2023/05/23


 まだ陽も上らない、薄暗い暁のころ、シルバーの肉体は茫漠とした眠りの海から静かに引き上げられる、そのようにできている。とはいえすぐに身を起こすと血が引いてよいことはひとつもないので、しばらくはとろんとした眠り気にひたされたまま、手足に滞留するぬくみをもてあそんだり、寝返りを打ったりする。昨日洗濯したばかりの枕は頬擦りすると花の香りがする。カーテンごしに朝の冷えて澄んだ空気がしんしんと掌に降りてくる。ふと思いたち、ベッドに寄せて置いたゆりかごを覗くと、中はもぬけの殻だった。よくあることだ。莢から飛び出た豆の気持ちで毛布から這い出し、裸の足先を床板に置けば、古い木の冷たいことが皮膚から背筋のほうへ伝った。
 寝間着がわりのシャツの上にショールを羽織って廊下に出る。階下のダイニングから温められたミルクのにおいがして、彼女は寝ぼけ眼をしぱしぱと瞬かせた。音を立てないよう、つとめて静かな足運びでダイニングまで歩く。オレンジ色の光が扉の隙間から漏れている。そこでは、いつものあの草臥れたふうのセーターを着た父親が、紐で子どもを背にくくった格好でキッチンに向かっていた。キッチンは古風な銅のコンロに白樺でできた棚や流し台をそなえ、ラックには慎ましやかな花の装飾を施されたマグやポットが並べられている、ドールハウスの品物然としたもので、大熊を思わせる背格好の父親がそこで背を丸めている様子はあまりふにあいだった。彼が小鍋をかき混ぜるたびに子どもがなにか赤ちゃんことばを喋る。
「おはよう、お父さん」
 振り返って彼は、おはよう、と優しく落ち着いた声でそう返した。夜泣きする子どもをずっと見ていたのだ、少し疲労の滲む様子だった。彼は、シルバーと暮らすようになってからロケット団とはすっかり関わらなくなり、それに替えて日中は何か書き物をし、夜になるとシルバーの産後の身をいたわってよく子どもの面倒を見てくれる。歳も歳なのだし、若者のように働き回るのはよしてほしいというのは娘の意向であるのだが、そういうときまって、夜のほうが身体がなじむから、と言い訳して躱すのだった。
 紐を解いて子どもの身を預かる。夜の間に思うままに泣き、思うままに食べたのだろう、うとうとと首を揺らしながら大人しく抱かれている。人差し指を握ってくる小さな掌があたたかい。「おまえも、おはよう」ふくよかな頬のあたりに鼻を擦り付けると、初夏のころの花の香りがする。
 父親は温めたミルクにオートミールを入れてふやかし、蜂蜜、少量の塩を加えた。そのうちに別のコンロで銅のやかんが湯気を吹きはじめ、彼はこんどこちらを火からおろすと、陶器のティーポットに慎重に注いだ。茶葉から色が染み出してばら色にすきとおる。シルバーはそのあいだに手早く子どもを背に結び、低い冷蔵庫を身をかがめて覗き込んだ。いつか離乳食にもなるだろうと思ってレシピを覚えたカッテージチーズが少量、たまごが三つ、レタスサラダ、ハム、バターひとかけ、眠れない夜のためのワイン、……このぶんだと今日は買い物に行くのが良さそうだ。ハムにバター、たまご、それから野菜室に忘れ去られ乾燥しきったニンジンの破片をとり出す。ガラスのボウルに卵を割り入れ、細かく切った具材を混ぜ、泡が落ち着くまでのあいだにフライパンを温める。バターを広げて待ち、香ばしいくるみ色になったタイミングで卵液を注げば、じゅっという音とともにはじから黄色く固まってくる。完全に固まってしまう前にフライパンを揺すり、まだ液体の部分を箸でかき混ぜる。たまごの匂いを嗅ぎ分けたのか、子どもが後ろで何か言った。
 日が昇ってきたのだろうか、天窓から白い光が降ってきて子どもの丸まるとした顔を明るく照らした。シルバーはオムレツを二つ焼き上げ、ひとつは半熟のうちに、もうひとつはしっかり両面焼いたものを皿に盛った。調味料入れから乾燥パセリを取り出して、黄色くおだやかな丘の上にふりかける。そのあいだ父親も自分が見ていた鍋の火をとめ、底の深いボウル皿を二つ、オートミールを均等に分けた。
