を入れられて、シルバーはあえやかな吐息をつく。悩ましく寄るまゆ、うっとりと閉じた瞼、切なげに引き結ばれた口角。まるで、恋を、しているかのような……しかし、シルバーの表情にはどこかしら作り物めいたところがあった。あの微笑と同じ匂いのするものだ。
 彼は自ら絨毯の上に膝をついて、男子生徒のスラックスの前を開けた。慣れた仕草で顔をうずめる。男子生徒は、その様を見て、興奮している。清廉潔白で品行方正の美少年(フロイライン)が、奴隷のようにひざまづいて服従しているのに。ゴールドは吐き気をもよおした。また実際、胃酸が喉のあたりまで迫り上がってきたのをなんとかとどめた。「君みたいな子が……いけないな。でも、かわいいね……」
 そのときゴールドの胸に沸き起こったのは怒りだった。それとわずかばかりの嫉妬、得体の知れないモヤモヤとした感情。彼はわざと音を立てて、しかし所在を知られぬよう身をかがめた姿勢で祭壇を出、クワイヤを通って裏口から聖堂を出た。
「誰かいるのかな?」
「さあ……ネズミでも忍び込んだのじゃないですか」
 扉ごしにそうした会話が聞こえてくるのも、ことさらにゴールドを不快にした。

 七時ごろには聖堂を出たというのに、彼がパウロ館の自室に戻るころには十一時を過ぎていた。彼は果敢にもラビリントに再挑戦し、四時間あまりかかって勝利を収めたというわけだ。だが、新品のジャケットにはばらの葉がまとわりつき、シャツに至ってはとげに引っかかったらしい、小さく穴が開いているしまつだった。部屋では、すでにパジャマに着替えたジュリアンと、あのいまいましいグリーンが待っていた。消灯時間を過ぎてもゴールドが帰らないので、寮全体の消灯を待っていたらしかった。
 意外にも彼は同情的だった。九月の恒例だ、喉だけで笑って、彼は部屋を辞した。
「消灯!」
 彼の命令が朗々と響き、館ぜんたいの明かりが落とされる。暗闇のなかでジュリアンが暖炉に火を入れたので、その明かりだけを頼りに、ゴールドはリボンをほどき制服を脱いだ。「なあ……」ガウンを羽織りながら、毛布にくるまってマグを啜るジュリアンに話しかける。「……シルバーってやつ、彼氏はさ、いつもああなのか」
「ああ、って?」
「男とセックスしてんのかってことだよ」
 ジュリアンはむせた。
「な、なんてこと言うでやんすか!」
「事実なんだからいいだろ、おまえも知ったふうだけど」
「……シルバーくんが、上級生とねんごろだってことは、口に出さないだけでみんな知ってるでやんす。でも、誰も何も言えずにいるのは……このことが学園に知れて彼が謹慎になったあと、誰がかわりになるかという問題があるからで」
「要するにあいつは人柱ってわけだな」
「あけすけに言えば」
「気に食わねえ」
 舌打ち混じりにゴールドは吐き捨てた。暖炉の中でぱちんと火花が上がる。……赤やオレンジ、紫と色を変えながら揺れる炎の中に、彼はシルバーの花顔を見た。薄い唇が微笑の形をとる。銀の星の目がスッと細まり、いとおしいものを見るときの表情で、シルバーが笑う。ゴールドは首を振って立ち上がり、キッチンに向かった。ニューヨークから持ち込んだウイスキーを温めたミルクに混ぜ、マグに溜めたのを一度に飲んだ。
 ほどよくアルコールが回り、眠気が漣のようになってゴールドの頭に押し寄せる。神経系が痺れてきて、視界もぼやけ……彼は二階に上がって右のベッドに倒れこみ、毛布をかぶって目を閉じた。ゴールドは夢を見た。

「ゴールド、すきだ」
 薄紫色の霧の中で、ゴールドは上半身だけ起こした格好のシルバーの腰に腕を回して横たわっていた。両者とも生まれたままの姿で、しかし特にそれをふしぎには感じていないらしかった。シルバーは、逆光のために青く陰った美しい顔に心からの喜びの表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。骨ばかりの細い指がゴールドの前髪をよけ、額を撫でて、その上に唇が降りてくる。ゴールドはくすぐったくて笑う。
「すきだ……」
 彼の声がこだまするなかで目が覚めた。
 スプリングが軋むほど勢いよく跳ね起き、あたりを見回す。俺は誰だ? ゴールド、十四歳。ここはどこだ? ドイツ、ユンゲブレッター、寮の部屋。部屋の中は薄暗いが、閉じたカーテンから床へわずかに漏れる光のためにほのかにその実像を確かめることができた。隣のベッドでは毛布にくるまって眠るジュリアン、彼が脱ぎ捨てたらしい室内ばき、火の消えた蝋燭、ベッドサイドに立てて置かれたマグ。部屋付きらしいラテン語旧約聖書、壁にかかった木の十字架。彼はふらふらと立ち上がり、カーテンを開けて外のながめに思いを馳せた。のどかな田園地帯、雄大なボーデン湖。かなたには金星がきらめく。しかし、そうまでしてもこの錯乱を追い出すことは叶わなかった。ああ、オレは、なんという夢を!
 どこかで鐘の音がする。
 顔に光がかかり、覚醒に漕ぎ着けたのだろう。ジュリアンがむにゃむにゃと起き出したかと思えば……サイドテーブルに置かれた彼の腕時計を一目見て急に飛び上がった。「たいへんでやんす!」毛布を放り出し、あたふたと室内ばきを履きながら焦っている。
「どうした?」
「ミサが六時からあるでやんしょ、ゴールドくんも急いで着替えるでやんす!」
 時刻は五時四十分、たいした寝坊でもないとゴールドは思ったが、ジュリアンに促されてしぶしぶ支度に取り掛かった。バスルームに行って冷水で顔を洗い、相変わらず若い肌にはニキビひとつないことを確認してからグリースで髪を、特に前髪を整える。ガウンを脱いで洗濯籠に入れ、代わりにシャツやスラックスを身につける。昨日葉をつけたジャケットは窓の外ではたいてから袖を通した。リボンは、少々曲がった結び方になってしまったがまあ良いだろう。
 最後にもう一度髪型を確認してから彼はバスルームを出た。ジュリアンはもうすっかり準備を整え扉の前で待っていた。おっと、危ない、聖書と聖歌集を忘れるところだった。
 四階から一階までを駆け足で下り、ロビーから回廊へ出ると、同級生たちの一団が礼拝堂に向かおうとするのに遭遇した。おはよう、エルマが声をかけてくる、それから優等生のルッツ、ベルリンから来たネポムク……みなゴールドが昨日友人になった少年たちだ。
「おはよう」
「おはよう、ゴールド」
「おう、おはよ。みんな元気そうだな」
「君もね」
 ネポムクが肩を組んできて、ジュリアンのやつ、どうせ今日も寝坊したんだろ? にやにやしながら耳打ちしてくる。
「や、オレもそんなもん」
「なんだ君もかよ、モーニングコールはご入用ですか?」
 少年たちがどっと笑う。
 一緒になって腹を抱えながらゴールドは、前方を一人で歩くシルバーの姿を見た。心臓が凍りつく——今朝方の夢が蘇る、彼の背筋を冷や汗が流れ落ちる。シルバーは相変わらず女のように長い赤毛を後ろに垂らし、すらりと背骨を伸ばして歩いている。夢の中では闇に半ば隠されていた、彼の端正な顔、今は暁の光のなかで細部に至るまでつまびらかにされている。視線を感じたらしい彼が振り返り、その銀の目と視線が合った。
「よお——」少年たちの一群から抜け出し、わざとらしく高めた声でゴールド、「いまいましい男めかけめ、昨日はよく眠れたかい?」
「ちょっと、ゴールドくん!」
 ジュリアンが咎めるも、それを振り払ってゴールドはまた一歩彼に近づいた。彼は笑んだ。唇の端を吊り上げて目を細めただけの、ひどく皮肉っぽい笑い方だったが、それでも彼は笑った。
「ああ……おかげさまでな」
「男のチンポしゃぶって安眠しましたってか? そりゃあよかったな」
 少年たちがざわつく。
「おまえにオレの行動についてとやかく言われる義理はないはずだが」
「義理がありゃいいのかよ? 手前のケツにぶち込んでやりゃあいいってか? そんなに欲しいんならお望みどおりファックしてやるよ」
 シルバーの流麗な眉がぴくりと動いた。「……ふん、編入生が知った口を」
「田舎もんのお坊ちゃんに言われる筋合いねえぜ」
「お前に何がわかる」
「わかりたくもねえや、男に股かっぴらくおめかけのことなんてよ」
「こちらこそ願い下げだ。絡むな、程度が知れるぞ」
「手前……!」
 きっちりと閉じたシャツの胸元を掴んで引き上げ、ゴールドはシルバーを思い切り睨みつけて威圧した。シルバーのほうも実に涼しい顔で、しかし眼差しばかり鋭いままゴールドを正面から見返した。その瞳のきらめきに、ふと、ゴールドの脳裏に、夢の中の彼のことが再び思い出された。夢の中でシルバーはこう言ったのだ……「ゴールド、すきだ」
「うるせえッ」
 薄い肩を力の限り押し、ゴールドはシルバーを突き飛ばした。彼はたたらを踏んでよろめき、尻から勢いよく床に倒れ込んだ。
「シルバーくん!」
 ジュリアンが駆け寄ってシルバーの肩を起こす。腰をしたたかに打ちつけたらしく、シルバーは眉を寄せ歯を食いしばったが、そのために彼の美貌が損なわれるということはなかった。「大丈夫でやんすか?」親切なジュリアンに頷き返しながらも、目だけはゴールドのほうを見上げる。彼は嘲笑していた。短気で怒りっぽい、自分の感情すらコントロールできない猿だと馬鹿にしていた。ゴールドの頭に再び血がのぼる。掴みかかろうとして、後ろ襟を勢いよく引かれた。
 目の前で柔和そうな赤い目がまばたきしたかと思うと、手加減のいっさい働かない拳骨が、ゴールドの頭を直撃していた。あまりの衝撃に背骨が撓んだかと思われた。痛む頭を抱えてうずくまる。
「い……ってえ! 何すんだ!」
「何すんだじゃないだろ? 喧嘩するな! ほらシルバー立って、大丈夫か?」
「はい、レッド先輩……」
「おまえもだぞシルバー。ユンゲブレッターの生徒は往来で喧嘩なんかしない、そうだろ」
 シルバーは取り乱しもせずに頷き、その人に手を引かれて立ち上がった。短く切り揃えた黒髪に赤い目、ジャケットの襟に誇らしく輝く金の薔薇……この人が副監のレッドか。後ろでおどおどしながらルッツが控えている、きっと彼が呼んできたのだ。熱くなっていたのが一気に冷めて、ゴールドは床に尻をついたまま背を後ろに倒した。天井を神経質なほど埋め尽くす化粧漆喰、壁に並ぶキリストや信徒たちの絵画に意識を漂わせながら、オレはいったい何をしていたんだ? どうしてこんなにもやつがひっかかるんだ? 考える。

 ミサに続いて朝食を終えれば、休憩時間を挟んで八時、ようやく授業がはじまる。一限につき四十五分授業、最後の九限目が終わるころには十六時をすぎることになるが、授業内容は実に多彩で、生徒を飽きさせないための工夫が凝らされている。一限目は数学、二限目は地理で、ここまではペテロ館のクラスメイトと机を並べて授業が行われていたが、三限目のラテン語は選択科目であるために、パウロ館およびマリア館の同級生徒たちと合同で授業が行われることになる。
 マリア館というのは名の通り女性のための寮で、数は少ないが熱心な女生徒たちが共同で生活している。それを聞きつけてゴールドは色めきたった。男ばかりでむさ苦しい二日間だったがそれももう終わりだ、可愛い女の子を見つけて、彼女と良い仲になってやるのだ。……そんな彼のもくろみを、神が汲み取ったのかいなか、ともかく、ラテン語の授業における彼の隣の席は、かわいらしい雰囲気の女生徒だった。
「はじめまして、だよね? クリスタルといいます。よければクリスって呼んで」
 淡く青みがかった黒髪にすきとおった水色の虹彩、固い蕾のようなところがあるものの、無垢で清楚な笑顔。ワンピースの裾からすっと伸びた長い脚。差し出された白く柔らかそうな手のひら。取り分けて美人というわけではないが、ニューヨークでさんざん可愛い女の子を見てきたゴールドの目にもひときわ輝いて見える、クリスはそんな女の子だった。だから騙されていた。そもそも、彼女のジャケットの胸元にも金の薔薇が差してあるのを見て、ゴールドは警戒するべきだったのだ。
 担当教諭のジークフリートが入ってきた瞬間、彼女は勢いよく起立し、礼、号令をかけた。そのときからおかしいなとは思っていたが、以降も彼女は、やれ姿勢が悪いだの、返事をする声が小さいだのと、母親か姑かのようにゴールドの授業態度にケチをつけてくるのだった。ゴールドもそれにすっかり嫌気がさして、彼女から距離をおいて授業を受けることになってしまった。
 四限は生物、再び館別の授業に戻り、ゴールドたちは校舎北の葡萄畑で葡萄の実の観察をした。収穫祭の時期になったらもっと実が大きくなって、そうすればマリア館の女の子たちがこれを踏んでワインにするのだ。五限はドイツ語(ゴールドはこれにいちばん難儀した)、昼食をはさんで六限化学、七限政治、問題は八限だった。宗教の時限だ。
 ふたたび他館との合同授業というので教室を移動したところ、左最前列の席に、例の赤毛が座っていた。シルバーだ。宗教の時限は下級高等学校の四学年、つまり百人弱の生徒が大教室に集められ、座席の順も自由となっている。彼は長身の上級生たちに囲まれて、女のように口を手で覆って笑っていた。それを遠巻きにしてマリア館のミーハーな少女たちが座り、またそれを遠巻きにして少年たちがぽつぽつ座っているというありさまだった。
「——このように、キリストの奇跡は社会学の視点からより現実的に紐解くことができる。では、そこの赤毛の君、マタイ九章二十七節、イエスが盲人ふたりを癒したというのは……」
「はい……当時のイスラエルは城郭都市がほとんどで、領地を割り当てられた役人が強い実権を持ってして民衆を支配していました。役人は医師のようにも振る舞い、都合の悪い者を病人扱いして城壁の外に追い出し……」
 ゴールドの機嫌が、シルバーを前にして殊更に悪くなるのは、彼を嫌う理由をまったく見出せないからでもあった。彼は優秀で信心深く、女性にも人気があり、また美しかった。男性同性愛者であること、誰とでも関係を持つことは、独り身である以上決して悪いことではない。だというのに、彼をけぎらいし……その一方でわけもなく求心する自分が、ゴールドには腹立たしくて仕方がなかった。
 彼は肘をつき、前方で教諭の質問にすらすらと答えるシルバーの背中を眺めた。細くて頼りなさそうな背中、昨晩も男どもにいいようにされたはずの背中だ。やがてシルバーが答弁を終えると、教諭は彼をほめて着席させた。
「では次、……編入生! 何をぼっとしてる、君だよ、君! マルコ一章二十一節、キリストが汚れた霊に取りつかれた男を癒やしたというのは、一体どういうことだね!」
「さあ、ぼくわかりません……土下座でもしたンじゃないですかね」
「土下座って、霊にか!」
「ええ……」
 十五時五分、授業終了を告げる鐘が鳴り、生徒たちはわっと教室の外へと群がった。九限に授業がないので大はしゃぎするものもいれば、急減のために支度を急ぐものもいる。ゴールドも廊下に出ようとしてふと、シルバーが、隣の上級生に何か耳打ちされているのを見た。生徒たちのざわめきのためにうまく聞き取れないが、何を言われているかについてはなんとなく予想がつく。
 十七時少し前、一人パウロ館に戻り、自室のある四階までへとへとになりながら上ってきたゴールドは、五階から密やかなくすくす笑いを聞いて立ち止まった。グリーンでも、おそらくレッドでもない、三、四人、声変わりを済ませた男たちの囁き声の中で、未成熟な少年の声が通る。彼は奇妙な確信に満たされ、部屋に戻そうとしていた教本の類を踊り場に寄せて置くと、足音を忍ばせて階段を上りはじめた。
 五階の敷地は、寮監室と、その他使われていない小部屋がいくつかを除き、ほとんどを上級生のためのサロンに開放されている。紅茶の葉と給湯器、乾ものの駄菓子などが用意され、適度に腹を満たしつつ談笑に興じることができる。たしか、内装も美しかった。七つの窓が円を描く壁に沿って配置され、そこから、外からの光が大理石の床へ燦々と差し込み、部屋全体を明るく照らすのだ。間の柱は、石膏で作られた天使の像や草花の紋様、古高ドイツ語で書かれた詩歌などでびっしりと埋め尽くされていた。調度品についても、ドイツで古くから用いられる一流のものがそろえられ、ソファやローテーブルだけでなく、カウチ、クッション、暖炉などにも、手の込んだ上等なアンティーク品だ。しかしゴールドは、一目見た時からその部屋が気に入らなかった。
 フロアに足を踏み入れたそのときから、ゴールドの鼻はむっとこもった甘ったるい香りを知覚した。これは……香の匂いだ。火をつけて香りを出すタイプのものだ。それから、その強い匂いにかきされそうなほど微弱な紅茶の葉の香り、たばこの煙。早足で廊下を歩き、金の取っ手がついた扉に張り付いて中の音を聞こうとつとめる。まず聞こえてきたのは、またしても、男たちの耳障りなくすくす笑い、それから少年の啜り泣きにもにた息遣い。
 扉は鍵がかかっていなかった。内側へ押し込むと、両開き式の扉の片方がわずかに開いて、その隙間から中が伺えるようになった。シルバーは、あんのじょう少年の声はシルバーのものだったわけだが、二十世紀初期の流行を思わせる絹のドレスを着せられ、男子生徒のひとりの手で膝に乗せられていた。彼がシルバーのドレスの裾をたくし上げ、顕になった真っ白な太腿を教務用の鞭で、どこで手に入れたのだか、激しく打つたび、シルバーはうけた負荷を受け流すみたいにして鼻から息を抜いた。そうして痛みに耐えながら、同時に快楽を感じているはずだった……彼の目! 熱っぽく潤み、涙を流しさえしているその目が、彼の身体のどの部分よりも雄弁だった。頬を染め、唇を歪め、時折首を反らしてうめきながら、彼はさらに泣いた。
「さあ……お姫さま、そのままではいけないよ、わかるね……ぼくを愛していると、そう言ってくれ」
 男子生徒がそう言い、周りの生徒たちも、あるものは茶を啜りながら、あるものはタバコの煙を吸いながらくすくす笑いで取り囲む。火を炊くための陶器の皿に香が増やされてもやが立つ。シルバーはただ頑なに、静かに、目を閉じた。
「神さまよりも愛していると、さあ、言っておくれ、シルバー」
「——お許しください」
 ようやく口を開いたかと思えば、まろびでた吐息混じりの一言に、ゴールドは舌打ちをした。彼氏、まだ神とかいうものに縋り付いているのだ、馬鹿馬鹿しい! シルバーは、少年たちの期待する答えをついぞ言わなかった。彼はただ目を閉じたまま尻に鞭打ちを受け、白い脚で男の身体を挟み、終始身体をぶるぶるさせていた。しまいには気を飛ばして失神し、男の腕の中でぐったりとして動かなくなった。そのすべてをゴールドは見ていた。
 音を立てないよう扉を閉め切り、廊下を引き返す途中でグリーンに会った。そのとき、シルバーのことを、彼が陵辱されているのだということをよっぽど言おうかと考えたが、結局、そうはしなかった。

 もうシルバーとは関わるまいと思い、実際そのように立ち回っているはずなのだが、ゴールドにはどうしても彼に振り回される宿命があるようだった。転入一ヶ月めにして彼は疲れ果てていた。ウォルナットの長テーブルに突っ伏してうめく。並べておいた鉛筆の一本が肘に打たれ、テーブルをコロコロと転がって落ちた。
「大丈夫? はい、落ちたよ」
 白い腕が伸びて鉛筆を拾ったかと思えばクリスだった。丸襟に青いリボンを几帳面に結び、ジャケットの胸元には金の薔薇を誇らしげに輝かせて、彼女は今日もきれいだ。柔らかそうな指が鉛筆を丁寧に揃えて置いてくれる。近距離で揺れる黒髪から南の花の香りがする。
「おう、ありがと……」
「どういたしまして。隣、いい?」
「ん」
 同意を得て、彼女はゴールドが詰めて開けた席に座った。美術史の教本、ノートが二冊、木製の筆箱の中に筆記用の鉛筆が三本、消しゴムが一つ。彼女が赤い方のノートを開くと、昨日の授業で取り扱われた、ゴッホがなぜ耳を切り落としたのか、ということについてのメモがびっしりと取られているのが見えた。文字ばかりでらくがきもないのに、白い紙面が黒く見えるほどだ。
 クリスは堅苦しすぎるところもあるが、快活でやさしく、真面目な女の子だ。彼女を好きになれたらどんなにいいだろうとゴールドは考えた。しかし、目を閉じれば浮かんでくるのはいけすかないシルバーのすました顔、男のものを握ってかすかに震える手指、ミミズ腫れが浮き上がった太腿の皮膚、熱く潤んだ瞳……毎晩のように見る夢、つまり、彼がこちらに向かって、好きだ、と囁く夢。意識から追い出そうとすればするほど強く感じられる空想のために、ゴールドは唸った。
「ゴールド? なんだか元気ないわね」
 クリスの手のひらが伸びてきてゴールドの額に触れる。ひやりとして冷たい。
「熱はないみたいだけど。具合悪いの」
「いや、オレは……シルバーのやつがよ」
「シルバー? 彼がどうしたの?」
「……なんでもねえけど」
 教室の前方扉が開き、長い赤毛の彼が入ってくる。一人だ。美術史は学年ごとに授業が行われるから、つるむ上級生がいないのだ。つんとして歩く横顔をなんとはなしに眺めていたら、ふと目があって心拍が跳ねた。彼は……ほのかに笑い、こちらに手を振って寄越してきた。
 ゴールドが入学式のミサで見たのとも、いつも上級生に振り撒いている愛想笑いでもない、心からの笑顔だった。なんの打算も突っかかりもなく、ただ親愛のためだけに、ふと口角が上がってしまったというかんじだった。一瞬、ゴールドは彼が自分に笑いかけたのだと思い、反射的に笑顔を作ろうとした。しかしすぐに何かがおかしいと思い直す、ゴールドは彼と親しいどころか歪みあってすらいるのではなかったか。理由はすぐに知れた。クリスが満面の笑顔で彼に手を振りかえしているではないか。
 シルバーの方もクリスの隣にゴールドが座っているのを見つけ、途端に眉間に皺を寄せてそっけなく顔を背けた。ゴールドの短気な頭はそれだけでも理性の糸を二、三本、ぶちぶちと引きちぎる。腰を浮かせかけた彼を、しかしクリスの手が引き留めた。
「もう授業が始まるわ、どこに行くの」
「止めるなクリス、あいつ一回とっちめないと気が済まねえ」
「あいつって……シルバーのこと? 彼が何をしたっていうの」
「オレから目ェそらしやがった」
「あら」クリスはさも奇妙なものを見つけたとばかりに目を丸くし、一拍置いて控えめに笑い始めた。「なんだか、ゴールド、あなたわたしに嫉妬しているみたい」
「嫉妬ぉ?」
「わたしばかりに彼が愛想良くするのが気に入らないんでしょ?」
「ばか、ちげえよ」
 ひどく裏返ったゴールドの声は鐘の音にかき消された。教諭が入ってきて生徒たちは途端にしずまりかえる。
 六限の体育の授業ではこんなことがあった。体育館に更衣室が設けられているのに入り、上下白の体操服に着替えていたところに、例の赤毛が入ってきた。彼もこの時間に授業を受けるのだ。
「きついぜ、彼氏……こんなとこでも一緒かよ」
 ジュリアンが小突くのも構わずゴールドは大声で独り言を言ったが、彼は知らぬ存ぜぬといった様子でジャケットを脱ぎ、リボンを解いた。シャツのボタンを上から順番に外し、肌着もすっかりとってしまう。ゴールドは息を飲み、知らず知らずのうちその姿に見入っていた。ひどく掴めば折れそうな白い喉元、細く頼りない手首、汗ばんでいる……無駄な肉は一片もなく、痩せぎすにひきしまった半身、月魄の皮膚に、鳥が小さく啄んだような赤い傷が無数に散っている。
 あの傷はなんだ? シルバーがシャツのかわりに体操着を羽織ったところで、ゴールドはふと我に返り彼から目をそらした。鼓動がうるさい、心臓どころか、その他多くの内臓が喉まで迫り上がってきたような感じだ。キスマーク? 違う、あれはそう、煙草の火を押し付られたあとだ……。
 漫ろ心のままぼんやりと着替えを終え、ぼんやりと柔軟運動を始めた。あとあとジュリアンに聞いたところだと、そのあいだにルッツやエルマが何か話しかけてきたらしいが返事を返した覚えがない。ただ白の体操着を着て長い手と長い脚とをストレッチしているシルバーを遠目で見ていた。やったのは……きっと上級生たちのひとりだ、いつかも煙草を吸っていた……だがいったいなぜ? それほどの仕打ちを受けて、なぜ誰にも助けを求めない? ぼうっとしているうちにサーベルを握らされ、ぼうっとしているうちに同級生のほとんどを突き負け(アロンジェ)させているゴールドだった。別のところでシルバーも鮮やかに勝ちを決め、ふたりは体育館の真ん中で打ち合うことになった。
 銀色に輝くサーベルを構え、シルバーは不敵に笑った。ゴールドがそれに驚く間も無く、「準備はいいか(エト・ヴ・プレ)?」「よし(ウィ)」——剣戟の間合いに飛び込んでくる。金属の剣先が擦れあう軽やかな音、一、二、ゴールドは後ろに飛び退いて体勢を立て直そうと図るが、シルバーはすぐに距離を詰めてくる。ロンぺ・ドゥ、ボンナリエール、ロンぺ、……彼が突いてきたのをかわす! 払って突く! 立て続けに繰り出される技に観客衆がいちいち声を上げて反応する。まずいな、ゴールドは独りごちる、ぼうっとしてたら、本気でいかなきゃ負ける!
「どうした、来ないのか!」
「まだまだ……! 手前みてえなおとこおんなに負けてたまるかよ!」
 態度こそ強気だが、ゴールドはシルバーの刃に確実に追い詰められていた。ようやっとそれを避けて反撃の一太刀を浴びせれば、彼はやすやすとそれを払い、もう一撃、さらにもう一撃、と繰り出してくる。息をつく暇もないほど素早く容赦のない攻撃、重く、鋭く、何より速い。ゴムが解け、長い赤毛が宙に舞い散らばる。そこに目を取られた一瞬の隙をついて、冷たい刃先が首の皮膚に肉薄する!
「……っぶねえ!」
 そのとき、重心を落としてがむしゃらに突き出した一撃、それがシルバーの体操着の襟を潜り、中のものを引き摺り出した。ネックレスだった。ばちんと嫌な音とともにチェーンがちぎれ、遠心力を離れた金のロケットが放り出される。サーベルを落としたシルバーが追い縋ったが、それは細い指先にあえなく取りこぼされ、鈍く重い音をたてて地面に転がった。蓋が外れる。写真が入っている、黒髪を後ろに撫で付けた黒い外套の男——どこかで見覚えがある——と、赤毛の、線の細い感じの女。それが誰なのか見当をつけるまもなく、シルバーの指がチェーンもろともを手のひらで隠した。
「やめ(アルト)! 右の勝ち!」
 念願かなって勝ったというのに、何も言えず、ゴールドはうずくまるシルバーを見下ろした。震えていた。俯いた横顔、歯で強く噛んだために唇が切れて血まで滲んでいた。
「謝った方がいいでやんすよ」
 おずおずと、ゴールドの後ろからジュリアンが言う。
 六限目が終わり、鐘が鳴ると同時にシルバーは体育館を飛び出して行ってしまった。結局ゴールドは彼になんの言葉もかけてやることができなかったが、彼の去って行く後ろ姿を見てようやく、謝らなければという観念に駆られた。荷物や衣類を半ば強引にジュリアンに任せ、ゴールドも駆け足で彼を追った。ホッケー場とフットボール場の間を抜け、走る車を無理やり止めて車道を渡り、ぶどう畑の脇を過ぎた。だがよほど足が速いらしく、例の赤毛はどこにも見当たらない。辺りを見回しながらふと、左手側、庭園の近くで誰かが泣く声を聞いた。
 うっすらと淡い桃色を帯びた秋ばらの茂みの中で、シルバーが泣いている。膝をつき、ちぎれたネックレスを胸の前に抱き寄せて、赤い髪をくしゃくしゃにしながら……嗚咽している……手のひらで涙を拭う、彼らしくない繊細な仕草に、ゴールドは激しく動揺した。胸に込み上げる謂れのない感情のままに右足を踏み出し、一歩、彼の薄っぺらい肩を抱こうとして……誰かいる? 立ち止まり目を凝らした。
 女の腕が彼の首にまわり、やわらかい胸に引き寄せた。長い栗毛に青い目の女、ワンピースにジャケット、青いリボンの取り合わせで学園の、おそらくマリア館の女生徒とわかるが、ゴールドには見覚えがない。シルバーは彼女にねんごろにされていよいよひどく泣き、その背にしがみついて甘えるように擦り寄った。午後の淡い山吹色の光が重なり合う葉の間から差してきて、抱き合う男女を神聖なものにした。言葉もなく立ち尽くすゴールドだった。シルバーはあの彼女のことを好きなのだろうか? あんなふうに恥も外聞もなく涙を流したり、抱き合ったりするくらいには?
「さあ立って」彼女は鈴を転がすような声でやさしく言った。「まずは落ち着きましょう。それから何があったか聞かせてちょうだい……」
 泣き腫らして目ばかりを赤くしたシルバーが顔を上げた。肯き、促されて立ち上がる。頬にはまだ涙の跡が残っている。ゴールドの中で何か張り詰めていたものがふつんと切れた。

