完成

 

 

 

   Dhuhr ——ズフル、浮世

 飛行機が飛ぶ音の中で目を閉じると、よく焼けた大きな手のひらに身体中をまさぐられ、意識が茫漠としてその輪郭を失ってゆくさまを思い出す。
 暗い視界で不安のために震えていると、ふっと首の薄い皮膚に熱くため息がかかって、そこからほのかに甘い痛みが広がる。触れられることを期待して、全身から熱が集まってくる。緊張してんのかよ、低く、掠れた声、その音節のひとつひとつにさえ深く感じ入り、小銀はやせぎすの身体に燻る熱を持て余す。薄い氷で覆われた心をやさしく紐解かれ、すっかり小さく無害な生き物に作り替えられてしまう。不意に唇のささくれが頸静脈の上をかすめ、彼女は堪えきれず歓喜の声を上げた。
 いつもそうだ。どんなに気丈に意識を保とうとしても、頸にキスをされながら全身をやさしく愛撫されると、もうそれだけでだめになってしまう。脳幹の部分から気だるさがふわふわと彷徨い、彼を見つめる視界さえあいまいなものになって、しまいには、普段恥ずかしくて押し黙っているようなことをぺらぺらと臆面もなくしゃべってしまう。
 親弘、すき、大すき。愛してる。
 胃もたれするほど甘ったるい声色。言えたことに安堵して涙すら出てくるしまつだった。
 彼は小銀の頸に唇を触れさせたまま、喉の奥でかすかに笑った。……俺もさ。ささやきは海から流れ込んでくる凱風のように、小柄な耳がらをくすぐり、もて遊んで、そのまま耳管を吹き抜けてゆく。愛の言葉が左脳に直接ふりかかり、背骨が溶けてしまいそうなほど気持ちいい。
「愛してるぜ」
「ち、親弘、……ちかひろ。はやく、早く、早く、はやくっ」
「焦るなよ。俺は逃げねえから」
 触れられてもいない膣口からはバルトリン腺液がとめどなく漏れ出し、尻のほうまでをぬるぬるとはしたなく濡らす。膣壁も火傷したみたいに痺れてやまない。小銀は焦れに焦れて、たまらず陰核を摘んで激しく擦った。空腹の犬がするように、無様に呼吸しながら、夢中で彼の名前を呼んだ。
「親弘、親弘、親弘、親弘」
 彼を求めて痙攣する肉体を、太く健康的な腕がしっかりと抱きかかえた。青く硬い皮の内側で、時期を逸して熟れきった冬の果実、それが今、彼の前に晒される。晒されてしまう。つまびらかに、偏執的に、その細部に至るまで!
 眩いほどの開放感。白く光に貫かれて、声もなく震える。もはや無音。幸福の極致。遅れて、心臓がどんと打ちのめされ、無理やり開かれた股関節の軋みが背骨を駆け上る。耳鳴り、苦痛すら彼に包まれて甘く弾け、わけもわからず、小銀は広い背に必死にしがみついていた。伸びた爪に表皮組織をえぐられ、彼がついた吐息すら小銀を昂らせた。
 子宮に先が到達するのがわかる。ここに、……ここに彼が吐精すれば、きっと妊娠するだろう。小銀は彼の子を孕み、彼の子を産むだろう。そう思ったら、
「出して。親弘、だして。おねがい」
「小銀」
「おまえのこどもがほしい……」恥も外聞もなく、小銀は愛しいその人に縋りついた。未成年の少女が、榊家の一人娘が、子を産み育てることがどれだけ大変なことか、小銀はわかっていた、もしそうなれば父は彼女を殺すかもしれない。しかし、それでも、脳をぐずぐずと浸食する欲望に逆らうことができず、小銀は彼に媚びた。
 腰を振り、あさましく彼を歓待する。寄せては返す快楽の波の中で、彼がぎゅっと顔を歪める。ああくる、くる、もうすぐだ、もうすぐだ、もうすぐだ。そして、瞬間、すべてが小銀の望み通りになった。彼は実直にも腰を引こうとしたが、小銀が細っこい脚で拘束していたためにそれはままならなかった。流れ込んでくる。ほとばしる。満たされてゆく。
 小銀は陶然と目を閉じる。この世のすべてが、自分を祝福しているのだという気分でとても幸せだった。
 次の日には、それがみんな取るに足らない馬鹿げたものだってこと、これ以上ないほどに理解することになるのだけど。
 ——この飛行機は、ただいまからおよそ二十分でスカルノハッタ国際空港に着陸する予定でございます。
 客室乗務員の流暢な英語。幸せなまぼろしは、小銀の手のひらからあえなく取り上げられる。彼女はゆめうつつのまま半身を起こし、着陸に備えて傾けたリクライニングを元に戻す。親弘、……心のうちだけでそっと呼びかけた。
 窓の外を覗き込むと、水平線まで余すことなく青い海が、強い日光を反射してきらきらと輝いている。まぶしいくらいの白い光の中にポツポツと浮かぶのは、色とりどりに塗装された船、おそらくエビ漁のためのもの、それからダークグリーンのあざやかな群島。ジャカルタ湾。インドネシアの首都・ジャカルタの美しい近海。

 金子親弘が、自由奔放で、なにものにも縛られない放埓な男だということは、小銀もよく知るところだった。そしてその性質はしばしば孤独な彼女の道標になった。
 小銀は町の大地主・榊氏の娘で、鋭い氷柱を思わせる冷たい美しさもあいまって、幼い時分から周囲の人間を遠ざけた。誰もが彼女を通じて榊氏の面影を見、冗多に恐れた。だが親弘はそんなことお構いなしで彼女に近づき、ずけずけとその心の内部にまで踏み入ってきて、すっかり住み着いてしまった。最初はその存在を疎み、持て余していた小銀も、彼と同じものを見、同じものを聞き、腕を携え、唇を擦り合わせ、肉的に通じるに至った。痛みと流血の果てに彼を愛した。当然の流れだ。
 二人の心は危険なほどに癒着したかと思われた。しかし、ある日、親弘はなんの音信もなく、その消息を絶った。彼の両親も、高校の友人も、教員も、小銀ですら、その行方を知らなかった。はじめは誘拐被害が疑われ町を上げての捜索活動が行われたものの、格闘術に優れ、体格も良い親弘だ、捜査が進むにつれ誘拐の説は薄れ、ついに打ち切られたことで町の見解は固まった。彼は去っていったのだ。
 半身を引きちぎられたような思いで小銀は生きた。その様子は、ようやく、ぽつぽつとできはじめていた友人たちが、重い神経衰弱を案じるほどだった。
「誤解を恐れずにいうけれど、わたし、親弘がいなくなって少しホッとしたの。彼、榊さんのことを守っているというよりは、囲っているみたいだったから」
 吉野まりなはそんなふうに彼を評した。同じクラスで、それなりに親交のあった女子生徒だ。
「親弘のそばにいるあなた、どんどん綺麗になっていくから、羨ましいけどちょっと怖いねって、みんな噂してたんだ。わたしは、怖いとは……思わなかったけど、でもすごく心配してた。ほら、タバコが怖いのは、依存性が強いからでしょ? それと同じで……」
 彼女が善意からそう言うのは重々承知だ。それが余計に悔しくて、悲しくて、放課後の教室で小銀は激しく泣いた。静かに肩を抱いて黙っていてくれたまりなのことを、のちのち小銀は親友のように思うに至るのだが、そのときは、わけもなく彼の仇のように思えてならなかった。そしてそんな自分が情けないのだった。こうしている間にも、親弘の輪郭は急速にぼやけていく。声も掌の温度ももううまく思い出せない。そうした忘却の先で自分が生きていることを想像するだけで胸がかき乱されて苦しかった。
 そうやって苦しみながら二ヶ月、ある夜、泣き伏す小銀の傍らでスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。もはや期待していなかった、見ることもないだろうと思っていた名前、金子親弘。小銀ははっと顔を上げてそれに報いた。震える指でロックを解除し、メッセージアプリを開いた。親弘、金子親弘。ピースして笑うアイコンの彼。メッセージ、一件。
 よお、元気にしてるか。もうすぐ春休みだろ。俺んとこ来いよ。Jl. Harapan No.79, RT.6/RW.7, Lenteng Agung——