「上達したな」
 肩越しにシルバーの手元を覗いて、感心したように父親が言う。
「そうかな」
「最初のころは、おまえ、コンロの付け方も知らなかっただろう」
「そんなことないと思うけど」
 ダイニングテーブルはマホガニーでできた小さな円卓で、チェック柄のクロスがかかった上に、昨日シルバーが庭で摘んだデイジーの花が二輪慎ましく咲いている。その上に、オートミール、オムレツ、レタスサラダに残り物のミニトマト、カッテージチーズを並べ、キッチンでマグに移した紅茶も二杯、それぞれの手前に並べておく。何か戸棚をごそごそ探っているかと思ったら、父親が金の箔押しが施された紙箱を持ってきた。イッシュの名のあるブランドのチョコレートなんだという。
 父娘の食卓はいつだって静かだ。父親は寡黙に唇を結んだまま紅茶に口をつけ、シルバーもぺらぺらと無駄話ばかりするたちではない、黙々とオートミールを咀嚼する。ベビーチェアに座らされた子どもだけがむにゃむにゃと何か言う。
 食事のあと、父親は書斎にこもり、シルバーは子どもに乳をやった。おむつをかえると彼はすぐにころりと寝てしまうので、そのあいだに掃除や洗濯を済ませてしまうことにする。一度寝室に戻ってゆりかごに子どもを寝かせ、レースクロスの覆いをかけてやる。自分のベッドから毛布とマットレスカバーを引き摺り出し、階下の脱衣所に持っていって洗濯機に放り込む。それから、家中の窓を開け、陽光と風を招き入れる。空気の澱んでいた家のなかが急に生き返ったような気がする。埃の積もった床を小型の掃除機で隅々まで磨いたあとは、庭に出てポケモンたちを解放し、朝食用に作られたフーズを与える。夜の間どこかに出掛けていたらしいマニューラが戻ってきて、また森から人に慣れた野生のポケモンたちもいくらかおこぼれ目当てにやってきて、家はにわかに騒がしくなる。
「おはよう」オーダイルのしめった鱗を撫でてやりながら、ドンカラスの立派な胸毛を繕ってやりながら、シルバーはみなの調子をたしかめる。さみしがりやのリングマはそれとなく主人の傍らに寄り添い、水タイプ同士のギャラドスキングドラは水を掛け合って遊ぶ。マニューラは器用にシルバーの肩に昇ってきて、ざらざらした舌で頬を舐めてきた。「こら、くすぐったいったら……」
 彼らの助けも借りながら庭の手入れもしてしまうことにする。花々のあいだにしつこく生える雑草を抜き、終わった花や、ブナの木々から落ちてきた落ち葉は熊手でひとまとめにしてしまう、これは腐らせてのちのち肥料として使えるのだ。ここのところの温暖な気候で伸びに伸びたつるばらの剪定、壊れかけたフェンスの修理、芝生の刈り込み。働き回っていれば余計なことを考えずに済む。何も望まずにいられる。温室にも手を入れようとしたところで、二階からけたたましい鳴き声が聞こえてきた。顔を上げて陽の高さを見、もう正午と言ってよい時間になったのだと気づく。踵を返すシルバーにマニューラがついてくる。彼女は簡単に土を落として家にあがり、足早に階段を上って寝室に入った。ゆりかごの中では小さな猛獣が手足をばたつかせて泣いているところだった。
 シルバーは子どもを抱き上げてあやす。いつもであれば、乳を与えておむつを変え、身体をゆらせばじきに泣き止むのだが、今回はそうもいかないようだった。仕方なしに、腹の前に子どもを抱いた状態で、昼食のための買い物に行くことにした。有事のさいに迎撃できるよう、マニュラーとオーダイルを連れて行き、ほか四匹に留守を任せた。