 ゴールドは大股で夕暮の回廊を渡る。彼の威圧にすれ違う上級生たちが怯えるほどの気迫で、肩で風を切って歩く。
 図書室は光の差さない北棟の一階に位置する円環の大広間である。ロココ様式の図書室によく見られる、入口から壮麗な装飾と高い天井の室内全体を見渡せる作りになっており、波打つように広がるバルコニーとそれを支える大きな円柱、金の柱頭、美徳と学問を表現する四つの男女像、すべてが彩色された大理石でできている。天井のフレスコ画は後期バロック時代の画家パウル・トリーガの贅を凝らした作品、正面カウンター奥の書架には隠し扉があり、中の螺旋階段を使って上階の回廊に上がることができるようになっている。
 古いロシア文学をめくりながら、シルバーは肘をついてカウンターに座っていた。緑地に金地の腕章、図書委員の証が、左前腕に誇らしく輝いている。キャンドルランプの橙色の明かりばかりが彼の彫りの深い顔をほのかに照らし、そのおうとつや、まつ毛の繊細な輪郭な形をつまびらかにしている。
「何か用か」
 彼はゴールドの顔を一目見るなり、眉をぎゅっと寄せて不機嫌そうな顔つきになった。
「おう、積もる話がよ」
「いちいち絡んでくるのをやめろ、オレはお前になんの用もない」
「そう言うなって、同窓生だろつれねえな。あいつらにはねんごろにしてやってんだろ? オレにだけってえのは不公平じゃねえか」
 彼の銀の目と視線が合い、刹那、ふたりのあいだに青い火花が散った。気に障ったようだ、鋭くすがめた目つきに不満の色がありありと見てとれる。ゴールドは知らずのうちに早まる心拍を持て余す。彼は腰を浮かしかけたのを落ち着け、下からゴールドのことを見上げる格好になった。
「簡潔に済ませろ」
 吐き捨てるように言う。
 ゴールドは咳払いをして、自分の喉がからからに渇いてひりついていることを意識した。息を整え、唇を舐めて湿らせる。ごめん、謝るつもりで来たのだ、たった一言簡潔に。
「手前はよ……男に掘られてアンアン言いやがるいけすかねえ男めかけだが、見直したんだぜ、なあ。まさか女がいたとはな」
 しかし口をついて出たのは、まったく予期しなかった一言だった。
「は?」
「惚けんなよ、きれいな姉ちゃんじゃねえか。おっぱいデカくてさ……」
「何を言ってる」
 質問の形を取りながらも、彼の声は低く、これ以上言えば容赦はしないと、そういった気風である。ゴールドは途端に浮上する自分の機嫌を知覚した。シルバーが見ている、オレを、オレの言葉にいちいち気を逆立てて反応している。愉悦にも似た興奮が湧き上がり、彼はさらに声を高めた。
「茶髪に青い目の、あの女だよ、好きなんだろ?」
「知らない、好きじゃない」
「嘘つくなって、オレ見たんだぜ」
「いい加減にしろ」
 シルバーが息を呑むのがわかった。唇を引き結び、険しい顔つきで睨みつけてくる。それでもゴールドは止まらない。
「だが笑っちまうぜ、手前よ——おかまのくせに女のこと抱けんのかよ!」
「……貴様!」
 瞳孔が収縮する。
 カウンター越しに襟首を掴まれ、力任せに前に押し倒されてゴールドは大理石の床に強く身体を打ち付けた。声を上げる間も無く、カウンターから出てきたシルバーに馬乗りで押さえつけられ、握った拳が持ち上がったかと思えば、刹那、脳みそがかき混ぜられるほど強い衝撃が頬に訪れていた。殴られた、頬ぼねが砕けるほど激しく! 抵抗を許さずもう一発、口腔内の粘膜が歯に擦れ、鉄にも似た血の味が舌の上に広がる。シルバーは息をつく暇もなく、続けて二、三発、反撃しようとして上げた右手は簡単に捕まり、今度はみぞおちに膝が突き刺さる。喉が詰まって呼吸ができない。手前、言葉は形になることなく喘ぐような嗚咽に変わる。
 まるで自分が殴られているかのような悲痛な顔で、シルバーは抵抗するゴールドを蹂躙した。薄い瞼からこぼれた涙が頬につたい、そのことに、ゴールドは抵抗も忘れてしばし呆然とした。運悪くその場に鉢合わせた女生徒が悲鳴をあげる。他の生徒たちが悲鳴を聞きつけて慌てて集まってくる。本校舎から駆けつけたジークフリートは顔を血まみれにするゴールドを一目見て鋭敏に事態を把握し、シルバーに背後から飛びかかって羽交い締めにした。
「何をしている!」
「殺す……殺してやる(ヨ・ビューテバ)! 貴様だけは許さない!」
「シルバー!」
 シルバーは暴れてジークフリートを振り払おうとするも、長身の、大人の彼の腕力にはとても敵わなかった。じれったくその場で身悶えた。ゴールドの方はというと、口の中に溜まった唾液を床に吐き捨て、唇の端に滲んだ血液を拭ってジャケットの袖口になすりつけた。顔を上げ、涙を流し続けるシルバーを見上げる。失敗した、冷えた頭でそれだけを思った。要するに、シルバーを愛していたのだ、ゴールドは。誰にも渡したくなかった。そしてその、未熟な恋のために、愛するその人を深く傷つけた。

 クリスの冷えた指が傷口に触れて、霧吹きで消毒液を吹きかけたのにゴールドは唸る。ベッドに寝かされた格好のまま彼女の手をよけて身を捩る。動かないで、叱咤されて仕方なくじっとしていると、彼女は黙々と治療を済ませ、最後に顔の汚れを白いレースのハンカチで落としてくれた。
「もう……こんなになるまで、いったい彼に何を言ったの」
 ゴールドは緘黙する。
 あのあと、騒ぎを聞きつけてやってきた教諭たちの手によってゴールドとシルバーは北塔二階、生徒評議会室に連行された。カート・ハーンの原則に基づいたセイラムの民主主義精神に従って、学園内で起きた生徒の問題行動は、選挙で選ばれた生徒で構成される生徒評議会によって処理される決まりになっている。ふたりもまた、暴力沙汰を起こして生徒たちの健全な学校生活を妨げたことに対して、議会が決定した処罰を受けなければならない。
 今年の議会は七名、ペテロ館寮監のグリーンと副監のレッド、三年のファーク、マリア館寮監のブルーと副監エリカ、一年のクリスタル、それから修道会から派遣された修道女みならいのイエロー、彼女は議会の決定をキリスト教精神に基づいて監督するために置かれた副メンバーだが、とにもかくにもふたりの命運はこの七人の手に委ねられた。議会室の上座にグリーン、左右に男女別に分かれた生徒たちが座し、ふたりはグリーンに向かい合う形で下座に通された。事情聴取は双方の黙秘によって流れ、議会の検討によって処罰を決定する段になって、柔らかそうな栗毛に碧眼の女、ブルーが訴えた。
「あの子が何のわけもなく人を殴るなんてこと、あるわけがないわ。きっと何か理由があるのよ」
「同意します」と、クリスタル。「普段の彼が信心深く品行方正な生徒であることは、グリーンさんもご承知のことと思います。叙情酌量を求めます」
「しかし彼は……その、素行が良いわけではありません。ただの痴情のもつれということは?」
 ファークが挙手をして言うのを、ブルーは鋭い目つきで睨みつけた。ゴールドは彼女がシルバーを胸に抱いていた女だということにここでようやく気がついた。
「シルバーがあんなバカを好きになるわけないでしょ!」
「感情的になるな。この件に関して申し開きはあるか、ゴールド?」
 立ちあがろうとする彼女を左手だけで制しながら、グリーンが視線をこちらによこす。
「ないです。悪いのはオレす」
「グリーン、あいつ血が出てる。早く治療しないと」レッドがきやすいふうにグリーンの方をゆする。
「そんなことはわかっている、早く終わらせるぞ。シルバー、何か言っておきたいことは?」
「……いえ」
「決定(エントシャイドゥング)。ゴールド、シルバー、両名は一週間の謹慎処分とする。これは生徒評議会議長グリーンおよび議員六名による決定である」
「決定(エントシャイドゥング)。両名は早急に自室に戻り、懺悔のための祈り、灰の十字架のしるしをおこないなさい。これはユンゲブレッター修道院イエローによる決定である。……ただし、ゴールドさんは治療を優先してくださいね」
 イエローの穏やかでやさしい声が議会を閉じた。ゴールドはクリスに付き添われて医務室に運ばれ、シルバーはペテロ館の自室に戻ったようだった。今ごろ聖書を開いて敬虔に祈りを捧げていることだろう。
「心配だわ。ゴールドってば授業も真面目に聞かないしすぐにこうして喧嘩するし、先生にも突っかかっては怒られているし。ちゃんと卒業する気あるの?」
「言うなっての、オレなりに事情があんの。お前こそ夕メシ食いに行かなくていいのかよ?」
 薄いカーテン越しに見られる月はすでに明るい。救急箱を閉じてクリスは、忘れてたわ、丸椅子から慌てた様子で腰を上げる。
「それじゃあ、わたし行くね。大人しくしてるのよ!」
 彼女が後ろ手で扉を閉めると、医務室は途端に陰気臭く静かなものになった。天井の大理石、キリストが天に上げられるさまを描いたフレスコ画を無心で眺めながら、ゴールドは頬の痛みがふたたびぶり返してくるのを感じていた。ちりちりと焼けるような痛み。いまでも骨の上によみがえる圧迫感。シルバーの涙。殺してやる、悲痛な叫び声。いままでゴールドが胸の内で持て余していた、シルバーへの求心は、これは彼に対する横暴な愛情がなすものだった。そのことを自覚したいま、ゴールドはいったいどうするべきなのだろう。彼に謝る? しかし再び彼を訪れたところで、謝罪に応じてもらうどころか、言葉を交わしてもらうことすら難しいに違いない。あのとき、シルバーはひどく傷ついていた。
 食堂に向かう生徒たちの談笑が、廊下を伝ってここまで響いてくる。手持ち無沙汰になり、彼は何とはなしに寝返りを打った。……そのときだった。表の戸が控えめに打たれたのは。
 ゴールドは起きあがり、ベッドの下に脱ぎ捨ててあった制服のジャケットを羽織った。誰だ、こんな時分に。生徒たちはいまごろ夕食にありついているころだろうし、それは教諭陣も同様だ。クリスが忘れ物でも取りに帰ったのだろうか。カーペットの敷かれた床に裸足を下ろし、歩み寄るより前に、音を立ててドアが開かれた。
「おまえ——」
 うすづきの中でもあざやかな赤毛、硝子よりもよっぽどすきとおる白練の肌。海の星の瞳。美しい彼、シルバー、シャツの前をきっちりと閉めた制服姿で、分厚い聖書を片手に静謐な廊下に立っていた。すっかり青ざめた顔色だったが、ゴールドの姿を見とめると、彼はどこか安心したような、心もとないような表情になって相好を崩した。「ぐあいはどうだ」片手でドアを閉め、当然のように医務室の中へ入ってくる。
「あ、いや、べつに……」
「そうか。悪かったな」
 ベッドの縁を手のひらで軽く払い、彼は当然のようにそこへ腰かけた。痩せた身体のわずかな重みにもベッドは音を立ててきしんだ。
「なんでおまえが謝るんだよ、悪いのはオレだろ」
「らしくもないな、どうした。いささか強く打ちすぎたか」
「というか、なんで来たんだよ。殺してやりたいくらい憎いんじゃなかったか」
「懺悔のための祈りは済ませたか」赤のサテンで装丁した表紙を恭しい手つきで開きながら、シルバー、「どうせまだだろう」
「だからなんだよ」
「オレもまだ。一緒に済ませてしまわないか」
「あのな、オレは……神ってやつを信じてねんだ」
「それはそれ、議会の決定は決定だ」
 シルバーの嫋やかな指に促され、なめらかにページが繰られていく。
「神よ、わたしの献げものは砕かれた心、あなたは悔い改める心を見捨てられません」
 水のように清められた少年の声が詩篇を取り上げた。とっとと済ませるつもりらしい。その後ろに、ゴールドはしぶしぶついてゆく。
「父なる神と、主イエス・キリストの恵みと憐れみと平安が、……おまえとともにありますように」
「また、あなたとともにありますように」
 彼は繊細な唇に厳格な言葉を蓄えながら、おだやかな顔つきで微笑みさえした。薄暗い室内で彼の薔薇色のほほ、白い額、銀の星の瞳がほの明るい。ああ、ゴールドは感極まって、すんでのところで泣いてしまうところだった、ただ彼のこの顔が見たかったのだ、友人に対して向けられる、親愛に満ちた衒いのない表情。
「すまねえ」
 言葉は何の突っかかりもなく、ごく自然にゴールドの舌を離れた。
 彼はゴールドの謝罪にも神色自若として、ただ静かな眼差しだけを返した。そのためにゴールドは余計に決まりのない気分になって、枕を抱いてみたり、脚を組み替えたりしながら、所在なく言葉を探した。
「ネックレス壊したこと、そんでもっておまえをひどい言葉で罵倒したこと……オレは、おまえと……ただちっと喋ってみたかっただけなんだ。そんだけのこと、うまく言えなくて、ごめん」
 リネンのカーテンが翻り、その間激から、胡粉色の月が顔をだしてシルバーの頬からあご、首までの天性の輪郭をほのかに照らし出した。ふいに、柔らかいてのひらがゴールドの手首を握り、存外に温度の高いその皮膚に彼は動揺した。その姿勢のままシルバーは祈った。
「主よ憐れみをお与えください。ゴールド、彼女はオレの姉さんだ」
「は」
「ユンゲブレッターの初等部に編入したとき、オレは孤独だった。英語もドイツ語も理解せず日常会話すらままならなかった。初等部四年だった彼女だけがオレを気にかけてくれた。手を引いて、言語や作法、神に祈ることを教えてくれた。そばにいてくれた。姉さんが気にしないなら、彼女とオレの関係を、誰に誤解されても平気だったが」
 彼は居心地悪そうにため息をついたが、手と手を握る力は緩む気配がない。
「どうしてかな。お前にあしように勘繰られるのは嫌だった」
「そうんならおまえ、オレたち良いダチになれるんじゃないか、なあ」
 ゴールドが歯を見せて笑うと、シルバーも、ぎこちなく口角を上げて見せた。

 ——かあさん
 ごきげんよう なかなかお手紙出しませんでほんとにごめんなさい
 家のみんなはげんきですか エーたろうはまた悪戯してるんじゃないですか
 ボクは学校を謹慎になりましたが良い友だちができました
 もうすぐクリスマスですね ドイツ語ではヴァイナハテンというそうです、授業で習いました
 また近くなったらカードを出しますね
 それじゃ、愛をこめて ゴールド

 彼は緩慢な字つきで手紙を書き終えたが、最後署名を書き添える段になって、途端につまらない気分になってこれを破り捨てた。一枚二千ペニヒもする上質な便箋、ジュリアンに借り受けたもの、しかしばらばらの紙屑になってしまえば幾ばくの価値もありはしない。万年筆の先を紙で拭い、屑を籠にまとめて放り込んで、暇をもてあました彼はベッドにごろりと寝転がった。はっきり言って、ゴールドは退屈していた。
 謹慎二日目。初日は、授業に出なくても良いし、口うるさいグリーンや宗教学の教諭にも会わなくて済むと両手を上げて喜んだものだったが、夜になるころにはこれをすっかり撤回する羽目になっていた。ジュリアンは授業に出かけていていないし、厳格なユンゲブレッターの寮に娯楽などあるはずもない。唯一持ち込みを許可されたトランプだって相手がいないのでは話にならない。ゴールドにできることは、適当に料理をして空腹を紛らわすこと、天蓋の木目を眺めること、出すあてもない手紙を書くことくらいだ。自宅に残してきたテレビゲームがひどく恋しい。
 少しばかりのうたた寝のあと、ようやく何か食べる気になって、彼はのそのそとベッドを出て階下に降った。
 冷蔵庫には、たまごが二つ、レタスサラダ、バイエルン州の伝統的な茹でるタイプのソーセージ、バターひとかけ、眠れない夜のためのコニャック……その中からソーセージを取り出して、鍋の中に沸かしておいた熱湯の中に塩とまとめて放り込む。茹だったのを皿に取っておいて、粗熱をとっている間にフライパンに油をひいて、そこに軽く解いたたまごを落とす。半熟になったところでソーセージをざく切りにして混ぜる。粗挽き故障を振りかける。
 テーブルについてフォークを取りながら、この日何度目かも分からない溜息をつく。一人の食卓は味気ない。この一月で、友人たちと大騒ぎしながら摂る食事に、彼はすっかり慣れてしまったのだった。胡椒をたっぷりかけたはずのスクランブルエッグも、どこか薄味に感じられる。
 ふと、冷蔵庫の中に半量近く残ったコニャックの存在、その琥珀色を思い出し、ゴールドは椅子から立ち上がった。そうだ、同じだけ暇を持て余しているはずのものが、この学園には一人いるではないか。
「規則違反だ」
 ペテロ館二階から五階までの部屋を一つ一つ周り、それぞれ呼び鈴を鳴らして回るという荒技の末にようやくシルバーの部屋を割り当てたゴールドを、本人は至って冷淡に迎え入れた。
「言うなって、ダチだろ。良いもん持ってきたからさ」
「……、アルコールは法律違反だが」
「まーお堅いこと言いなさんな、入るぜ」
 シルバーの部屋は、五階の、ペテロ館においては寮監室にあたる場所にあった。信心深い神の子羊たちが集まるパウロ館には寮監じたいが不要ということで、各々自分の生活は自分で律し、空いた寮監室は何故かシルバーに割り当てられているというわけらしかった。薔薇と天使を浮き彫りにしたマホガニーの堅牢な扉の印象に反して、中は至って簡素な屋根裏部屋だった。白い大理石の床に白い壁紙、ユンゲブレッター城の中庭や校舎、礼拝堂などを一望する両開きの窓、小さな作業机に本棚、木を組んだだけの質素な寝台。南向きの壁に飾られた木製の十字架、それから聖マリアの肖像は、彼の深くひたむきな信仰を思わせる。
 自室にあって、彼はシャツにスラックスとリラックスした格好でいた。袖がまくられて剥き出しになった腕がゴールドのために作業机から椅子をひいてくれた。
「まあ乾杯と行こうや」
「いや……少し待ってくれ。課題を済ませてしまいたいから」
 ゴールドの誘いに断りを入れてベッドに腰を下ろし、彼は鞄の中からなにがしかの辞典と、ハードカバーのおもたそうな聖書を取り出した。彼が開いたのを覗いてみるとどうやらギリシア語だ。アルファからオメガまで、見慣れない文字がずらりと並んでいる。
 ガラス張りの戸棚から紅茶のためのカップを二つ、そのうちの一つに少しばかり、琥珀色のアルコールを注いで、ゴールドはこれをちょっと舐めてみた。オークの樽の中で何年もじっくりと熟成された蒸留酒だ、レモンやハーブ、スパイスのほか、かすかな木材の匂いも混ざって鼻先で芳醇に香る。彼はすっかりいい気分になって、シルバーの隣に座り、その背に重たくもたれかかった。
「ゴールドおもい」前屈姿勢になりながら、苦しそうな声でシルバーが訴える。
「いいだろお、なあギリシア語楽しい?」
新約聖書ギリシア語で書かれた。当時ヘレニズム世界で流行したコイネーと呼ばれる種類のもので、現代ギリシア語とは異なるが、それでも英語やドイツ語で読むよりはキリストの素の言葉により肉薄することができる」
「素の言葉に近づいて、それがなんなんだよ」
「英語では愛をただラヴとだけ訳すが、ギリシア新約聖書においては三種類の愛が定義される。それぞれ種別の異なるものだ、たった一つの言葉に無理やり集約できるものではない。このように、聖書を正しく理解するためには、粗悪な英語、過飾のドイツ語ではなく、当時の価値観により近いものを共有するギリシア語で読むのが適当だ」
 生真面目なシルバーの演説を聞きながら、ゴールドはまたコニャックを舐めた。
旧約聖書においては古代ヘブライ語が用いられるが、ヘブライ文字の理解は非常に難解だ。よって、底本から史上初めて翻訳されたギリシア語がここでも重宝されるというわけだ」
「なあ、おまえがそんなにも神さまを愛してるの、なんでだ」
 シルバーが顔を上げ、なぜそんなことを聞くんだとばかりの表情でまばたきをした。ゴールドは、促されて居心地悪く言葉を継ぎたす。
「神さまは偉大ですなんでもできますっていうけどよ、オレはやっこさんが何かしてくれたことなんて一度もないと思ってる、ていうか、いないだろ、オレの父さんはおまえみてえに毎日毎日真面目に祈ってたけど、結局長患いに勝てなくてあっというまに死んじまった。ほんとは大したことないんじゃないか? お祈りしたって時間の無駄じゃないのか?」
「前提として、おまえは認識を違えている。一つ、オレは別に、願いを叶えてほしくて神を信奉しているのではない。二つ、神は便利な魔法じゃない。祈りは物理的な現象を呼び起こすものではなく、人間が本当に一人になったときに、それでも生きる希望を見出すためにその存在の中で燃えているものだ。神はオレたちの苦痛に対して沈黙を貫くが、何も存在しないわけじゃない、沈黙しているというかたちこそが神そのものなんだ。幸せなおまえにだって、死ぬときにはわかるさ」
 話を終えて、シルバーはゴールドの背にもたれかかり返した。彼の長い髪が首にかかってゴールドはくすぐったく笑った。
「気が変わった。オレにもすこしくれ」
「強いぜ」
「かまわない。前後不覚になりたい気分なんだ」
 ゴールドが人差し指でわずかばかり掬った分を、シルバーが舐めた。やわらかい桃色の唇が神経の多い指先を掠めるような軽さで触れる。そのとき、指先から熱い口腔、薄く白い皮膚に包まれた細い喉を通って腹の中へ落ちてゆくわずかばかりのアルコールに、ゴールドは共感して思わず鼻先を赤らめた。むせ返るような強い香りに、彼がにわかに喉を詰まらせてむせた。
「おいおい、こんなぶんので……」
「はじめてなんだ」
 もうアルコールが全身に回ったのか……うっとりとまなじりを下げ、シルバーは頬を赤らめた。

 次の日、彼の部屋を訪ねると、大きなチェス盤が用意されていた。黒と白の大理石を交互にはめて方形を作った盤に、それぞれ金と銀に塗装された駒が並べられしんしんと光を帯びていた。
「どうせ来ると思って、姉さんに借りた」
 銀のクイーンの駒の底ばかりが不自然に剥げているが、彼女は女王遣いだったのだろうか。
 シルバーはチェスがうまく、例の姉さんと日常的に打ち合いをしているのだとすぐに知れた。彼はビショップ、僧侶の駒を巧みに打ち、わざと打ち筋をぼかしてゴールドを撹乱させた。対してゴールドはチェスなど遊んだ試しがない、かろうじて父親と何度かオセロをプレイした程度だが、ルールも勝利条件も異なるこのゲームにずいぶん苦心させられた。しかし、はじめは負けばかりだった彼も、ルールを覚えれば次第に勝ちすじが見えてきて、持ち前の運と勝負力でポツポツと白星を上げるようになってきた。これにはシルバーも興味をそそられたようで、ゴールドが持ち込んだソーセージやチーズをつまみ食いしながら、ふたりは夕べになるまで絶えず盤を鳴らし続けた。
「チェスは、もともとインドで遊ばれていたチャトランガというゲームが源流で、そのときは僧侶や女王の代わりに象や馬がいたんだ。しかし、これが西欧で流行したさいにキリスト教の文化を吸収して、駒の役職が変化したほか、その形も十字架をあしらったものなどに変わっていったらしい」
「ふーん……チェック」
「ふ、そんなところに置いていいのか。チェックだ」
「ぐあ、やるな」
 負け越したことに納得がいかなかったゴールドは翌日も彼の部屋をおとずれた。朝早くに訪問したにもかかわらず、彼はきっちりと制服を身につけてゴールドの来訪を待っていた。午前中を対局に終始し(このころには、ゴールドが勝つことも珍しくなくなっていた)、午後には故郷に手紙を書くというシルバーに付き合って、ゴールドも母に向けてまじめに手紙を書こうという気になっていた。
 彼は作業机に、そっけない白地の便箋とブルーブラックのインク瓶を広げ、つやつやとした金の先をそなえたつけペンで几帳面な字を書いた。
 おとうさん、
 ゴールドも隣に屈んで、彼に借りた便箋に万年筆の先をくっつけたまま、流れるような筆記体が紙の白さの中に滲んでゆくのを見ていた。
 セイラムは、ラビリントの桜の樹も真っ赤になるころです、そちらはいかがですか、もう雪が降っていますか ラテン語は対格支配の前置詞に入りました、場所ひとつをとっても無数の単語があって難儀しています
「なに見てるんだ」
 彼は唇をとがらせて、不満そうな声で言った。ゴールドが彼の字を眺めていたのは、たしかに美しい字体だが、その青さがひどく病んでいるように思われたからだった。
「出身、北のほうか」
「ああ……一年中土が凍ってる」
「戦争してるだろ? 無事だといいな」
 彼はしばらくのあいだ黙りこくっていたが、やがてあいまいな感情を目によぎらせ、首を横に振った。
 その夜には彼の部屋に泊まり込むことにした、ゴールドが勝手に決めたことだが。一度パウロ館の自室に戻り、パジャマ姿でグリーンの点呼をやり過ごしてから、再び部屋を出てペテロ館に戻ってきた。彼はくるぶしまである丈の長いネグリジェでゴールドを迎え入れた。ワンピースにも似て、美しい彼はまるで天使の少女のように、ゴールドの前に清潔で愛らしく、まるで幽眇として立っていた。
 小さなベッドの中にふたりして潜り込む。「狭くないか」彼が身を捩ると、雪が降る前の大気や、白いジャスミンの花にも似たにおいが香った。
「別に」
「そうか」
 近距離で彼の声は低められて甘い。やわらかい少年の身体がゴールドに寄り添った。ゴールドはすぐに寝入ったが、ふしぎとあの夢は見なかった。

「神さま——」
 夢のない、ただ茫漠と暗闇だけが広がる眠りを、悲痛な叫び声がちりぢりに引き裂いた。
 ゴールドは跳ね起きた。意識がぼやつく中、それが自分ではなく、シルバーの声だったのだととわかるまでに時間がかかった。右隣を顧みる。シルバーもまた覚醒していたが、その目は限界まで見開かれ、額にびっしりと汗をかいていた。唇は血の気が引いて震え、下瞼からはひっきりなしに涙がこぼれる。顔色も真っ青だ。手に触れて、その身体がひどく冷えていることを知った。
「シルバー、シルバーどうした」
「あ、あ……?」
「大丈夫か。息できるか」
 シルバーは生白い喉をそらして喘いだ。何か訴えようとしているが、胸がつかえて、舌もうまく回らないようだった。痙攣する指先ばかりが弱々しくゴールドに縋る。ゴールドは夢中になってシルバーの薄い肩をかき抱き、逡巡のまもなく、その唇にねんごろなキスをした。
 触れた皮膚は淡雪をつぶすようなやわらかさだった。つめたく、しっとりとして、やさしく食めばかすかに涙の香りがした。甘い。彼の嗚咽がなかなか落ち着かないのを見てとって、ゴールドは何度も何度も、やわらかな粘膜を吸い上げては舐めた。彼の湿った呼気とゴールドのため息が混ざる。彼の潤んだ瞳がゴールドの目に視点を結ぶ。嗚咽の嵐が去ったあと、彼はゴールドの肩に頭を預け、くたりと全身の力を抜いた。
「だいじょうぶか、オレがわかるか」
「ゴールド……」
 さいごに彼が、ゴールドの頬に触れるだけのキスを浴びせた。「ごめん、ありがとう」
「どうしたんだよ」
「わるい……ゆめを見ていたみたいだ」
「夢?」
「なんでもない。今、何時だ」
 午前三時だ。起床するにはだいぶ早い時間だ。もうちょっと寝てろよ、そのように言うと、彼は素直にうなずいて再び毛布に潜り込んだ。起き上がった体制のままのゴールドの手首を握り締め、胎児のように身体を丸めて目を閉じる。ゴールドもゴールドで、さっさと寝てしまおうかとよほど考えたが、いまだに震えているシルバーを見ているとそうもいかないのだった。
 小さな窓から墨染めの空を見る。月はないが、薄い雲が切れ切れに流れる中に、赤や青や橙の星がぼんやりと紛れている。遠く風の音を聞いているうちに、やがてゴールドにも眠気が漣のように押し寄せてきた。毛布を肩までかぶり、ふとシルバーが目を閉じているのを見ると、彼の、血色の透けた薄い瞼から、放り出すような形で一粒涙が流れていった。