「小銀? 無事着いたのね、おつかれさま!」
 夜中だろうがまりなはいつも快活だ。
 日本とインドネシアは時差二時間、向こうはすでに二十三時を回るころだが、空港に到着してすぐに彼女からの着信があった。入国審査場を目指して動く歩道に乗り、キャリーバッグを引き回しながら応答する。タギーヤやヒジャヴをつけたイスラム教信者がひしめき合う空港内で、日本語を話しながら一人歩く小銀はどこか異質だった。
「ああ……なんとかな。だが身体のあちこちが痛い」
「仕方ないよ、LCCだったんでしょ? わたしも初めて乗ったときは全身筋肉痛になったわ」
「しかもひどいんだ、機内食が、肉だったんだが、まるで味がしない。身もパサパサしててとても食べられなかった。おかげで八時間ものあいだ断食状態だ。信じられない。二千ドルも払ったんだぞ」
「小銀ってばお嬢様なんだから。機内食なんてみんなそうだよ。まあまあ、早いとこホテルにチェックインして、それからご飯を食べられるところ探しましょ」
「うん」
 まるで一緒に旅をしているかのようなまりなの言い回しに思わず口許が緩む。彼女は親切だし、よく気がまわる。話していると楽しい。親弘に抱いていた恋慕とも劣情とも違う好意を、小銀は彼女に対して感じている。
「遅くに悪かった、また明日かけるから。おやすみ」
「おやすみ。写真送ってね」
 電話を切ってからも、まりなの言葉を思い出して微笑みがこぼれた。写真か。親弘は写真を撮られそうになるとすぐ逃げる癖があった、会いにいって、一緒に写真を撮りたいと言ったら、彼は応じてくれるだろうか。
 成田空港からシンガポールチャンギ空港を経由し十時間、小銀ははるばるインドネシアにやってきた。親弘に会うためだ。あの夜親弘は、彼が住んでいるという町の住所と、そこにピンを差したグーグルマップのリンクをメッセージアプリで送信してきた。ジャカルタ、レンテンアグン地区。ここスカルノハッタ空港からはタクシーで二時間ほどの場所だ。現地時間二十一時、移動するには夜も更けて、さらに長時間のフライトで小銀はくたくたに疲れ切っていた。空港近くのホテルに一泊滞在し、翌朝移動することにする。
 入国審査を終え、空港のロビーを出るやいなや、湿気を含んだ熱風がじっとりと頬を打った。伸びた赤毛が舞い上がる。三月、この地は雨季なのだ、もう深夜だというのに、冗談かと思うくらい暑い。それに加え、排気ガスと埃の匂い、車やバイクが道路を縦横無尽に行き交う音、そこかしこに点在する屋台の塗装の原色、コンビニの明かりと、否応無しに飛び込んでくる情報の多さに眩暈がする。山間の、涼しく穏やかな町を出たことのない小銀には、あまりに刺激的すぎる国だ。
 マップによると、ホテルはここから五〇〇メートルほど南に降った場所にあるようだ。小銀はキャリーバッグの持ち手を握り直しながら、その喧騒の中へのろのろと彷徨い出た。
 歩き出して十秒もしないうちに、呼気から入ってきて血液の流れに乗った熱気が全身にまわり、小銀の色素の薄い皮膚からじわじわと汗が滲みはじめた。喉の奥が乾燥して息苦しい。歩道もなく、きちんと舗装もされていない車道は、ただでさえ虚弱な身体からみるみるうちに体力を奪っていく。コンクリートの割れにキャリーバッグの車輪が引っかかる。小銀は眉間に深くしわを寄せ、唇を噛んだ。なんなんだこの国は! 
「Hai, mau pergi kemana?」
 焦燥と苛立ちは、彼女から十分な判断力を奪った。話しかけられ、肩を掴まれても、はじめそれが自分に対するものだとは気付かなかった。
「Hai, ......hey, where're you going?(おい、どこ行くんだ?)」
「ん?」
 その人が英語を使ってはじめて、小銀は立ち止まって顔を上げた。現地の若者が数人、空港提携の有料駐輪場のフェンスの前で屯していて、その中の一人が彼女に声をかけたといったありさまだった。みな傍らに蛍光緑の〈G〉のマークをぶら下げたバイクを停めているのを確認して、彼女は咄嗟に男の手を振り払い、たっぷりと警戒を眼差しにたたえて後ずさる。この国にはGoJekと呼ばれるバイクタクシーの配車サービスがあって、彼らはおそらくその従事者だった。
『悪いが、タクシーは不要だ』
『……違うって!』彼は気を悪くした様子もなく、鷹揚に腕を広げてオランダ訛りの英語を話す。『こっちは行き止まりだぜ。どこにも行けやしねえ』
『は』
 ここにきてようやく我にかえり、小銀はあたりを見回した。すぐ手前で道が終わっている。木々の向こうでけたたましくクラクションが鳴る。汗はとめどなく流れ落ちる。不安が募る。親弘……彼の名を福音のように唱え、自分をなんとか鼓舞しながら、彼女はマップを開いて現在位置を確認した。
『しかし、ホテルはこの向こうに……』
ジャカルタ・エアポート・ホテルか? そんならゲート5からシャトルバスに乗らなきゃなんねんだ。災難だったな、お姉ちゃん!』
 若者らがかっかと笑い、一斉に小銀を小突く。一人が持っていた袋から串に刺さった焼き鳥のようなものを彼女の口に突っ込み、元気出せ、と背中を叩いた。
『サテ・アヤムだ。ま、がんばれよ!』
 甘タレのついた串を神経質にがじがじと噛みながら、彼女は元来た道を引き返す。

 空港のターミナルに戻ってきて十分、シャトルバスに揺られて三十分、ようやくホテルに着く頃には、小銀は心身ともに疲れ果てていた。フロントでチェックイン手続きをしているあいだも、部屋のキーを渡されてエレベーターに乗るときも、一歩ごとに鉛を履まされているような気分だった。もう食事をする気にもなれない。スニーカーを脱ぐその作業すら億劫だ。
 デスクにキーを放り投げ、無心でベッドに倒れ込む。
「ちかひろ」
 親弘。
 うとうとと微睡を彷徨いながら、愛しい彼の記憶の輪郭をなぞる。浅黒く健康的に焼けた顔。優しく理性的な光をともした目。肉厚な唇。筋肉質な身体。眠りの闇の中から皮の厚い手のひらが伸びてきて、疲れ切った背中を撫でてくれた気がして、小銀の目はにわかにうるんだ。会いたい……彼に触れたい、触れられたい。思い切り抱きしめられたい。個の輪郭すら溶け合うくらいに触れ合ってひとつになりたい。彼を失ったあの日から、一寸も休むことなく、小銀はそう願い続けてきた。そして、その願いはじきに叶えられる。
 茹だるような熱気に、現地人の快活さに、親弘の息遣いを感じる。すぐそこに感じる。明日には、小銀は彼の家を訪れ、あの頼もしく鷹揚な腕にひしと抱かれるだろう。それなのに……もろ手を上げて喜べないのは、こんなにも不安なのはなぜ?
 眠気のうすぼんやりとした雲に包まれて、小銀は夢を見た。タクシーから降り、運転手からキャリーバッグを受け取った彼女は、目の前の家、木組の簡素な家のポーチに、うっすらと微笑を浮かべて立つ親弘を見た。親弘! 転げるように走り出し、小銀は一目散に彼の腕に飛び込む。彼の伸びた前髪が、小銀の白い額をおだやかにくすぐる。
「親弘、聞いてくれ」つま先立ちになってキスをねだりながら、とっておきの秘密を打ち明けるような声色で、小銀は囁いた。「実は、私——」
 ……優しかった腕に拒絶されたかと思えば、ふっと現実が彼女のところに帰ってきた。夢だ。そう、夢だった。だが現実において、彼女の心臓はどくどくとさかんに働き、急に血圧が上がったことで手指の先は小刻みに震えている。
「なんて夢だ……」
 小銀は舌打ちをして起き上がった。シャワーでも浴びれば、少しは気も紛れるだろう。

 

