2023/08/16

 


 UCIワールドツアー、その開幕を飾るサントス・ツアー・ダウンアンダーの第六ステージ。総合優勝を賭けたゴールスプリントがいま終わろうとしていた。
 ロフティ山、麗から斜面を覆っていたワトルがふと開け、白昼の光の中に霞む青いゴールゲートが見える。その一点をめがけて、つい先ほどチームのアシストを切り離したばかりのジュンタ・テシマと、全大会覇者、今度もKOM(山岳賞)を総なめにしたリッチー・ポルトが並んで疾走する。何度も草薮を擦ったフレームは塗装がはげ、銀のアルミ面を顕にする、路面を駆動する音すら置き去りにしてホイールが唸る、クラッチが回る、ビンディングペダルケイデンスを上げる、群がる群衆すら跳ね除け、二台のロードバイクが十三・三パーセントの激坂を駆け上る。
 ゴールまで残り百メートル、ハンドルを引きながら、テシマはもう喉奥に血の味を感じていた。本当はこんなはずではなかった。チームに引き入れられたばかりのジャパニーズ・クライマーは、知略とはかりごとで臨機応変にメンバーを動かし、最終的にはゴールまでコスタリカ人のエースを引く予定だった。しかし直前でエースが集団落車に巻き込まれ、結果、経験にも実力にも欠けるアジアの新人に、ゴールを狙えとのオーダーが出た。奥歯が割れるほど食いしばった歯の間から、下品な舌打ちが漏れる。シッティングではどうにもたちゆかなくなり、サドルから腰を上げ、ダンシングに切り替えた隙にリッチーが先行した。
「YouMustGet! If you can!」
 八十メートル後方で、ここまでテシマを引いてきたアシストの、中南米訛りの叫び声が弾けたのが、雪崩のように押し寄せてくる雑踏の中ではっきりと聞いてとれた。素体が違う。体質が違う。そんなの理由に出来ない。ここまできて、もう言い訳などできない。左右に揺れるリッチーの背中の向こう、ゴールしか見えない。肩甲骨を押し上げ、ことさらに前傾してペダルを踏む。エンジンでも乗せているかのような速さで回る後輪に、自身の前輪を張り付かせる。脚に血管が浮く。ハンドルにしがみつく腕が痙攣する。ブラックグリーンのキャノンデールがBMCの赤い車体に並ぶ。
「Must! Must! Must!」
「Go! Boy!」
「TESHIMA!」
 狭い沿道で横断幕やプラカードを掲げ、群集が好き勝手に騒ぐ。その、じっとりと張り付くような熱気さえ切り裂いて、いま、両者最後のスプリントに入る。ギアを上げる。時速五十キロを抜ける。酸欠のためにテシマの視界は白みはじめる。残り二十メートル。
「純太」
 ふいにテシマは、網膜を焼くほど強い光の中で、その女の姿を見た。
「来い!」
 ゴールゲートの柱に身体を預けた姿勢で、女は楚々として、夏の光のヴェールをかぶって立っていた。女の薄いくちびるが微笑み、テシマは強く頷いた。
 残り五メートル。ついに何も見えなくなる。勘だけで最後のペダリングを終え、テシマは震える腕を突っ張り、前方へと大きくハンドルを投げた。

 