 七日間の謹慎処分も最終日。日曜日の午前、生徒も教諭も社会奉仕に駆り出されるか修道会の日曜ミサに駆り出されるかしていたので、校舎内は人もまばら、その隙を狙って今度はシルバーがゴールドの部屋を訪ねてきた。さすがの彼もチェス盤を持ってくることはかなわなかったらしく、代わりにトランプをして遊んだ。
「あれからどうなんだ」
 ひっくり返した二枚目のカードがハートのエースだったのに舌打ちをして、一枚目はハートの2だったのだ、これを元に戻しながらゴールドが尋ねる。
「ん……まあ、まずまずだ」
 即座に別の場所からハートのエースを見つけ出してきたシルバーはすまし顔で答えて、「それより明日から授業だが」
「まだ課題済んでねえや。おまえ終わったの」
「ああ」
「さすが優等生、くそ、終わってないわけねえよな」
 大差で決着がついたゲームを、カードをかき集めることで終わらせながら、ゴールドは悪態をついた。集めたカードをシャッフルしていると不意に彼が立ち上がり、天鵞絨の赤いカーテンに覆われたアーチ窓の方へと寄っていった。映画の中のお姫様がするみたいに、カーテンを両手で開く。白い光が部屋の中へにわかにふくらみ、彼のほっそりとした輪郭を明るく縁取った。
「おまえに夢はあるか」
「ゆめえ?」
「そうだ。オレは、司祭になって、誰も訪れないような田舎の修道院で日曜のミサを執るのが夢なんだ。そのためだったらどれだけでも頑張れる」
 声は朗らかでさえあったが、セイラムの町を見下ろす横顔はどこかうつろな青い影を帯びていた。澄んだ銀の虹彩に、緑青にも似た淀みが降りているさまなど、まるで彼が投げかける言葉の先に不幸でも暗示しているみたいな格好だった。ゴールドは立ち上がり、彼のそばに寄ってきてその肩を抱いた。驚いた様子で振り向く彼にたしかな手応えを感じる。濡れた瞳の投げかけるまなざしと、ゴールドの視線が同じ感慨に兆す。ふたりは自然に鼻先を近づけ、それと同じ速度で瞼を閉じ、やがて再びお互いの唇を出逢わせるのだった。
「そんならさ、おまえもうセンパイたちんとこ行くのやめろ」
 唇が離れ、それでもまだ間近にある彼の美しい顔を余すことなく見て、ゴールドは言った。
「ゴールド」
「オレが代わりになってやる。オレを使え。何にも先んじてオレを尊重しろ、おまえ自身をオレだと思って大事にしろ」
 おまえが好きなんだ。——ほんとうに言いたいことは何一つ言葉にならないのに、言い訳ばかりが口をついて出た。先んじて、まだ幼さを残した少年の指ばかりが、彼の頬をやさしく慈しんだ。シルバーは……もの言いたげに瞼を伏せ、しかし何も言葉にすることなくそれに甘えた。唇は感謝の言葉に萌して薄く開かれる。
 暖炉前のぶあつい絨毯や、大理石の床に伸びた白い光の帯の中で、ふたりはいつまでも一緒だった。

 十一月がやってきた。実りの季節だ。セイラムの町を覆うカエデや菩提樹は赤々と紅葉し、そうでなくとも、トウヒなどが熟した果実を一斉に落として鳥たちを喜ばせる。シュロス湖畔では赤くなるレッドオークとそうでないグリーンオークが、競い合うようにして実を膨らませる。学園でも、みずみずしく張り詰めたぶどうがなり、マリア館の女生徒たちがこれを踏んでワイン醸造の準備をする。秋休みのあいだ、帰省していた生徒たちが学園に戻ってくる。
 休み明けの最初の授業は美術史の授業だった。が、生真面目に背筋を伸ばして最前列に座るシルバーと、行儀悪く足を投げ出した姿勢でその隣を占領するゴールドの存在は、生徒たちの間にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。
「邪魔だ」
 シルバーが遠慮なくゴールドの脚を掴んで下ろしたのもそうだが、
「いいじゃねえか、な、それともおまえが脚おきになってくれんの?」
 親しげな様子でシルバーに接するゴールドの存在についても、とくに彼と親しくしていた生徒たちはみな耳目を疑った。あれだけ大ぴらにシルバーを邪険にしていた彼に一体どんな変化が訪れたものかと、まさか彼もおめかけに誘惑されて引っかかったのかと、そういった噂を囁き合ったものだった。
 昼休憩には、ゴールドが同級生たちを引き連れて例の野晒しコートでバスケットボールをするのが半ば恒例になっていたが、その日はシルバーも引き摺り込まれてゲームに参加した。女のような身体つきの彼だが、異様なほど運動神経が良かった。生徒たちにエースのように扱われチーム間での取り合いになることもあったゴールドとも、まったく対等に渡り合えるほどだった。そのふたりが運悪く同じチームになり、Bチームの諸兄は非常に苦しい戦いを強いられた。
 ひしめき合う少年たちの間を猫のような身軽さとしなやかさですり抜け、追い縋る手をかわし、シルバーはゴールドに向かってパスを打つ。難なくこれを受け取ったゴールドが、十メートル近く離れたゴールに向かって力強いシュート、三点、歓声が上がる。
「やったぜ」
「オレの出したパスの場所がよかっただけだ」
「こいつ!」
 汗ばんだ手のひら同士が軽快な音を立ててぶつかり合う。後ろから抱きつこうとするゴールドを、シルバーは巧みな動作で避けた。
 同室のジュリアンは、そうした彼の変化も承知の上で物分かり良く黙っていたものの、それにしてもふたりによく振り回された。六限の音楽を終え、エルマたちと次の授業に向かっていた彼はふと、音楽室に聖歌集を忘れてきたことに気がついた。彼らに断って生徒たちの群を離れ、建て替えられてから五百年弱の、もうすでにがたがきて踏み込むだけでもぎしぎしいう階段を上り、西はずれから三階中央まで小走りで向かう。
 音楽室は、もとは皇帝の間として使用されていた部屋で、校舎で最も広く、また贅を凝らした空間となっている。四方の壁は天使やつる植物をかたどった繊細な石膏細工で余すことなく埋め尽くされ、随所に小さなフレスコ画をはめ込んである。高い位置に点在するあかりとりの窓からは燦々と光が降り注ぎ、これが磨き抜かれた大理石の床に反射して室内をほの明るくする。光の当たらない場所には、ピアノ、ハープやチェロ、コントラバスマリンバビブラフォンなどの打楽器、サクソフォン、ホルン、その他世界中から取り寄せた上等な楽器がさまざま収められている。
 ドアを押し開けたジュリアンは、並べられた椅子の向こう、大きな黒檀に備え付けられた長椅子に、誰か生徒が座っているのを見た。反射的にドアに身を隠し、目だけで覗いて見ると、噂の渦中のふたりが同じ椅子を共有する形でピアノに向き合っていた。シルバーはともかく、ゴールド、アメリカからの粗野な編入生、実際ジュリアンも手を焼かされているわけだが、彼がピアノを弾くのか。驚きとともに興味を惹かれ、首を伸ばしてことさらに目を凝らすと、背を向けているふたりが、何か話しているのだということもわかってきた。
「弾けよ、オレが左手やるから」
 ほっそりとしたジャケットの肩を抱き、低い声でゴールドが言う。
 ジュリアンとて、初等部のころからユンゲブレッターで高等教育を受けてきた身である、アヴェマリア、バッハの前奏曲第一番を伴奏に、グノーが作曲したピアノ曲だ。シルバーがおずおずと慣れない指運びでメロディを弾き、ゴールドはそれに寄り添わせる形で和音を、ほかシルバーが外したメロディーを右手で補完した。
「うまいぜ」
 彼の声音の甘いことに、ジュリアンはすっかり出ていけなくなって、音楽室のドアの前で立ち尽くした。午後の琥珀色の光がはじける中でふたりは演奏を終え、しばらく感慨深そうに視線を交わしたあと、どちらからともなく唇をこすり合わせた。鍵盤を離れてそのままの、少年の指が、熱っぽく上気した頬を驚くほどやさしく愛撫した。外では風がいっそう吹き、枝からひとひら、赤くなった楓の葉をちぎり落とした。閉じた瞼を震わせながら、より一層深くなる接吻にシルバーが嗚咽する。二本の腕が頼りなくゴールドの背にすがる。
 始業の鐘が鳴ったあとも、彼はそこでふたりの秘密に立ち会っていた。

 日曜もふたりは一緒だった。午前、社会奉仕の名目で保育園で不器用に子供らと遊んだあとは、カエデが水面にあざやかな黄色を落とすシュロス湖で泳いで遊んだ。芝生の上でスラックスを脱ぎながらゴールドは、上半身を午下の光の中に晒して遊ぶシルバーの姿を目で追いかける。外に向かってみずみずしく張り詰める、冬の海を泳ぐ白魚の鱗色をした肌。目も覚めるような赤い髪、彼がこれを手で避けたときあらわになる無防備なうなじ。うっすらと筋肉がついて引き締まった腹、慎ましく結ばれたへそ、水の中で鷹揚に広がる細い腕。水面に反射するまぶしい陽に瞬きを繰り返すさまを、とおくの星を望むような気持ちでゴールドは見た。
「来ないのか!」
 よく通る声で彼がゴールドを呼ぶ。
 ようやく下着一枚になって、ゴールドもまた水中に飛び込んで重力から解放された。白く泡が立つ。飛沫が飛び散って彼が楽しげな悲鳴をあげる。澄んだ水の中で、濡れた手のひらがゴールドの前腕をひく。人に慣れた様子の鴨が親子で目の前をよぎり、向こう岸では若い男女がふたり、小舟で恋の冒険(アヴァンチュール)に漕ぎ出している。芝生の上で昼食をとる家族連れもいる。
 ふたりは息を止めて水の中へ潜った。水中であるにもかかわらず、シルバーの美しい顔のおうとつ、きらめく瞳はじゅうぶんすぎるほどはっきり見えた。強く引き寄せられ、脇の下に腕を回される。彼の甘い皮膚の中で、心臓の音が海なりのように響いている。二つの若い肉がゆるやかな水圧のなかで一つになる。ゴールドは、シルバーにキスをした。ゴールドのそば以外にゆくあてもないさみしい唇だ、シルバーの、唇……冷たくてやわらかな……
「くすぐったい、やだ」
 水から上がるや否や、細い指がゴールドの顎を押しとどめた。
「ん……さいきんささくれがな」
「さわるな、あとでクリームを塗ってやるから……」
 仕方なさそうに言うのに、薔薇の花びらが風に揺れるみたいな動きだ、彼の唇は……誘われるままにもう一度、甘やかに口付ける。逃れようとする細腰を抱き、手首を握って、指先までを握りしめて捕まえる。閉じ込める。彼はもう逃げられない。
「やだ……」
「うそつくなよ」
 首の後ろを指で固定し、より深く、彼の皮膚の味を官能に染みこませる。
 そのとき、太陽が分厚い雲に隠れて辺り一面が青く陰りを帯びた。冷たい風が一陣、湖面に幾重もの漣を呼び起こし、それがふたりのところまでも波紋した。シルバーがはっとして顔を上げた。

 ——に対する軍事侵攻における……は頓着状態を見せ、……国防長官は……より多くの戦車や装甲車を……
 ラジオは雨のために音質の悪い状態が続いている。
 ふたりは急の雨に襲われ、シュロス湖から一キロメートル弱を走って学園に戻ってきた。パウロ館のシルバーの自室で、彼はシャワーを浴び、ゴールドはずぶ濡れのまま床に座って順番を待っている。そのあいだラジオでも聞いていようということになったのだが、雨雲に妨げられうまく電波を受信することができないでいる。その内容もなかなか明るい話題ではない。電源を切ってアンテナをたたみ、用の住んだラジオをベッドに放り投げて、焦れたゴールドは立ち上がった。
 全面ガラス張りのシャワールームの中で、シルバーはその薄い身体を泡でいっぱいにしているところだったが、ゴールドが入ってきたのを見とめると、頬を花の色に染めて俯いた。あれだけ健全なパスを打てるくせに、妙に頼りなさげなつくりの腕が自らの身体を覆う。
「なんの用だ」
 彼の問いに応答しないまま、ゴールドはガラス越しに優美な佇まいを見せる彼の身体を偏執的に見た。華奢な骨格、極限まで無駄を削ぎ落とされた薄くしなやかな肉。迫り出した肋骨の形。薄い胸に、桜の蕾を思わせる小さな薄桃色の乳頭。まどかな輪郭を描く尻。学園の年長者たちがみなみな溺れた肉体だ。濡れた服をタイルの上に脱ぎ捨て、ゴールドも裸身になって狭いシャワールームの中へ押し入った。
「もう待てねえから、一緒に」
「ばか、だめだ!」
 狭い空間で肌と肌が密着する。抱きついたゴールドの、熱く湿りけを帯びた吐息が頸を撫でるのに、彼はあえやかな悲鳴をもってして報いた。シルバーとてきよらかなものではない。ゴールドが何をしようとしているのか、十分すぎるほどに理解しているはずだ。
「あ、や」
「シルバー」
「ゴールド、待って、ここじゃやだ……」
 震える彼の手が壁を這い、やがて水栓をつかんでひねった。睡蓮の形のシャワーヘッドから温水が勢いよく噴き出してゴールドの顔を直撃する。
「ぶ、何すんだ!」
「こんなところで盛るな! シャワールームは身体を洗うところだ、早く身体をきれいにして、そうしたら——」
「したら何」
「いいから……とっとと済ませてこい!」
 すっかり泡を流してしまうと、彼はぷりぷり怒りながらシャワールームを出て行ってしまった。ひとり残されたゴールドは溜息をつくと、自分も手短に身体を洗い流した。
 湯浴みを終えたゴールドがバスタオルを羽織って部屋に戻ったとき、シルバーはベッドの隅で足を組んで座っていた。近寄ってその隣に並び、まだしっとりと水気を含んでいる赤髪をかき分けて白い額に唇を寄せる。頬を赤くしているからさっきの件で照れているのだと思ったら、右手に空の瓶、左手に冷茶用のグラスを持ってふにゃふにゃ笑う、彼はすっかり酩酊していた。ラベルに見覚えがある、随分前にゴールドがそのまま置いていったコニャックの瓶だ。半量弱は残っていたはずだが。
「シルバー……おまえ割らないでその量飲んだの?」
「うふふ」
 素面の彼が絶対にしないような、やわらかく甘やかな笑いかた。おぼつかない手指が、湯上がりの熱を帯びた首にからみ、シルバーはゴールドに猫のように擦り寄った。
「ゴールド、待っていたぞ」
「はあ⁉︎」
「許すから……好きなように触って、キスして」
 うっとりと言ってシルバーは、シャツのボタンを自らの手で外し始めた。髪から滴った水の流れる胸郭、乳頭、またなめらかにくびれた腰骨から下腹部、さらに恥骨の奥までもを、ゴールドの前に晒し出さんと動いた。ボタンを外したままのスラックスの隙間から、陽に焼けることのない真っ白な肌が剥き出しになっている。下着を、着けていない。かっと頭に血が上り、ゴールドは彼の肩を力に任せて引き倒した。
「あ……」
「手前、いいんだな……そんなふうにして、ただじゃ済まねえぞ」
 小さな頭が臆面もなく頷く。
 肩を掴んで固定し、揺蕩う薄い蝶の羽のような唇に激しくキスをした。下唇を軽く甘噛みし、驚いたか彼の一瞬の隙を狙って今度は舌をねじ込んでやる。慎ましく並ぶ歯をなぞり、口蓋をくすぐり、奥で初心に縮こまる舌を絡め取る。互いの唾液を吸い、混ぜ、本当に一つのものになろうと動く。アルコールがまわり、彼の粘膜は甘く熱い。夢中になって貪るうちに、ふと、彼がくったりと力を抜いたのがわかった。
「シルバー?」
 鼻から抜けてゆくおだやかな寝息。あろうことか、彼はすっかり眠こけていた。

 十一月も末、キリスト生誕の祝日クリスマスを待つ降誕節アドベント)が始まり、ユンゲブレッターはにわかに騒がしくなる。生徒たちはみな町に出てクリスマスの飾りやプレゼントなどを買い、日曜日には、南に降りて五百メートルほどの場所にある国有林に出かけて行って、学園内に飾るツリーのために小さなオークの木を伐採する。各部屋に校長からアドベントカレンダーが配られ、一日にたった一つしかない中身のチョコレートのために初等部の生徒の中からちらほらと喧嘩するものが現れる。一日に一台しか来ないトラックに乗って、国内外から気の早いプレゼントが届き始める。クリスマスカードも大量にやってくる。
 初雪が降る月曜日の朝、ゴールドにも母親からプレゼントが届いた。サンタは副監のレッドだった。にこにこと気の良さそうな笑顔で彼は、起き抜けで不機嫌なゴールドの鼻先にひと抱えもある大きな箱を押し付けてきた。てかてかした金色のラッピングに緑のリボンがかけてある。
 火を炊いた暖炉の前で、本人よりもわくわくするジュリアンと一緒に封を開けた(驚いたことに、ジュリアンは両親のないみなしごで、いまは知人の生物学者に養育してもらっているとのことだった。ただでさえ金のかかる寄宿学校に入れてもらっていて、その上プレゼントなど望めないと言う)。ナッツの入った砂糖菓子、靴下、手編みのマフラー、ぴかぴかの運動靴、羊毛のコート、フルーツやハーブを合わせたグリューワイン、瓶詰めのストロベリージャム、数学についての分厚い学術書、日本の山を貝の真珠層で描いた万年筆まである。
「すごいでやんすね」呆気に取られ、ため息混じりにジュリアンが言う。
「他に金の使い道がねえんだな。多分オレの分だけじゃないし」
「ゴールドくんの分だけじゃない?」
「ほら」
 黒い紙面にクリスマルベルを箔押ししたカードには、さっぱりとしたブロック体でこうあった、——メリークリスマス。お友達と分けてね——
 ゴールドは運動靴とワイン、ジュリアンは半ば押し付けられる形で靴下を選んだ。その足でシルバーにもほどこしてやろうと彼の部屋を訪れたら、彼も朝のうちに家から手紙をもらっていたらしく、ドアを開けて迎えた顔は喜びのために明らんでいた。ゴールドも手紙を見たが、どことなく奇妙な風体だった。ごく普通のクリスマスプレゼントの形式を取った薄い箱から出てきたのは大判の茶封筒ひとつ、それにコンフィデンタルのスタンプが押され、封を開けるとさらに小さな封筒が出てきて、ようやく本文に入ったと思ったら暗号で書かれていた。シルバーは手紙を読みながら、実に幸福そうに笑み割れた。
「なんて書いてあるんだよ」
「手紙をありがとう。ラテン語は聖書理解のために重要な言語のひとつだ。これからも励みなさい。父より」
「そんだけ?」暗号の分量に対して、その内容はひどく簡潔だ。
「ああ。でも……すごく嬉しい」
「ふーん……」
 シルバーはマフラーを選んだ。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」
「わたくしと! 一体どういうことでしょうか、わたくしには見当もつきません」
 長衣を纏ったグリーンが厳かに告げることに、シルバーは薄いヴェールの中で首を垂れ、赤髪を垂れて報いた。生徒たちはその様子を固唾を飲んで見守っている。
「恐れることはない。見よ、あなたは妊ってひとりの嬰児を産む。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子ととなえられる。主なる神は彼にダビデの王座をお与えになる。そして彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その栄光は限りなく続くでしょう」
「どうしてそんなことがありえましょうか、わたくしはまだ男の人を知りませんのに」
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。ゆえに、生まれる子は聖なる者、神の子である。神にできないことは何一つない」
「わたくしは主の婢女(はしため)です。御言葉通り、この身になりますように」
 シルバーが最後の台詞を言い終えて、ふと礼拝堂の中にライトが戻る。丸めた台本を手のひらで叩きながら長椅子から立ち上がって、レッド、「グリーンセリフ飛んでたぞー」
「どこだ」
「〈見よ〉の前、〈主はあなたを祝福された〉だろ」
 ローファーの底を鳴らして内陣から降りながら、グリーンは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、長椅子の前に置いた台本を手に取った。該当のページを開き、〈主はあなたを祝福された〉を鉛筆で大きく囲む。
「シルバー、よかったぜ」
「ありがとうございます、レッド先輩」
 淡白に頷き、シルバーも内陣を降りてヴェールを取った。
 十二月になり、いよいよ本格的にクリスマスの準備が始まった。下級高等学校の男子生徒たちはこの礼拝堂で降誕劇を上映することになり、そのための練習に日々励んだ。シナリオはこうだ。イスラエルの北の町ナザレに住むマリアは、婚約者ヨセフとの結婚を控えた年若いおとめ、そこに神の使い・天使ガブリエルがやってきて、彼女が神の子イエスを産む事を予告する。一方、イスラエル一帯を支配するローマ皇帝アウグストゥスが国民に住民登録を義務付け、マリアはヨセフと共に戸籍のあるベツレヘムの街へと旅をする。しかし、押しかけた人々のためにどこの宿も満員、しかたなく身重の彼女は街外れの馬小屋に身を寄せ、そこで予告通りイエスを産む。各地から羊飼いや三人の賢者たちがやってきて、神の子の誕生を祝福する。レッドが演出、ファークが舞台監督を務め、そのほかの役所は自他問わず立候補制度によって割り振られた。グリーンが大天使ガブリエル、シルバーが聖マリア、ジュリアンが羊飼いの子供、そしてゴールドは東の国から訪れる三賢人のひとりだ。
「じゃあ休憩挟んだらもう一回な」——レッドが号令をかけ、内陣に集まっていた生徒たちは三々五々に散っていく。シルバーも、ワンピースにも似て、胸から足先にかけて青く垂れた美しい衣装のまま、後部座席に脚を組んで座っていたゴールドのところに静々と近づいた。彼もまた、床に着くほど長い紫紺のお仕着せに金モールの刺繍を誇り高く輝かせ、その佇まい一つにも熱砂の中を旅する賢者の風格が見て取れたが、ぶすくれて表情ばかりが子供だった。何がそんなに不満なんだ、シルバーはその膝に乗り上げ、冷えた指でむくれる頬をくすぐった。
「なんでもねえし……」
「なんでもない態度じゃないな」
「いいだろお、察しろよ」
「言葉にしないとわからないぞ」
「カイのやつといちゃついてんなよ」
 薄藤の髪をぱつんと切った髪型のカイは、小柄だが敬虔で実直なペテロ館の男子生徒だ。今回シルバーの夫役に選ばれたのは彼で、ゴールドはそれが不満なのだった。不貞腐れた人差し指がファークと舞台配置について相談するカイを指差す。
「いちゃついてない」
「手繋ぐのはいちゃついてないのうちに入るのかよ」
「演劇なんだから仕方ないだろう。機嫌を直せ」
 薄い唇が、雪が土に着地するみたいな柔らかさで、ゴールドの額に降ってくる。濡れた皮膚の感触が皮膚越しにじわりと滲んでくる。たまらなくなって、彼はシルバーの腰を思い切り引き寄せ、驚き開かれるその唇に慕わしくキスをした。熱く濡れた舌で口腔をねぶり、唇の裏と歯茎の境を何度もたしかめ、舌裏まで丁寧に愛撫する。シルバーは涙目になって身を捩り、彼の腕から逃れようともがいたが、やがて息苦しさに負けて自ら求めるように顎を上げた。
「何をやってる……!」
 最後には自分から求めたくせに彼は、肩で息をしながら、うっすらと赤らんだ顔をヴェールで覆う。その裾を引いて重なり合うふたりの輪郭を隠しながら、ゴールドはふたたび、彼の最も繊細な部分に静かに着地した。
「頑張ったからごほうびもらった」
 頬にかかる髪からヘアオイルの薔薇の香りが漂う。お前だって嬉しそうじゃん、つぶやく声音は甘く掠れる。
「しね」
 舌打ち混じりにそういうが、ゴールドとこのように秘密裏に通じ合うたび、シルバーはよりいっそう美しくなる。上級生の命令をなんでも聞き受ける、中身のない木偶のような冷たい少年から、爛漫と咲き乱れる花の華麗と、竹を割った中身があまりに洞すぎる寂しさを備えて、彼は天性の美へと羽化を果たした。そのすべらかな皮膚は冬の朝の碓氷よりも薄く血色を透かし、作りの繊細な手脚は若い歓びにぴんと張り詰め、指がうつろに伸びている様子は、その爪先が神の愛に確実に接続していることを思わせた。微笑すればトパーズ色の香気が全身から匂いたち、かわいらしく憤ればその銀の瞳から無数の星のきらめきがはじけた。
 彼の美しさは、上級生の陰徳の手を遠ざけ、今まで遠巻きに彼を見ていた同級生たちを求心させた。自らの存在が引き起こしたこの変化に、ゴールドはすっかり満足していた。厭離の枝、もはやふたりは危険なほどに一緒だった。さて、その幸福も、ついに絶頂を迎えようとしていた。
 一度頂点に達すれば、あとは転げ落ちてゆくだけだ。

 その日は明け方からひどい吹雪で、ユンゲブレッター城全体が凍りつくような寒さだった。ゴールドは一度眠れば朝まで目を覚さない睡眠優良児を自称していたが、寒さのあまり三時ごろにすっかり目が冴えてしまって、いそいそと暖炉に火を入れに行ったほどだった。あらかた薪に火が移り、ついでにやかんの中で湯を沸かして室内はすぐに温まったものの、再びあの冷たいベッドに戻る気になれず、彼は絨毯の上に肘をついた姿勢で横たわり、聖書を適当にめくっていた。
 手の中でイスラエル王国の歴史が次々に移り変わってゆく。楽園を追放されたアダムとイブは子孫を増やしたが、彼らは飢饉を理由にエジプトに移住し、そこで奴隷のように扱われて……預言者モーゼが現れて彼らをエジプトから解放し、現在のイスラエルの地まで導き……王国が建国された、最初の国王はサウルという男で、勇猛だったが神の意に背き、最終的に羊飼いの少年ダビデに打ち倒され……ダビデの息子がソロモン王……ソロモンって、最後どうなったんだっけ?
 毛布の中の身体も次第に温まり、さてベッドに戻るか、という段になって、ゴールドはふいに廊下で誰かが言い争うような声を聞いた。扉に耳を押しつけると、かすかにその内容が聞いてとれる。——お前正気か、どうなるのかわかってるのか——朗々と響くのはレッドの声だ。それに報いてもう一人、男の声が——俺たちには必要なことだった、後悔はしていない!
 ふたりの男の声はしばらく口論を続けたが、やがて、レッドの方が折れたらしい。わかったよ、と投げやりな声を最後に、廊下にはふたたび灰のように静けさが降りてきた。
「……ってことがあってよ」
「夢だったんじゃないか」
 大きな銀の器から野菜スープ(グラーシュ)をよそいながら、平然としてシルバーが答えた。
「本当に聞いたんだって、校則違反だぞ、って」
「レッド先輩が口論する相手などグリーンさんくらいだろう。だが、あの人が人に向かって声を荒げるところが想像できない」
 スープから豆コロッケ(ファラフェル)の大皿に移りながら、シルバーは何か考え込むような顔つきになる。ゴールドも続いてスープをよそう。火曜日のメニューは、豆コロッケ、スープのほか、白ソーセージ、スクランブルエッグ、ベルリン名物煮込み豚(アイスバイン)、何種類かの小麦パン。クリスマスを前にして生徒たちから要望が高まるシュトーレンも、デザートに用意されている。ゴールドは煮込み豚を大量に皿に盛り、先に長テーブルに着いたシルバーの隣についた。
 外ではまた雪が降りはじめている。この分だと、午後の授業は休講になりそうだ。
「てことは宗教なくなる?」
「そういうことになるだろう、このまま積雪すると先生方は帰宅できなくなってしまうからな」
「やったぜ、あの教諭嫌いなんだよな」
「オレもだ」
 ソーセージを小さな口で咀嚼しながら、シルバーが淡々と頷く。
 食事の終わりに、予想どおり午後の授業の休講が知らされた。ふたりは食堂前の廊下で別れ、それぞれの寮に向かうつもりでいたが、暖炉の火のきいた室内から窓の大きな廊下に出た途端にしんと染みるような寒さが襲ってきた。シルバーが西塔に向かうゴールドの背中に張り付いてくる。彼の部屋には暖炉がないのだ。ゴールドの持ってきた少し大きめのダッフルコートにふたりくるまり、腕を組んで、一緒にゴールドの自室に向かった。
 長い螺旋階段を登って四階までのぼり、鍵を開けて部屋に入ると、ちょうどファーつきのコートに身を包みいそいそと出ていくジュリアンと鉢合わせた。
「よお、どこ行くんだ」
「やあ、ゴールドくん、シルバーくんも」ジュリアンは丸々とした黒い目でふたりを見、ため息でもつきたそうな顔つきになって、「リンド博士、……お義父さんが面会に来てるらしいから、ちょっと出かけてくるでやんす」
「おお、そりゃよかったな。いつ戻る?」
「夕方までには戻るつもりだけど、夕食にも誘われてるから、遅くなるかもしれないでやんすね」
 そう言い残して、ジュリアンは小走りで階下へと去っていった。玄関先にねんごろなふたりだけが残される。
「ま、入れよ」
「……お邪魔します」
 どこか緊張した面持ちのシルバーを暖炉前の絨毯の上に座らせ、ゴールドはキッチンにやって来た。冷蔵庫の中には、たまごが三つ、薄切りのハム、食堂からティッシュに包んで少しずつ持ち帰っているシュトーレン、バターひとかけ、牛乳パックひとつ、ジュリアンが買ってきた柘榴、それから母親が送ってきたグリューワイン。調味料がいくつか。ゴールドはこの中からワインとココアパウダー、砂糖、塩、牛乳を取り出し、先にワインだけを小鍋に半カップほど入れて火を入れた。
「ゴールド、火はどうやってつければいいんだ」
「その辺にマッチがあるだろ? 薪の中に投げてくれりゃいいから」
 少しアルコールを飛ばしたら、ココアパウダー、砂糖、塩、牛乳を混ぜて煮立たせる。そのあいだに、再び冷蔵庫を開けて柘榴を取り出し、ナイフで二つに切って一つずつ小さな陶器の皿に盛った。暖炉に火をつけることができたらしいシルバーが背後に寄ってきて、何作ってるんだ、興味深そうに覗き込んでくる。
ホットチョコレートワイン」
「また酒か」
「まあまあ、いいから試してみろって。ほら」
 銀のスプーンでラズベリー色にとろみのついてきたココアをすくい、シルバーの口に持っていってやる。それだけでもゴールドの鼻先にふわりと甘い香りが漂う。彼はスプーンの先とゴールドの顔を交互に眺め、躊躇いがちにそれを舐めたが、熱かったのか思い切り顔を顰めた。舌を出し、ぎゅっと目を瞑って口元を押さえるさまが年相応に幼い。たまらない。ゴールドは片手でコンロの火を落としながら、もう片手でシルバーの腰を抱き、自分の方へ引き寄せた。
 シルバーは存外におとなしく、素直に身体を預けてきた。彼は寒がりだからこの天気のためかもしれないが、ともかく、ゴールドの頬を両手で包み、自らキスをしさえした。冷えた皮膚がつたなく触れてくる。熱っぽく潤んだ目がこちらを見上げている。目の淵から耳の先まで、血が集まって真っ赤だ。
「シルバー、おまえ」
「オレが……どんなつもりであの子どもの背を見送ったか、おまえもわかっていると思ったが」
 ゴールドは思わず唾を飲み込んだ。
 暖炉の中で炎が爆ぜ、薪が燃え崩れる音が立つ。しかしゴールドには目の前の美しい少年のことしか見えていない。期待と畏れに震える唇、熱く濡れた吐息、あの日上級生たちに鞭打たれていた、そして今やその傷も癒えつつある白い身体、すべてがゴールドの前に無条件に差し出されている。
「連れて行ってくれ」
 彼がうっとりと微吟した。