   Asr ——アスル、幻日

 翌朝、九時きっかりに目を覚ました小銀だったが、起き上がってすぐに強烈な吐き気に襲われた。口を覆う間もなく逆流してきた胃酸がシーツに飛び散った。食道が焼けるように痛む。鼻の奥がツンとする。身を引きずってトイレに向かい、便器にしがみついた瞬間、第二波がやってきて、今度こそ抑えきれずに嘔吐してしまった。寒くてたまらないのに、汗が止まらない。息を吸い込んで吐き出すたびに、その音が頭蓋にがんがん響く。
 心中で悪態を吐きながら、彼女はそのまま床にへたり込んだ。くそ。どうしようもない孤独感に襲われ、小銀は自分の身体を抱き締めた。
 十時、注文を受けたボーイが果物を持って小銀の部屋にやってきた。彼は真っ青になりながらドアを開けた小銀を見て飛び上がった。
『えっと、お皿ここに置いときますね』
 下手くそな英語が彼女の身を案じる。
『ありがとう。……流行り病なんかじゃないから安心してくれ』
『とんでもないことです、そんな! 大丈夫ですか? お医者さまをお呼びしましょうか?』
『いや、不要だ。理由はわかっているから』
 小銀は妊娠しているのだ。
 親弘に破瓜を委ねて以来、彼以外と関係を持ったことのない小銀だ、父親は明白だった。妊娠二ヶ月、時期からみてもあの夜にできた子供で間違いない。
 だがそれを彼に明かす勇気がない。あのようなメッセージを受け取った今でさえ、親弘が去ったのは自分をもう愛していないからではないか、そんな疑念を拭い去ることができていないというのに、おまえの子を妊娠しているのだと……そしてその子を産みたいと思っているのだと、どうして打ち明けられよう?
 ボーイは甲斐甲斐しく彼女の汗を拭い、シーツを取り替えて、また何かあればいつでも言ってくださいと、そう言って部屋を後にした。ゆったりと枕に背を預け、ため息をつく。
 ベッドサイドに置かれた大皿には、小さくカットされたメロンやスイカ、オレンジ色の果実が、おそらくパパイヤだろう、美しく盛られている。小銀はスイカを指でつまみ、しゃくりと音を立ててひと齧りした。甘みの強い瑞々しい果汁が溢れ出て、痛んだ喉を潤してくれる。ふと思いついて、スイカの一つ抜けた果実盛りを写真に撮り、まりなとのチャットに送信してみた。
〈スイカおいしい〉
 そうしたら一分もしないうちに電話がかかってきた。
「小銀、おはよう! くだものとっても美味しそうね!」
「おはよう。まりなはいつでも元気だな」
「もちろんよ。あなたはどう?」
「朝からつわりがひどくてかなわない。胸がむかむかするし……でも、まりなの声を聞いたら元気出た」
「嬉しいけど、無理はしないのよ。親弘に会えるまで気を抜かないこと。いつもみたいに助けに行けないんだから」
「わかってる」
「いい? あなたの不調は、そのまま赤ちゃんの不調にもつながるんだからね、ちょっとでもしんどくなったらすぐ休んで」
「わかってるよ」
 わかってない! ぷりぷり怒るまりながかわいらしくて、小銀ははしなく吹き出した。

 体調が回復してきたころを見はからってホテルを出る。正午近くになり、気温もいよいよピークに達する時ごろだ。太陽は猛然として輝き、コンクリートの地面は鉄板のように熱されている。現地人も観光客も、みな一様に額に汗を浮かべ、灼熱に表情を歪めている。それはタクシーを探してロータリーを歩く小銀も例外ではない。
 この日のために用意したサマードレス、スカート部分にレース細工をあしらった上等のものだが、汗で胸元がびっしょりと濡れてしまった。吸い付いた布地が透け、小ぶりな乳房の形がはっきりと浮き出てしまっている。すれ違う人々の視線を如実に感じ取り、彼女は日除け帽子のつばを引っ張って顔を隠した。
 タクシーは五分ほどで捕まった。ブルーバードの名を冠し、また実際に青く塗装されたその車体を操るのは、五十代中ごろといった印象の男性だった。
「Kamu ingin pergi kemana?」
 よく効いた冷房に一息つく小銀に彼は何か尋ねたが、ひどく訛った現地語は小銀に何の理解ももたらさない。
「Pardon?(なんだって?)」
「Anda mau pergi ke mana?」
「ええと、ジャガガルサ……レンテンアグン」
「Lenteng Agung?」
 必死で首を縦に振ると、彼は心得たとばかりににこりとし、メーターをリセットした。ほどなくして、車はゆるやかに走り出す。英語が通じないのだ、この運転手、気の良い男のようだが、目的地を詳細に伝えるには苦心するかもしれない。
 車は巨大なスカルノ立像を囲む環状道路をぐるりと周り、高速道路に乗った。すると、昨晩のチカチカと騒がしいばかりだったジャカルタとはまた違った趣の街並みが、かなたから小銀の目に飛び込んできた。高層ビルの代わりに小さく素朴な家々が軒を連ね、幅の広い川岸には、枝を組んだだけの建物がいくつも迫り出している。歩道に座り込む子供たち、木陰で涼む老人たち。緑に薫るプルメリアの低木には、小さな白い花が無数についていてここからでもわかるほどだ。牧歌的で悠然たる眺望に、小銀はまた親弘のことを思い出した。熱烈でカラフルなジャカルタが夜の親弘だとしたら、今小銀の前に広がるジャカルタは、昼の、おだやかで優しい親弘だ。
「Jepang, jepang, ......oh, dari jepang」
 運転手が、並走する車やバイクを指差しながら笑う。
 小銀は帽子を脱いでブランケットをかぶり、流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。

 静穏なうたた寝は、大音量の歌声に無造作に引きちぎられた。びっくりして飛び起きる。
 Googleマップによると、車はすでにレンテンアグン付近まできているようだが、ひどい渋滞にはまっていた。二車線の道路に車やバイクや原付が詰めかけ、所狭しとひしめき合っていた。車社会の発展途上国ではよくみられる光景だ。その、車やバイクや原付の中に、場違いにボリュームの大きい歌声が響き渡るのだ。
「What?(なに?)」
 できるだけ易しい英語で、小銀は運転手に問いかけた。
「Apa?」
「What......the song?(この歌はなに?)」
「Song? Ah, Adhan, for prayer, Islam(歌? ああ、アザーン、祈りのための、イスラムの)」
アザーン……」
 アザーン、祈りのための、イスラムの。
 この、奇妙な歌のようなものは、イスラム教信者の祈りへのいざないなのだ。
 祈りは音階の上下を繰り返しながら、高らかに、また厳粛に紡がれる。言語に明るくない小銀にその内容はしれない。だが、発音ひとつにも、大いなる神への賛美が満ち溢れ、敬虔な信仰心がみなぎり、聞く者の心を自然に引き締めるような調子だった。小銀は、指を組んで軽く首を垂れ、そっと目を閉じる。
 親弘。
 私の赤ちゃん。