 庭を出てしばらく歩くと、トキワの町に向けて整備された山道に出る。ブナの木々、名も知れぬ低木の間に野生のカンパニュラが咲き、ヘビイチゴが真っ赤な実をつけている。四月、森は一種の盛りを迎え、若葉の香りでいっぱいになる。子どもは相変わらず喚いていたが、羽化したばかりでまだ羽根の柔らかそうなバタフリーが寄って来たのを見てぴたりと泣くのをやめた。かと思えば、草むらからナゾノクサの一隊が飛び出してきてヘビイチゴに群がったり、木の葉の中からコクーンがぶら下がってきたりした。子どもの目が丸々となる。小さな手が目の前で動くものを捕まえようと伸ばされる。なかなかの長文で喋るのを聞いて、シルバーは微笑んだ。いまはまだ不明瞭な母音ばかりだが、もう少しすればなにか聞き取れるものもあるかもしれない。
「あうにゃ」
「そうだな」
「えーあうあばー」
「そのとおりだ」
 適当に相槌を打っていると、子どもはシルバーに柔らかい笑顔を見せ、嬉しそうに手のひらを母親の肩に打ち付けた。首筋に鼻を埋めてふんふん鳴らしたかと思うと、そのまますうっと寝入ってしまう。シルバーは子どもを抱え直し、落とさないようにしながらゆっくりと坂を下った。やがて坂道は緩やかなものになり、平坦なコンクリートの道になったかと思えば、いつの間にかトキワシティの大通りに出ていた。休日、それも昼時ということで、往来は大いに賑わっている。
 バケットを買うために立ち寄ったパン屋でグリーンに会った。ラフな黒いポロシャツ姿で、今年二歳になる、利発そうな顔の娘を片腕に抱えて、彼は美しい妻のために菓子パンを物色しているところだった。連れ立って店の中を歩き回りながら二人は淡々と近況を報告し合う。「最近どうだ」「特に変わりはない……です。姉さんは元気ですか」「ああ、それなりだ」娘が物珍しそうに子どもに触れようとするのをやさしく咎めながら、グリーンは切長のまなじりをゆるめた。
「このひと、誰?」娘は、母親によく似た青くつぶらな目をいっぱいに見開いて、シルバーを指差す。
「シルバーだ、お母さんの妹。おまえも会ったことがあるだろう」
「ええ、ないよお」
 言いながら、考え込む表情が母親に似ている。シルバーはくすぐったい気持ちになって、はじめまして、とあいさつをした。娘の目がきらきらと輝く。ヤナギに連れ去られたころのシルバーがちょうど同じ年頃だが、その彼女が、父親の元で幸福そうにするのが、シルバーには嬉しかった。グリーンは昼食を食べて行くようにと誘ってくれたものの、子どもにまた乳をやらなければならないということを考えて、丁重に辞してシルバーは店を出た。
 パン屋で購入したバケットバターロール、新鮮な野菜の類、たとえばとうもろこしやトマト、ほうれん草、じゃがいもなどの根菜、牛肉、ベーコン、コンソメ甜菜糖を1キロほど、ヨーグルト、散々迷ったが結局イチゴを二パックほど買い上げて帰宅した。昼食のための買い物のはずが、存外に時間を食ってしまったようで、時刻は三時を回ったところだった。庭に離していたポケモンたちをボールに収め、子どもの身の回りの世話、それからポストの中に詰め込まれていたダイレクトメールや税金のはがきを処理していたらもう四時になっていた。さんざん歩き回ってつかれた脚を奮い立たせてキッチンに向かう。せっかくじゃがいもがあるのでコテージパイを作ることにする。
 ボウルの中でじゃがいもを潰し、バターと塩、それから牛乳を加えて混ぜる。味を染み込ませているあいだに玉ねぎ、にんじんをみじん切りにして挽き肉と炒め、肉汁が出てきたらコンソメを溶かして火からあげる。釉薬で花柄を施したパイ皿に肉と野菜を敷き詰めて、これをマッシュポテトで満遍なく覆い、最後にチーズをかけて温めておいたオーブンに入れる。十五分ほど温めればチーズが溶けておいしいパイができるだろう。手持ち無沙汰に待つこと五分、ふと思い立ち、シルバーは庭に出て大量のブルーベリーを収穫した。まだ青いがなんとでもなる。先に買ったばかりのいちごの、ヘタを取ったのと一緒に小鍋に放り込み、中火で火を加え丁寧に灰汁をとる。レモン汁に甜菜糖を追加し、煮詰めれば、ヨーグルトにもバケットにもあうベリージャムの完成だ。保存のために瓶に詰めておいたところで、オーブンの中でもコテージパイが出来上がった。薄く焼き色がついてよい塩梅だ。