 分厚い雪の雲からほのかに差し染めた白日の透き影、それが、洗い立てのシーツの上に横たわるシルバーの裸体をやわらかく照らしている。
 どこにも欠陥の見当たらない、美しい肉体だ。白い百合の花のように優婉な顔、すがすがしく清廉な首から鎖骨までの輪郭。薄く浅く青い静脈の透けた首の皮膚。降ったばかりの雪のように光のこもった冷たい胸。華奢だがしなやかな筋肉のついた腹、引き締まった臍下。そこから、なだらかに下へ滑り落ちる無毛の恥部、小さな尻と、肉づきの薄い太腿、小さな作り物のような足。いっそ非現実的なほどの美しさだった。彼の存在ぜんたいが、天文学的な数の可能性をくぐり抜けてきた人間という生き物の無謬のイデアだった。
 ゴールドの視線を注がれて、彼はさすがに羞恥を覚えたらしく、かすかな上目遣いでこちらを伺った。恥じらいのあまり、きつく噛み締められた唇、何かを堪えるようにひくつく瞼、幸福そうに赤らむ頬。
 ――オレのものだ。

 

 予兆はあった。それから目を逸らし続けていただけだけのことだ。
 事のはじめは、十二月後半、クリスマスミサ、降誕劇が行われる日にちから一週間ほど前のこと、学園内である噂がひめやかに囁かれるようになったことだった。現場を見たという下級高等学校二年の生徒が、同じ寮部屋の生徒の中だけの秘密にしようと断った上でもらしたことが、次の日には学校中に広まっていたというありさまだった。水曜日の放課後、ゴールドとジュリアンの部屋に遊びにきたネポムクが、はじめてゴールドたちにその噂をもたらした。
「彼氏、そんなことするような人だっけ?」
「人には厳しいよな……でも自分のことは案外甘やかすタイプってことかな……」
「議会のふたりってんで、先生たちもどうすればいいかわからないらしいぜ」
「いま校長室で会議してるみたいでやんすよ」
 火を入れられた暖炉の前、エルマとルッツ、ネポムク、それからジュリアンが好き好きに言い合うのを、キッチンでスナックプレッツェルをボウルに注ぐ最中のゴールドは片手間にきいていた。「何の話だ?」
「ゴールドくん、知らないでやんすか?」
「だから何の話だよ」
 ボウル、それからナッツ入り砂糖菓子の瓶を両手に持って、くつろぐ友人たちの中にゴールドも入る。わっと歓声をあげてエルマがプレッツェルを三つばかり手に取り、一度に口の中に放り込む。それから、みんなの注意を一心に集めていることに気づいて彼は、もごもごと恥ずかしそうに咀噛しながら、ゴールドにも噂の内容を教えてくれた。
「四年のグリーンさんが、マリア館の女の子と私通したって話」
「しつう?」
「その、男女の関係になる、ってこと。そういうの、うちの学校じゃダメだろ?」
 ユンゲブレッター修道院が所属するシトー派を含め、カトリック教会では男女の婚前交渉を厳しく律している。キリスト教全体においても、結婚前に私通する男女は神の呪いなしには済まされないと説かれる。そのために、修道院と深い関係にあるユンゲブレッターにおいても、男女交際は厳しく制限されている。シルバーは、その校則を逆手にとった上級生たちにいいようにされていたわけだが、とにかく、見つかれば除籍も免れない。
 ゴールドの脳裏に、先週の火曜日早朝、レッドと激しく言い争う声を聞いたこと、それからマリア館の生徒の中で特に親しい彼女の顔が続いてよぎり、はっとして立ち上がった。
「マリア館の女って、クリスのことか!」
「クリスタルさん? まさか、彼女がそんなことするわけないじゃない」
 ルッツは声を上げて笑う。
「君だって議会のお世話になってるんだから知ってるでしょ、ブルーさん、マリア館の寮監だよ」
 シルバーがあんなバカを好きになるわけないでしょ! 鋭い目でゴールドを睨んだ、生徒評議会の女。薔薇の茂みの中で泣くシルバーを胸に抱いた女。長い栗毛に青い目の女。ブルー。シルバーの不安定な心をずっと支えていた女。
 ゴールドが立ち上がると同時に、表の扉が激しく叩かれ、駆け寄ったジュリアンが錠を外すと同時に音を立てて開かれた。顔色をすっかり青ざめさせたシルバーが立っていた。
「ゴールド」
「話にゃ聞いてるぜ」
「ふたりの除籍が決定された。いま、礼拝堂で祝福を受けているところだ」
「急がないと間に合わねえ」
 ゴールドの腕の中でぶるぶる震えながら、彼は軽く顎を引いて肯定する。
 ふたりはパウロ館の長い螺旋階段を下り、ロビーから長い回廊、校舎から外に出てユンゲブレッター城正面の広場に向かった。そのとき、礼拝堂の正面扉から、金髪の修道女(イエロー)に付き添われて、黒のトレンチコートに全身を隠すようにしたグリーンと、そのそばで啜り泣く私服姿の女が現れた。紅葉した楓の葉が風にちぎれてひらめく中、煉瓦の階段をしめやかに降り、ジークフリートの黒いメルセデスに向かって歩いていく。
「ねえさん!」悲鳴ともつかない叫び声でシルバーが、女に向かって駆け出した。振り返った彼女は端正な顔を歔欷のためにさらに歪め、おおらかな胸の中に愛おしく弟を抱きしめた。ともすれば崩れ落ちそうな足を懸命に立たせ、お互いの身体に縋りつきながら、相手の名を必死に呼び合う。
「ねえさん、ねえさん、どうしてこんなことに」
「シルバー……ごめんね……あんたにはどうしても言えなかったの」
「もういいよ、いいよ……でもどうしてなの」
「ごめんね、シルバー……ごめんね……」
 ゴールドは背後に控えたグリーンを見やったが、彼もまた首を振り、すべてを隠匿したまま去るのだということを示した。
「降誕劇のガブリエルはレッドに依頼してある。次の寮監もレッドだ。俺の故郷、フランス、アンドル県ル・ブランが今後の住所になる、俺やブルーに何かあればそこへ手紙を送ってくれ」
「……レッドさんとお別れしなくていいんスか」
「あいつは」グリーンは、寂寞を湛えてかすかに微笑した。「もう、俺たちの顔も見たくないだろうから」
「列車の時間に間に合いません。さあ、急いでください」
 イエローが促す。
 抱きあったままシルバーは、ジャケットの内ポケットに入れていた金のロケット、ゴールドが壊したあのネックレスをそのまま女の手のひらに渡した。女は何かシルバーに言いながら仕切りに頷き、最後に一度強く抱き合って、離れた。グリーンが助手席に乗り、女は彼女のキャリーケースとともに後部座席に乗り込んだ。車が走り出す直前、後ろの窓が空いて、泣き腫らして赤い目の女が顔を出した。
「シルバー! 愛してるわ! ずっと、ずっとよ!」
 彼女の悲痛な声とともに、車はゆっくりと速度を上げ、並木道の向こうへ小さくなってゆく。
 シルバーはゴールドの胸元に張り付き、所在なさげに立ち尽くしていたが……去ろうとする彼女のために大粒の涙をこぼしながら、叫んだ。「…………………ねえさん!」
「シルバー……」
「ねえさん、いやだ……ねえさん、ねえさん、ねえさん!」
 細い身体がゴールドの腕から乗り出し、去ってゆく車に追い縋る。ゴールドは暴れる彼を強く抱きしめているしかなかった。

 ベッドシーツの上、瞼に陰茎を被せられながら唇を歪めてピースサインをするシルバー、バスルームのタイルの上に這いつくばって肉付きの薄い尻を見せるシルバー、シャワールームのガラスに背をついて開脚し精液まみれの恥部を露わにするシルバー、キッチンの調理台に乗り上げて、右脚だけをゴールドに掴まれて涙を流すシルバー、ゴールドと並んで床に寝そべりながら笑みともつかない表情を浮かべるシルバー、誰もいないパウロ館のサロンで窓に張り付き羞恥で耳まで赤くするシルバー、それから、暖炉の前でクッションを抱いて顔を隠すシルバー。最後の写真をポラロイドから引き摺り出してゴールドは、今まで撮影したあらゆる性交の記録を絨毯の上に並べてみた。その中に、彼が幸福そうな写真は一枚もない。
 姉がユンゲブレッターを去ってから、シルバーはひどく沈んでいた。やさしい記憶、ゴールド一人ではとても埋めきれない孤独、そして去り際に彼女が何も言わなかったことに対する疑念が、シルバーを塞ぎ込ませた。クリスマスミサを終え、降誕劇が終演して、学園は冬期休暇に入ったが、ふたりとも帰宅することなく寮に残った。ほとんどの生徒が出払った学園内で、ふたりは盛りのついた動物のように身体を重ねた。ゴールドは若く、情は尽きることもなかったし、シルバーだって拒むことはなかった。お互いの部屋、パウロ館のサロン、教室、礼拝堂、学園はずれのあの聖堂、ラビリントの茂みの中。何度交わっても満ちることはなかった。そうやって日々を過ごすうちに、年を越した。
 窓の外は激しい吹雪でホワイトアウトがひどい。秋、ふたりが泳いだシュロス湖は凍り付いているだろう。裸の皮膚に寒さを覚え、ゴールドは火をたいた暖炉のそばに寄った。と、そのとき、バスルームへの扉が音を立てて開き、先にシャワーを浴びていたシルバーが顔を出した。彼も全裸のままだったが、ゴールドがを見つけると、寄ってきてその首の皮膚を吸った。
「なに見てるんだ」
「おまえのエロいとこ」
「ばか、やめろ」
 白い手のひらにはたかれたが、まるで力がこもっていない。「おまえもはやく綺麗にしてこい」
 暑い湯で軽く身体を洗い流し、ゴールドがバスルームを出ると、シルバーはすっかり制服に身を包んで絨毯の上に座っていた。几帳面に揃えた膝の上に、彼が日ごろ愛おしく読んでいるあの赤い表紙の聖書を載せて、開けたページに静かな視線を落としている。近づいて見れば、そのページには一枚の写真が挟まっていた。黒髪を後ろに撫で付けた黒い外套の男と線の細い印象の赤毛の女、それから彼女の胸に抱かれた赤ん坊。以前ゴールドにも見たことのある写真だ。
「おまえの両親?」
 ゴールドが髪を拭きながら近づくと、シルバーははっと顔をあげ、少しばかり口角を上げて柔らかい目つきになった。
「ああ」
「いい写真だな、家帰んなくてよかったのか」
「お父さんは……忙しい人だし、お母さんはもうずっと昔に亡くなったから」
「そうか」
 真っ直ぐに伸びた指が、ふるめかしい木版印刷のアルファベットをなぞる。    
 キリストは、処刑される前日の木曜日、少数の弟子たちと食事を摂った。これが、ダ・ヴィンチの絵画にも有名な最後の晩餐であるわけだが、このとき、ユダが自らを裏切ろうと画策していることを知りながら、キリストは彼を行かせた。そして、創世のころから定められ、遵守を義務付けられてきたユダヤ教の神の厳格な掟に変わる新たな戒律を一つ、残った弟子たちに与えた。一つ、たった一つだけだ。これがキリスト教の本質的な精神として、以後二千年のあいだ変容することなく受けつがれてきた。シルバーが家族の写真を挟んだページはそういう類のものだ。
 ゴールドは湿った髪をタオルで粗く拭い、ドアハンドルにかけてあったガウンを身につけて、微笑するシルバーに寄り添った。彼は腕を伸ばしてゴールドの首にすがり、軽く突き出した唇でまだ微かに濡れた下唇を吸った。そのとき、ふたりの視線は同一の感慨にきざした。ふたりは力の許す限り強く抱き合った。肋骨が軋む。
「ゴールド、怖い」
 瞼をゴールドの肩に押し付け、らしくなく震えた声で彼が言った。
「嫌な予感がする……」

 クリスマスの終了を告げる公現日(エピファニー)とともに冬休みも明け、学園に生徒たちが戻ってきた。全校生徒が詰めかける礼拝堂で大規模な始業ミサを行い、新年の祝宴が行われて、ゴールドもなつかしい友人たちと再会を祝った。
 午後には再び生徒たちが礼拝堂に集められ、次の生徒評議会メンバーを決定する選挙が行われた。例年は特に選挙活動なども存在せず、その場で投票及び開票を行うため人気投票にも似た側面もあったが、昨年議長が除籍されるという不祥事があったことで制度が厳格化され、候補者たちは投票の直前に立候補演説を義務付けられた。クリスタルが昨年に引き続き立候補したほか、驚いたことに、今回はシルバーまでもが候補者の中にその名を連ねた。彼は、姉を失って相変わらず不安定だったが、ゴールドやほか同級生たちの支えもあってなんとか立ち直ろうと努めている様子だった。
「みなさんの多くはすでにご存知でしょうが、私は、多くの上級生と性的関係にありました」
 祭壇の前に立ち、彼は堂々と、突き通るような声で聴衆に語りかけた。急に確信をついた彼に、下級生たちは動揺してざわつき、該当する上級生たちはかえって押し黙った。
「明確に校則で規制されているわけではないので、この穴を突き、私だけでなく多くの生徒が過去に性的関係を強要されていたと聞いています。しかし、主は、性別はどうあれ婚前交渉を厳しく禁じています。このようなことが神聖な学内でおこってはなりません。私は、校則のそうした部分をより厳格化するとともに、不要な部分は積極的に削除する、軟性の治安維持を提案します」
「よく言うぜ」昨日だって、彼はゴールドの下であられもない姿を晒していたというのに。
「この件に関しては、私の義姉である前期マリア館寮監の意志を引き継ぐ形になります。彼女は不名誉なことに除籍処分になりましたが、私情としては……まだ彼女を信じていたいのです……しかし、結果的にみなさんの信用を欠く結果になったこと、彼女に代わってお詫び申し上げます」
 彼はその後いくつかの公約を掲げて内陣を降りたが、演説が終わっても、また次の候補者の演説が始まっても、生徒たちはしばらく落ち着きを欠いていた。彼は下級生および中等学校の生徒たちから多く票を得、その一方で上級生たちの支持を得られずに選挙には敗退した。ゴールドには、彼が本当に議会のメンバーになりたかったわけではないと理解していたので、特に悲観することはなかったが、クリスをはじめとした同級生たちはそれを大いに残念がった。
「驚いたわ、わたしも直前までシルバーが立候補するなんて知らなかったんだもの」
 翌日、宗教学の時限、ゴールドを挟んで、クリスがシルバーを誉めた。「言ってくれたら一緒に作戦を練ったのに」
「それじゃあ意味ねえよ、なあシルバー」
「……オレは、クリスが議長になったことがうれしい」
「まーたそういうこと言う。ばかだなあ、てめえは」
「ゴールド、無神経よ! ……でもねシルバー、わたし、あなたの本心が聞けてよかった。あなたのぶんも精一杯頑張るからね」
 最後の立候補者だったクリスの演説は、それはもう凄まじい勢いだった。一部の熱狂的なファンが最前列で大騒ぎするのに鋭く喝を入れながら、ときに朗々と、ときに声を低めて、生徒たちの心を鷲掴みにした。結局、上級生も混じる他の候補者たちを凌ぎ、もっとも票を多く獲得したのは彼女だった。いまは次期議長として、レッドからの引き継ぎ作業に追われているらしい。
「クリス、ありがとう」
 シルバーは、おだやかに目尻をゆるめてはにかんだ。クリスが目を輝かせる。
「こちらこそ、シルバー、大好きよ!」
「うん」
「シルバーは?」
「だ、……だいすき」
「おいおい、オレを挟んでイチャイチャすんなよなあ」
 始業の鐘が鳴り、教室でめいめいにおしゃべりしていた生徒たちも途端にしずまりかえる。例の教諭が大股で入ってきて、明らかにゴールドを一瞥したあと、巨大な旧約聖書を教壇の上に置いて椅子に腰掛けた。
「さて、今日は詩篇六十七章を取り扱う。みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神——」

 金曜日、週の終わり、生徒たちは休日を前にしてどこか浮き足立っている。
 ゴールドも、翌日土曜日に外出許可を取るために、職員教室に続く長い列に連なっていた。ラジオによる天気予報によると、明日はこの季節には珍しい快晴、気温も上がるとのことだったので、シルバーと一緒に町に出てガールハントでもしようというたくらみだった。凍りついたシュロス湖にはスケートをしに毎冬ヴュルテンベルク内外から金持ちの子女が集まってくるのだ。にやにやするのを申請書に隠しながら、彼は声を立てて笑う。
「ゴールド」後ろから声をかけられたと思ったらシルバーだった。あいかわらず制服のボタンを上まできっちり止めた格好で、生真面目に聖書を小脇に立っていた。「何してるんだ」
「おまえ明日ヒマだろ? スケートにでも行こうぜ」
「? わかった」
「今申請書出すとこだから。おまえもちょっと付き合え」
 彼の腕を掴み、無理やり列に割り込ませる。
 午後三時をまわる頃だろうか、ゴールドの前の女生徒が、ようやく外出許可書を受け取って立ち去った。ゴールドは意気揚々と前に進み、背筋を伸ばしてデスクに座るジークフリートにふたり分の申請書を押し付けた。彼はふたりの顔を順に眺めて、うん、頷くと、つけぺんから流れるインクで流麗なドイツ語を書き、許可書をふたりによこした。
「外出を許可しよう。明日はどこに行くんだ?」
「湖のほうまで降りようと思っています。ええと、スキーをしに」
「スケート」ゴールドが横から修正すると、彼は慌ててこれを復唱する。
「スケートをしに」
「わかった。楽しんできなさい。特にゴールド、あまり羽目を外さないように」
 ゴールドは軽く返事を返したのみだったが、シルバーは丁重に頭を下げて退室した。ドアを閉める直前、ふと、ジークフリートはシルバーの名を呼んだ。
「シルバー、学長が君を呼んでいた。急ぎの用事だそうだからすぐに伺いなさい」
 シルバーは、はじめ訳がわからないという顔をしていたが、みるみるうちに顔を青ざめさせ、ぱっと踵を返して職員教室の前を立ち去った。待てよ、その後ろにゴールドが追随する。
 彼の横顔に不幸の花が下向きに降りてくる。
 学長室は、北塔、議会室の上階、つまり三階に位置する大部屋だ。校舎から直接向かうには中庭をまっすぐ通って一階から階段を上がるのが最も近道だが、吹雪くことも珍しくないこの季節、凍てつくような寒さの外気にわざわざ晒されに行くような勇者はそういない。しかし、シルバーはためらいもせず中庭への扉を開け、昨晩のまっさらな積雪のうえをローファーひとつで進みはじめた。午後の光の中、白く反射するまっさらな雪影の中で、シルバーの皮膚は人間離れして青白い。ゴールドも慌てて後を追うも、すぐに靴底から冷たい水が滲んできて悲鳴をあげる。
「本当にどうしたんだよ、シルバー!」
 シルバーは何も言わない。寡黙のうちに北塔に到着し、ロビーから螺旋階段を伝って三階へと向かう。ちょうど図書室から出てきたばかりの生徒数人とすれ違い、ゴールドは彼らの会話を聞いた。
「戦争が……」
「ああ、……の?」
「……も身柄を……されたらしい、……になるんじゃねえか」
 うまく聞き取れないが、シルバーの故郷で起こっている戦争に何か動きがあったらしい。そのことで呼ばれたのだろうか?
 大股で回廊をすぎ、目的の部屋を見つけたシルバーは、重い木の両開き扉を押し開けた。ゴールドも続いて入り、中で数人の教諭が頭を突き合わせているのを発見した。彼らは一斉に振り返り、入ってきたのがシルバーだとわかると苦々しい面になった。
 広々とした、過ごしやすそうな部屋だ。床には分厚いペルシャが敷かれ、そのそばでは備え付けの暖炉、中で火が盛んに燃えている。左右の壁には巨大な本棚、古めかしい世界地図、権威のありそうな背表紙の分厚い書籍、手前には教師たちが座る客用のソファが二つとローテーブル、奥には背の高い窓が三つ、それからマホガニーの巨大なワイドデスク。地球儀に、銀で作られた天球儀、ずらりと並ぶ金の盾。上等な革張りのデスクチェアがこちらに背を向けている。
「まあ、入りなさい」
 椅子ごと振り返ったその人は、白髪の小柄な老爺だった。ブルーグレーのジャケットに白のショールをかけた格好で、革の背もたれにゆったりと身体を預けている。学長だ。一見なよなよしいただの老人に見えるが、シルバーと、それからゴールドを視認する目の鋭さは、明らかに権威者のものだ。
「ノーバートだ」
「シルバー・ヴァンヴィッチ・ディグナツィオです」
 シルバーは名乗ると、さっさと絨毯のうえを歩いてデスクの前まで歩み寄り、軽く腰を折って頭を垂れた。皺だらけの手と固く握手を交わす。
「……そうか、君が、ジョヴァンニの息子だな」
「要件はなんでしょうか」
「まあそう気を急くな。カーツ、出してきてくれるかな」
 彼が手を振って指示を出すと、後ろで控えていた若い男女のうち、黒髪の男の方が、恭しく首を垂れてから退室した。女の方がソファーの上で戦々恐々としている教諭陣を追い出している。
「君の母国でのことは知っているね」
「……いえ、まだ」
「今日の午前五時ごろ、つまり向こうの首都では六時ごろのことだ、相手国特殊部隊の手により大統領は拘束された。すぐ安全保障会議副議長が職務を代行することとなったが、彼は三国宣言を即座に受諾し、無条件降伏が決定した」
 シルバーが息を呑んだ。膝をつき、力なく床にへたり込む。
 男が黒いつやつやとした盆を持って戻ってきて、それを主人の前に静かに置いた。手のひらに乗るほどの小さな青い表紙の聖書と、白い封筒。学長はデスクの上を滑らせてシルバーにそれを取るように促した。シルバーは震える手で封筒をちぎり開けた。中から取り出した一枚きりの便箋を食い入るように読み、それから慌てて聖書を取って開く。勢いよく捲られたページの間から、一枚の写真が滑り落ちてきた。柔らかい女の字。写真の白い縁に何か書かれている。シルバーが瞠目する。
〈いとしいわたしたちの息子と〉
「あのひと」淋しい獣の仔のような顔で、呆然とシルバーはつぶやいた。「死ぬつもりだ——」
 花が萎れるように、木がなぎ倒されるように、細い身体は左右に二足三足蹌踉よろめくと突然後へ反って、仰向けに倒れたなり動かなくなった。旋条が突然抜けて動かなくなった人形のような具合だった。しばらく、誰も、何も言えなかった。シルバーの身体だけが絨毯の上で抜け殻だった。
 はじめに反応したのはゴールドだった。「シルバー!」慌ててその肩を抱き起こす。首に腕を回し、顎に指を添えて顔を覗き込んだ。唇は青白く、土のように乾いている。瞳孔も開きっぱなしで、手で影を作ってやっても反応しない。
 ゴールドの必死な声を聞いて、やがて周りものろのろと正常な判断を取り戻した。
「医者を呼びなさい」
 学長が女に指示を出す。

 父は母を愛していた。シルバーのことも、愛していた。ロマノフ王朝の宮殿が集まる避暑地の水辺に父は、青と白、それから金の美しい邸宅を建て、世界中から集めた花の庭まで作ってそこに母子を住まわせた。身体を病んだ母、喘息を拗らせたシルバーは、もはや首都の排気ガスや永久凍土の冷たさに耐えられなかった。
 赤や桃色、白の睡蓮が咲く庭のそばを駆け、薔薇のガゼボの中で侍女が淹れた紅茶を楽しむ母のもとへ一目散に向かう。母は真っ白な絹のドレスの胸に豊かな赤い髪を垂らして、膝に黒い子猫を抱いていた。「おかあさん!」呼びかけると、こちらに気づいた母が優しく破顔した。腰に抱きつく。たおやかな手が、シルバーの、揃いの赤毛を撫でた。
「ぼうや、どうしたの」
「おはながさいてたの。おかあさんにあげる」
 ダリアやポピー、クレマチスオダマキ……紫のエリア……どれも庭師が丹念に世話をかけて育て、母もとても大事にしていたものだったが、彼女はそれを息子が摘んできたことを眉ひとつ動かさずに受け入れた。ブーケを受け取り、頬を寄せてその香りを楽しんだ。身じろぎをするたびに、白いレースが光を弾いて輝く。
「にあうかしら」
「うん、おかあさん、おひめさま(プリンツェーサ)みたい」
「うれしいこと」
 母が笑った。シルバーも、それが嬉しくて笑った。
 邸に戻る彼女の後ろについて歩きながら、シルバーは……これが夢だということに気づいていた。シルバーが二つになるころには母は早逝していたはずだし、二歳の子どもが、これほどまでにはっきりと言葉を話せるものとはとても思えなかった。しかし、しかしだ、それでも、慕わしく思っていた母と、もうすっかり焼け落ちてしまったであろうあの夢のような花園をふたたび歩くことができて、シルバーは幸福だった。目の前で揺れる手に、小さな手をそっと繋いでみる。
 夕方、母はベッドにいて、すがるシルバーに読み聞かせをしていた。力の弱い彼女でも持ち上げることのできる小さな青い表紙の聖書、その後半のページを開いて、やさしく低めた声で一節を読み上げた。「わたしがあなたがたを愛したように、互いを愛し合いなさい」
「おかあさん、あいってなに?」シルバーは幼く小首を傾げる。
「ぼうやにはまだ早かったかしらね……その人のためなら命も捨てていいって思うことよ」
「いのち」
「そう、それくらい大事に思うこと。おかあさんはね、シルバーのことを愛しているわ」
「おとうさんは?」
「もちろん、おとうさんもよ」
 シルバーの頭の中に、熊のような顔をした、背が高くて大柄な父の姿が浮かんだ。母の、父を語るときのまなざしがやわらかい。
「おとうさんきらい。こわいから」
「まあまあ、ぼうやったら。あのひと、きっとそれ聞いたら泣くわよ。でも……そうね、いつかはあなたにもわかるわ」
 母は目を細めてシルバーの額にキスをした。シルバーは目を閉じて、自分の頬にのる柔らかな感触を味わう。
 そして、ああ、眠りの漣はすっかり引こうとしている。母の声が遠ざかっていく。きっともう夢でも会うことはないだろう。なぜなら……シルバーも、両親を愛しているから。さよなら、シルバーは胸の内で優しい母の笑顔に別れを告げた。