 渋滞を抜けて、運転手は適当な飲食店の前に車を寄せた。レンテンアグン地区に着いたのだ。運転手に二千ルピアを支払いながら(日本円で千八百円ほどだ)、見慣れない街に視線を巡らせる。詳細な住所を正確に伝えられない小銀は、ここから親弘の家まで徒歩で向かわなければならない。
 もうすぐ会える。はやる気持ちを持て余しながら、キャリーケースを引きずり小銀は歩く。歩道には百日紅の木が植えられ、日陰も多くいくらか涼しい。店先にパパイヤやまだ緑色のマンゴーを吊るす果物屋、赤青黄のラインがまぶしいインドマレットという名前のコンビニエンスストア、蛍光ピンクの壁紙の散髪屋、屋外レストラン。扉を開けた状態で走るオンボロのバス、小さな車体に三人もの人間を乗せたバイク。プラスチックの皿を差し伸べる物乞い、石畳の隙間に生えた雑草を抜いて遊ぶ少年たち。かなたの空には、薄く藤色に山嶺が浮かんでいる。
 マップに従って十分ほど歩いたところにある角を右に曲がり、狭い道路に入ると、また雰囲気の違う住宅地に出た。舗装されていない土の道が続き、左右に連なる民家はどれもこれもひどく古びている。すれ違った主婦らしい女は、脚を縄に括られた鶏を二羽、しっかと握っていた。よく見ればその鶏たちはまだ生きているらしく、ときおり苦しそうに羽をばたつかせ、首をぶんぶん振り回す。
 キャリーケースの車輪に石が詰まり、回らなくなったので小銀は足を止めた。ふと顔を上げると、これまで通ってきた民家とはどこか異質な、西洋風のアイアンフェンスを構えた大きな家が建っていた。外からでも十分に伺える庭は広く、プルメリアや蘭、それから名も知れぬ南国の花が競い合うように咲いていた。家は、インドネシアの一般的な家屋と同じく煉瓦に塗料を重ねた種類のものだったが、屋根に天窓が取り付けられていたり、表の扉に小ぶりなステンドグラスがついていたりと、随所に西洋的な意趣が見て取れた。
 その、美しい家の玄関扉から、ひとりの女性が音もなく姿を表した。
 豊かな黒髪をおさげにして左右に垂らした彼女は、白百合を思わせるほっそりとした体躯に伝統的なバティックワンピースを身につけ、素足にはビーズをあしらったサンダルを履いていたものの、間違いなく日本人だった。彼女は傍らに子猫を伴い、プラスチックのジョウロを持ってポーチから静々と降りてきた。が、呆然とする小銀を見とめて、
「小銀さん?」
 鈴を転がすような声が小銀の名前をはっきりと呼ばわった。
「は、はい。榊小銀です」
「まあ、あなたが。はるばるようこそおいでになりました。……親弘さんを探しているのね?」
 息をつめ、肩をこわばらせて、小銀は立ち尽くす。
「話は聞いていますよ。親弘さんは、いま夫と一緒にこの家の裏のモスクに出かけています。休みがてらお茶でも……と言いたいところだけれど、一刻も早く彼に会いたいってお顔ですね」
「はい……ごめんなさい。ええと、あなたは」
「気にしないで。矢崎百合子と申します。夫と二人で、東南アジアの社会史を研究しているの」
 矢崎夫人は貞淑に微笑する。
 だが小銀は貞淑でなんていられなかった。親弘が、親弘がいる、すぐそこに! 二ヶ月と少しのあいだ、絶えず夢見て、不在の寂しさのあまり涙すらこぼした……それほどまでに求めたかの人がいる。彼に会える。
 半ば放り投げるような形でキャリーケースを放棄し、夫人の示した裏道へと走り込む。驚く彼女の声など構っていられない。蛍光緑に濁った側溝を飛び越え、庇に粉ジュースや洗剤の小袋をぶら下げた商店をすぎて、さらに裏へ入る狭い路地が口を開けているのを見る。小銀の足は自然とその路地へ吸い込まれる。
 ——光の中で、子供たちの笑い声がきらきらと弾けた。
 眩しさのあまり小銀は目をすがめる。限られた視界の中で、金の鷲細工を施したエメラルドグリーンのドームを頂き、純白の柱を四方にめぐらせたその建物を見る、きっと夫人が言うモスクだ。祈りの地。人々の憩いの場所。庇の下から伸びた電線が、木板を貼り合わせただけの質素で小さな家々に電力を供給している。その中でも一等低い位置に垂れ下がった電線をネット代わりに、子供たちがバレーボールに興じていた。
 みな日に焼けて真っ黒だ。男の子も女の子も、泥だらけのTシャツを着、サンダルの足を快活に動かして元気よく駆け回っている。それに紛れて、低く朗々と声を響かせながら躍動する一人の男の影。
「Lewati aku, lewat sini!」
 親弘だ。
「親弘!」
 小銀は胸いっぱいになりながら叫んだ。子供たちが投げたボールを受け損なった親弘が顔をあげた。
 破顔する、
「親弘、親弘、親弘!」
「小銀!」
「親弘……!」
 子供たちの群れをかき分け、まろぶように親弘に駆け寄り、……そのまま勢いに任せてひしと抱きつく。スパイスの気配。汗の匂いとタバコの煙のほろ苦い香り。太陽に炙られた皮膚の熱さ。小銀の頬は彼の裸の胸に押し付けられ、肩や腰は太い腕に抱かれ、脚すら絡んで、ああ、愛しい。愛しい。愛しい。親弘。溶けそうだ。このまま皮膚まで溶けて一つになれたらいいのに。
 小銀の繊細な下瞼に涙が滲む。皮の厚い親指がそれをやさしく拭い、刹那、二人の視線は領域を共有し、同じ感慨に兆した。まるでそうであることが当然であるかのように、小銀は瞼を閉じた、硬い背中に手を回す、降りてきた優しい口づけを緩やかに唇を開くことで歓待する。ところどころ皮の剥けた皮膚の、やわらかい感触、言葉も、社会も、過去も未来もなく、ただその人にすべての意識と感情を集約させて……親弘の舌が歯列の間を割って入ってくる、侵入してくる、ああ、入ってくる、小銀は狂おしいほどの歓びにさらに歔欷した……、「小銀」ひどく熱っぽく、彼が彼女の名を呼ぶ、「会いたかった」
「わ、私も、どんなにおまえに会いたかったか……しれない、親弘、親弘……」
「お前を置いていって、悪かった、だから泣くな」
「もう離れないで、そばにおいて、どこにも行かないで」
 声は喉奥に滲み、しまいには震えてほとんど言葉にならなかった。かわりに涙がとめどなくあふれてやまない。薄い水の膜に透けて、親弘の目が揺れていた。
「泣くなよ……」
 不意に、その目に不安と欺瞞の緑がよぎる。
 小銀ははっと我にかえり、そのことについて……なにか親弘が隠しているのではないか、そうでないにしても、話しあぐねているようなことがあるのではないか、問いただそうと口を開いた。しかし何か言うより先に、試合中に知らない女と抱き合いはじめた親弘を不審に思った子どもたちが集まってきて、勢いよく二人を取り囲んだ。小さな口が次々に何か言う。
「Dia siapa?」
「Temanmu? Atau pacar? Istri?」
「Cantik cantik ya!」
「囲むな囲むな! あー……小銀、ちょっと今から付き合えるか?」
 女の子を肩にぶら下げ、弟を背負った男の子に腰にしがみつかれながら、息も絶え絶えといった様子で親弘が言う。
「矢崎さんに夕メシの買い出し頼まれてんだわ。歩きながらゆっくり話そうぜ」

 初心な中学生がするみたいにぎこちなく手を繋いで、大通りまでの道を二人歩く。
 話そうといったわりに、親弘はなかなか口を割らない。その代わりに、ちらちらと小銀のほうに視線をやってはため息をつき、眉間に縦じわを寄せたり頭を掻いたりしてみせる。手のひらにじわじわと汗を滲ませる。そしてとうとう、ぽつりと一言、こう言うのだった、
「その格好……似合ってる」
 小銀は白い頬をほのかに赤らめて、愛する男の手放しの賛辞を喜んだ。
 大通りに出てからは、バスで市場の最寄りまで向かう。正確にはアンコタと呼ばれる小型乗合バス、パラトランジットで、インドネシア各地で見られる手軽な移動手段だ。運賃も三千ルピアほどと非常に安価である。が、日本からの観光客ということで、小銀は五千ルピア請求された。
「いいとこだろ。おおらかっつーか、大雑把っつうか、みんな楽しそうっつうか、ま、おもしれえんだよな、この国。何も考えなくたって地球は回るし俺は金子親弘なんだって、そんな気分になる」
 開け放たれた扉からの風に短い黒髪を靡かせながら、親弘がまなじりを緩ませる。小銀はその隣にぴったりとくっついて座り、彼の話に熱心に耳を傾けた。車内には他に五人ほど人が乗りぎゅうぎゅう詰めになっていたので、小銀が親弘にべたべたとくっつこうが注意を払うものは誰もいない。
「日本じゃこうはいかねえよ、やれ決まりだ、ルールだ、道徳だ、倫理だって、杓子定規で頭が痛いこった」
「それが町を出た理由か?」
「いや……ああ、そんな顔すんな、お前が嫌になったとか、そんなんじゃねえ。断じてな。お前のことは好きだ。世界で一番愛してる。お前に出会えたってことだけで、俺は日本に生まれてよかった……」
 最寄りに半ば放り出されるような形でバスを降りてからは、再び歩いて市場を目指した。ゆるやかな傾斜のついた一本道、ラヤ・ジャガカルサ通りは、さまざまな種類の露店や屋台の並ぶ目抜きの通りだ。まだ気温の高いこの時間でさえ、主婦や子供が詰めかけて大いに賑わっている。
 途中、フレッシュジュースの屋台で、親弘がアボカドジュースを買ってくれた。アボカドのスムージーにチョコレートを加えたもので、その字面の奇怪さに初めは激しく遠慮する小銀だったが、口に含むとトロリと濃厚な甘味と香りが舌の上で溶けて、結局夢中になって飲んだ。
 食器、古着、子供だましのプラスチックアクセサリーやブリキのおもちゃ。照りつける強い日差し、威勢のいい客引きの声、脂肪が焼ける甘ったるい匂い。ふたたび目眩と吐き気を覚えながらも、親弘と手を繋いで歩いているというただそれだけで、小銀は誰よりも美しく微笑んでいられるのだった。