 六日間に渡る激戦が終わった。日本の新人クライマー:ジュンタ・テシマは、コンマ十一秒というほんのわずかな時差で王者リッチー・ポルトを抑え、見事オークル(黄土)を制覇した。日本人選手の称号獲得、のみならず総合優勝するというのは、大会史上初めての快挙だった。その日の夕方には、エキサイトするチームメイトの面々にもみくちゃにされるテシマの姿が、オーストラリア中に知れ渡った。
 その、話題のダウンアンダー王者が、たった一人の女に手を焼かされているので、古賀公貴はさっきから気が抜けて仕方ないのだった。
「慣習なんだから仕方ないだろ」
「純太、喜んでた」
「喜んでない!」ツンと鼻先をそっぽに逸らしたはじめの、頼りなさそうな、薄っぺらい肩に、純太の腕が情けなくすがる。
「あれはポディウムガールって言ってさ、フンイキの、演出をするための……」
「関係ない。純太の浮気者
 公貴は指だけで青いジタンの箱を開け、一本を咥えたままライターで先に火をつけた。黄や紫色の街明かりの滲む紺碧の夜空に、白い煙が音もなく立ち上る。純太が用意したレストランは、オーシャンビューで、テラスにもカウンターがあって、カリビアンなファニュチャーの広いラウンジから、夕焼けにオペラハウスがシルエットになる、インスタグラマーの聖地みたいな場所だった。ノリの良い九十年代のポップスに混じって、若者たちのくすくす笑いがそこかしこに溢れていた。公貴がこうした場をセッティングしようとすると、どうも風情のないジャパニーズレストランの類になってしまうのだが、それはそうとして、純太にやらせるとこうも振り切れてしまうのを忘れていた。
 ビールを頼んだはずなのに、運ばれてきたレッドアイを眺め、公貴は何度目ともわからないため息を吐く。持ち手がハートを模したジョッキに、レインボーの綿菓子が大きく乗っている。ようやく気が済んだらしいはじめは、大きなゴブレットにレモンピールのスクリューと星が浮かぶ、グリーンのカクテルなんかを頼んでいた。
「じゃ、俺おめでとってことで。かんぱーい」
 心なしか力無い純太の声が言って、三つのグラスが軽快にぶつかる。
 しぶしぶジョッキに口をつけながら、公貴は目の前でへらへら笑う男の座姿を観察した。愛嬌のある、明らかな日本人の若者のフェイスが乗ってはいるが、首から下は剛健なアスリートの肉体だった。目も耳も鼻も手足も内臓も、どこもかも健全で頑丈そうな、均整のとれた体格に、いかつい岩のような筋肉が乗っている。キュートなグラスを持つ手は肘の上まで血管が浮き出て、肩回り、二の腕の張った輪郭が細身のアロハを押し上げていた。
 高校生の時、二人は一介の自転車部で選手をやっていた。そのとき、純太は女と見分けがつかないような、ほっそりとした貧弱な体格の少年で、実際力もなかった。いま異国の地で覇者となったこの男を見ていると、まるで夢の中にでもいるかのような気分になる。
「やー、公貴もありがとな。てか来てるの知らなかったよ。いつから?」
「一月の初めからだ。はじめのスプリント見たら帰ろうと思ってた」スライスしたポンドステーキをかじりながら、公貴、「そしたらはじめが、メンズも見てけ、って言うんでな」
「どうだった? はじめ、かっこよかっただろ」
「惜しかったな。三日目はいいセン行ってたと思うんだが。最後、クリート外れてただろ」
 早速サラダをかた付けたはじめが、ポークリブに齧り付きながら、明らかに眉を顰めた。女子第三ステージ、二つ目のスプリントポイントを目前にして先行していたはじめが、ピンティングペダルの故障で失速しスプリント賞を逃したことは事実だった。
「それだっても総合十一位だろ、十分すごいよ」
 ブルーキュラソーでうっすらと濡れた純太の唇が、拗ねるはじめの頬に押し当てられる。
 カチャカチャと鳴るカトラリーの音。子供のころに聞いた懐かしいポップス。キュートで賑やかなレストラン。美しい女友達に愉快な男友達。上質のオージービーフに香ばしい醤油ソース。昼間、ゴール付近で流れた時間と比べたらおそろしくゆったりとした、濃度の薄い時間が過ぎゆく。不思議な気分のままジョッキを煽れば、時差ボケも薄れてきた交感神経にじわりとアルコールが滲む。
 酔ったそぶりでクッションにもたれ、ショッキングピンクのモヒートで静かに喉を潤しながら、純太ははじめの肩をゆったりと抱いていた。色素の薄い瞳を強いアルコールに蕩けさせた彼女が、差し出されたグラスの縁を口に含む。ふっくりとふくらんだ小さな口元から、こぼれそうになるマティーニをやさしく拭うのは純太の親指だ。