「一種の神経症だろうね。大丈夫、そのうち意識も戻るよ」
 医務室のベッドの上に横たわるシルバーの顔色は相変わらず真っ青だったが、ゴールドはとりあえず安堵の溜息をついた。彼の寝顔を横目に見ながら、ゴールドはカーテンの引かれた窓辺に立つ。外はもう少しばかり薄暗く、空は裾の方から天辺にかけて紫紺色に沈んでいる。
 医師は、シルバーの事情を察して、ゴールドとふたりきりにしておいてくれた。彼が去ると、医務室の中はシルバーの憂鬱な寝息ばかりになり、ゴールドの気分もますます沈む一方だった。白い頬を指で慈しみ、閉じた瞼に触れるだけのキスを落とす。神経症……シルバーが? 母国が敗戦し、理解ある義姉を失った今、それも仕方のないことなのかもしれないが。
 廊下を走る音が響いてくると思ったらクリスだった。ドアを勢いよく蹴り開けて、彼女は医務室に飛び込んできた。
「クリス、医務室だぜ」
「あ……ごめんなさい」照れておさげをいじりながら、クリス、「シルバー、大丈夫?」
「ああ。貧血だとよ」
 咄嗟に嘘をつき、ゴールドはすぐに後悔する。おお、哀れで純真なクリス。彼女はは大まじめに唇を結び、シルバーのそばに膝をついて、こんこんと眠る白い顔を眺めた。
「そうよね。彼、いつも頑張りすぎるし……ブルーさんもいなくなったばかりだし……」
 桜色のつま先が、青ざめた男の手を握り、その所在をたしかめるように頬へ寄せる。宵の口の薄闇の中、蝋燭ばかりが照らす中で、まるで天使のようなふたりだと思った。クリスが緩んだ眉を愛撫すると、彼は小さく唸って寝返りを打った。目覚めも近いのかもしれない。
「それに、あなたいつも彼に無理ばかりさせているみたいだから」
「ぶ!」
 いきなり核心をつつかれる形になり、ゴールドは思い切り咽せた。前のめりになった勢いで思い切り転びそうになる。してやったりという顔で、クリスが鈴を転がすような声で笑った。
「気づいてないと思った? 初めて会ったときから知ってたよ、あなたがシルバーのこと好きだって……学校の中のことでわたしが知らないことなんてないんだから」
「ほんとかよ」
「ほんと。それでも、みんなが楽しく学校生活を送るために、知らないふりをしたりするものなの」
 そのとき、薄く血色をすかした瞼がやにわに震え、結ばれた花の蕾のような唇がかすかな呼吸のために開いた。美しい彼はふかふかの枕に頭を包まれた格好のまま、腕を伸ばして伸びをし、そのまま口許に手をやって小さなあくびを一つした。茫漠とした薄闇の中で銀の虹彩がきらめきを帯びる。おぼつかない視線がふたりを見る。
「……ゴールド?」
「よ」
 まだ頭がはっきりしていないのか、シルバーはしばらくぼんやりとゴールドを見ていたが、額を粗雑に撫でられるといやがって身を捩った。
「おはよう、シルバー、もうすぐ夕食の時間よ。よく眠れた?」
「ああ……夢を見ていたみたいだ、あまり覚えてないんだけど……オレはどうしてここに?」
「学長室で倒れたって聞いたよ。もしかして覚えてないの?」
 髪を弄られ頬をもてあそばれながら、しばしのあいだ心ここに在らずといった様子で天井のフレスコ画に視線をやっていた彼だったが、ふいに刮目し身体を跳ね起こしてベッドから下りようとした。
「何してんだ!」
「行かなきゃ……おとうさんが!」
 スプリングの反発で細い身体が浮き上がり、おぼつかない足では体重を受け止め切れずに彼はよろめく。その肩を胸に受け止めたのはクリスだった。
「あなたが行ってどうなるの。一つの国が負けるっていうのは、もう打つ手が無いってことなのよ。内戦が起きたりみんな奴隷にされて連れて行かれたり、このあともいろんなことが起こるでしょうけど、なにひとつだってあなたにできることはないわ。行ったってむだに殺されるだけよ」
「離して……」
「抑えなさい。自分の無力を認識して、その上で力を蓄えるの。そのあいだユンゲブレッターはきっとあなたを守るわ」
 クリスが淡々と語りかけるうちに、彼は力を無くしてゆき、しまいにはうつむき、よろよろと膝をついた。伏せた瞼からみるみるうちに涙の滴が膨らみ、張力を離れたぶんが大理石の床にこぼれた。訳がわからないといった様子で瞼を擦り、それでもなお流れる涙を不思議そうに見ていた彼だったが、そのうち両手で顔を覆った。かつて義姉にしてもらっていたように、クリスの腕に抱かれながら、彼は静かに、あるいは孤独に泣いた。
 ゴールドはそんなふたりを黙って見つめていた。そうして、今まさに殺されようとしているかもしれない彼の父親について思った。鈍く銀色に輝く刃先を首に押しつけられた黒髪の男、シルバーが大事に持っていた写真の、その人はやがてなつかしいゴールドの父親の顔にすり替わる。むしょうにイライラする、ここにいる誰一人として、シルバーのために何かできるものはいないのだ。

 冷ややかな暗闇の中で、骨張った線の細い指先が懸命にロザリオを握っている。十字架と五九個の小ぶりな真珠からなる円環、その一粒にふれ、普段人間がどれだけ神に恩寵をかけられているかということ、それから聖母マリアが祈りを神に取り次ぐことを思いながら祈る。それを球の数ぶん行う。硬い床にひざまづき、ベッドに肘をついて、血の滲むような祈りの修行に勤しむシルバーを、ゴールドは扉の前から見ていた。
 二月もの間に春がやってきて、シルバーは前よりもずっとやつれた。もともと華奢で繊細なところがあった彼だが、今はそれにこと拍車がかかり、今ではまるで死人が裁きを前にして祈っているようなありさまだった。そしてそのどちらについても、シルバーは知らない、知る由もないのだ、鏡も見なければ窓の外を見ることもなく、ただカーテンを閉め切った暗い部屋の中で祈り続けているのだから。授業に出ることはおろか、食事をしたり、誰かと会話したり、そういった人間として当たり前のことを断っているのだから。それが彼の精神をより不安定なものにした。
 げんにその朝も、昨晩ゴールドが置いていった粥の盆はそのままになっている。
「なあ……もういいだろ」
 古くなった粥を新しいものに取り替えながら、ゴールドは半ば独り言のように呟いた。
「クリスだって心配してたぜ、なあ、いい加減出てこいよ。おまえが祈ったって、どうせ神なんて居ねえんだから」
「うるさい!」
 布を割くような叫び声とともに、シルバーがグラスを掴んでこちらに投擲した。ゴールドの足元でガラスがいやな音を立てて砕け散る。
 シルバーの銀の星はぎらぎらと冷たい情熱に輝いていた。頬は肉が削げて骨の形が顕になり、唇は紫色に褪色してささくれだらけになっていた。肩ばかり荒い息に激しく逸っている。クリスはもうしばらく彼の顔を見ていないらしいが、こんな姿を見たら卒倒することだろう。
「なにもいらない、いいから出ていってくれ」
 ゴールドは物わかりよく、無言で部屋を辞した。
 覚えのある感情だ。信心深くやさしかった父親が死んだとき、ゴールドも同じようにして周囲にその鬱憤を示した。母親はそのときなにも言わずに放っておいてくれたが、スクールの同級生となるとそうは行かなかった。彼らは不調法にも噂を広め、錯乱するゴールドを揶揄し、また彼の父親を馬鹿にしさえした。ゴールドはそれに耐えられなかった。面白おかしくこの悲劇を吹聴する生徒のクラスに乗り込み、彼の胸ぐらを掴んで引き倒した。頬骨にヒビが入るほど、顔一面が膨れ上がって原型を失うほど殴りつけ、彼が泣いて許しを乞うまで続けた。教師が慌てて介入し、わけも聞かずにこの件を上に報告した。こうして、ゴールドはスクールから除籍処分になった。
 ペテロ館のロビーを過ぎて回廊に出ると、クリスが落ち着かない様子で待っていた。彼女はゴールドを見つけると慌てた様子で駆け寄ってきた。ジャケットの襟で金の薔薇が誇らしく輝いている。「シルバー、どうだった?」
「……まあまあだな」
 適当に誤魔化してやり過ごそうとしたが、彼女はゴールドが持ち帰った粥の盆を見て賢しくすべてを悟ったようだった。ため息混じりに首を振って項垂れる。
「そう……」
「おまえが気にすることじゃないって。オレたちは、あいつが帰ってきたときにいつも通り迎えられるように準備しとくだけさ」
「ねえゴールド、わたしたち、このままなにもできずに見ていることしかできないのかな」
 両手で顔を覆って、クリスがその場にへたり込んだ。
「シルバーはあんなふうに苦しんでいるのに、わたしたちは見ているだけなの? なにもできないの?」
「目を逸らさず見ているのも勇気だ。おまえがそうやっていてくれるだけできっとあいつは救われてるさ」
「だいすきって言ってくれたの、シルバー、わたしのこと……」
 頼りなく震えながら嗚咽混じりに訴える。もうたくさんだ、友人が泣いているところを見るなど……華奢な女の肩を引き寄せ、努めて明るくゴールドは言う。
「なあ、どっか出かけようか」
「ゴールド」
「デートだデート! あいつがオレたち見て、自分も出たいって泣きついてくるくらい楽しいことしてやろうぜ」
 クリスはまだ何か言いたげだったが、ゴールドはかまわずに彼女の手を引いて立たせた。
「コート着て礼拝堂ン前に集合な!」
 シュロス湖畔、オークの森に囲まれた場所には小さなテニスクラブがあって、土曜日にはもっぱら生徒たちで賑わうのだが、その日の野外コートはガラ空きだった。一番コートのネットを挟んで、ジャケットを脱いでシャツだけになり、スラックスを捲り上げたゴールドと、スカートの下にハーフパンツを履いた格好のクリスが向かい合う。カフェ・テニスパラダイスの屋外スペースで、ビールを片手に談笑していた大人たちが、真に迫ったふたりの様子を不思議そうに眺めている。
「サーブは譲るぜ」
 ベースラインの後ろに立って、軽くストレッチをしながらゴールドが言った。
 ネットの向こうでは、テニスボールを手に取ったクリスが、深呼吸をして目を閉じた。彼女の空気が変わる。ゴールドは無意識のうちに背筋を伸ばし、彼女に意識を集中した。いつスマッシュを撃たれてもおかしくない。
 トスを上げるその一瞬で開かれた彼女の目、まるで獲物を狙う鷲のように鋭利だ。すぐさまラケットが振られ、放たれた白球は鋭く弾道を描き、やがてコートの隅ぎりぎりに落下しそうなところを、なんとか追いついたゴールドにフォアハンドで打ち返された。ゴクリスはバックサイドに下がってそれを見送り、勢い余った球はコートを囲むフェンスにぶつかって跳ね返る。
「やるじゃない。わたし、サーブには自信あるんだけどな」
「結局点取ってるくせになに言ってんだよ。次、次はぜってえ取るからな!」
 ゴールドは吠えた。顎で次のサーブを打つよう挑発する。カフェの大人たちが盛り上がり、ドイツ語で何か歓声を上げている。
 正午を越すまでふたりのゲームは続いた。結局、ゲームは六体六までもつれ込み、クリスの息切れを狙って二度のタイブレークを制したゴールドの勝利となった。いま、酔っ払った野次馬の大人たちに持たされたサンドイッチやビールやよくわからない果物などを抱えて、彼らはシュロス湖のふち、水の波が地面を濡らさない辺りの草地の上に座っている。
「悔しい! 絶対負けないと思ったのに」
 よくわからない果物のフサから実を一つとって口に放り込みながら、クリスは背中から芝生の上に倒れ込んだ。ゴールドも彼女の隣に寝転んでみる。空は青々と冴えて、ちぎれ雲が幾つかぷかりと浮いている。
「……これ山葡萄だわ。酸っぱい」
 ゴールドもクリスに倣って実を噛んでみた。爽やかな酸味が口の中に広がり、それにつられて、ゴールドの目にも酸い何かがにわかに駆け上がってきた。ギョッとしてクリスが身を起こす。「ちょっと、どうしたの」
「あー……悪い、なんかオレ……疲れたみたいだ」
「それはそうでしょう、だってシルバー……」
 言いかけたものをとどめて、彼女は絹のハンカチを取り出しゴールドの濡れた頬を拭ってくれた。気遣わしそうな眼差しが今は痛い。ゴールドが黙って首を振ると、彼女はそれ以上なにも言わずにそっとしておいてくれた。
 ふたりが帰路につくころにはシュロス湖の水面はすっかり山吹色に染まり、彼方の方から金箔を散らしたような光が的礫ときらめいていた。上級高等学校の生徒たちが集団でカヌーを漕いでいる。住宅街を抜けて学園の敷地内に戻り、クリスと別れてパウロ館に戻ろうとしたゴールドは、ふと何らかの予感を胸に抱いて、東のペテロ館の尖塔を眺めた。ゴールドの動物じみた視力は五階の屋根裏窓に、えもいわれぬ眼差しでこちらを見下ろしてくるシルバーを確かに捉えた。ゴールドは踵を返した。中庭を通ってパウロ館からの対角線上にあるペテロ館に入り、ロビーから螺旋階段を登ってシルバーの部屋に向かった。
 真鍮のノブに鍵はかかっていなかった。中に入ると、窓からの光で青白く翳った美しい顔が振り向いた。蝋細工のような薄暗い顔。シルバー。彼の目はひどく虚ろだ。焦点が合っていない。それでもシルバーはゴールドの姿を認めると、ほっとしたように格好を崩した。
「帰ってこないのかと思った」
 シルバーはよろめきながら立ち上がり、部屋を横断してゴールドに近寄ってきた。もはや骨ばかりの腕をゴールドの腰に回し、甘えるように鼻先を擦り付けてくる。
「そんな訳ないだろ」
「なあ……抱いてくれ」
 熱っぽく湿った声で囁かれて、ゴールドはハッと身を強張らせた。
「何……言ってんだよ」
「おまえがクリスといるんだと思ったら気が狂いそうだったんだ……もうどこにも行くな、おまえがほしい」
「どうしたんだよ、おまえちょっとおかしいぞ!」
 突き放そうとしたゴールドの腕をかわしながら器用に掴み、シルバーは力任せに彼をベッドに引き倒した。スプリングが激しく軋む。ゴールドは抵抗しようとしたが、両腕を強い力で押さえ込まれ、身体の上に馬乗りになられるともう動けない。飢えた獣のように唇を求めてくる。舌を絡め取られ、貪るように吸われる。息ができずもがいているあいだにスラックスを脱がされ、剥き出しになった下半身をまさぐられた。すぐそこに骨が突き出た、尻の皮膚が先端に触れた。
 そのときふいに、俯いたシルバーのシャツの胸から、彼のロザリオが音を立ててこぼれ落ちた。小粒の真珠が光を帯びて雨のように降ってきた。シルバーははっと身体を起こし、その顔色に畏ればかりを含ませた。細い身体が離れてゆく。ゴールドから後ずさる。ゴールドは半身を起こしてシルバーと向き合った。彼は、歔欷の形に下瞼を歪めたが涙は出なかった。
「オレは……なんてことを……」
「シルバー」
 名を呼んだだけで、彼はビクリと震えてさらに数歩後退った。
「来ないでくれ!」
 彼は後ろ手で扉を開き、できた隙間から猫のようにすり抜けて部屋を出ていった。ゴールドはしばらく呆然としていたが、すぐに慌て出してその後を追う。

「中庭にいるところを見たよ」
「旧礼拝堂にいるんじゃない? 彼氏、また上級生に付け狙われてるって聞いたぜ」
「図書館は? 図書委員でしょ、シルバーくん」
「町でも行ったんじゃない? ずっと部屋にこもってたんじゃあね、いい加減鬱憤も溜まるってものでしょ」
 すれ違う同級生たちが口々に情報をもたらすも、どれも的を得ないのでゴールドは難儀した。シルバーは春の風のようにすばしっこく、また捉えどころがなくて、校舎のどこをどう探しても見つけることができなかった。
 やがて日が暮れ、夕食の時間もとっくに過ぎ、何の収穫を得ることなくゴールドはパウロ館のロビーに帰ってきた。共有スペースのソファに座って友人たちと額を突き合わせながら、ジュリアンが課題のフランス語教本を睨みつけていたが、ゴールドの姿を認めるとパッと顔を上げて手を振った。おざなりに手を振りかえし、しかしいまだに脱力したままゴールドは螺旋階段を踏む。一歩一歩踏み出す足が重い。足首に氷の塊がまとわりついているような重たさだ。
 四階、自室にたどり着いて彼は、ドアノブの錠が外れていることに気がついた。ジュリアンが開けたままにしておいたのか、ため息まじりにノブを回しふと、彼の身体を奇妙な予感が充す。彼は音を立てずにドアを開けて閉め、後ろ手に鍵をかけ、ローファーから焦ったく室内ばきに履き替えて階段を登った。寝室には作業机とベッドが二つ、そのうちの右のベッドがゴールドのベッドだ。果たして、シルバーはそこにいた。かたくなに膝を抱え、顔を伏せて震えていた。ゴールドは静かに彼の傍に歩み寄り、床に片膝をついて、俯いたままの彼の顎をそっと掴んでこちらを向かせた。涙で濡れた銀の瞳が二つあった。
「どこに行こうかと、考えて」
 感傷のたっぷりと滲んだ声で、辿々しく彼が言う。
「いたんだ……でも、結局思いつかなかった。おまえのところに行くことしか……!」
「なあシルバー」
 ゴールドはそれ以上彼に何も言わせなかった。ただ、手を握った。シルバーはそのときびっくりして手を引っこめようとした。声を出さずに握りこまれた指だけがもがいた。だがゴールドはシルバーの手の皮膚をそっと捕まえておいて、決して揺るがなかった。怯えの脈が走る指へいたわるように触れる。骨の出っ張りが皮膚に突き刺さるのを確かめる。
 美しい顔がつくる驚きの表情が、脆い砂糖菓子をつついたときのようにほろりと崩れ、彼の下瞼から一掬の涙がこぼれた。ただほんとうにそれきりだった。しかしそのことで、ゴールドの過去から現在、未来に至るまで、いのちがけの信念や正義、孤独や憎しみを抱いたこと、それから、愛、すべからく満たされて、ゴールドの溌剌とした少年の目鼻立ちに充足の色が上った。シルバーがはっとして、慌てて視線を逸らそうとした。
「好きだ」
 シルバーは信じられないというふうに目を見開いた。漏れ出る嗚咽を押しとどめようと彼は必死で唇を歯を食いしばる。
「口先だけの愛情など不要だ」そっけなく言い捨て、なおも手指の拘束から逃れようとする。
「違う」
「他でもないおまえに、嘘なんてついてほしくない、性欲をどうこうしたいのなら、そんな言葉を持ち出して来なくても好きにオレを抱けばいい」
「違うって言ってるだろ。もうおまえのことは抱かない」
「なぜ!」
「何度も言ってるだろ、好きだからだよ。おまえを愛してるんだ」
 それまでゴールドの挙動のすべてを拒絶していた瞳に、桃色の花弁が張りついたほどのささやかなぬくもりが湧いた。涙がすっかり彼の頬を流れ去り、ようやく、彼はのろのろともう片手を持ち上げた。二つの手がゴールドの分厚い掌を挟む。まるでそれが自分の心臓であるかのようにシルバーは、大切に大切に、小さく繊細なふたつの手でゴールドの手を包み込んだ。
「オレは……事実、生まれたそのときから罪人だったんだ。だから呼吸をすることすらどうすればいいかわからなくて」
「シルバー」
「最後まで聞いてくれ。その息苦しさをどうにかしたくて主に縋った。きっとそうなんだ、最初はただ利害の一致でこうしていただけかもしれないんだ、でも、最近はほんとうに、かの人にはすごく感謝している。ブルーねえさんに、クリスに……おまえに、会えたから、ただそれだけで……神の法律が、欠けひとつない無謬のものだってこと、おまえが教えてくれたんだ」
 シルバーは、深い喜びから出た微笑を唇のほとりにぼんやりと含ませた。
「愛してる。おまえに会えてよかった」
 それは、ゴールドが長らく待ち望んでいた愛の言葉、確かにそうであるはずなのに、ゴールドの胸には不吉な予感が降りてくるのだった。彼の微笑の美しいこと、清らかであることが、いやに作り物めいていて無機質な感じがした。
 そのままキスをねだられて、ゴールドはそのとおりにしてやった。触れた唇がつめたいのに、彼はことさらにその予感を強めた。

 三月の終わり、イースターのためにユンゲブレッターは十日あまりの休暇に入るが、ゴールドもまた父親の追悼ミサのために帰国することになった。念願かなってようやくシルバーと愛し合うようになったゴールドであるというのに、彼は晴れない気持ちのまま、去年の秋に初めて降り立ったユーバーリンゲン駅のホームにいた。ホームには、各駅停車でそれぞれの実家に帰る国内組の生徒たちが何人かと、チューリヒ行きの急行を待つゴールド、クリスタル、それから見送りのためにやってきたシルバーが待っていた。ほかにキャリーケースを抱えた観光客もちらほらと散見された。
「オレがいなくても泣くなよ」
 繋いだ手に力を込めてゴールド、すぐそばでほのかに赤らんだみずみずしい耳がらに囁いた。
「泣かない」
「寂しがりのくせに何言ってんだか」
 初春の、色素の薄い空から、すがすがしい檸檬色の光が降ってきてシルバーの鼻梁や痩せた頬、ゴールドに投げて寄越された微笑を天上のものにした。今まさに綻んだ若い薔薇のようだと思った。伸ばした指先で頬の骨格をさわる。彼はゆったりとまばたきをし、緊張のあまり汗ばむ手のひらに自ら擦り寄った。ふたりはお互いの瞳の中に同じ宇宙を見、どちらからともなく鼻先を近づけて、人目も憚らずねんごろに唇をくっつけた。
「ゴールド、彼氏、見ろよあんな顔して」
「姫! 王子! 末長くお幸せに!」
「うっせー黙ってろ!」
 遠巻きにふたりを見ていた同級生たちがヤジを飛ばすのに、ゴールドは大声で報いる。彼らが黄色い声を上げながら散り散りに逃げてゆく。行儀が悪いとクリスが眉を顰める。そうはいっても、ゴールドは羞恥で真っ赤になって彼らから顔を背け、シルバーはといえば、ただ優しい表情で、自分のことを冷やかす彼らに別れの挨拶をした。それから、ゴールドの耳元に唇を寄せて、彼なりの愛の言葉を囁いた。
 彼がいっそしおらしすぎることに、ゴールドは強い不安を抱いていた。有史以来、美しいものには往々にして不幸がついてまわるものだった、チャイナのヨウキヒは国を滅ぼしたし、聖アグネスは十三歳で殉教した、そのきざしが、一途にゴールドのそばを離れずにいるシルバーの瞳の中にも確かに感じられるのだった。うちに来いよとゴールドは誘うのだが、受難週からイースターにかけての一週間余、毎日行われる終夜ミサに参列するから行けないという。
 ジリジリという耳障りなブザーとともに、ホームに列車が滑り込んできた。赤い貨物列車のような風体だが、中は国境を超えてチューリヒにたどり着くまでを快適に過ごすことのできる個室車両だ。
 ゴールドが先に乗降口を上り、彼のエスコートでクリスも列車に乗り込んだ。彼女が場所を開けてくれたので、乗降口のへりに立ってゴールドは、シルバーとのしばしの別れを惜しんだ。
「気をつけて……チューリヒ駅はすごく迷うから」
「お前こそ、色々気をつけろよ。メシはちゃんと食えよな」
「わかっているさ」
「いーやわかってないね。だいたいおまえは……」
 言い募ろうとする唇は、踵を上げて背伸びしたシルバーの、掠めるような口づけによって閉じられた。ホームに残った同級生達から再び歓声が上がる。
「王子ー! どうぞご無事で! ご不在の間は我々が姫をお守り申し上げます!」
「だからうっせーンだよ!」
 照れ隠しに叫んでから、ゴールドは列車の扉が閉まる前にもう一度シルバーを抱き寄せた。繊細で、こづけばすぐにでも壊れやすそうな、汚れのない少年の身体を。
 胸と胸が軽くぶつかったそのとき、あっとシルバーが声を上げた。自らの制服のジャケット、そのボタンを一つずつ外してゆく。内側の赤いサテン、そこに縫い付けられた内ポケットの中を彼が探ると、軽やかな金属音とともに金の鎖がこぼれ落ちた。
「なんで……」
 それは冬のあの日、シルバーが去りゆく姉に手渡したはずの、家族の写真が入ったロケットだった。いとおしそうに蓋を外し、シルバーは写真に静かな視線を落とす。
 発車のベルが鳴り響く。ゴールドが慌てて扉の前から退くと、重い軋みと共にドアが閉ざされた。大慌てでひと車両分を踏破し、一番デッキに出て彼を探す。彼はまだ、ゴールドが去った後の乗降口を眺めていた。横顔が淋しい。
「シルバー!」
 列車が動き出し、急速に彼の姿が遠ざかる。
「手紙書くからよ!」
 速度のなす風の中で、ジャケットの裾から伸びたシルバーの片腕が白く涼しく輝いている。
 車両の中に戻り、切符の印字どおりの車室に入ると、クリスはすでに荷物台にすっかりキャリーケースを納めて座席に座り、すました顔でゲーテ詩集を開いていた。ソフトカバーの表紙に、紅薔薇を手のひらに乗せた裸身の天使が描かれている。扉を開けても彼女が無言だったので、ゴールドも寡黙なまま中に入り、少しばかりの荷物を彼女のキャリーケースのそばにおさめた。彼女の向かい、ビロードのふかふかな座席に沈み込む。
「シルバー、元気そうだったね」
 ズライカの歌、ドイツ語版に意識を向けたまま、思わずぽろりとこぼしてしまったという調子で彼女が呟く。
「ああ……うん……いいことだな」
「そういうんじゃなくて……不自然なくらい元気ってこと」
「まあ、そういう気分のこともあるだろ」
 列車はボーデン湖のほとりを北上し、ぐるりと湖を半周してスイス連邦に入る。雪の気配が濃くなってきた。窓の外は、針葉樹の冷たい緑と、もう春というのにわずかばかり凍りついた湖畔の白一色の世界だ。
「ところでおまえ家どこ?」
「ロサンゼルス……だからフランクフルトまで一緒ね」
 すくなくともフランクフルトまでは、寝こけていても無事に到着できるということだ。途端に気が抜けて、ゴールドは座席に深く背を預け、目を閉じて眠りの波に思いを馳せた。

 ニューヨーク、ペンシルバニア駅、モイニハン・トレインホールは、鉄骨を組んで作られたガラス張りのアトリウム天井から落ちる自然光で、広いホール全体を明るく演出するモダンなハブだ。シャンデリアの形式で吊り下げられた時計が十五時を指すころ、ゴールドは十一番線からエスカレーターでこの大空間に上がってきた。
 九月にこの灰色の大理石を踏んだときは、父親の死への遣る瀬無さと、母親のあまりにも物分かりの良い様子に、苛立ちばかりを持て余していた。神なんていないと断じるばかりだった。だが、どうだろう、今のゴールドの心は、シュロス湖の鏡の湖面のように凪いでいた。不安が水面で澱むばかりで、ほかは恐ろしいほどに静かだった。制服の裾の折れ目を直し、赤いリボン、神の贖罪の象徴を直して真っ直ぐに立つ。その姿勢のまま第八アベニューに続くフードホールを抜けて外に出ると、都会特有の内容雑多なざわめき、車のクラクションの音、春先だというのにじっとりと湿気を帯びた空気が、ゴールドの鼻先を直撃した。
 五車線もある第八アベニュー、ひしめきあう色とりどりの車、パルテノン神殿にも似た、無数の柱廊を備えた駅のファザード、そこから地上に流れるドレスの裾のような大階段、天辺には星条旗が誇らしく輝き、その向かいには、かつて父親が勤勉に働いていたエンパイヤステートビルが光の中に聳え立っている。巨大なマディソン・スクエア・ガーデン、歩道脇にハラルフードの屋台、南国フルーツジュースの屋台、テレビ会社の巨大なバス、発電カー、人種に関係なく人々は好きな服を着、好きな靴を履いて、好き好きに母国の言語を話しながら縦横無尽に行き交う。ゴールドにとってはひさびさの故郷の空気だ。厳粛でしんとしたセイラムの街では絶対に見られない景色だ。
「ゴールド」
 目の前に停車していた黄色いNYC(ニューヨークシティ)タクシーの後部座席が開き、白いロングワンピースの女性が顔を出した。
「かあさん!」
「おかえりなさい」
 大きなバッグを抱えたままなんとか車内に乗り込んで、座席に身を落ち着けてから、ゴールドは母の隣に座った。シートベルトを締める前に、彼女がぎゅっと抱きしめてくる。
「元気にしてた?」
「おう……」
「ああ、そうだ、あなたがお友だちできたって言うからてっきり連れてくるのかと思って、夕食三人分用意しちゃったわ。……まあいいでしょう」
 あまりものを気にしない母だ。相変わらずの彼女に、ゴールドにも自然笑みの波が寄せてくる。
 ゴールドの実家は、ニューヨーク中心部から程近く、東第九ストリート位置する巨大なタウンハウスだ。一家はその棟全体を所有していたが、母は維持費が嵩むのを面倒がり、それじゃあいっそ貸家にしてしまいましょうということになった。今では一階から四階に人が住み、その中に店舗も二、三混ざる。
 赤煉瓦にギリシャ復興様式がなごる美しいタウンハウス、ゴールドの実家の手前でタクシーに金を払い、母子は降車した。母に促されて大理石の階段を上り、無垢材の扉を開けると、寄木細工の堅木張りの床に白い壁、簡素なシャンデリアが美しいロビーに出る。エレベーターで五階まで行けばすぐにリビングに出るはずだが、ゴールドはこの半年ですっかり鍛えられた心身のアピールのため、階段で五階まで向かった。
「すごいわねえ」
 母がどことなく嬉しそうだ。
 玄関からまっすぐにリビングに入った。ロックビル大理石の暖炉に紺地のソファ、素朴な花を生けてあるガラスのローテーブル、そうしたものをゆとりを持って配置した空間だ。父親が仕事仲間から譲り受けたピアノや、名のある現代アート作家が描いた巨大なキャンバスなんかも飾られている。奥まった正面壁には二つ、九つ窓の可愛らしい窓が二つ、午後の光にキラキラと輝いている。左の扉を開けるとダイニング、そのさらに奥にキッチンとバスが左右に配置され、キッチンからバルコニーを超えて室内に入ると再びリビング、右の扉は両親の寝室のもので、左の扉がゴールドの自室に向かうものだ。
 雪崩れ込むみたいにして自室に入る。すっかり懐かしくなった本棚と机、椅子、さまざまなCDや楽譜、おもちゃを乗せたラック。カラフルな壁に貼られたポケモンのシール。シンダクイルのぬいぐるみ、ドラム、青い毛布のかけられたベッド。ボストンバッグを机の上に置き、ジャケットを脱いでいると、ノックの音とともに母が入ってきた。
「お買い物行きましょうか」
「いく!」
 リボンだけを器用に解き、ゴールドは母に追随する。
 一本大通りに出たところに、エピクリカン・マーケットという名前の、赤いビニール庇が印象的なマーケットストアがある。手前で花を、中では日用品や食品を販売しているごく普通のマーケットだが、菓子類の品揃えが多いので幼いゴールドはよくここに通ったものだった。奥に長く伸びた店の敷地に入り、菓子の棚へ走る。ガラスケースの中で売られるアイスや惣菜の類も見る。グラハムクラッカーとレイズポテトチップス、ひまわりのたね、レーズンなど、ドイツではとてもお目にかかれない類のスナックをたくさん買ってもらった。夜には母の得意料理・グレン風火山ハンバーグ(グレンというのはジャパニーズで赤という意味らしい)を振る舞われ、ゴールドはすっかり満足した。

