2023/06/22

 

 

 カチャは、まだうまく聞き取ることのできないラジオを、一心不乱に聴いている。不自然なほどに冷たい目だ。彼女はこうして、理解するのに焦れと憤懣を感じずにはいられない早口の日本語の中に、自分の名前がはっきりと響き渡る日が来るのではないかと怯えている。 
 戦争はもう一年半にも及ぶ。はじめは両国の国家主席のみを対象とした報道が盛んになされたが、時が過ぎるにつれそれだけではネタに不足しはじめ、やがてその周辺人物、とりわけ血縁者がねんごろに取り扱われるようになっていた。親弘に戦争はわからない。ラジオを聞いたところで、海を遠く隔てた国の事情などわかったものじゃないし、なにより彼は中学の社会科科目を蔑視の目で見ていた。高校には行っていなかった。彼の社会、つまり、わかばハイツの二◯一号室、足立区郊外の寂れた町並み、ラーメン鳳凰堂の厨房で起きたこと、彼にはもったいないくらい美しい恋人、それ以外は割とどうでもよかったし、そうしたものに注意を払ったところでうまくやれるわけじゃない、というのが彼の持論だった。 
 ただカチャは違う。うまくやるかやらないかじゃない。自分の存在と誇りをかけて、彼女は近い将来アナウンサーの早口に乗って告げられるだろう彼女の名前、そしてその向こうで煌めく父親のまなざしに向き合っている。 
 外ではじわじわと蝉が鳴き、空調のないこの狭い部屋を余計に暑くさせた。ラジオ番組がニュースから歌番組に切り替わったのを確認して、親弘はこれを切り、汗でベトついたシャツを脱いだ。カチャは無言だったが、すべてわかっているというふうに立ち上がり、脱衣所に引っ込んだかと思えば、厚手のタオルを三枚ほど抱えて帰ってきた。 
 敷きっぱなしの布団の上で向かい合う。カチャが親弘のズボンの前を焦ったくくつろげ、ボクサーをずり下げて頭をもたげはじめた陰茎にかぶりつくのを、親弘は静かに見下ろした。触れた粘膜が熱い。まだ熱が下がり切っていないのだ。 

 ラーメン鳳凰堂の勝手口のゴミ置き場で残飯を漁っている少年がカチャだった。痩せて肉がなく、重たく伸びた前髪の下でぎらつく目が獣のようだったから、最初は男の浮浪者かと思った。 
 親弘が怒鳴りつけても、彼女は動じなかった。というより、親弘がなぜ怒っているのかわからなかったのだ、そのときの彼女は向こうの言葉しか理解しなかった。親弘の大声が店長を勝手口から引き摺り出したが、彼は気の良い人だったので、身体を覆う襤褸のみを財産として持つこの女に、温かい出汁と少しばかりの糠漬けを与えて落ち着かせようとつとめた。あとから聞いたことだが、本土から貿易船に忍び込んで十二時間、うたた寝しているあいだに貨物は列車に連ねられ、竹ノ塚の駅に着いたところを脱出して合計二十時間、飲まず食わずでいたらしい。店長の親切をすっかり空にしたあと、鳳凰堂でもっとも上等な、七五〇円もする豚骨ラーメンまで平らげて、彼女はようやく人に立ち戻り、なにかしゃべり始めた。親弘も店長も日本語しかわからなかったので、隣のタクシー会社事務所に協力を要請したところ、職員のひとりが知り合いのカザフスタン人留学生を呼んできてようやく彼女が何を話しているのかということが判明した。「警察には連絡するな」要するにこういうことだった。
「なんだ、てめえ、世話んなっといて第一声がそれかよ」
「あたしはそこのゴミでじゅうぶんだったのに、この人が勝手に憐れんで施してきた。見返りを求められても迷惑だ」
 実直な留学生は親弘の粗雑な口調をどう訳すか難儀していたが、女のほうが勝手に親弘の悪意を読み取って報いた。「あんたのことはもっと気に食わない。あたしと、この人の間に、何の関係もないあんたが、口を挟んでこないでくれるかな」
「俺はこの店のジュウギョウインだ」
「この人の奴隷ってこと」
「けんかなら買うけど」