 レンテンアグン市場は、インドネシアの伝統的な露天商で形成される公設市場である。近年営業形態が変わり、人々は巨大な倉庫の中でテントや仮設店舗を建てて営業を行なっているが、商品のラインナップはほとんど変わらない。銀の腕輪やネックレス、時計、五千ルピアにも満たない安価な服飾品、壁にびっしりと掛かったサンダル、出どころのわからない土産物……地下は食料品売り場になっているが、店はことさらに小規模なものが多く、しかも密集している。カラフルな熱帯魚、白や茶色や薄緑色の殻の卵、ココア飲料の五つ綴りの小袋、チョコレートケーキ、味噌菓子、スイカやバナナなどの果物、虹色の棒キャンディ、麺類、スナック、老爺が脇目も振らず剥き続けるのはココナッツの硬い皮、それにかぶりつく痩せ細った野良猫、脚がついたままの鶏生肉にはハエが盛んにたかっている。耐え難いほどの異臭、生ものが腐敗し発酵する匂いに、小銀はおぼつかない足取りで歩いた。ふらつくたびに親弘は不安そうな目でこちらを覗き込んでくる。
「大丈夫かよ」
「ああ……」
「外で待っててもいいぜ」
 彼はそう言うが、小銀は一秒でも長く彼と一緒にいたいのだった。気丈に首を振ってみせ、繋いだ手を強く握りなおす。
 キャベツ、アボカド、ピーナッツバターにココナッツミルク、卵、最後に親弘のためのタバコを買う。洒落た黒の小箱に箔押しでDJI SAM SOEと印字されたものだ。それから地上に戻り、出口付近で銀細工の店に立ち寄った。赤いヒジャヴをつけた店番の老婆は、二人の姿を見ると、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
「Kamu datang bersama istrimu? Dia cantik!」
「奥さんきれいですね、ってさ、Dia perempuan yang paling berharga untukku.」
「なんて言ったんだ」
「きれいだろ、俺の一番大事な女だよ、って言ったんだ。せっかくだしなんか買ってやるよ、奥さん」
 恥ずかしい。嬉しい。大好きだ。顔が熱い、身体が熱い。頬や鼻先に熱が集まってきてじくじくとたぎる。にわかに手のひらが汗ばんでくるのが恥ずかしくて、さも商品を選ぶためですとばかりに手を離した。
 ……すぐに冷たい寂しさがじわりと胸に溢れ、腕を組み直した。親弘は気にした様子もなく、彼女の腰を引き寄せて密着してくる。
 ショーケースの中で、波を模して整然と並んだ銀細工たちが繊細に光を放っている。誰とも知れない男の名前が彫られた腕輪、真珠のついたピアス、バレッタ、髪留め、貝殻の飾りをゴテゴテとつけた重たそうなネックレス。スカルノ元大統領の顔を模ったブローチまである。
「どうせパチモンだ、本物のお嬢さんにはものたりねえか」
「これがいい」
 無数の品々の中から小銀が取り上げたのは、蓮の花がリングに咲いた、小ぶりな指輪だった。小銀の細い指に引っかかって輝くその指輪を、親弘が検分でもするみたいに見る。飾りとリングの接着が粗雑で、肝心の蓮の花びらもところどころ歪んでいる。明らかな粗悪品、子供向けのおもちゃにもほど近いものだ。不思議そうな彼に、指で隣を示し、小銀のたくらみを教えた。
「一緒につけたい」
「は」
 同じ意匠で、もっと大きめに作られた一つ。男女が揃いでつけるためのデザイン。
「お前、かわいいやつ……」
 親弘はしわくちゃの十万ルピア札で二つまとめて買い上げた。大きい方を自分でつけてしまうと、小さい方を、恭しく小銀の指にはめてくれた。左手の、薬指だ。あまりの幸福に言葉が出ない。

 手を繋ぎ、揃って同じ指輪をつけた二人を、矢崎夫人はすべて承知といったふうに出迎えた。
「お帰りなさい。親弘さん、買ってきたものをデヴァンにわたしてくださる?」
「はいよ」
「あの……なにか手伝いましょうか」
「いいのですよ、ゆっくりしていて。もうすぐお夕飯ができますからね」
 表で靴を脱ぎ、裸足で室内に入る。白い大理石の床はひやりとして冷たい。
 矢崎家の応接間は広々とした吹き抜けで、幾何学模様のデザインパネルや木で作られた伝統的な船の模型、アジアンラタンのパーテーションなどが趣味よく配置されていた。ガラス張りの本棚は、〈日本占領下のジャワ農村の変容〉、〈戦後日本=インドネシア関係史〉、〈インドネシア破傷風事件の真相〉と、インドネシア社会に関する学術書ばかりだ。窓辺では良い匂いの香がたかれ、レースキルトの敷かれたローテーブルにはみずみずしいフランパジニの枝が飾られている。夫人の細やかな機微と気品の感じられる美しい家だ。小銀は所在なく椰子編みのソファに座り、バティック柄のクッションを胸に抱き締めてみた。
 紐暖簾をかき分け、ダイニングから親弘が戻ってきた。それから、ゴロゴロと喉を鳴らしながら彼の右脚に擦り寄る子猫。白くてふわふわで、触れればずいぶん気持ちが良いだろう彼女は、親弘にすっかり懐いているようだった。
「めずらしー、借りてきた猫状態の小銀」
「ばか、おまえのせいだ」
「百合ちゃん、夕めしできたって。案内すっから」
 子猫を抱いて引き返す親弘の背中を追いかける。
 ダイニングに通され、大テーブルのはじの席に案内された。親弘が右手側に、夫人はその向かい、小銀の目の前には矢崎氏と思われる長身の男性が脚を組んで座っていた。小銀と目が合うと、その人は柔らかく笑ってみせる。青い目や彫りの深い顔立ちは西洋的な印象をもたらすが、笑顔やその他の表情の作り方は東洋人ふうだ。
 キッチンからよく焼けた肌の若者が食器やカトラリーを持って現れ、それぞれの手前に配膳していく。陶器の大皿には、バナナの葉に盛り付けられた混ぜ野菜とピーナッツソース、チャーハンにも似たナシゴレン、スライスされたライム、スパイスの香るスープ、カットフルーツ。それぞれ好きなものを取り分けて食べろということらしい。彼は最後に子猫にも生の小エビを与えると、恭しく礼の姿勢をとり、踵を返してキッチンに戻っていった。
「デヴァンも一緒に食べていけばいいのに」夫人がため息をつく。
 食事は和やかに、つつがなく進む。小銀はあまり食べる気になれず、カットフルーツをちまちまと摘んでばかりいたが、代わりにたくさんの話をして夫妻を喜ばせた。タクシーの中で聞いた、また親弘との買い出しの帰りにも聞いたイスラム教徒たちの祈りへのいざない、アザーンの話は、もっぱら四人の話題の種になった。
ムスリムの人たちは、一日に五回クルアーンと呼ばれる祈りを唱える時間があるんだよ。裏に大きな建物があったでしょ? あれがモスク、みんなあそこに集まって、神さまにお祈りをする。そしてアザーンは、これからクルアーン読むよっていう合図なんだ」
「お前が聞いたのはズフルにアスル、正午と午後の祈りのだな」
 矢崎氏が言うのに、親弘が言葉を加える。
「そうです、親弘さん、もうすっかり覚えましたね」と、夫人。
「おかげさまで。伊達に三ヶ月もいないっすよ」
インドネシア語もとても上手だし……やっぱり海外慣れしていると違うのかしら。夫なんて、レストランで注文できるようになるまで二年もかかったのよ」
「僕の話は余計だよ、百合子」
「海外慣れ?」
 親弘が?
「あら……ご存じないの。親弘さんは小さい頃からいろいろな国に行かれていたと言う話ですよ。一昨年はカンボジアで海洋保護のボランティアをしていたんですって。それから……」
「百合ちゃん」
 親弘が、らしくない表情、苦いものを噛み潰したような顔で夫人の話をさしどめる。その目に、再会の時に見たあの緑色がまたよぎるのを見て、小銀はにわかに湧いて溢れる不安を持て余した。
「親弘」
「なんでもねえよ、大した話じゃない……」
「親弘!」
「なんでもねえって」
 首を横にふり、雑に誤魔化そうとする親弘が、途端に遠いもののように思われて怖かった。
 小銀は、親弘と出会ってから今に至るまで、自分のパーソナリティに関すること、家族や友人のこと、その日あったこと、誰にも話していないような秘密や悩み事、コンプレックス、ほくろや性感帯の位置に至るまで、どんな情報でも包み隠さず開示してきた、つもりだ。嘘をついたことがなければ、欺瞞を口にしたこともない。文字通り身体と心の全てを捧げ、委ねた。親弘を信頼し、愛していたからこそ、そのように振る舞うことができたのだ。
 しかし親弘はそうではないのか? 小銀にすら話せないようなことなのか? それとも、信頼も愛情もないから話せないのか? 矢崎夫妻には話せたのに?
 不安の雲はもやもやと腹の中に広がり、急速に膨れ上がって、入り切らなかった分が喉まで迫り上がってきた。気分が悪い、ひどく眩暈がする、吐きそうだ。……悪阻が来たのだ、このタイミングで。
 小銀は彼の顔を見ていられなくなり、おぼつかない足で席を立った。
「す、みません、ちょっと、トイレに」
 返事を待たずにその場を離れ、よろめきながらダイニングを出る。キッチンからデヴァンが出てきてトイレまで手を引いてくれる。背中でドアを閉め、便器の前で膝をつくと、堪えきれない嘔吐感が込み上げてきた。小銀は生理的な涙を流しながら、胃液だけになるまで腹の中のものを全て吐き出した。
 ぐずぐずと嗚咽する。女々しい。情けない。そうだ、小銀とて、まだ話せていないことがあるではないか。子どもができたのだと、その子を産みたいのだと、彼女はまだ、親弘に明かせずにいる。
 歯を食いしばり、鼻を啜る小銀の背に、誰かの手が優しく置かれた。
「赤ちゃんがいるのね」
 矢崎夫人だ。いたわるような微笑を薄い唇の上に結んで、静かに小銀を見下ろしていた。
「親弘さんとの? ……そう、それは、つらかったですね。彼があんなでは、あなたも簡単には言い出せなかったでしょう」
「あ……」
「大丈夫、無理に話さなくてもいいんですよ。少しは落ち着いた?」
 首肯すると、夫人はふわりと身を屈め、冷たいタオルで汚れた口許を拭ってくれた。ひんやりと水が皮膚に浸透するのが気持ち良い。緊張していた意識の糸がふっと緩む。
「客間を用意してあります。長旅で疲れたでしょう、今日はもうお休みなさい」