 アセンション教会は、グリニッジ・ヴィレッジの中心部に建設された、ネオゴシック様式の美しいカトリック教会だ。交差リブやアーケード、ステンドグラスの高窓、小さな吊り下げ式の照明が立ち並ぶ奥に、復活したキリストの被昇天を描いたジョン・ラ・ファージの巨大なフレスコ画が飾られている。学園の礼拝堂は贅を凝らした作りになっていたが、こうした地元の慎ましやかな教会も悪くないと、いまのゴールドは思っていた。この日、母子は父のためにここで追悼ミサを行うことになっていた。
 信心深く親切な父の追悼ミサには、アメリカ全土からたくさんの参列者が訪れた。喪服を着た男女に、色々な制服を着た子供たちがちらほら混じる。母はミサの前、その全てに対してあいさつをし、遠くからやってきたことに対する感謝を述べた。以前であればそうはしなかっただろうが、ゴールドも、母に倣って一人一人と握手を交わした。
「君、ゴールドくん?」会う人会う人が、口々にそのような言葉をゴールドにかけた。「大人になったわね、見違えたわ」
 恋をすれば人は変わるのだ。ゴールドは胸を張ってそれに応えた。
 式はつつがなく進行した。参列者は皆神妙な顔で司祭の説教を聴き、聖体拝領に与った。福音朗読ではマタイの福音書が読まれた。わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい、そうすればあなたがたはやすらぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである——
 ……という旨を書き留めた便箋を破り捨てて、ゴールドは再び頭を抱えた。手紙一つに、こんなにも悩まされている。
 シルバーに手紙でも書こうと思い立ったのだ。出立の日、手紙でも書くと言ったくせに、結局五日も書けないでいるからだ。しかしいざ文面を考えようとなると、良い話題がなかなか思い浮かばない。そもそもこんなことを書いてシルバーが喜ぶのか、ゴールドの父親の追悼式をしたとか、ゴールドが見違えたとか言われたことを書いて? 今まで手紙に大まじめに取り組んだことのないゴールドは、なかなか答えを見つけられずに唸った。
 やあ、元気にしてるかいシルバーくん……いやいや、流石に他人行儀がすぎる。
 愛するシルバーへ、お前のいない日々が寂しいぜ……どうにも気障で恥ずかしい。
 背を後ろに倒して唸る。
 ふと、かばんに入れて持ち帰ってきた、あの大きくて分厚い聖書のことを思い出した。ゴールドは立ち上がってそれを取り、後ろから幾分かページをめくってみた。すぐに該当の箇所を発見し、彼の口角に知らず笑みが上る。
 書き上がったものを真っ白な封筒に入れ、のりをつけて蓋をした。一週間もすればきっと彼のもとに届くだろう。

 休暇も残り二日ばかり残すところとなった朝、驚いたことに、クリスが訪ねてきた。
 クリスはいつものかっちりとした制服姿ではなく、白い花が散りばめられたミモレドレスに唾の広い日除け帽、少しばかりのヒールを備えたパンプスを合わせて可憐に着こなしていた。玄関で迎えたゴールドが何か言う前に、彼女はひどい早口で捲し立てる。
「違うのこれはねママが、ママの趣味なの似合ってないよねごめんなさい! 気にしないで!」
「いや、オレは……」
「ゴールド、お客さん?」
 キッチンで昼食の支度をしていた母が、エプロンを脱ぎながらこちらへ寄ってきた。クリスは彼女を見ると実直に背筋を伸ばし、帽子を取って挨拶した。
「はじめまして。お世話になっております、クリスタルといいます。明日の便で学校に戻る予定なのですが、その前にこちらの方に用があり……ゴールドくんのお家にもご挨拶をと思いまして」
「まあまあ、あなたがクリスちゃん。ゴールドがお世話になってます。もうすぐお昼ご飯なの、せっかくだからクリスちゃんも食べて行かない?」
 ゴールドは恐縮しながらも頷くクリスを横目で見ながら、内心舌を巻いていた。普段化粧っけのない彼女はいま、薄くではあるが頬紅をさし、唇に鮮やかなローズピンクのルージュを引いている。目元にはピンクのアイシャドウ、まつげにはマスカラを施している。髪を束ねた髪飾りも、いつものシンプルなゴムとはおおきく意趣を異にして、花の装飾がついた可愛らしいシュシュだ。もともと目鼻立ちの美しい彼女がここまで粧うと、それはもう文句なしに愛くるしかった。
 礼儀正しい彼女を、母が褒めるのがなんだか照れ臭くて、ゴールドは軽く頬を掻く。
 ランチはほうれん草とベーコンのサンドウィッチだった。クリスが持ってきたパイナップルスコーンに、母が焼いたレモンケーキがデザートとして添えられた。クリスは大いに喜び、これを控えめに上品に食べた。
「それでね、ママったら着替えを全部忘れていっちゃったの。二ヶ月もの間仕事するのによ? だからしかたなくわたしがここまで届けにきたってことなの」
「言ってくれりゃかあさんが服かしたのによ」
「申し訳ないわ! それにね、ママ……ちょっと変な人なのよ、だから、服の趣味があんまり合わないっていうか……」
「そうだよな、かあさん地味すぎるんだよなあ」
 食事のあとは、遠慮するクリスを半ば無理やりテレビゲームに誘った。修理工の小さなおじさんを操作し、キノコや亀のばけものを倒しながらゴールまで進むという海外産のゲームだ。ふたりが夢中になっている間に母は、ラジオを聴きながらキッチンで洗い物をしていた。昼下がりの陽光が差し込むリビング、無機質な電子音でゴールドのプレイキャラクターの死亡が宣告される。ゴールドはコントローラを放り投げ、ちらと隣を見た。生き残ったクリスは相変わらず真面目な顔で一心不乱に遊んでいる。
 ゴールドの実家にいるクリスは、学園にいるときとは別人のようだ。キリストからも、学問からも離れて、彼女はようやく等身大の女の子といった感じだった。ゴールドは隣にシルバーの姿を空想した。学園にあって、現実離れして美しい彼は、ゴールドの隣でテレビゲームをしているとき、どんな顔でいるだろう。どんな姿勢でいるだろう。勝てば喜び、負ければ悔しがるのだろうか。そもそもシルバーはテレビゲームを知っているのか? 名残惜しく空想から覚めれば、クリスのキャラクターも死亡し鉄の花に食い散らかされていた。
「死んじゃった」
 照れ臭そうに彼女が笑う。
 キッチンの母は皿の泡を洗い流す作業に入り、それに伴ってラジオの音量を上げた。それまで聞き取れなかったニュースキャスターの音声が、断片的にだがこちらにも聞こえてきた。
 ——に対する軍事侵攻について……として軍を指揮した……には、まだ……子どもが……
 クリスは眉を顰め、ぎゅっと目つきを鋭くした。コントローラーを放り投げて勢いよく立ち上がる。ゴールドは不審に思い、「どうしたんだよ、クリス?」
「ゴールド、あなたユンゲブレッターに戻るのはいつ?」
「ああ……明日だけど」
「今日に飛行機の予約を取り直せない? 今すぐ出発しましょう」
「あ、おい、どうしたんだよ!」
 クリスに強引に腕をひかれ、ゴールドは立ち上がった。ふり仰いだ彼女の瞳は興奮に爛々と輝いている、その輝きの奥底に、かすかな恐怖と怯えが滞留している。しかし、それを指摘する間もなくクリスはゴールドに答えを示した。
「シルバーが危ないの」
 ゴールドの心にひしりと冷たいヒビが入る。シルバーが? 危ない?
「まあ、もう行くのね?」
 キッチンから出てきた母が、慌てふためくふたりに優しく微笑した。ゴールドは自室から取ってきた制服に焦ったく着替え、クリスは広げた荷物をかばんに詰めながら彼女に応答する。
「はい、すみません。今日はありがとうございました」
「気にしないでね。ゴールドも、こんなこともあろうかと、昨日のうちに荷物を準備しておいたわ。今度はシルバーくんのことも連れていらっしゃいね」

 クリスは何か大局的なことで懸念を抱いたらしかったが、それはそうと、ふたりが帰り来たセイラムの町には、特別不審な点は見当たらなかった。ユーバーリンゲン駅でシルバーと待ち合わせをしていたのに彼が来なかったのは、これはゴールドたちが帰国する日を一日前倒しにしたからだし、学園に戻ってから夕方になるまで彼に会わなかったことについても、行動パターンのずれで説明がつく。しかし、その日の夕食、それから翌日のミサの時間になっても彼が現れなかったことで、ゴールドの胸にもようやく、説明のつかない不幸な予感が降りてきた。敬虔な彼が毎朝のミサに現れないことに、ゴールドは合理的な説明をつけることができなかった。
 イースターの休暇の間学園に残っていた同級生たちに尋ねても、この三、四日の間は、誰も彼を見ていないという。クリスと手分けして、図書館、旧礼拝堂、ペテロ館のシルバーの自室、パウロ館のゴールドの自室と捜索したが、なかなかその所在を掴むことはできなかった。休暇期間が終わることを理由に一度捜索は中断され、何か気になる点があれば報告するということでクリスとは合意し別れたが、しかし……ゴールドにはたった一つ心当たりがあった。それも、クリスにはとても見せたくないような深い闇の中に。
 重い足取りで彼はパウロ館に戻ってきた。長い螺旋階段、その向こうに見えるかすかな明かりにため息をつく。ああ、彼はこの向こうにいるだろう。たしかにいるだろう。彼が段差を踏むたびにその気配はより濃厚なものになり、ゴールドの官能を痺れさせ思考を狂わせる。こうなることは、少し考えれば予想のつくことだった。ただでさえ美しく、他の生徒たちから抜きん出て存在感を放つ彼であるのに、その彼が逃れようのない罪人のしるしをつけられて……彼に常にくっついて回っていたゴールドが帰国し、彼は無防備になった、不埒な輩が計画を実行するのに絶好の環境が出来上がった……やがてゴールドの耳に聞こえてくるのは、男たちの耳障りなくすくす笑い、それから少年の啜り泣きにもにた息遣い……いや、もはや悲鳴の類だ。何かされるたびに少年は鋭く悲鳴をあげ、あるいは喉にかかった嗚咽を漏らす。ゴールドは五階にまで上り詰めた。寮監の部屋、それから上級生たちのサロンがあるフロアだ。
 熱したたばこの煙がここまで匂ってくる。半ば小走りになってゴールドは廊下を進み、躊躇いなくサロンの戸を開けた。
 円を描く壁に沿って配置された七つの窓が、青い月の光を大理石の床に冷たく落としている。部屋全体を満たす薄明かりは、石膏で作られた天使の像や草花の紋様、古高ドイツ語で書かれた詩歌などで埋め尽くされた壁をぼんやりと浮かび上がらせている。ともすれば妖精の寝所かとも思われる美しい部屋、そこに、透き通るような肌の痩せた少年がひとり、両手を後ろ手に縛られ転がされていた。髪は白っぽく濁った精液がこびりつき、唇の端からは血と唾液が流れている。背や腕の皮膚には鞭で打ったあとのようなミミズ腫れが無数に這い、また灰のこびりついた火傷あとまでが点在する。見覚えのある上級生がひとり、彼の尻に陰茎をねじ込み、それを取り囲んでほかの生徒たちがまたくすくすと笑った。なおも抵抗する彼の、傷だらけの背中に、ひとりが吸っていたたばこの火を押し付ける。彼が泣き叫ぶ。シルバー! ああ、シルバー! あのときゴールドに愛してると言った、おまえに出会えてよかったと微笑んで言った美しいシルバー、やつれて、痩せた頬や身体がさらにこけて骸骨のようだった。泣き叫ぶ喉は枯れていた。いったいどれだけ、この虐待を続けられたのだろう。泣いても懇願してもやめてもらえなかったに違いない。血の気が引く。手足ががたがたと震え出す。
「シルバー」
 震える声で、ゴールドはいとおしい名前を呼んだ。彼はゴールドの入室に気づくと、顔をわずかにあげて、かすかに微笑んだ。
「ゴールド……」
「シルバー、シルバー……シルバー!」
 もうそれ以上見ていることができなかった。ゴールドは大股で歩み寄り、シルバーを犯していた少年を突き飛ばしてその身体を抱き上げた。ゴールドの頬に、シルバーは自ら肩を起こして擦り寄った。死ぬ前に猫が飼い主にするような仕草で、にわかにゴールドの目からは涙が溢れた。
「よお、王子様のお出ましかい?」突き飛ばされた少年が、目の端をすがめて意地の悪い笑い方をした。「残念だが、遅かったなあ」
「そんなことはないさ」
 それに報いるのは、シルバーの気丈な声。
「ゴールド、オレは屈しなかったとも。彼らの要求には答えなかった。主を、おまえを、愛していると、曲げなかったぞ、ゴールド……」
 弱々しく呟いたあと、激しく咳き込んで血痰を吐いたのを最後に、彼はふっと意識を手放した。ゴールドがそばにきて安心したのかもしれなかった。そのとき、シルバーが何の欺瞞もなく、ほんとうにゴールドを愛しているのだと、彼がすべてを差し出して愛に殉じたのだと悟ってゴールドは言葉を失った。愛、愛。こんなにも彼を縛る愛というのはいったいなんだ? 彼にここまでさせる神という存在はいったい何なんだ!
「なぜこんなことをした」
 シルバーの身体を強く抱き、地を這うような声で、ゴールドはこの場にいるすべての者に問いかける。
「それは、なあ、罪人に裁きを下すのは当然のことだろ?」その気迫、憤激、憎悪にさらされてもなお、少年たちは臆さない。
「どういうことだ」
「知らないで付き合っていたのかい。シルバー・ヴァンヴィッチ・ディグナツィオは、あの忌々しい戦争犯罪者ジョヴァンニ・ディグナツィオの息子なんだよ!」

 ジョヴァンニ・ディグナツィオ、もとは国家保安委員会の対外情報部員だったが辞職、政治家に転身し、保安庁長官・安全保障会議事務局長を経て大統領に就任した。今回の特別軍事作戦を軍に命じた首謀者、敵対国にとっては最も注目するべき脅威であり、敗戦したいま、重大な戦争犯罪者としても取り扱われる。近い将来、国際司法裁判所が彼を裁き、確実に死罪にするだろう。
 この世のほとんどの人間が知る彼の情報はそんなところだ。だが、幼いシルバーにとっては、不器用だがやさしく思慮深いたった一人の父親だった。
 母を失ってから父が政治家になるまで、シルバーは父とともに郊外の森の小さな一軒家で暮らした。母が愛した美しい屋敷は、主人を失ってすっかりさびれたものになってしまったし、それを維持し続ける理由を父子は持たなかった。他に誰も寄り付かない寂しい家、父は朝早くに出てゆき、夜遅くに帰ってくる。シルバーは変わるがわるに訪れる父の部下たちに世話をされ、彼らが帰宅したあとはさみしく窓の外を眺めながらいつの間にか寝てしまう。それでも、シルバーが擦れた子どもには育たなかった。日曜日には父がずっと家にいて、シルバーの気が住むまで遊んでくれたからだ。
 春は木々の根の間に啓蟄のあとを探し、夏は清流が流れ込む池に出かけて行って水浴びをし、秋には落ち葉をかき分けながら木の実を探し、冬は暖炉の前で一日中絵を描いた。美しい日々、どのページをめくっても仕掛け絵が出てくる絵本を眺めるように、シルバーは今でも、その時のことを楽しく思い出すことができた。
 輪郭の曲がった目玉焼き、ゾウに似た形の雲、うたた寝の時にかけてくれたアルパカの毛のコート、眠れない夜に作ってくれたバターココア。低い声で子守唄を歌ってもらうのが好きだった。大きくて骨張った手が頬を包んでくれるのが好きだった。ああ、どうして、彼を憎めようか? 六歳のとき、偽りの苗字を与えられてドイツの片田舎に押し込まれた、そのときは何てひどいことをするのだと泣いた、以来、彼の顔の記憶はいつだって新聞や雑誌の写真ばかりだ。彼の言葉の記憶は暗号仕掛けの手紙ばかりだ。しかし、どうして彼を憎めようか? 彼がよこしたのは愛だけだった、それ以外の、普通の父親が子どもに与えるようなものは何一つよこしてこなかった、どうして彼を憎めようか? じゅうぶんだ、シルバーが彼を愛するのにはじゅうぶんすぎた。
 シルバーは父を愛していた。
 自らの覚醒を知るより先に、朝が来たのだということに気づき、シルバーは目を覚ました。悪夢のような陵辱から一夜明けて彼に与えられたのは、良い香りのする清潔な毛布と枕、適切な治療、それから、眠りに入ってもなお握る力の緩むことがない、ゴールドの無骨な右手だった。
「おや、目が覚めたかい」
 シルバーの覚醒にいち早く気がついたのは、点滴を取り替えようとしていた医師だった。シルバーは、はい、と、いつになく穏やかに首肯した。
「君の、傷も酷かったが、水分不足と栄養失調がね、特に重大だったから点滴を打たせてもらったよ。気分はどうかな」
「悪くありません」
「そうか。では君の耳にも入れておくが、彼らはもうじきに放校処分になるだろう。クリスタルくんと、上級高等学校一年のレッドくんがよく動いてくれてね。それから……そこで寝ているゴールドくんだが、さっきまで起きていたんだよ、君が目を覚ますまでここを動かないと言ってね……」
 朝の太陽が穏やかな光を地上に注いでいた。その光は六つ窓のガラス腰に医務室へ明るく差し込み、座った姿勢で、いびきをかきながらベッドに頬をつけているゴールドの泣き腫らした顔をしんしんしんと照らしていた。シルバーは静かに微笑んでいた。心は穏やかで、精神のほうも安定していた。こんなに清々しい気持ちはひさしぶりだ。まだ細かい傷が生々しく残る人差し指で、ゴールドの、瞼にかかった髪を退けてやった。
 復活祭の日曜日にふさわしい、清らかに澄み切った朝だ。ああ、神さま——シルバーは祈った。彼の眠りの無垢であることをお守りください。シルバーは彼の、自分の手を握ったまま寝入っている手を握り返した。温かい。ゴールドを愛している。クリスタルのことも、母のことも、父のことも愛している。そうであるならば、シルバーに残された道はただ一つきりだった。
「ずっと考えていたことがあるんです。その、迷っていたのですが」
「ほう」
「先生、私は……ユンゲブレッターを出ます」

 父を喪ったさい、ゴールドはそれはそれは泣き、誰も手につかないほどだった。信心深い父がこんなにも早く召命された理不尽に対するやるせなさや、もう二度と父に会えないのだというさみしさ、そうしたものがゴールドに涙を流させたわけだが、愛しあうように人間を諭しながら、自分は平気で愛し合うもの同士を引き裂く神という上位存在に対する怒りが、特に彼を強く縛りつけた。愛し合うもの同士は同じ空間を共有するべきだ。離れることなくそばにいるべきだ。だからこそ、シルバーの決断は、ゴールドにはとても受け入れられなかった。
「てめえ、もう一度言ってみろ!」
 ゴールドが自分の胸ぐらを掴んで激昂するのを、シルバーは静謐なまなざしで見た。
「オレは母国に帰る。お父さんに会いに行く」
「自分が何言ってるのか分かってんのか、あ? あの人にどれだけの人間が恨みを抱いてるよ、てめえ、のこのこ激戦地に出向いて、殺されたって文句言えねんだぞ!」
「それでも」大切な言葉を口にする時のように、一句一句区切って発音する、シルバー、「お父さんに会いに行く、オレは……お父さんを愛しているから」
 彼が言い終わらないうちに、ゴールドは平手でシルバーの頬を打った。抵抗もなく後ろへ倒れる細い身体を……滑り込むようにして走ってきたジュリアンが受け止める。「やめるでやんす!」
「てめえ邪魔すんのか?」
「そうだそうだ! 姫をお守りするのが我々の使命なのだ!」
 西の野次馬どもが威勢よくヤジを飛ばす。それに応えて東の野次馬どもは、
「なにおう、本当に守りたいなら精神(こころ)まで守ってみせてこそ騎士だろうが!」
「カッコつけるなー! 引っ込め!」
「そっちこそ引っ込め意気地なしめ! 帰れ! 部屋から出てくんな!」
 勝手に介入してきて、仲良く殴り合いはじめる野次馬たちの喧騒の中で、ゴールドとシルバーは言葉もなく向き合っていた。シルバーの瞳は、初めて出会った秋の日から変わらず、天の金属の銀に強い光を帯びていた。シルバー、美しい人、悲しいくらいに! 火花が散るような動物的で激しい美が白い顔の上にあった。とても見ていられなくてゴールドは瞼を伏せた。
「……ほんとうに、心は変わらねえか」
 ジュリアンの腕から離れて立ち上がり、シルバーはいっそ率直すぎるほど素直に頷いた。
「うん」
「それじゃあ……オレの、オレのことは愛してないっていうのか」
「それは違う」
 赤ん坊がはじめて浮かべた笑窪のように、はかなく、心もとない笑顔で、シルバーは口ずさんだ。
「ゴールド、愛してる」
 言葉もない。野次馬どもがしずまりかえる。
 胸の内に切ない渣滓が降ってきて、ゴールドはシルバーの前から立ち去った。おお——おお、神さま、神さま、神さま! あなたは全能だ、あなたが創造したもうた天使はまったくほんとうに無謬でした、彼は、彼の翼は——きっと誰にも奪えまい、暴力にも死にも、愛にさえも!
 果実をつけたクラブアップルの木をくぐり、背の高い草を分け、旧礼拝堂に向かった。あの、月の綺麗だった夜、ゴールドはあそこで天使に出会った、赤い髪に白い肌の天使……左右の扉を押し開ける。煤と少しばかりの黴のにおい、耳が痛くなるくらいの静けさ、高い天井に奥まった空間、赤く長い絨毯が足元から祭壇の方まで長く続いている。祭壇の前で、ゴールドはひざまづく人影を幻視した。肩甲骨までを流れる、目が覚めるような赤い髪。生白い手足。黒いジャケットにスラックス。細い指をしっかと組んで祈っている。ヤコブの息子……聖母マリアの系譜……シルバー! 幻覚は振り返り、ゴールドに微笑むと、朝の風とともにふっとたち消えた。
 祭壇の前、十字架にかけられたキリストが見下ろす地上にひざまづく。うずくまる。両手を胸の上で組み合わせる。目を閉じて、額を床に押しつける。主よ、主よお許しください、私はあなたを長らく裏切り続けた、お許しくださいこの愚かなしもべを……祈りが深まるたびに、彼の魂は青く清らかな炎に燃えた。
「許そう」
 ふいに、声があった。顔を上げる。
「許そう、許すとも。あなたの苦しみを理解しないわたしではない、あなたが苦しんでいるとき、わたしもまたそばで苦しんでいたのだから。安心しなさい、最後のときまで、わたしはあなたのそばにいる」
 ステンドグラスから差し込む、幾重もの光の筋がまるで虹の架け橋のように、ゴールドと、磔刑のキリストのあいだに降り注いでいた。キリストは沈黙のうちに微笑した。
 夢見心地でゴールドはシルバーの部屋を訪れた。すっかり片付いた部屋は、ただひと一人の持ち物にしてはあまりに小さなカバン一つだけを残して、ものの一つもなかった。彼は明るい目をして、あの小さなベッドの上に腰掛けていた。ふらふらと近づき、その身体を抱きしめた格好のままやわらかい毛布の上に雪崩れ込む。
 外では雨が降りはじめていた。

「本当に行っちゃうのかい」
「ぜったい会いに行くからね」
「こんな急じゃお別れパーティーもできないでやんすね」
「元気でな」
 口々につぶやき、握手を求める同級生たちにもみくちゃにされるシルバーを、ゴールドは遠くから見ている。
 ユンゲブレッター城の前広場、さっきからジークフリートが車を待たせているというのに、もう十五分はあんな調子だった。シルバーもいい加減に立ち去りたそうな様子だが同級生たちがどうにも彼を離さない。やれ手紙くれだの、飽きたら帰ってこいだの、好き勝手言われてさすがの彼も苦々しい笑顔のまま固まっている。助けてやらねえからな、ゴールドはひとりごちた。
「あなたも行って来ればいいじゃない」
 彼の荷物をトランクに積み終えたクリスが、近づいてきてゴールドに耳打ちした。
「やだね、湿っぽいったらありゃしない」
「羨ましいくせに」
 図星をつかれ、ゴールドは返す言葉を失う。
 春も盛り、ラビリントで咲く薔薇の香りが、微風に乗ってゴールドの鼻先まで流れてくる。冬の間にイエローの熱心な手入れを受けて、また美しい花をいっぱいにつけたことだろう。長く冷たい冬にも終わりがある。冬が過ぎれば春が来る。そう思ったら少しだけ優しい気分になって、ゴールドは気分良く足を踏み出した。
「よおシルバー、そろそろ時間だぜ」
 生徒たちがここぞとばかりにブーイングを出す中でシルバーは、安心した様子でこちらへ駆け寄ってきた。伸ばされた細い腕を掴んで引き寄せる。わっとどよめく周囲など意にも介さず、ゴールドはそのまま彼を抱き上げた。驚き慌てる彼の顔をのぞき込んで笑う。
「ものども! 姫は王子が安全に駅まで送り届ける! だからとっとと授業に戻れ、始業の鐘鳴ってるぞ!」
「ずるいぞゴールド! 変われ!」
「そうだそうだ! 競争制限禁止法だぞ!」
「うるせー! 散れ散れ!」
 
「ディグナツィオがゆきますね」
 窓から城手前の様子を見、シャムが淡々とした声で言う。
「そうか」ノーバートは振り返らなかった。彼が置いて行った小さな青い表紙の聖書、その一ページを、いとおしく指で撫でただけだった。「そうか——」

 ユーバーリンゲン駅で向かい合うふたり、デジャヴだ。ついこの間、シルバーがこのホームに立ってゴールドを見送ってくれたばかりなのに、いま、ゴールドの方がホームに立って、乗降口のへりに立つシルバーを見上げている。見下ろす視線が静かで、寂しい。銀の星がまたたく。少し伸びた赤い髪が翻る。すらりと伸びた柳の佇まい、夜の水のように冷たくすべらかな手腕。彼のすべてを目に焼き付けようと、ゴールドは力の限り刮目した。
 出会わなければよかったなんて、今更そんなことを言うつもりもないが、それだっても彼に出会わなかった自分を想像せざるを得ないのだった。そうであるならば、きっと今ほど切なく寂しい思いをすることはないだろう。幸福だったぶん、跳ね返ってくる絶対的な孤独など知らずに、死ぬまでを生きただろう。オレの、オレのシルバー! 発車間近だというのに、ゴールドはシルバーの腕を強く引いて、バランスを崩し宙にこぼれたその身体を抱きとめた。うっすらと花の香る肩口に顎をうずめ、ほっそりとした背中に手を回す。
「あんまりに急すぎて、まだ受け入れられてない……」
「うん」
 男の腕に抱かれて、黙ったまま、シルバーは澄んだ瞳で見上げてきた。骨が砕けるほど強く抱いた。
「死ぬなよ」
「うん」
「卒業したら、きっと会おう」
「うん」
「好きだ」
「オレも……」
 なにか言いかけたシルバーの唇を、ゴールドは自分の唇でねんごろに塞いだ。零距離で、お互いのまつげの羽ばたきを確かめた。虹彩の輝きを記憶の奥底に刻んだ。なめらかな熱いキスだった。さいごに触れた皮膚に軽く甘く噛みつき、ゆっくりと距離を離すと、シルバーは真っ赤な顔で、困ったようにゴールドを見た。ふっくらとした下唇には、ゴールドの歯の跡が紅のように残っていた。
「忘れるな、オレがおまえを愛してるってこと」
 最後に名残惜しく、掠めるようなキスをして、シルバーは再び列車に乗り込んだ。
 九時きっかり、発車ベルが鳴る。ふいにシルバーは身をかがめ、足下に置いていた鞄のボタンを開けた。白い手が小さな封筒一つを取り出す。青いエアメールの印字。見覚えのある癖字にゴールドが瞠目するより先に、シルバーはこれを開き、便箋を取り出した。たおやかな指が愛おしげに紙面をなぞり、優美な唇でキスをする。
「シルバー……?」
 シルバーは愛のために破顔した。列車はゆっくりと動き始めた。便箋は、シルバーの指に真っ二つに破かれた。息を呑む。それをちりじりに、原型がわからなくなるほど細かくやぶき、宙へ放った。キリストの最後の掟が風の中で花のように舞った。
「さよなら!」
 さよならいとおしい人、さよなら、さよなら、さよなら——手を振る彼は瞬く間に見えなくなった。ゴールドはホームにひとり残された。いつまでも立ち尽くしていた。

 さて、恋人に取り残された孤独なゴールド、その彼を遠くから見つめる影があった。
 影はしばらく死角から彼を見ていたが、他に誰も乗客がいないことを確かめ、ようやく白昼の中に姿を表した。呆気に取られた彼は、近づいてくるものに全く気がついていなかった。
「おまえがシルバー・ディグナツィオか」
「は?」
 ようやく振り返る。あらわになった少年のみずみずしい顔立ちに、影は確信を深める。諜報機関がもたらした情報によると、シルバー・ヴァンヴィッチ・ディグナツィオは、この朝母国に帰るためにユーバーリンゲン駅に現れるはずだった。黒いジャケット、スラックスに、赤のリボンを胸元へ結んで。
 影はターゲットの返事など待たない。鋭く研いだタガーで、幼い心臓を確実に仕留めた。

 

 

 

 

 

——あなたがたに新しい戒めを与えましょう
互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい——

 

 

 

 