 留学生はけんかをвойна(ヴァイナー、戦争)と訳した。色素の薄い目をまぶたが切れるほど見開いて女が親弘を睨みつけた。
「なあおい親弘やめろよ、相手女の子だろ」店長は冷静に親弘を制し、女に向き合ってたずねた。「名前は?」
 女の名前、カタリナ・クリヴォノギフ、親弘は長ったらしい名前が嫌いなのでカチャと呼ぶことにした。

 午後、カチャが親弘を射精させたあと、恋人が訪ねてきた。
「よお、小銀」
 カチャを押し入れの中に閉じ込めて彼女を迎えた。大学帰りの彼女は、髪を高いところで一つに束ねてうなじの薄い皮膚を熱気の中に晒し、丈の短いホットパンツから細い脚をむき出しにして、鉄製の外廊にしなやかな竹の佇まいで立っていた。そうして、美しい顔にうっすらと涼しく微笑さえ浮かべていたが、親弘は並外れた嗅覚を持ってして彼女の内側の肉がすでに濡れていることを悟った。親弘が彼女の肩を抱いて汗ばむ鎖骨にキスをすると、そのにおいはいよいよ強くなった。
 重たそうなリュックが靴箱の横にたてて置かれる。スニーカー、謹厳な白靴下を脱ぎ、桜色の爪が慎ましく指に重なる小さな足がふたつ明白なものになる。それがさっきカチャがひざまづいていたあたりの床をぺたぺたと歩き回った。麦茶いるか、いらない、でもお前かお赤いぜ……白々しく言うこと、笑い出しそうになるのを抑え、親弘は彼女が湿りを持て余して縋り付いてくるのを待った。が、彼女はあの微笑みをキープしたまま布団の上に膝をつき、「ほんとに大丈夫ださっきそこでお茶を買ったから」その顔にまったくそぐわぬ震え声で言った。
 親弘はカーテンを閉めきり、正座する彼女の横にぴったりとくっついて座って、やわらかく外に迫り出した胸を揉んだ。下着を外してきたらしくシャツの上からでも勃起した乳頭を簡単に摘めるありさまだった。彼女は平静を装おうとしているようだが、踵の上で腰を揺らしておこなう秘かで浅ましい自慰に親弘が気づかないはずがなかった。
「もうすぐ夏休みだろお、どこか旅行にでも行こうぜ」
「……マレーシアがいい」
「お、良いチョイス。どうせならシンガポールにも行きてえ」
「悪くない……けど、おい。親弘。ちかひろっ」
「ん」
 後ろから覗きこんだ顔はかわいそうなくらい紅潮し、こちらを伺う目までが熱にあてられて潤んでいた。布団にまで垂れた分泌液が白く濁って粘ついているのがいっそ哀れなくらいだ。
「暑いから、親弘……」
 蒲柳の身体がついに親弘の肩にしなだれかかる。彼女の全身は汗ばんで濡れていたがきっとそれは暑さのためだけではない。期待のために薄い唇はかすかに震え、湿った呼気をひっきりなしに吐き出している。熱くざらついた舌が親弘の首のあたりを必死に舐める。それでもまだ、親弘は我慢する。飢えは抑えておけるだけ抑えておくのがよい。乳頭をはなれて外郭を指先でつついたり、脇の下のやわらかい肉を撫で回したりする。しかし笑みばかりは抑えても口角へ駆け上る。
 恋人の手がついに親弘の腹筋に触れたとき、彼はその不躾な手首を思い切り掴んで引き留めた。
「なんだよ」
「わかってるくせにきくな」
「言葉にしてくれないとわかんねえな」
「おまえ——」
「言ってくれたらなんでもしてやるから」
 親弘には彼女のすべてが見えている。思考も、感情も、理性も、おさえきれない欲求も、すべて筒抜けである。そしてそれを正しく把握し、その上で赦している。許容している。だから、彼女は恥も外聞もなく、ただこう言わざるをえない。
「舐めて」
「なにを」
「おまんこ……」
 言い終わるより早く、親弘は彼女の身体を布団の上に押し倒していた。焦れて先をせく指でホットパンツのボタンを外し、ジッパーを下ろして、彼女の脚から引き摺り下ろす。快活な印象の服装とはそぐわない、風俗嬢が好んでつけるような黒いレースの、クロッチ部分が裂けたデザインのショーツが露わになる。いまさら手のひらで覆って隠そうとする無粋な手を男性の力を持ってして引き剥がし、恥じらう彼女の声すら聞きとれぬ忘我の地平で、親弘はにおいたつ陰唇、淫猥に潤んだ膣口へ、思いのままに齧り付いた。