 タイル模様の天井の四辺では、薄墨色の闇が集まって凝り固まっている。手持ち無沙汰の小銀は、ベッドに仰向けに寝かされたまま、その様子をぼんやりと眺めた。
 先ほど、精がつくようにと夫人が鶏がゆを持って来てくれたのだが、ひと匙も喉を通らず、結局持ち帰らせてしまう羽目になった。夫人は不平も言わず、ただ小銀の額の汗を拭い、布団を整えて、ゆっくり休んでね、と言ってくれた。やさしく労ってくれた。小銀はもうずいぶん前から母親のない身だが、もし彼女が存命だったらこんなふうだったのかもしれない、と思った。そう歳の変わらない妙齢の女性に対して抱く印象としてはちぐはぐなものかもしれないが。
 花の刺繍が施された、ふかふかの枕に顔を埋める。アロマオイルのよい香りがする。夫人が着せてくれた絹のパジャマが心地よい。だが、身体はすっかり疲弊し、一刻も早い入眠を望んでいるというのに、頭のほうが妙に冴えてうまく眠れないのだった。緩慢に寝返りを打ちながら、小銀は、親弘について考えた。
 親弘……愛しいひと。小銀を、一番大事な女だとそう言って、左手の薬指に指輪をはめてくれた彼。今だって、睡蓮の指輪は小銀の指にはまったままだ。手で触って確認する。嘘ではない。でも、あの時彼は不安がる小銀から目を逸らしたのだ。そのことを思うと、小銀の胸は暗愁で押しつぶされそうになる。
 何もしないでいると、思考は悪い方へと転がり落ちていくばかりである。なんとはなしに右手をパジャマの下へ滑り込ませてみる。ショーツはしっとりと濡れはじめていた。おかしなことだ、いやな想像ばかりしながら、小銀は感じていたのだった。淫乱……低く、熱っぽい親弘の声を幻聴する。
 親弘は、いつもどんなふうに抱いてくれただろうか。
 そのとき、さまざまな情報に押し殺されてすっかりないものになっていたはずの性欲が、堰を切って溢れ、小銀の指先までを満たした。手のひらに汗が滲む。下肢に甘い痺れが走る。よそのベッドの上でいけないいけないと思いながらも、布の上から勃起した陰核の形をたしかめて、あとはかたなしだった。
 シーツの中ではしたなく足を開き、ショーツに手を突っ込んで弄る。親指と中指を器用に使って包皮を剥き、敏感な先端を露出させて、そこにつま先で軽く触れる。堪えるまもなく甘い吐息がこぼれた。夢中になって扱く。つまむ。揺すって、捻って、爪でぎゅっと挟む。腰を浮かせ、尻を揺らして身悶える。
 唇を噛み締め、声を立てないよう、ひめやかに指を動かす。セックスのとき、やさしく理性的な親弘はしばしば獲物を狙う獣のようになって、熱烈に、あるいは背筋がよだつほど冷酷に、彼女を追い詰めるのだった。湿った声が耳のそばによみがえる、ぜってえ離さねえ、小銀、俺のものだ、俺のだ……他の誰にだってやるもんか……彼に問いたい、それはほんとう? 心からそう思って言ったのか? いま、ただ愛情を甘く問いただすためだけに、小銀は親弘に抱かれたかった。
「は、は、は、っうあ」
 もう堪えきれない、右手で陰核を愛する一方で、左手指を三本まとめて膣口にねじ込んだ。好いところに触れられるよう姿勢を変えながら、ゆっくりと指でかき回す。手前の方で腹側に向けて折り曲げると、指輪の突っかかりがやわらかい肉にありありと食い込んで、彼女は息をのんだ。
「親弘!」
 親弘……
 脳の神経がほつれて、全身の血が沸騰して……忘我の果てで幸福をほしいままに味わう……かと思えば、次の瞬間にはまた冷たい床の上でぼんやりと天井を眺めていた。全身が弛緩し、頭がくらくらと揺れていた。
 一人で快楽を極め、余計に際立つ親弘の不在である。ただ彼の子を孕んだ子宮が物欲しさのあまりに夜泣きしている。ばかばかしい。濡れた指をパジャマの裾で雑に拭い、布団に潜り込んで眠ろうとしたそのとき、背後でノブが回る音がした。続いて、人の気配。
「お前。呼んだろ、俺のこと」
「き」心臓が凍りつく。「聞いてたのか」
「いや」
 小銀はおもむろに身体の向きを変え、顔を半分シーツに埋めた状態で、上目遣いになってその人を見た。開いたドアの隙間から漏れたオレンジ色の光が、暗がりの中に彼の鼻梁や頬や唇をほのかに浮かび上がらせていた。
 豆だらけの手が音もなく伸びてきて、小銀の額に触れた。「ちょっと熱あんのか……?」硬い指先の皮膚が前髪を撫で上げ、壊れ物にさわるみたいに眉や瞼にすべる。頬を包まれる。小銀はその手に自らの手を添え、すり寄って甘えた。指輪のつるつるとした表面が冷たい。
「……俺、昔っから日本じゃないところに行くのが好きだったんだよ。親は必要な分だけ金払ってくれたしさ、なんも考えず、一人でいろんなところに行った。シリア、アラスカ、グリーンランド……はダチのいる寄宿学校に行ったんだがお偉いさんの銅像に登ったら一日で退学になった……キューバ、インド、タイ、フィリピン……からマレーシア、百合ちゃんたちに出会ったのはここだな、そんでカンボジアだろ? 去年のことだ、ダイビングの資格とって、そのまま現地の海洋保護団体に参加したんだ。ロンサムレム島っつうとこの海に潜ってな、ツーリストどもが置いてったゴミをひたすら取る、でも正直ボランテイアなんておまけだったよ、そこはな、めちゃくちゃ珊瑚が綺麗なんだ、絵の具で塗りたくったみてえな色の魚がウヨウヨ泳いでてな、デカい貝なんかもいてな、息するとブワって泡が立って、俺はこの世で一番幸せな男なんじゃないかって、そう思ったんだ……」
 彼の声は滑らかで、淀みなかった。海の果てしなさが小銀の心にも押し寄せてきた。潮騒の音に、少しずつ意識がほどけてゆく。
「お前のこと、好きなんだ、ほんとだぜ。お前の胸——」パジャマのボタンをいくつか外されて、彼は、そこにやわらかく頬を寄せた。「——小さくてやわい胸、かたい肋骨の上に耳くっつけてると、心臓の音が沁みてきて、俺は思い出す。世界で一番幸せだって思ったあん時のこと。な、恥ずくてよ、そんなこと言えねえだろ、夕めしの席でさ。ごめんな。お前がびっくりして、不安がってたことわかったよ、でも……いや、言い訳なんていいよな。ダメな彼氏だな、俺……好きなんだよ、カッコつけてえんだよ、恥ずくて言えないこといっぱいあんだよ……小銀? 寝ちまったのか、お前……」

 

   Maghrib ——マグリブ、遣らずの雨

「小銀のばか! もう、心配したのよ!」
 まりながそう言うのも全く仕方のない話だった。昨日の朝にやりとりをしてから丸一日、電話はおろか、メッセージの一つも寄越さなかったのだから。
 顔を見せろとせがむ彼女のためにビデオ通話モードに切り替える。起き抜けの小銀はパジャマ姿に寝癖をつけたままのだらしない姿だが、画面に映るまりなはすっかり化粧を済ませて、春らしい桃色のブラウスを身につけている。黒髪を高い位置でまとめているのが清々しい。小さな耳たぶには、桜の形をした石のピアスが揺れていた。
「電話かけたしラインもしたのに……本当に気づかなかっただけなの? 拉致されていたとかではなくて?」
「本当さ、まりなは心配性だな。私は元気だ。親弘にも会えたし」
「え? 親弘?」
「おう、まりな。久しぶり」
 小銀のそば、ベッドに腰掛けていた親弘が画面に現れ、まりなが悲鳴をあげた。
「親弘、あなた生きてたのね、というかどうして小銀のベッドにいるの! ま、まさか、あなた、彼女を……」
「きゃんきゃんうるせーよ、学級委員かっつうの。俺と小銀がしっぽり良い仲なのは周知の事実だろ? な、小銀、俺たち昨晩はお楽しみだったよな?」
「不潔! 最低! 今すぐ彼女から離れて!」
「落ち着け、まりな。昨晩は本当に何もなかった」
「昨晩はって何よ、これが落ち着いていられますか!」
 顔全体を真っ赤にして憤るまりなはかわいい。おかしくなって、笑った。