 紺碧の空に、ライトアップされて黄金に輝く荘厳なサン・ピエトロ大聖堂、その白亜のドーム、そしてその正面へ円環状に展開され、中心となる広場をゆるやかに抱擁する柱廊。百四十にも及ぶ聖人の石膏像たち、勇猛に伸びたカリグラ帝のオベリスクバチカン市国キリスト教信者たちで大いに賑わい、雨雲のように密度の高い人混みを形成している。冬の寒さでみなよく着込み、そのために殊更に膨れ上がった群衆の中で、ゴールドの双眸はたしかに、あのけざやかな赤毛を見出していた。
 一瞬のことだった。すれ違うそのときに、雪が降る前の大気や、白いジャスミンの花にもにた、あのえも言われぬ香りがゴールドの鼻先をくすぐった。振り返るより先にその人は雑踏の中に紛れて行ってしまったが、ゴールドは間違いないとその存在を確信し、無理やり引き返して人々の間に飛び込んでいった。取り残されたクリスタルがあっと声を上げる。
 ソーリー、ロシェント、ゴメンネサイ、ウンスキュール、てきとうな謝罪言葉を撒き散らしながら追う。コートの裾の縫い目が何かに引っかかっていやな音を立てるも、彼を止めることにはならない。しかし、次第に胸がつきんつきんと痛んできて、息切れも激しくなってきた。そろそろ視界もぼんやりとしてきた……そんな中、ようやく掴んだその手は誰ともしれない別人のものだった。
 黒いキャソックでかっちりと身を覆う青年だ。胸に木の十字架が下げてあるので、すぐさま聖職者だとわかる。彼は不思議そうに首を傾げ、ゴールドの知らない言葉で何か言った。ゴールドも、胸の痛みのために荒く息を吐くことしかできない。
「Как дела(どうした)?」
 そのとき、ざわめきの中でもひときわ鋭く突き通るあの声が、身をかがめて俯くゴールドの頭上に、天啓のように降ってきた。
 ゴールドは顔を上げて、声のありかを確かめようとつとめた。先ほどのあの香りも、今の声も、確かにゴールドが知っているものだった。顔を上げる。腰に届くほど伸びた艶やかな赤い髪、貞淑なキャソックに包まれた華奢な身体、百合の花弁を思わせる真っ白な皮膚、銀の——天の星の瞳。あの日、ゴールドの心を奪ったまま永久に立ち去った少年が、こんなにも美しい青年になって帰ってきた。彼の名前はそう、
「シルバー」
「ゴールド……!」
 立ち上がり、一目散に駆け寄ろうとするゴールド、華やかな美貌にかすかな喜色を讃えてこちらへ近づこうとするシルバー、しかし、ふたりが分たれてからすでに長い時が過ぎ、いまやお互い立場のあるもの同士だった。特にシルバーは、情熱に任せて駆け寄るなんてことが許される立場ではもうなかった。冷静に姿勢を整え、そっけないくらいのよそゆきの笑みで握手を交わす。彼の同僚らしい司祭たちが集まってきて彼に何か言う。
「彼は……中等学校時代の友人だ」シルバーはそれに英語で解答した。「懐かしいな、どうしてこんなところに?」
「旅行だよ、クリスとふたりで来てんの」
「そうか。それは、よかったな」
「ああ、付き合ってるってわけじゃねえからな。オレ意外と一途なの、おまえ、知ってるだろ」
 ドイツ語で応酬するゴールドに、彼は困ったような微笑になる。
「そうか。じゃあ、オレたちは教皇庁で会議があるから、これで」
「シルバー、オレらのホテル、レシデンツァ・パオロってとこ、ここから十分もしないとこにあんだ。ディナーくらいならいいだろ十九時だぜ絶対来いよな」
 果たして彼は来なかった。大聖堂を望むガラス張りの美しいレストラン、花と小さな蝋燭が飾られた白いリネンのテーブルで、スパークリングワイン一瓶だけでクリスと一時間を稼いだが、彼は来なかった。約束と言えるほど拘束力のある約束でもなかったが(というよりゴールドの一方的な取り付けだったが)、ゴールドはいたく立腹し、ワゴンサービスを何度も呼びつけて鬱憤を晴らそうとしクリスを大いに困らせた。
 食事が終わり、夜もふけた頃、ふと煙草を吸いたくなってゴールドは外に出た。星々のまたたきも霞む新月の夜空のした、冬の空気はきんと冷え、吐く息はたちまち白く凍りつくような寒さだ。それでもアルコールに温められた身体には心地よい。ゴールドは咥えた煙草の先にライターを近づけた。鼻先でオレンジ色の火が小さく燃えていた。その向こうに、ふいに青白くその人を見て、ゴールドはぎくりとした。まだ火のついていない煙草がポトリと石畳の上に落ちる、
「お、まえ……ばか、なにやってんだよ!」
 シルバーだった。彼はキャソックの薄いためにぶるぶる震えているというのに、身動きもせずに顎を上に傾けて、ホテルの明かりを図っち眺めていた。ゴールドが駆け寄って自らのコートを肩にかけてやると、彼はようやく気が付いたとばかりにこちらを見、弱々しく微笑んだ。
「会議がずっと遅れてしまって……急いで来たんだが、入るに入れなくて」
「なんで」
「オレはおまえから去る選択をしたというのに、こんな都合の良いことでいいのかと考えたんだ。それとも、オレのことなんて、本当は忘れているかもしれないと……」
 ばかばかしい、ゴールドは彼の身体を引き寄せ強く両腕に抱き抑えた。折れてしまいそうなほど細い――痛々しい――人間の春は遠く去っている男の肉体だった。ひどく冷たかった。それでも、ゴールドが灯した小さな蝋燭の火が、愛の光が、いまだっても胸の中で盛んに燃えているのが確かに感じられた。シルバーも、両腕をゴールドの首に回してすがるようにしがみつく。ゴールドの胸に貼り付かんばかりに寄りかかり溜息をつく。ふたりの影が街灯の灯りのなかでひとつになる。
「馬鹿だなあ」発した声すら涙声になっていることに、ゴールドは苦笑した。
「いまも昔も、こんなにも、おまえだけだっていうのによ」
 こうして、離れ離れになった二つの魂は、ようやく同じ終着点を見出した。終幕。さて、ふたりが大いなる主に愛され、特別に祝福をかけられた神の子であることに、もはや疑いの余地はない。

The Gospel of John 13:34-35 

2023/06/25

 

「行かなきゃ……おとうさんが!」
 スプリングの反発で細い身体が浮き上がり、おぼつかない足では体重を受け止め切れずに彼はよろめく。その肩を胸に受け止めたのはクリスだった。
「あなたが行ってどうなるの。一つの国が負けるっていうのは、もう打つ手が無いってことなのよ。内戦が起きたりみんな奴隷にされて連れて行かれたり、このあともいろんなことが起こるでしょうけど、なにひとつだってあなたにできることはないわ。行ったってむだに殺されるだけよ」
「離して……」
「抑えなさい。自分の無力を認識して、その上で力を蓄えるの。そのあいだ学園はきっとあなたを守るわ」
 クリスが淡々と語りかけるうちに、彼は力を無くしてゆき、しまいにはうつむき、よろよろと膝をついた。伏せた瞼からみるみるうちに涙の滴が膨らみ、張力を離れたぶんが大理石の床にこぼれた。訳がわからないといった様子で瞼を擦り、それでもなお流れる涙を不思議そうに見ていた彼だったが、そのうち両手で顔を覆った。かつて義姉にしてもらっていたように、クリスの腕に抱かれながら、彼は静かに、あるいは孤独に泣いた。
 ゴールドはそんなふたりを黙って見つめていた。そうして、今まさに殺されようとしているかもしれない彼の父親について思った。鈍く銀色に輝く刃先を首に押しつけられた黒髪の男、シルバーが大事に持っていた写真の、その人はやがてなつかしいゴールドの父親の顔にすり替わる。むしょうにイライラする、ここにいる誰一人として、シルバーのために何かできるものはいないのだ。

 冷ややかな暗闇の中で、骨張った線の細い指先が懸命にロザリオを握っている。十字架と五九個の小ぶりな真珠からなる円環、その一粒にふれ、普段人間がどれだけ神に恩寵をかけられているかということ、それから聖母マリアが祈りを神に取り次ぐことを思いながら祈る。それを球の数ぶん行う。硬い床にひざまづき、ベッドに肘をついて、血の滲むような祈りの修行に勤しむシルバーを、ゴールドは扉の前から見ていた。
 二月もの間に春がやってきて、シルバーは前よりもずっとやつれた。もともと華奢で繊細なところがあった彼だが、今はそれにこと拍車がかかり、今ではまるで死人が裁きを前にして祈っているようなありさまだった。そしてそのどちらについても、シルバーは知らない、知る由もないのだ、鏡も見なければ窓の外を見ることもなく、ただカーテンを閉め切った暗い部屋の中で祈り続けているのだから。授業に出ることはおろか、食事をしたり、誰かと会話したり、そういった人間として当たり前のことを断っているのだから。それが彼の精神をより不安定なものにした。
 げんにその朝も、昨晩ゴールドが置いていった粥の盆はそのままになっている。
「なあ……もういいだろ」
 古くなった粥を新しいものに取り替えながら、ゴールドは半ば独り言のように呟いた。
「クリスだって心配してたぜ、なあ、いい加減出てこいよ。おまえが祈ったって、どうせ神なんて居ねえんだから」
「うるさい!」
 布を割くような叫び声とともに、シルバーがグラスを掴んでこちらに投擲した。ゴールドの足元でガラスがいやな音を立てて砕け散る。
 シルバーの銀の星はぎらぎらと冷たい情熱に輝いていた。頬は肉が削げて骨の形が顕になり、唇は紫色に褪色してささくれだらけになっていた。肩ばかり荒い息に激しく逸っている。クリスはもうしばらく彼の顔を見ていないらしいが、こんな姿を見たら卒倒することだろう。
「なにもいらない、いいから出ていってくれ」
 ゴールドは物わかりよく、無言で部屋を辞した。
 覚えのある感情だ。信心深くやさしかった父親が死んだとき、ゴールドも同じようにして周囲にその鬱憤を示した。母親はそのときなにも言わずに放っておいてくれたが、スクールの同級生となるとそうは行かなかった。彼らは不調法にも噂を広め、錯乱するゴールドを揶揄し、また彼の父親を馬鹿にしさえした。ゴールドはそれに耐えられなかった。面白おかしくこの悲劇を吹聴する生徒のクラスに乗り込み、彼の胸ぐらを掴んで引き倒した。頬骨にヒビが入るほど、顔一面が膨れ上がって原型を失うほど殴りつけ、彼が泣いて許しを乞うまで続けた。教師が慌てて介入し、わけも聞かずにこの件を上に報告した。こうして、ゴールドはスクールから放校処分になった。
 ペテロ館のロビーを過ぎて回廊に出ると、クリスが落ち着かない様子で待っていた。彼女はゴールドを見つけると慌てた様子で駆け寄ってきた。ジャケットの襟で金の薔薇が誇らしく輝いている。「シルバー、どうだった?」
「……まあまあだな」
 適当に誤魔化してやり過ごそうとしたが、彼女はゴールドが持ち帰った粥の盆を見て賢しくすべてを悟ったようだった。ため息混じりに首を振って項垂れる。
「そう……」
「おまえが気にすることじゃないって。オレたちは、あいつが帰ってきたときにいつも通り迎えられるように準備しとくだけさ」
「ねえゴールド、わたしたち、このままなにもできずに見ていることしかできないのかな」
 両手で顔を覆って、クリスがその場にへたり込んだ。
「シルバーはあんなふうに苦しんでいるのに、わたしたちは見ているだけなの? なにもできないの?」
「目を逸らさず見ているのも勇気だ。おまえがそうやっていてくれるだけできっとあいつは救われてるさ」
「だいすきって言ってくれたの、シルバー、わたしのこと……」
 頼りなく震えながら嗚咽混じりに訴える。もうたくさんだ、友人が泣いているところを見るなど……華奢な女の肩を引き寄せ、努めて明るくゴールドは言う。
「なあ、どっか出かけようか」
「ゴールド」
「デートだデート! あいつがオレたち見て、自分も出たいって泣きついてくるくらい楽しいことしてやろうぜ」
 クリスはまだ何か言いたげだったが、ゴールドはかまわずに彼女の手を引いて立たせた。
「コート着て礼拝堂ン前に集合な!」
 シュロス湖畔、オークの森に囲まれた場所には小さなテニスクラブがあって、土曜日にはもっぱら生徒たちで賑わうのだが、その日の野外コートはガラ空きだった。一番コートのネットを挟んで、ジャケットを脱いでシャツだけになり、スラックスを捲り上げたゴールドと、スカートの下にハーフパンツを履いた格好のクリスが向かい合う。カフェ・テニスパラダイスの屋外スペースで、ビールを片手に談笑していた大人たちが、真に迫った二人の様子を不思議そうに眺めている。
「サーブは譲るぜ」
 ベースラインの後ろに立って、軽くストレッチをしながらゴールドが言った。
 ネットの向こうでは、テニスボールを手に取ったクリスが、深呼吸をして目を閉じた。彼女の空気が変わる。ゴールドは無意識のうちに背筋を伸ばし、彼女に意識を集中した。いつスマッシュを撃たれてもおかしくない。
 トスを上げるその一瞬で開かれた彼女の目、まるで獲物を狙う鷲のように鋭利だ。すぐさまラケットが振られ、放たれた白球は鋭く弾道を描き、やがてコートの隅ぎりぎりに落下しそうなところを、なんとか追いついたゴールドにフォアハンドで打ち返された。ゴクリスはバックサイドに下がってそれを見送り、勢い余った球はコートを囲むフェンスにぶつかって跳ね返る。
「やるじゃない。わたし、サーブには自信あるんだけどな」
「結局点取ってるくせになに言ってんだよ。次、次はぜってえ取るからな!」
 ゴールドは吠えた。顎で次のサーブを打つよう挑発する。カフェの大人たちが盛り上がり、ドイツ語で何か歓声を上げている。
 正午を越すまでふたりのゲームは続いた。結局、ゲームは六体六までもつれ込み、クリスの息切れを狙って二度のタイブレークを制したゴールドの勝利となった。いま、酔っ払った野次馬の大人たちに持たされたサンドイッチやビールやよくわからない果物などを抱えて、彼らはシュロス湖のふち、水の波が地面を濡らさない辺りの草地の上に座っている。
「悔しい! 絶対負けないと思ったのに」
 よくわからない果物のフサから実を一つとって口に放り込みながら、クリスは背中から芝生の上に倒れ込んだ。ゴールドも彼女の隣に寝転んでみる。空は青々と冴えて、ちぎれ雲が幾つかぷかりと浮いている。
「……これ山葡萄だわ。酸っぱい」
 ゴールドもクリスに倣って実を噛んでみた。爽やかな酸味が口の中に広がり、それにつられて、ゴールドの目にも酸い何かがにわかに駆け上がってきた。ギョッとしてクリスが身を起こす。「ちょっと、どうしたの」
「あー……悪い、なんかオレ……疲れたみたいだ」
「それはそうでしょう、だってシルバー……」
 言いかけたものをとどめて、彼女は絹のハンカチを取り出しゴールドの濡れた頬を拭ってくれた。気遣わしそうな眼差しが今は痛い。ゴールドが黙って首を振ると、彼女はそれ以上なにも言わずにそっとしておいてくれた。
 ふたりが帰路につくころにはシュロス湖の水面はすっかり山吹色に染まり、彼方の方から金箔を散らしたような光が的礫ときらめいていた。上級高等学校の生徒たちが集団でカヌーを漕いでいる。住宅街を抜けて学園の敷地内に戻り、クリスと別れてパウロ館に戻ろうとしたゴールドは、ふと何らかの予感を胸に抱いて、東のペテロ館の尖塔を眺めた。ゴールドの動物じみた視力は五階の屋根裏窓に、えもいわれぬ眼差しでこちらを見下ろしてくるシルバーを確かに捉えた。ゴールドは踵を返した。中庭を通ってパウロ館からの対角線上にあるペテロ館に入り、ロビーから螺旋階段を登ってシルバーの部屋に向かった。
 真鍮のノブに鍵はかかっていなかった。中に入ると、窓からの光で青白く翳った美しい顔が振り向いた。蝋細工のような薄暗い顔。シルバー。彼の目はひどく虚ろだ。焦点が合っていない。それでもシルバーはゴールドの姿を認めると、ほっとしたように格好を崩した。
「帰ってこないのかと思った」
 シルバーはよろめきながら立ち上がり、部屋を横断してゴールドに近寄ってきた。もはや骨ばかりの腕をゴールドの腰に回し、甘えるように鼻先を擦り付けてくる。
「そんな訳ないだろ」
「なあ……抱いてくれ」
 熱っぽく湿った声で囁かれて、ゴールドはハッと身を強張らせた。
「何……言ってんだよ」
「おまえがクリスといるんだと思ったら気が狂いそうだったんだ……もうどこにも行くな、おまえがほしい」
「どうしたんだよ、おまえちょっとおかしいぞ!」
 突き放そうとしたゴールドの腕をかわしながら器用に掴み、シルバーは力任せに彼をベッドに引き倒した。スプリングが激しく軋む。ゴールドは抵抗しようとしたが、両腕を強い力で押さえ込まれ、身体の上に馬乗りになられるともう動けない。飢えた獣のように唇を求めてくる。舌を絡め取られ、貪るように吸われる。息ができずもがいているあいだにスラックスを脱がされ、剥き出しになった下半身をまさぐられた。すぐそこに骨が突き出た、尻の皮膚が先端に触れた。
 そのときふいに、俯いたシルバーのシャツの胸から、彼のロザリオが音を立ててこぼれ落ちた。小粒の真珠が光を帯びて雨のように降ってきた。シルバーははっと身体を起こし、その顔色に畏ればかりを含ませた。細い身体が離れてゆく。ゴールドから後ずさる。ゴールドは半身を起こしてシルバーと向き合った。彼は、歔欷の形に下瞼を歪めたが涙は出なかった。
「オレは……なんてことを……」
「シルバー」
 名を呼んだだけで、彼はビクリと震えてさらに数歩後退った。
「来ないでくれ!」
 彼は後ろ手で扉を開き、できた隙間から猫のようにすり抜けて部屋を出ていった。ゴールドはしばらく呆然としていたが、すぐに慌て出してその後を追う。

「中庭にいるところを見たよ」
「旧礼拝堂にいるんじゃない? 彼氏、また上級生に付け狙われてるって聞いたぜ」
「図書館は? 図書委員でしょ、シルバーくん」
「町でも行ったんじゃない? ずっと部屋にこもってたんじゃあね、いい加減鬱憤も溜まるってものでしょ」
 すれ違う同級生たちが口々に情報をもたらすも、どれも的を得ないのでゴールドは難儀した。シルバーは春の風のようにすばしっこく、また捉えどころがなくて、校舎のどこをどう探しても見つけることができなかった。
 やがて日が暮れ、夕食の時間もとっくに過ぎ、何の収穫を得ることなくゴールドはパウロ館のロビーに帰ってきた。共有スペースのソファに座って友人たちと額を突き合わせながら、ジュリアンが課題のフランス語教本を睨みつけていたが、ゴールドの姿を認めるとパッと顔を上げて手を振った。おざなりに手を振りかえし、しかしいまだに脱力したままゴールドは螺旋階段を踏む。一歩一歩踏み出す足が重い。足首に氷の塊がまとわりついているような重たさだ。
 四階、自室にたどり着いて彼は、ドアノブの錠が外れていることに気がついた。ジュリアンが開けたままにしておいたのか、ため息まじりにノブを回しふと、彼の身体を奇妙な予感が充す。彼は音を立てずにドアを開けて閉め、後ろ手に鍵をかけ、ローファーから焦ったく室内ばきに履き替えて階段を登った。寝室には作業机とベッドが二つ、そのうちの右のベッドがゴールドのベッドだ。果たして、シルバーはそこにいた。かたくなに膝を抱え、顔を伏せて震えていた。ゴールドは静かに彼の傍に歩み寄り、床に片膝をついて、俯いたままの彼の顎をそっと掴んでこちらを向かせた。涙で濡れた銀の瞳が二つあった。
「どこに行こうかと、考えて」
 感傷のたっぷりと滲んだ声で、辿々しく彼が言う。
「いたんだ……でも、結局思いつかなかった。おまえのところに行くことしか……!」
「なあシルバー」
 ゴールドはそれ以上彼に何も言わせなかった。ただ、手を握った。シルバーはそのときびっくりして手を引っこめようとした。声を出さずに握りこまれた指だけがもがいた。だがゴールドはシルバーの手の皮膚をそっと捕まえておいて、決して揺るがなかった。怯えの脈が走る指へいたわるように触れる。骨の出っ張りが皮膚に突き刺さるのを確かめる。
 美しい顔がつくる驚きの表情が、脆い砂糖菓子をつついたときのようにほろりと崩れ、彼の下瞼から一掬の涙がこぼれた。ただほんとうにそれきりだった。しかしそのことで、ゴールドの過去から現在、未来に至るまで、いのちがけの信念や正義、孤独や憎しみを抱いたこと、それから、愛、すべからく満たされて、ゴールドの溌剌とした少年の目鼻立ちに充足の色が上った。シルバーがはっとして、慌てて視線を逸らそうとした。
「好きだ」
 シルバーは信じられないというふうに目を見開いた。漏れ出る嗚咽を押しとどめようと彼は必死で唇を歯を食いしばる。
「口先だけの愛情など不要だ」そっけなく言い捨て、なおも手指の拘束から逃れようとする。
「違う」
「他でもないおまえに、嘘なんてついてほしくない、性欲をどうこうしたいのなら、そんな言葉を持ち出して来なくても好きにオレを抱けばいい」
「違うって言ってるだろ。もうおまえのことは抱かない」
「なぜ!」
「何度も言ってるだろ、好きだからだよ。おまえを愛してるんだ」
 それまでゴールドの挙動のすべてを拒絶していた瞳に、桃色の花弁が張りついたほどのささやかなぬくもりが湧いた。涙がすっかり彼の頬を流れ去り、ようやく、彼はのろのろともう片手を持ち上げた。二つの手がゴールドの分厚い掌を挟む。まるでそれが自分の心臓であるかのようにシルバーは、大切に大切に、小さく繊細なふたつの手でゴールドの手を包み込んだ。
「オレは……事実、生まれたそのときから罪人だったんだ。だから呼吸をすることすらどうすればいいかわからなくて」
「シルバー」
「最後まで聞いてくれ。その息苦しさをどうにかしたくて主に縋った。きっとそうなんだ、最初はただ利害の一致でこうしていただけかもしれないんだ、でも、最近はほんとうに、かの人にはすごく感謝している。ブルーねえさんに、クリスに……おまえに、会えたから、ただそれだけで……神の法律が、欠けひとつない無謬のものだってこと、おまえが教えてくれたんだ」
 シルバーは、深い喜びから出た微笑を唇のほとりにぼんやりと含ませた。
「愛してる。おまえに会えてよかった」
 それは、ゴールドが長らく待ち望んでいた愛の言葉、確かにそうであるはずなのに、ゴールドの胸には不吉な予感が降りてくるのだった。彼の微笑の美しいこと、清らかであることが、いやに作り物めいていて無機質な感じがした。
 そのままキスをねだられて、ゴールドはそのとおりにしてやった。触れた唇がつめたいのに、彼はことさらにその予感を強めた。

 三月の終わり、イースターのために学園は十日あまりの休暇に入るが、ゴールドもまた父親の追悼ミサのために帰国することになった。念願かなってようやくシルバーと愛し合うようになったゴールドであるというのに、彼は晴れない気持ちのまま、去年の秋に初めて降り立ったユーバーリンゲン駅のホームにいた。ホームには、各駅停車でそれぞれの実家に帰る国内組の生徒たちが何人かと、チューリヒ行きの急行を待つゴールド、クリスタル、それから見送りのためにやってきたシルバーが待っていた。ほかにキャリーケースを抱えた観光客もちらほらと散見された。
「オレがいなくても泣くなよ」
 繋いだ手に力を込めてゴールド、すぐそばでほのかに赤らんだみずみずしい耳がらに囁いた。
「泣かない」
「寂しがりのくせに何言ってんだか」
 初春の、色素の薄い空から、すがすがしい檸檬色の光が降ってきてシルバーの鼻梁や痩せた頬、ゴールドに投げて寄越された微笑を天上のものにした。今まさに綻んだ若い薔薇のようだと思った。伸ばした指先で頬の骨格をさわる。彼はゆったりとまばたきをし、緊張のあまり汗ばむ手のひらに自ら擦り寄った。二人はお互いの瞳の中に同じ宇宙を見、どちらからともなく鼻先を近づけて、人目も憚らずねんごろに唇をくっつけた。
「ゴールド、彼氏、見ろよあんな顔して」
「姫! 王子! 末長くお幸せに!」
「うっせー黙ってろ!」
 遠巻きに二人を見ていた同級生たちがヤジを飛ばすのに、ゴールドは大声で報いる。彼らが黄色い声を上げながら散り散りに逃げてゆく。行儀が悪いとクリスが眉を顰める。そうはいっても、ゴールドは羞恥で真っ赤になって彼らから顔を背け、シルバーはといえば、ただ優しい表情で、自分のことを冷やかす彼らに別れの挨拶をした。それから、ゴールドの耳元に唇を寄せて、彼なりの愛の言葉を囁いた。
 彼がいっそしおらしすぎることに、ゴールドは強い不安を抱いていた。有史以来、美しいものには往々にして不幸がついてまわるものだった、チャイナのヨウキヒは国を滅ぼしたし、聖アグネスは十三歳で殉教した、そのきざしが、一途にゴールドのそばを離れずにいるシルバーの瞳の中にも確かに感じられるのだった。うちに来いよとゴールドは誘うのだが、受難週からイースターにかけての一週間余、毎日行われる終夜ミサに参列するから行けないという。
 ジリジリという耳障りなブザーとともに、ホームに列車が滑り込んできた。赤い貨物列車のような風体だが中は国境を超えてチューリヒにたどり着くまでを快適に過ごすことのできる個室車両だ。
 ゴールドが先に乗降口を上り、彼のエスコートでクリスも列車に乗り込んだ。彼女が場所を開けてくれたので、乗降口のへりに立ってゴールドは、シルバーとのしばしの別れを惜しんだ。
「気をつけて……チューリヒ駅はすごく迷うから」
「お前こそ、色々気をつけろよ。メシはちゃんと食えよな」
「わかっているさ」
「いーやわかってないね。だいたいおまえは……」
 言い募ろうとする唇は、踵を上げて背伸びしたシルバーの、掠めるような口づけによって閉じられた。ホームに残った同級生達から再び歓声が上がる。
「王子ー! どうぞご無事で! ご不在の間は我々が姫をお守り申し上げます!」
「だからうっせーンだよ!」
 照れ隠しに叫んでから、ゴールドは列車の扉が閉まる前にもう一度シルバーを抱き寄せた。繊細で、こづけばすぐにでも壊れやすそうな、汚れのない少年の身体を。
 胸と胸が軽くぶつかったそのとき、あっとシルバーが声を上げた。自らの制服のジャケット、そのボタンを一つずつ外してゆく。内側の赤いサテン、そこに縫い付けられた内ポケットの中を彼が探ると、軽やかな金属音とともに金の鎖がこぼれ落ちた。
「なんで……」
 それは冬のあの日、シルバーが去りゆく姉に手渡したはずの、家族の写真が入ったロケットだった。いとおしそうに蓋を外し、シルバーは写真に静かな視線を落とす。
 発車のベルが鳴り響く。ゴールドが慌てて扉の前から退くと、重い軋みと共にドアが閉ざされた。大慌てでひと車両分を踏破し、一番デッキに出て彼を探す。彼はまだ、ゴールドが去った後の乗降口を眺めていた。横顔が淋しい。
「シルバー!」
 列車が動き出し、急速に彼の姿が遠ざかる。
「手紙書くからよ!」
 速度のなす風の中で、ジャケットの裾から伸びたシルバーの片腕が白く涼しく輝いている。
 車両の中に戻り、切符の印字どおりの車室に入ると、クリスはすでに荷物台にすっかりキャリーケースを納めて座席に座り、すました顔でゲーテ詩集を開いていた。ソフトカバーの表紙に、紅薔薇を手のひらに乗せた裸身の天使が描かれている。扉を開けても彼女が無言だったので、ゴールドも寡黙なまま中に入り、少しばかりの荷物を彼女のキャリーケースのそばにおさめた。彼女の向かい、ビロードのふかふかな座席に沈み込む。
「シルバー、元気そうだったね」
 ズライカの歌、ドイツ語版に意識を向けたまま、思わずぽろりとこぼしてしまったという調子で彼女が呟く。
「ああ……うん……いいことだな」
「そういうんじゃなくて……不自然なくらい元気ってこと」
「まあ、そういう気分のこともあるだろ」
 列車はボーデン湖のほとりを北上し、ぐるりと湖を半周してスイス連邦に入る。雪の気配が濃くなってきた。窓の外は、針葉樹の冷たい緑と、もう春というのにわずかばかり凍りついた湖畔の白一色の世界だ。
「ところでおまえ家どこ?」
「ロサンゼルス……だからフランクフルトまで一緒ね」
 すくなくともフランクフルトまでは、寝こけていても無事に到着できるということだ。途端に気が抜けて、ゴールドは座席に深く背を預け、目を閉じて眠りの波に思いを馳せた。