「あっ」
 悲鳴を上げて彼女は、間髪入れずに襲いくる快楽から逃れようと腰をくねらせ、それがかえって親弘に恥部を擦り付けることになるのだった。親弘はもはやほくそ笑みを隠すこともなく、たっぷりと熟した肉ひだを左右に分けながら、ぽっかりと開いた女の穴を丹念に舐る。甘酸っぱい粘液が多量に分泌されて親弘の高い鼻梁や唇を汚す。
 今すぐにでも襲い掛かりたい男の獣性をいっそう縛り、親弘は彼女がもっとも望むようにしてやった。つまり、さきほどから鼻先を何度もかすり、また彼女本人も意図してそのようにしているはずの、とがりきった小ぶりな陰核を、歯と歯とでやさしく噛んだ。上がる悲鳴、尿道から間歇的に塩っぽい分泌物が吹き出し、親弘はそこに唇をつけて余すことなく吸い上げた。
「いや……いや、恥ずかしい」
 泣き言を漏らしながら彼女はなおも潮を吹く。親弘は顔に、火花が散るような動物的な美しさをひらめかせ、自らの前で途方もなく無力なものとなった恋人の陰核を無情にも弄び続けた。甘噛みしたかと思えば、すぼめた唇で吸ってみせ、尖らせた舌で触れて細かく震わせる。彼女の下半身がいよいよ無様に痙攣を始める。親弘がとどめとばかりにその勃起しきった突起を押しつぶしたとき、恋人はとうとう、喉も詰まるような悲鳴とともに果てた。
 脱力する恋人を途方もなく残酷な気持ちで見下ろして、親弘はうっそりと微笑した。そう、彼女のこの哀れな臓器は、親弘に底なしの快楽を与え、親弘の子を孕むただそれだけのために存在する。ほかのどの用途に使われることもないというのに、この臓器のために彼女は一ヶ月に一度濁った血を吐き出し、寝込むほどの苦痛にさらされる。親弘は苦しむ彼女を善良ぶって看病してやり、七日経てば、またこの臓器を思うままにして愉悦する。
「大丈夫か」
「うん……」
 冷徹に謀計を巡らせている親弘であると知らずに、彼女は差し伸べられた手に愛おしそうに寄り添い、熱い頬で擦り寄った。愛していないわけではないのだ……この世の誰よりも、彼女が好き、ほんとうだ。彼は指を頬からつうと口許まで這わせ、呼吸のためにかすかに開かれた唇に、人差し指と中指をゆっくりと差し入れた。舌を掴んで引っ張り出す。そのまま、二本の指で挟み込み、しごくように上下させる。
「お、ひふ」
 彼女は親弘の名を呼ぼうとしたが、言葉にならなかった。口の端からたらりと唾液がこぼれて布団カバーを濡らす。彼女は涙を溜めた目でこちらを見つめて解放を哀願する。「いいか」ひそやかに低めた声で、親弘は彼女の耳柄に命令を吹き込んだ、「これ挿れて待ってろ、俺、夕メシの買い物に行ってくるから」ショッキングピンクの電動ディルド、そこかしこにイボがたち、敏感な彼女の膣壁を擦ってめちゃくちゃに刺激するだろうもの、親弘が戸棚からそれを取り出した瞬間、過去の調教の記憶を顧みて彼女が青ざめる。
 弱々しく抵抗する身体を押さえつけて股を開かせ、十分に湿り気を帯びた膣穴に一息にねじ込んだ。無理に拡張されて骨盤が軋み、彼女はことさらに顔を歪めた。薔薇色に上気したほほをやさしく愛撫する。後ろ手で縛り、押し入れに背を向けさせるかたちで布団の上に転がす。そのまま、ものをしまうふりをして彼女の後ろにまわり、押し入れの仕切りを細く開けて中の様子を確かめた。暗く狭い、じめついた空間で、カチャは涙を流しながら股を濡らしていた。親弘の陰茎はともかく、女が快楽に乱れ狂うさまなど見たことがないに違いない、この生意気な娘は。「俺がいないからって外に出るなよ、わかるな」
「あの子に何したの」縺れもつれの英語でカチャがささやく。