 まりなとの通話を終えるころに、ズフルのためのアザーンが流れてきて、すでに正午を過ぎていることを知った。小銀の横で怠惰に転がりながら親弘が、昼メシは外で食わないか、と言う。
「知り合いが作るミーがうまいんだ。お前に食わせてやりたくてさ。百合ちゃんにはもう言ってあるから」
 ミーとは、インドネシアにおける麺類のことだ。炒めて作る焼きそばのようなミーゴレンや、鶏だしで味を作るミーアヤムなどが代表的だ。彼がそう説明するのにつられて腹がなり、小銀は頬をほてらせて恥じ入った。
 ベッドを出る。百合子が整えた客間は、窓から差しそめた昼の光に洗われて清らかに静まっていた。薄手のレースカーテンが音もなく翻る。イスラムの神話を模ったカーペットの絵柄に光が散る。窓辺の名も知れぬ花は、大粒の露をいただいてまばゆく煌めいている。親弘が、部屋を出しなにこちらを顧みたので、小銀はゆっくりと瞬きすることで、このさわやかな目覚めにふさわしい気つけを要求した。戻ってきた彼にすぐさま腰を抱かれ、首の後ろを大きな掌で固定されて……二艘の舟を隣り合わせたような唇が、小銀の繊細な感覚器官を優しく愛撫した。
 肉厚な舌が歯の合わせからぬるりと入ってきて、上顎、彼の手ですっかり敏感になった粘膜に触れられる。ねっとりと、容赦なく、別の唾液腺で作られた体液の味を教え込まれる。小さな器官から快楽がはじけ、全身に広がり、脳のシナプスが麻痺して、ああ、彼の、凪いだ海のようにおだやかな二つの目が、明るいうちから痴態を晒す小銀を見ている。とろけて焦点の合わない小銀の目から、歓びに打ち震える唇、舌、朝の新雪のような肌、余すことなく、見ている。彼の腕の中で、小銀はうっとりと力を抜いた。
 腰が立たなくなってしまったので、親弘に着替えさせてもらうことにした。昨日小銀が放り出したスーツケースは部屋の隅に立てて置かれていて、その中から、彼は柄もののTシャツとデニムのホットパンツを選んだ。パジャマを脱がされ、まるでセックスをする時のように恭しく、ゆっくりと脱がされて……かと思えば子供にするみたいな雑な手つきでシャツを着せ、腹の前でしっかりとベルトを締めた。パンツを履くときなど目を逸らしさえした。
「その……さすがによ、百合ちゃんちだし。あとで。あとでな……お前を抱きてえ」
 小銀の赤毛を首の後ろで束ねながら、熱情をたっぷりとたたえた瞳で、彼はそう言った。夢見心地で頷く。
 親弘が部屋を出ていったあと、ふと、スマホにメッセージ通知がきていることに気がついた。まりなだ。
〈さっきはごめんなさい。動揺してしまって、親弘にはひどいこと言っちゃった〉
 涙を流す人の顔の絵文字に、しおらしく項垂れるまりなの姿が想像される。
〈気にしてない。親弘も元気そうでよかったって笑ってた〉
〈ほんとに?〉
 小銀がメッセージを送り返すと、すぐに既読がつき、返事が返ってきた。
〈でもそうよね、考えてみれば、あなたたちもうずいぶん前からそういう関係だったんだものね。赤ちゃんもいるし〉
 息を呑む。寝ぼけついでにすっかり忘れていた。小銀の腹にはいま、親弘の子がいるのだ。

 二人連れ立って玄関を出ると、矢崎夫人が花に水をやっているところだった。白日の中で、ほっそりとした身体が絹のキャミソールドレスに透けていた。小銀が朝の挨拶をすると、彼女は振り返り、莞爾として微笑んだ。
「まあ、小銀さん。おはようございます。昨日は眠れました?」
「おかげさまで。あの、少し出かけてきます」
「気をつけて。……ああ、デヴァンがいまお昼休憩中なの、もし会ったらよろしくお願いしますね」
 親弘のいうミーの店は、二人が再会したモスクの近くにあった。礼拝中で静まり返る路地裏、その一角に建つ小さなモスグリーンの壁の建物がそれだ。といっても、店というよりはごく普通の民家の風体で、その段差や柵、道路などに客が座って、出される料理を食べるといったありさまだった。
 小銀が段差に座り、親弘はその下に腰を下ろして小銀の脚を背もたれにした。恰幅の良い女主人がタバコを吸いながら出てきて、親弘からの注文を受けた。彼女が去ると、ちょうど百日紅の木の影になっているところに、洗いざらされたシャツを着た、いかにも現地人らしい趣の男が座っているのが見えた。デヴァンだ。
「Hei」
 こちらに気づいて、彼はミーを啜りながら実直に頭を垂れた。昼食中だったらしい。
「Kemarilah」
 親弘が何か呼びかけ、デヴァンはすこしのためらいののち、歩いてきて小銀の隣に腰を下ろした。近くでよく見ると、彼は美しい青年だった。凹凸のあるエキゾチックな顔に豊かな黒髪、褐色の肌、くっきりとした二重まぶた。瞳の青さは、行きの飛行機で見たジャカルタ湾の青い海を思わせる。しかも、
「You may speak in English to me(英語で話してくださっても構いませんよ)」
 英語も話せるのだ。発音も非常にはっきりとしていて聞き取りやすく、流暢だった。
『デヴァン、昨日はどうも』
『こんにちは、チカヒロさん、コギンさん。こんなところでお会いするとは奇遇ですね』
『お前が勧めてくれたとこ、こいつにも紹介したくてさ』
『それは光栄です』
 笑うと目尻にくしゃっとした笑いじわが寄る。
『お前、英語も話せたんだな。なんで言ってくんなかったんだよ、一生懸命インドネシア語使っちまっただろ』
『まだ勉強中なので』
『それにしちゃうますぎねえ? 矢崎さんに教えてもらってんだろ?』
『いいえ、大学で。奥さまが通わせてくださっているんです』
『百合ちゃんが?』
 デヴァンときやすく話していたはずの親弘が、嘘だろお、と背を逸らして仰天した。知らなかったらしい。小銀も、目の前の彼と、それから先ほどやさしい表情で使用人の名を口にした夫人の顔を交互に顧み、両者の関係をうまく接続できずに首を傾げた。
 木々の間から、モスクの向こうから風がさやさやと吹きこみ、三人の髪を巻き上げる。湿った風だ。脚をむき出しにした状態の小銀にはすこし肌寒いくらいだ。
 困り顔のデヴァンの鼻先にちらちらと木漏れ日が降ってくる。
『奥さまは、……十年前、ジャカルタ郊外の、売春宿の集まる赤線地帯に、研究のためにおいでになりました。たったお一人で。そのとき奥さまはまだ学士課程の女学生で、私は十にも満たない子どもでした』
 例の女主人が大きな盆を持って戻ってきて、小銀と親弘に麺や牛肉の入ったボウルと肉団子スープを寄越した。麺を手でスープにつけて食べるのだ。
『突然尋ねてきた奥さまを女たちはずいぶん持て余しました。夜は稼ぎどきですから、金にならない女の子ひとりに構っている暇はなかったのです。そこで、当時そこで下働きをしていた私が、彼女を連れて店の営業形態や警察との内通についてお話しすることになりました。
 奥さまは私という存在にすっかり驚かれて、こんな仕事やめてしまいなさい、子どもがやることではありませんと、そう諭されました。しかし私にはここ以外に行くところがなかった。幼い売春婦が、行きずりの観光客とつくった子どもです、もちろん父の行方はもう分かりませんし、母は病に伏しわずかばかりの私の稼ぎだけが頼りでした。その日、彼女は十万ルピア札を礼として私に含め、朝方ホテルに帰られました。私はそこに残りました。
 しかし次の日、奥さまは私のところに戻ってこられたのです。そして、ご自分のところに来ないか、とおっしゃった。御身は卒業したら結婚してインドネシアに住むのだ、そのとき、身の回りの世話をする家政夫がほしいと。私の母にも補助を出すと。私はすぐに返事をすることができませんでした。でも……いま、こうして彼女のもとで働かせていただいている』
 デヴァンは言葉を切って、椀のスープを飲んだ。その間も、二人は言葉もなく、ただ彼の一挙手一投足に意識を注いでいた。
『私が働き始めてから一年もしないうちに、母が亡くなり、私は名実ともにみなしごになりました。奥さまも旦那さまも、私に本当の子どものように接してくださり、やがて学校にも通わせていただけるようになりました。そのとき、養子にならないかと、そうご提案くださったのは、確か旦那さまだったと思います。
 私はお断りしました。こんなによくしていただいているのに、これ以上はとても望めない。それに、私は、インドネシア人であり、ムスリムである自分に誇りを持っていました。私の生まれた土地はインドネシア、私が死ぬ土地もインドネシア、信じる神はアッラー、従うべき預言者ムハンマドなのです。恐れながら申し上げると、お二人は静かにそれを受け入れてくださいました。でも、せめて大学までは行くようにと、そうおっしゃるので、今はインドネシア大学の学生として勉強させていただいております』
『そうか』
 親弘が、鼻の下を擦りながら、屈託なく笑った。
『お前、好きなんだな。百合ちゃんのこと』
『とんでもないことです。私にはとてももったいない女性ですし、第一、旦那さまがおいでになりますから』
 即答しながらも、デヴァンの表情は愛おしいその人への哀傷に翳りを帯びている。今からでも、彼女の手を引いて遠くへ逃げられたなら——
『このくそばか、へたれ野郎、そんなだからいつまで経っても彼女できねんだよ。男なら奪うか潔く諦めるかしろよ。おい小銀、早く食っちまおうぜ、こいつに話させてたらいつまで経っても食い終わらねえ』
『失礼ですね』
『お前もとっとと食えよ、愛しの奥さまが呼んでたぜ』
 親弘の指がデヴァンの腕から肉団子をつまみ、さらに言い募ろうとする口に容赦なくつっこんだ。
 小銀も肉団子をつまんで口に入れ、麺をすする。トマトベースのスープに牛肉の旨味がよく染み込んでいておいしい。パクチーにも似た小さな葉っぱは、……親弘の椀にこっそり移しておいた。