 ニューヨーク、ペンシルバニア駅、モイニハン・トレインホールは、鉄骨を組んで作られたガラス張りのアトリウム天井から落ちる自然光で、広いホール全体を明るく演出するモダンなハブだ。シャンデリアの形式で吊り下げられた時計が十五時を指すころ、ゴールドは十一番線からエスカレーターでこの大空間に上がってきた。
 九月にこの灰色の大理石を踏んだときは、父親の死への遣る瀬無さと、母親のあまりにも物分かりの良い様子に、苛立ちばかりを持て余していた。神なんていないと断じるばかりだった。だが、どうだろう、今のゴールドの心は、シュロス湖の鏡の湖面のように凪いでいた。不安が水面で澱むばかりで、ほかは恐ろしいほどに静かだった。制服の裾の折れ目を直し、赤いリボン、神の贖罪の象徴を直して真っ直ぐに立つ。その姿勢のまま第八アベニューに続くフードホールを抜けて外に出ると、都会特有の内容雑多なざわめき、車のクラクションの音、春先だというのにじっとりと湿気を帯びた空気が、ゴールドの鼻先を直撃した。
 五車線もある第八アベニュー、ひしめきあう色とりどりの車、パルテノン神殿にも似た、無数の柱廊を備えた駅のファザード、そこから地上に流れるドレスの裾のような大階段、天辺には星条旗が誇らしく輝き、その向かいには、かつて父親が勤勉に働いていたエンパイヤステートビルが光の中に聳え立っている。巨大なマディソン・スクエア・ガーデン、歩道脇にハラルフードの屋台、南国フルーツジュースの屋台、テレビ会社の巨大なバス、発電カー、人種に関係なく人々は好きな服を着、好きな靴を履いて、好き好きに母国の言語を話しながら縦横無尽に行き交う。ゴールドにとってはひさびさの故郷の空気だ。厳粛でしんとしたセイラムの街では絶対に見られない景色だ。
「ゴールド」
 目の前に停車していた黄色いNYC(ニューヨークシティ)タクシーの後部座席が開き、白いロングワンピースの女性が顔を出した。
「かあさん!」
「おかえりなさい」
 大きなバッグを抱えたままなんとか車内に乗り込んで、座席に身を落ち着けてから、ゴールドは母の隣に座った。シートベルトを締める前に、彼女がぎゅっと抱きしめてくる。
「元気にしてた?」
「おう……」
「ああ、そうだ、あなたがお友だちできたって言うからてっきり連れてくるのかと思って、夕食三人分用意しちゃったわ。……まあいいでしょう」
 あまりものを気にしない母だ。相変わらずの彼女に、ゴールドにも自然笑みの波が寄せてくる。
 ゴールドの実家は、ニューヨーク中心部から程近く、東第九ストリート位置する巨大なタウンハウスだ。一家はその棟全体を所有していたが、母は維持費が嵩むのを面倒がり、それじゃあいっそ貸家にしてしまいましょうということになった。今では一階から四階に人が住み、その中に店舗も二、三混ざる。
 赤煉瓦にギリシャ復興様式がなごる美しいタウンハウス、ゴールドの実家の手前でタクシーに金を払い、母子は降車した。母に促されて大理石の階段を上り、無垢材の扉を開けると、寄木細工の堅木張りの床に白い壁、簡素なシャンデリアが美しいロビーに出る。エレベーターで五階まで行けばすぐにリビングに出るはずだが、ゴールドはこの半年ですっかり鍛えられた心身のアピールのため、階段で五階まで向かった。
「すごいわねえ」
 母がどことなく嬉しそうだ。
 玄関からまっすぐにリビングに入った。ロックビル大理石の暖炉に紺地のソファ、素朴な花を生けてあるガラスのローテーブル、そうしたものをゆとりを持って配置した空間だ。父親が仕事仲間から譲り受けたピアノや、名のある現代アート作家が描いた巨大なキャンバスなんかも飾られている。奥まった正面壁には二つ、九つ窓の可愛らしい窓が二つ、午後の光にキラキラと輝いている。左の扉を開けるとダイニング、そのさらに奥にキッチンとバスが左右に配置され、キッチンからバルコニーを超えて室内に入ると再びリビング、右の扉は両親の寝室のもので、左の扉がゴールドの自室に向かうものだ。
 雪崩れ込むみたいにして自室に入る。すっかり懐かしくなった本棚と机、椅子、さまざまなCDや楽譜、おもちゃを乗せたラック。カラフルな壁に貼られたポケモンのシール。シンダクイルのぬいぐるみ、ドラム、青い毛布のかけられたベッド。ボストンバッグを机の上に置き、ジャケットを脱いでいると、ノックの音とともに母が入ってきた。
「お買い物行きましょうか」
「いく!」
 リボンだけを器用に解き、ゴールドは母に追随する。
 一本大通りに出たところに、エピクリカン・マーケットという名前の、赤いビニール庇が印象的なマーケットストアがある。手前で花を、中では日用品や食品を販売しているごく普通のマーケットだが、菓子類の品揃えが多いので幼いゴールドはよくここに通ったものだった。奥に長く伸びた店の敷地に入り、菓子の棚へ走る。ガラスケースの中で売られるアイスや惣菜の類も見る。グラハムクラッカーとレイズポテトチップス、ひまわりのたね、レーズンなど、ドイツではとてもお目にかかれない類のスナックをたくさん買ってもらった。夜には母の得意料理・グレン風火山ハンバーグ(グレンというのはジャパニーズで赤という意味らしい)を振る舞われ、ゴールドはすっかり満足した。

 アセンション教会は、グリニッジ・ヴィレッジの中心部に建設された、ネオゴシック様式の美しいカトリック教会だ。交差リブやアーケード、ステンドグラスの高窓、小さな吊り下げ式の照明が立ち並ぶ奥に、復活したキリストの被昇天を描いたジョン・ラ・ファージの巨大なフレスコ画が飾られている。学園の礼拝堂は贅を凝らした作りになっていたが、こうした地元の慎ましやかな教会も悪くないと、いまのゴールドは思っていた。この日、母子は父のためにここで追悼ミサを行うことになっていた。
 信心深く親切な父の追悼ミサには、アメリカ全土からたくさんの残列者が訪れた。喪服を着た男女に、色々な制服を着た子供たちがちらほら混じる。母はミサの前、その全てに対してあいさつをし、遠くからやってきたことに対する感謝を述べた。以前であればそうはしなかっただろうが、ゴールドも、母に倣って一人一人と握手を交わした。
「君、ゴールドくん?」会う人会う人が、口々にそのような言葉をゴールドにかけた。「大人になったわね、見違えたわ」
 恋をすれば人は変わるのだ。ゴールドは胸を張ってそれに応えた。
 式はつつがなく進行した。参列者は皆神妙な顔で司祭の説教を聴き、聖体拝領に与った。福音朗読ではマタイの福音書が読まれた。わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい、そうすればあなたがたはやすらぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである——
 ……という旨を書き留めた便箋を破り捨てて、ゴールドは再び頭を抱えた。手紙一つに、こんなにも悩まされている。
 シルバーに手紙でも書こうと思い立ったのだ。出立の日、手紙でも書くと言ったくせに、結局五日も書けないでいるからだ。しかしいざ文面を考えようとなると、良い話題がなかなか思い浮かばない。そもそもこんなことを書いてシルバーが喜ぶのか、ゴールドの父親の追悼式をしたとか、ゴールドが見違えたとか言われたことを書いて? 今まで手紙に大まじめに取り組んだことのないゴールドは、なかなか答えを見つけられずに唸った。
 やあ、元気にしてるかいシルバーくん……いやいや、流石に他人行儀がすぎる。
 愛するシルバーへ、お前のいない日々が寂しいぜ……どうにも気障で恥ずかしい。
 背を後ろに倒して唸る。
 ふと、かばんに入れて持ち帰ってきた、あの大きくて分厚い聖書のことを思い出した。ゴールドは立ち上がってそれを取り、後ろから幾分かページをめくってみた。すぐに該当の箇所を発見し、彼の口角に知らず笑みが上る。
 書き上がったものを真っ白な封筒に入れ、のりをつけて蓋をした。一週間もすればきっと彼のもとに届くだろう。

 

2023/06/222

 

 

 ベッドシーツの上、瞼に陰茎を被せられながら唇を歪めてピースサインをするシルバー、バスルームのタイルの上に這いつくばって肉付きの薄い尻を見せるシルバー、シャワールームのガラスに背をついて開脚し精液まみれの恥部を露わにするシルバー、キッチンの調理台に乗り上げて、右脚だけをゴールドに掴まれて涙を流すシルバー、ゴールドと並んで床に寝そべりながら笑みともつかない表情を浮かべるシルバー、誰もいないパウロ館のサロンで窓に張り付き羞恥で耳まで赤くするシルバー、それから、暖炉の前でクッションを抱いて顔を隠すシルバー。最後の写真をポラロイドから引き摺り出してゴールドは、今まで撮影したあらゆる性交の記録を絨毯の上に並べてみた。その中に、彼が幸福そうな写真は一枚もない。
 姉が学園を去ってから、シルバーはひどく沈んでいた。やさしい記憶、ゴールド一人ではとても埋めきれない孤独、そして去り際に彼女が何も言わなかったことに対する疑念が、シルバーを塞ぎ込ませた。クリスマスミサを終え、降誕劇が終演して、学園は冬期休暇に入ったが、ふたりとも帰宅することなく寮に残った。ほとんどの生徒が出払った学園内で、ふたりは盛りのついた動物のように身体を重ねた。ゴールドは若く、情は尽きることもなかったし、シルバーだって拒むことはなかった。お互いの部屋、パウロ寮のサロン、教室、礼拝堂、学園はずれのあの聖堂、ラビリントの茂みの中。何度交わっても満ちることはなかった。そうやって日々を過ごすうちに、年を越した。
 窓の外は激しい吹雪でホワイトアウトがひどい。秋、ふたりが泳いだシュロス湖は凍り付いているだろう。裸の皮膚に寒さを覚え、ゴールドは火をたいた暖炉のそばに寄った。と、そのとき、バスルームへの扉が音を立てて開き、先にシャワーを浴びていたシルバーが顔を出した。彼も全裸のままだったが、ゴールドがを見つけると、寄ってきてその首の皮膚を吸った。
「なに見てるんだ」
「おまえのエロいとこ」
「ばか、やめろ」
 白い手のひらにはたかれたが、まるで力がこもっていない。「おまえもはやく綺麗にしてこい」
 暑い湯で軽く身体を洗い流し、ゴールドがバスルームを出ると、シルバーはすっかり制服に身を包んで絨毯の上に座っていた。几帳面に揃えた膝の上に、彼が日ごろ愛おしく読んでいるあの赤い表紙の聖書を載せて、開けたページに静かな視線を落としている。近づいて見れば、そのページには一枚の写真が挟まっていた。黒髪を後ろに撫で付けた黒い外套の男と線の細い印象の赤毛の女、それから彼女の胸に抱かれた赤ん坊。以前ゴールドにも見たことのある写真だ。
「おまえの両親?」
 ゴールドが髪を拭きながら近づくと、シルバーははっと顔をあげ、少しばかり口角を上げて柔らかい目つきになった。
「ああ」
「いい写真だな、家帰んなくてよかったのか」
「お父さんは……忙しい人だし、お母さんはもうずっと昔に亡くなったから」
「そうか」
 真っ直ぐに伸びた指が、ふるめかしい木版印刷のアルファベットをなぞる。    
 キリストは、処刑される前日の木曜日、少数の弟子たちと食事を摂った。これが、ダ・ヴィンチの絵画にも有名な最後の晩餐であるわけだが、このとき、ユダが自らを裏切ろうと画策していることを知りながら、キリストは彼を行かせた。そして、創世のころから定められ、遵守を義務付けられてきたユダヤ教の神の厳格な掟に変わる新たな戒律を一つ、残った弟子たちに与えた。一つ、たった一つだけだ。これがキリスト教の本質的な精神として、以後二千年のあいだ変容することなく受けつがれてきた。シルバーが家族の写真を挟んだページはそういう類のものだ。
 ゴールドは湿った髪をタオルで粗く拭い、ドアハンドルにかけてあったガウンを身につけて、微笑するシルバーに寄り添った。彼は腕を伸ばしてゴールドの首にすがり、軽く突き出した唇でまだ微かに濡れた下唇を吸った。そのとき、ふたりの視線は同一の感慨にきざした。ふたりは力の許す限り強く抱き合った。肋骨が軋む。
「ゴールド、怖い」
 瞼をゴールドの肩に押し付け、らしくなく震えた声で彼が言った。
「嫌な予感がする……」

 クリスマスの終了を告げる公現日(エピファニー)とともに冬休みも明け、学園に生徒たちが戻ってきた。全校生徒が詰めかける礼拝堂で大規模な始業ミサを行い、新年の祝宴が行われて、ゴールドもなつかしい友人たちと再会を祝った。
 午後には再び生徒たちが礼拝堂に集められ、次の生徒評議会メンバーを決定する選挙が行われた。例年は特に選挙活動なども存在せず、その場で投票及び開票を行うため人気投票にも似た側面もあったが、昨年議長が除籍されるという不祥事があったことで制度が厳格化され、候補者たちは投票の直前に立候補演説を義務付けられた。クリスタルが昨年に引き続き立候補したほか、驚いたことに、今回はシルバーまでもが候補者の中にその名を連ねた。彼は、姉を失って相変わらず不安定だったが、ゴールドやほか同級生たちの支えもあってなんとか立ち直ろうと努めている様子だった。
「みなさんの多くはすでにご存知でしょうが、私は、多くの上級生と性的関係にありました」
 祭壇の前に立ち、彼は堂々と、突き通るような声で聴衆に語りかけた。急に確信をついた彼に、下級生たちは動揺してざわつき、該当する上級生たちはかえって押し黙った。
「明確に校則で規制されているわけではないので、この穴を突き、私だけでなく多くの生徒が過去に性的関係を強要されていたと聞いています。しかし、主は、性別はどうあれ婚前交渉を厳しく禁じています。このようなことが神聖な学内でおこってはなりません。私は、校則のそうした部分をより厳格化するとともに、不要な部分は積極的に削除する、軟性の治安維持を提案します」
「よく言うぜ」昨日だって、彼はゴールドの下であられもない姿を晒していたというのに。
「この件に関しては、私の義姉である前期マリア館寮監の意志を引き継ぐ形になります。彼女は不名誉なことに除籍処分になりましたが、私情としては……まだ彼女を信じていたいのです……しかし、結果的にみなさんの信用を欠く結果になったこと、彼女に代わってお詫び申し上げます」
 彼はその後いくつかの公約を掲げて内陣を降りたが、演説が終わっても、また次の候補者の演説が始まっても、生徒たちはしばらく落ち着きを欠いていた。彼は下級生および中等学校の生徒たちから多く票を得、その一方で上級生たちの支持を得られずに選挙には敗退した。ゴールドには、彼が本当に議会のメンバーになりたかったわけではないと理解していたので、特に悲観することはなかったが、クリスをはじめとした同級生たちはそれを大いに残念がった。
「驚いたわ、わたしも直前までシルバーが立候補するなんて知らなかったんだもの」
 翌日、宗教学の時限、ゴールドを挟んで、クリスがシルバーを誉めた。「言ってくれたら一緒に作戦を練ったのに」
「それじゃあ意味ねえよ、なあシルバー」
「……オレは、クリスが議長になったことがうれしい」
「まーたそういうこと言う。ばかだなあ、てめえは」
「ゴールド、無神経よ! ……でもねシルバー、わたし、あなたの本心が聞けてよかった。あなたのぶんも精一杯頑張るからね」
 最後の立候補者だったクリスの演説は、それはもう凄まじい勢いだった。一部の熱狂的なファンが最前列で大騒ぎするのに鋭く喝を入れながら、ときに朗々と、ときに声を低めて、生徒たちの心を鷲掴みにした。結局、上級生も混じる他の候補者たちを凌ぎ、もっとも票を多く獲得したのは彼女だった。いまは次期議長として、レッドからの引き継ぎ作業に追われているらしい。
「クリス、ありがとう」
 シルバーは、おだやかに目尻をゆるめてはにかんだ。クリスが目を輝かせる。
「こちらこそ、シルバー、大好きよ!」
「うん」
「シルバーは?」
「だ、……だいすき」
「おいおい、オレを挟んでイチャイチャすんなよなあ」
 始業の鐘が鳴り、教室でめいめいにおしゃべりしていた生徒たちも途端にしずまりかえる。例の教諭が大股で入ってきて、明らかにゴールドを一瞥したあと、巨大な旧約聖書を教壇の上に置いて椅子に腰掛けた。
「さて、今日は詩篇六十七章を取り扱う。みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神——」

 金曜日、週の終わり、生徒たちは休日を前にしてどこか浮き足立っている。
 ゴールドも、翌日土曜日に外出許可を取るために、職員教室に続く長い列に連なっていた。ラジオによる天気予報によると、明日はこの季節には珍しい快晴、気温も上がるとのことだったので、シルバーと一緒に町に出てガールハントでもしようというたくらみだった。凍りついたシュロス湖にはスケートをしに毎冬ヴュルテンベルク内外から金持ちの子女が集まってくるのだ。にやにやするのを申請書に隠しながら、彼は声を立てて笑う。
「ゴールド」後ろから声をかけられたと思ったらシルバーだった。あいかわらず制服のボタンを上まできっちり止めた格好で、生真面目に聖書を小脇に立っていた。「何してるんだ」
「おまえ明日ヒマだろ? スケートにでも行こうぜ」
「? わかった」
「今申請書出すとこだから。おまえもちょっと付き合え」
 彼の腕を掴み、無理やり列に割り込ませる。
 午後三時をまわる頃だろうか、ゴールドの前の女生徒が、ようやく外出許可書を受け取って立ち去った。ゴールドは意気揚々と前に進み、背筋を伸ばしてデスクに座るジークフリートにふたり分の申請書を押し付けた。彼はふたりの顔を順に眺めて、うん、頷くと、つけぺんから流れるインクで流麗なドイツ語を書き、許可書をふたりによこした。
「外出を許可しよう。明日はどこに行くんだ?」
「湖のほうまで降りようと思っています。ええと、スキーをしに」
「スケート」ゴールドが横から修正すると、彼は慌ててこれを復唱する。
「スケートをしに」
「わかった。楽しんできなさい。特にゴールド、あまり羽目を外さないように」
 ゴールドは軽く返事を返したのみだったが、シルバーは丁重に頭を下げて退室した。ドアを閉める直前、ふと、ジークフリートはシルバーの名を呼んだ。
「シルバー、学長が君を呼んでいた。急ぎの用事だそうだからすぐに伺いなさい」
 シルバーは、はじめ訳がわからないという顔をしていたが、みるみるうちに顔を青ざめさせ、ぱっと踵を返して職員教室の前を立ち去った。待てよ、その後ろにゴールドが追随する。
 彼の横顔に不幸の花が下向きに降りてくる。
 学長室は、北塔、議会室の上階、つまり三階に位置する大部屋だ。校舎から直接向かうには中庭をまっすぐ通って一階から階段を上がるのが最も近道だが、吹雪くことも珍しくないこの季節、凍てつくような寒さの外気にわざわざ晒されに行くような勇者はそういない。しかし、シルバーはためらいもせず中庭への扉を開け、昨晩のまっさらな積雪のうえをローファーひとつで進みはじめた。午後の光の中、白く反射するまっさらな雪影の中で、シルバーの皮膚は人間離れして青白い。ゴールドも慌てて後を追うも、すぐに靴底から冷たい水が滲んできて悲鳴をあげる。
「本当にどうしたんだよ、シルバー!」
 シルバーは何も言わない。寡黙のうちに北塔に到着し、ロビーから螺旋階段を伝って三階へと向かう。ちょうど図書室から出てきたばかりの生徒数人とすれ違い、ゴールドは彼らの会話を聞いた。
「戦争が……」
「ああ、……の?」
「……も身柄を……されたらしい、……になるんじゃねえか」
 うまく聞き取れないが、シルバーの故郷で起こっている戦争に何か動きがあったらしい。そのことで呼ばれたのだろうか?
 大股で回廊をすぎ、目的の部屋を見つけたシルバーは、重い木の両開き扉を押し開けた。ゴールドも続いて入り、中で数人の教諭が頭を突き合わせているのを発見した。彼らは一斉に振り返り、入ってきたのがシルバーだとわかると苦々しい面になった。
 広々とした、過ごしやすそうな部屋だ。床には分厚いペルシャが敷かれ、そのそばでは備え付けの暖炉、中で火が盛んに燃えている。左右の壁には巨大な本棚、古めかしい世界地図、権威のありそうな背表紙の分厚い書籍、手前には教師たちが座る客用のソファが二つとローテーブル、奥には背の高い窓が三つ、それからマホガニーの巨大なワイドデスク。地球儀に、銀で作られた天球儀、ずらりと並ぶ金の盾。上等な革張りのデスクチェアがこちらに背を向けている。
「まあ、入りなさい」
 椅子ごと振り返ったその人は、白髪の小柄な老爺だった。ブルーグレーのジャケットに白のショールをかけた格好で、革の背もたれにゆったりと身体を預けている。学長だ。一見なよなよしいただの老人に見えるが、シルバーと、それからゴールドを視認する目の鋭さは、明らかに学長のものだ。
「ノーバートだ」
「シルバー・ヴァンヴィッチ・ディグナツィオです」
 シルバーは名乗ると、さっさと絨毯のうえを歩いてデスクの前まで歩み寄り、軽く腰を折って頭を垂れた。皺だらけの手と固く握手を交わす。
「……そうか、君が、ジョヴァンニの息子だな」
「要件はなんでしょうか」
「まあそう気を急くな。カーツ、出してきてくれるかな」
 彼が手を振って指示を出すと、後ろで控えていた若い男女のうち、黒髪の男の方が、恭しく首を垂れてから退室した。女の方がソファーの上で戦々恐々としている教諭陣を追い出している。
「君の母国でのことは知っているね」
「……」
「今日の午前五時ごろ、つまり向こうの首都では六時ごろのことだ、相手国特殊部隊の手により大統領は拘束された。すぐ安全保障会議副議長が職務を代行することとなったが、彼は三国宣言を即座に受諾し、無条件降伏が決定した」
 シルバーが息を呑んだ。膝をつき、力なく床にへたり込む。
 男が黒いつやつやとした盆を持って戻ってきて、それを主人の前に静かに置いた。手のひらに乗るほどの小さな青い表紙の聖書と、白い封筒。学長はデスクの上を滑らせてシルバーにそれを取るように促した。シルバーは震える手で封筒をちぎり開けた。中から取り出した一枚きりの便箋を食い入るように読み、それから慌てて聖書を取って開く。勢いよく捲られたページの間から、一枚の写真が滑り落ちてきた。柔らかい女の字。写真の白い縁に何か書かれている。シルバーが瞠目する。
〈いとしいわたしたちの息子と〉
「あのひと」淋しい獣の仔のような顔で、呆然とシルバーはつぶやいた。「死ぬつもりだ——」
 花が萎れるように、木がなぎ倒されるように、細い身体は左右に二足三足蹌踉よろめくと突然後へ反って、仰向けに倒れたなり動かなくなった。旋条が突然抜けて動かなくなった人形のような具合だった。しばらく、誰も、何も言えなかった。シルバーの身体だけが絨毯の上で抜け殻だった。
 はじめに反応したのはゴールドだった。「シルバー!」慌ててその肩を抱き起こす。首に腕を回し、顎に指を添えて顔を覗き込んだ。唇は青白く、土のように乾いている。瞳孔も開きっぱなしで、手で影を作ってやっても反応しない。
 ゴールドの必死な声を聞いて、やがて周りものろのろと正常な判断を取り戻した。
「医者を呼びなさい」
 学長が女に指示を出す。

 父は母を愛していた。シルバーのことも、愛していた。ロマノフ王朝の宮殿が集まる避暑地の水辺に父は、青と白、それから金の美しい邸宅を建て、世界中から集めた花の庭まで作ってそこに母子を住まわせた。身体を病んだ母、喘息を拗らせたシルバーは、もはや首都の排気ガスや永久凍土の冷たさに耐えられなかった。
 赤や桃色、白の睡蓮が咲く庭のそばを駆け、薔薇のガゼボの中で侍女が淹れた紅茶を楽しむ母のもとへ一目散に向かう。母は真っ白な絹のドレスの胸に豊かな赤い髪を垂らして、膝に黒い子猫を抱いていた。「おかあさん!」呼びかけると、こちらに気づいた母が優しく破顔した。腰に抱きつく。たおやかな手が、シルバーの、揃いの赤毛を撫でた。
「ぼうや、どうしたの」
「おはながさいてたの。おかあさんにあげる」
 ダリアやポピー、クレマチスオダマキ……紫のエリア……どれも庭師が丹念に世話をかけて育て、母もとても大事にしていたものだったが、彼女はそれを息子が摘んできたことを眉ひとつ動かさずに受け入れた。ブーケを受け取り、頬を寄せてその香りを楽しんだ。身じろぎをするたびに、白いレースが光を弾いて輝く。
「にあうかしら」
「うん、おかあさん、おひめさま(プリンツェーサ)みたい」
「うれしいこと」
 母が笑った。シルバーも、それが嬉しくて笑った。
 邸に戻る彼女の後ろについて歩きながら、シルバーは……これが夢だということに気づいていた。シルバーが二つになるころには母は早逝していたはずだし、二歳の子どもが、これほどまでにはっきりと言葉を話せるものとはとても思えなかった。しかし、しかしだ、それでも、慕わしく思っていた母と、もうすっかり焼け落ちてしまったであろうあの夢のような花園をふたたび歩くことができて、シルバーは幸福だった。目の前で揺れる手に、小さな手をそっと繋いでみる。
 夕方、母はベッドにいて、すがるシルバーに読み聞かせをしていた。力の弱い彼女でも持ち上げることのできる小さな青い表紙の聖書、その後半のページを開いて、やさしく低めた声で一節を読み上げた。「わたしがあなたがたを愛したように、互いを愛し合いなさい」
「おかあさん、あいってなに?」シルバーは幼く小首を傾げる。
「ぼうやにはまだ早かったかしらね……その人のためなら命も捨てていいって思うことよ」
「いのち」
「そう、それくらい大事に思うこと。おかあさんはね、シルバーのことを愛しているわ」
「おとうさんは?」
「もちろん、おとうさんもよ」
 シルバーの頭の中に、熊のような顔をした、背が高くて大柄な父の姿が浮かんだ。母の、父を語るときのまなざしがやわらかい。
「おとうさんきらい。こわいから」
「まあまあ、ぼうやったら。あのひと、きっとそれ聞いたら泣くわよ。でも……そうね、いつかはあなたにもわかるわ」
 母は目を細めてシルバーの額にキスをした。シルバーは目を閉じて、自分の頬にのる柔らかな感触を味わう。
 そして、ああ、眠りの漣はすっかり引こうとしている。母の声が遠ざかっていく。きっともう夢でも会うことはないだろう。なぜなら……シルバーも、両親を愛しているから。さよなら、シルバーは胸の内で優しい母の笑顔に別れを告げた。

「一種の神経症だろうね。大丈夫、そのうち意識も戻るよ」
 医務室のベッドの上に横たわるシルバーの顔色は相変わらず真っ青だったが、ゴールドはとりあえず安堵の溜息をついた。彼の寝顔を横目に見ながら、ゴールドはカーテンの引かれた窓辺に立つ。外はもう少しばかり薄暗く、空は裾の方から天辺にかけて紫紺色に沈んでいる。
 医師は、シルバーの事情を察して、ゴールドとふたりきりにしておいてくれた。彼が去ると、医務室の中はシルバーの憂鬱な寝息ばかりになり、ゴールドの気分もますます沈む一方だった。白い頬を指で慈しみ、閉じた瞼に触れるだけのキスを落とす。神経症……シルバーが? 母国が敗戦し、理解ある義姉を失った今、それも仕方のないことなのかもしれないが。
 廊下を走る音が響いてくると思ったらクリスだった。ドアを勢いよく蹴り開けて、彼女は医務室に飛び込んできた。
「クリス、医務室だぜ」
「あ……ごめんなさい」照れておさげをいじりながら、クリス、「シルバー、大丈夫?」
「ああ。貧血だとよ」
 咄嗟に嘘をつき、ゴールドはすぐに後悔する。おお、哀れで純真なクリス。彼女はは大まじめに唇を結び、シルバーのそばに膝をついて、こんこんと眠る白い顔を眺めた。
「そうよね。彼、いつも頑張りすぎるし……ブルーさんもいなくなったばかりだから……」
 桜色のつま先が、青ざめた男の手を握り、その所在をたしかめるように頬へ寄せる。宵の口の薄闇の中、蝋燭ばかりが照らす中で、まるで天使のようなふたりだと思った。クリスが緩んだ眉を愛撫すると、彼は小さく唸って寝返りを打った。目覚めも近いのかもしれない。
「それに、あなたいつも彼に無理ばかりさせているみたいだから」
「ぶ!」
 いきなり核心をつつかれる形になり、ゴールドは思い切り咽せた。前のめりになった勢いで思い切り転びそうになる。してやったりという顔で、クリスが鈴を転がすような声で笑った。
「気づいてないと思った? 初めて会ったときから知ってたよ、あなたがシルバーのこと好きだって……学校の中のことでわたしが知らないことなんてないんだから」
「ほんとかよ」
「ほんと。それでも、みんなが楽しく学校生活を送るために、知らないふりをしたりするものなの」
 そのとき、薄く血色をすかした瞼がやにわに震え、結ばれた花の蕾のような唇がかすかな呼吸のために開いた。美しい彼はふかふかの枕に頭を包まれた格好のまま、腕を伸ばして伸びをし、そのまま口許に手をやって小さなあくびを一つした。茫漠とした薄闇の中で銀の虹彩がきらめきを帯びる。おぼつかない視線がふたりを見る。
「……ゴールド?」
「よ」
 まだ頭がはっきりしていないのか、シルバーはしばらくぼんやりとゴールドを見ていたが、額を粗雑に撫でられるといやがって身を捩った。
「おはよう、シルバー、もうすぐ夕食の時間よ。よく眠れた?」
「ああ……夢を見ていたみたいだ、あまり覚えてないんだけど……オレはどうしてここに?」
「学長室で倒れたって聞いたよ。もしかして覚えてないの?」
 髪を弄られ頬をもてあそばれながら、しばしのあいだ心ここに在らずといった様子で天井のフレスコ画に視線をやっていた彼だったが、ふいに刮目し身体を跳ね起こしてベッドから下りようとした。
「何してんだ!」