「あいつがしたいようにしてやっただけだよ」
「嘘つき。泣いてるじゃないか」
 バイブが激しく振動し、膣肉を刺激する音で恋人は二人の会話に気づく様子もない。親弘は満足げに目を細め、口角をひどく意地悪くつりあげて、押し入れの仕切りを閉めた。
 親弘は、すでに何度か気をやって布団カバーを湿らせる恋人を背後に、わかばハイツ二◯一号室を辞した。サンダルの足で外廊を渡り、階段を降りて地上へ降りる。奥の母屋に住む大家が駐車スペースを箒で熱心に掃除していたが、親弘に気がつくと、上品に腰を曲げてあいさつをした。「ごきげんよう」「こんにちは、利江さん」彼女のそばを過ぎるとようやく車道に出る。
 さて、彼は海外渡航を多数の趣味の一つに認識していたが、その際により手軽に交信する手段としてアマチュア無線の資格を所持していた。彼がイヤホン型の小型無線機を耳に装着すると、あらかじめ自宅に設置してあるトランシーバーが聞き取った室内の音声が、彼の耳に直接流れ込んできた。
 外を豆腐屋が回る音、やかましいほどの蝉の鳴き声の中に、淫わいな女の声がかすかに混じっている。すでに喉にかかった、プライドも臆面もないメスの獣の声、彼女は誰もいないのをいいことに思う存分乱れ狂っているというわけだ。
『ち、ちかひろ、ぉ……お、っおおぉ、ひぉっ』
 無線を通して、快楽のためにタガが外れ痙攣し続ける身体の動きが手に取るようにわかる。
 彼女の媚肉に突き刺さったディルドのモーターが間断なく回転し、いまもなお、彼女を苛んでいる。辛いだろう、口惜しいだろう、メスの本懐を果たせず、ただ無機物に蹂躙される気分はどうだ。手足を動かすこともままならず芋虫のようにのたうち回る、美しい彼女のことを思うと親弘は内臓までを洗われるような深い感慨に打たれるのだった。往来だというのに舌なめずりが抑えられない。
『おおっ、ぉ……は、激しい……ひっ、ひっひぃっ、お、おっ、おぐぅっ! い、イッちゃう、また、ま、まんこでぇ、イクっ!』
 親弘はうっとりと空を見上げた。夏の雲が真っ白に燃えている。

 歩いて三百メートルほどの地点に、オレンジのクローバーに緑地のロゴが印象的なライフ竹の塚店がある。親弘は恋人の悲鳴に浸りながらそこで野菜を買い、ついでにビールも三缶ほど買い上げたが、無線の向こうの彼女の声がさらなる熱を帯びるのを待ちたいと思い、続いてラーメン鳳凰堂にも立ち寄った。店主の厚意で、ビールと引き換えに豚骨ラーメンをいただいた。麺を啜り終わった時ようやく、恋人が親弘に許しを乞い始めたので、親弘は立ち上がって店主にいとまを申し出た。
 玄関扉の錠を開いてすぐ、親弘の先にむんとこもった女の匂いがたちこめた。冷蔵庫に野菜とビールを入れ、ビニール袋を縛ってこれも戸棚の中に入れた後でようやく恋人に近寄ると、彼女は汗と尿と白濁した膣液でずぶ濡れた布団カバーの上で、なおも激しく振動するディルドに狂ったように身体をくねらせていた。手足を縛るロープがことさらに彼女を無様なものにした。親弘が戻ってきたことに気づいて顔を上げ、彼女が希望と涙に塗れた目で親弘を見る。「ご、めんなさ、ちかひろ」
 声はすでに掠れてほとんど聞き取れない。頼んでもいないのに、彼女はサンダルを脱いだばかりの親弘の素足を懸命に舐めた。足の指一本一本を薄い唇でしゃぶり、踵の裏までを小さい舌で湿らせるように愛撫する。親弘はひどく優しい表情を作って彼女のところにかがみ込み、脚の拘束を解き、赤くなった紐の跡を指で撫でた。かと思えば再び立ち上がって、恋人の唾液で濡れた足先で、膣穴に埋まったディルドを乱暴に掻き回した。
「お、ふぅうっ!」
 勃起した陰核までもがディルドの肢の部分に押しつけられ、びくんと全身を痙攣させて彼女は達した。そこでようやくモーターの電池が切れてバイブが停止した。
「えらいぜ、小銀」