 レタスをちぎっただけのサラダにカットトマトを飾り付けていると、書斎から出てきたらしい父親が顔を覗かせた。「手伝いが必要か」
「だいじょうぶ。もうできるから座っていていいよ」
「コーヒーは俺が挿れよう」
 彼は戸棚からミルを取り出し、瓶に詰まった豆をいくらか入れて粗く挽いた。二人分のマグにペーパードリッパーをかけて、やかんの中の熱湯を注ぐ。香ばしいコーヒーの香りとともにキッチンに平和な空気が充ちる。シルバーはココットの中に盛ったジャムを少しばかりスプーンで掬って、父親の口許に差しだした。彼は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに笑って唇を開いた。
「ん、うまい。だがブルーベリーがまだ硬い。熟してないのを入れたな」
「ひとつき、ふたつきくらい、そう変わるものじゃないよ」
「大雑把な」父親は苦笑したが、その唇には満足そうな気風が蓄えられていた。
 食事を終えたあと、ポケモンたちにフーズを与えているあいだに父親が風呂をためてくれた。浴室は青のタイルでスタイルを統一した、手狭だが清潔感のあるところで、右端に寄せるようにして猫足のバスタブが置いてある。弱めのシャワーで子どもの全身を洗ってやったあと、自分の身体もざっと洗い、彼を抱いたまま温い湯に浸かる。子どもはもう満腹のはずなのにやたらにシルバーの乳房を吸った。溢れた乳が浴槽に滴り落ちる。そのままうとうととしだしたので、早々に湯から上がり、濡れた身体のまま産衣を着せてゆりかごに寝かせた。
 子どもが眠ってからはシルバーひとりの時間だ。乾燥も済んだ洗濯機から毛布を取り出してベッドに敷く。ランプをつけただけの作業机で、誰に見せるとも知れない日記を書く。そして、薄暗くなった寝室でベッドの上に腰掛け、マニューラにブラッシングをしてやりながらこまごまと物思いに耽るのだった。理解ある父親、あたたかい家庭、やさしい日々。なに一つ不自由はない、不満などあるはずがない。それでもシルバーは、ふとした瞬間に、まるでうたた寝の間にみる悪夢のように、ゴールドの笑顔を思い出す。子どもと遊べば、彼は十分すぎるほどによい相手になるだろう。庭に溢れる花を見れば、心底おかしいといったふうに笑うだろう。一緒に食事をとり、不平を言いながら仕事をし、やがて夜が来て、シルバーがねだれば抱いてくれるだろう。そうした空想がかけなく空想であることを、彼女は思った。時が戻ればいいのに。すぐ戻るという背中に抱きついて、そう、——ほんとうに、苦しいほどおまえだけだと——言えたらいいのに。なぜ伝えておかなかったのだろう。不運な幼少時代に終わりがあったように、幸福な時間もまた有限のものだと、少女のシルバーは知らなかった。
 今度こそこぼれると思った涙は幻想だった、そのかわりに、嗚咽のなりそこないが、シルバーの繊細な喉にやってきた。マニューラがかなしいいたわりを帯びた目で見上げてくる。
「だいじょうぶ……大丈夫だよ」
「にゅ」
「大丈夫」
 マニューラの赤い胸毛に鼻先を埋め、深く呼吸しようとつとめる、そうすれば理性の部分だけでも大丈夫でいられるから。彼は利口にもじっとして抱擁を受け入れていたが、ふと、シャツの裾を軽くひいて、外着から着替えるようにと促した。緩慢な手つきでボタンを外す。時刻は深夜帯にさしかかり、まだ春の中頃なのだ、不安定な気流が雨雲を呼び、やがて雨が降りはじめた。雷鳴が遠く轟く。やわらかく葉や花びらを打つ音がシルバーの意識をかき混ぜる。シャツを脱ぎ捨てて、下着のままシルバーは毛布に潜り込んだ。雨は嫌いだ。ゴールドの濡れた死に顔を思い出すから……いっそ投げ出した指の先を誰かが掴む。顔を見ないうちに眠ってしまったけれど。

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*1:ここに脚注を書きます