「Siang, Tikahiro!」
「Tikahiro, Sudah selesai, ayo bermain!」
「Kamu perempuan yang kemarin, pacarnya Tikahiro!」
「Cium dia, cium!」
 正午の礼拝が終わったようだ。モスクの表扉が開き、タギーヤを被った男の子やヒジャヴを被った女の子たちがわらわらと群になって出てきた。中学生くらいの背丈の子から五歳にも満たない様子の幼児までいるが、みな親弘を見つけると、現地の言葉で口々に何か言いながら纏わりついてくる。ティカヒロ、ティカヒロと、小銀にはそれしか聞き取れないが。
 親弘は最後の麺を啜り切ってから、にやにやしながら小銀のそばに寄ってきた。かと思えば、いきなり唇を奪われた。スープの塩っけの残る舌が下唇を舐めてくる。子どもたちの間からわっと歓声が上がる。
「俺はChikahiroだっつの」
 小銀の肩を抱きこんで、勝ち誇った笑みで胸を張る親弘である。
 その日はこの地域一帯で定められた地域奉仕の日で、礼拝を終えた子どもたちと女性たち、それから仕事を持たない男性たちがおのおの周辺の清掃をするのだという。小銀と、それから親弘も、子どもたちの集団を引き連れて、蛍光緑の水が溜まった側溝の掃除に取り掛かった。昨日は横目で見ただけで気が付かなかったが、よく見ると粉ジュースの小袋やプラスチックストロー、落ち葉などがヘドロと絡まってひどいありさまだった。一週間前にも掃除したんだけどな、後ろ髪を掻きながら親弘がぼやいた。
 風はいよいよ冷たくなり、湿り気も強くなってきた。どんよりとした鼠色の雨雲がにわかに集まってくる様子はスコールを予感させる。だが、子どもらはみな泥まみれになりながら楽しそうに働き、それは親弘も同様だった。トングでゴミを大量に拾い、透明の袋にどんどん詰め込んでいく。
「 Lihat ular-ular mati itu!」
「うわ! ばっかお前、Marah aku!」
 ヘドロの中から取り上げたヘビの死骸を、親弘の目の前でぶらぶらさせて笑う女の子。怒ったふりをしながら自分もしっかり楽しんでいるはずの親弘。その様子を無心で眺めながら、ふと、小銀は彼にこんなことを尋ねていた。
「子ども、すきなのか」
 親弘がこちらを振り向く。彼のTシャツが風に吹かれて捲れ上がり、精悍に絞られた臍下、陽に焼けて引き締まった腹筋をのぞかせる。
 そこでようやく、しまった、と思った。これでは彼との子どもが欲しいと言っているようなものではないか。それにあんな、あからさまに男性性を見せつけられてしまっては、小銀も妙な気分になってしまう。慌てて的外れな言葉を継ぎ足し、誤魔化そうとする小銀を不思議そうに見ながら、おう、と親弘。
「子どもは嘘つかないし、無邪気だからな。つまんねえ大人よりか万倍好きだぜ」
「そ、そうか」
「聞いてねえだろお前。……あんだよ、顔赤くして」
「ちが……ちょっ、何をするんだ!」
 いきなり視界が急に高くなる。抱き上げられたのだ、お姫様抱っこで、親弘に。抗議しようと彼の顔を見て、その頬が熱っぽく上気しているのに気がついた。男らしくつりあがった眉をぎゅっと寄せ、唇を固く結んで、小銀だけを熱心に見つめている。人差し指が伸びてきて、小銀の唇をいやに優しくなぞった。ついで、キス。先ほどのお遊びのものとは違う、雄が番の雌を我が物にし支配下に置くためのキス。
 下唇のやわらかい部分を甘噛みされて、開いた隙間からすかさず恋に熱された舌がねじ込まれた。歯茎の裏をくすぐり、舌のざらつきを確かめ、かと思えば、息もできないほど激しくをねぶられる。舌だけで口内粘膜のすべて、小銀の消化器官のすべてを確かめようとするような執拗な動き。
「うるせえ、さっきからちょくちょく煽ってきやがって。もう我慢ならねえ」
 そう言うなり、親弘は小銀を抱いたまま駆け出した。子どもたちが囃したてる声を背中で聞きながら路地を抜け、モスクの敷地に入り、裏庭の庇が迫り出した部分に入る。草の上に小銀を横たえる。モスクの裏といえば、ミフラーブが設置される方角、イスラムにおいて聖地とされるメッカの方角である。
 逡巡のまもなく、親弘が覆いかぶさってくる。それだけで骨の髄まで溶けてしまいそうな、視線、それから熱い手のひら。彼の腰がホットパンツの股に押しつけられて、小銀は、……我に帰った。打った鉄のように硬い。熱い。脈打っている。小銀を、抱こうとしている。
「……だめだ!」
 両腕をつっぱり、必死になって彼の肩を押しとどめた。
 そのとき、親弘の両目に……不安と恐怖がよぎったことを、小銀は見逃さなかった。が、後には引けない。
「な、んでだよ。あの日か? でもお前、朝は良いって言ってくれたよな」
「なんでもない。……本当になんでもないんだ。でも、今日はしたくない」
「無理やりしようってんじゃない、ただ訳を知りたいだけだ。な、教えてくれよ、俺がなんか悪いことしたのか」
「ちがう」
「じゃあなんだ? まさかお前、もう俺のこと」
「違う!」
「小銀!」
「違うんだ! そんな、のじゃなくて、ただ……」
「なんだよ!」
「おまえの子どもが!」言った。「……いるから、だめだ」
「どこに」
「ここに……」
 小銀の手のひらが腹を覆うのを見て、親弘は、
 親弘は。

 ——スコールがやってきて、町を、モスクを、遠い子どもたちの歓声を、静かに覆う。屋根から流れた水は庇から注がれ、親弘の髪や背を濡らし、小銀の頬に滴り落ちてくる。
 小銀は緘黙する。親弘も、おそろしいほどに寡黙である。ただ、なにか大きな痛み、蒼惶に顔を歪めたままでいる。砂を噛むような時間がゆく。心にしんしんと霜が降りてくる。幸福は糠星と化し、大切に胸の中で育てていた夢もまた、ひそと死にゆくものとなる。歓迎されない命にいったいどれほどの価値があるものか。
 ふるえる唇で、そうか、とだけ、彼が言った。
「……もういい」
 どうしたら良いのかわからない。だが、これ以上親弘のそばにいたくないことは確かだ。小銀は立ち上がった。無数の雨粒の中に飛び出した。
「待てよ、お前、泣いて——」
「くるな!」
 腰を上げかけた彼は、そのままの姿勢で、取り残された子供の顔をして、小銀を見送った。もう見ていられなった。
 振り返らずに走った。

 駆ける、駆ける、駆ける。全身を覆う雨水に混ざって、涙が後ろへこぼれゆく。インドネシアの路地はどこまでも続く、のぼり、降り、うねって行き止まり、かと思えば家と家の隙間にまた細い路地が現れる。雨のカーテンを掻き分けるように、押し寄せる雨雲から逃れようとするように、小銀はどこまでも走り続ける。
 まりなはすぐに応答してくれた。聡い彼女は電話口での小銀の嗚咽にすぐ異変を察知したらしい、一言一言を区切って言葉を口にしながら、落ち着くようにと促す。しかし小銀は落ち着いてなどいられないのだった。身体が震えてやまないのだ。過呼吸が止まらない、胸の奥が締め付けられて苦しくて、うまく言葉を発することができない。自分で自分の肩を抱き、どこともしれない植え込みの中にうずくまる。
「まりな」
「うん」
「まりな! まりな、今すぐここにきて抱きしめてくれ、でないと私は……」
「少し落ち着いて。親弘は? 一緒にいたんじゃないの?」
「いない、ひとりだ。ひとりきりだ。もうどこに行ったかも知れない」
 親弘との決裂を口にするたびに、胸に灰色のもやが立ち込めて、殊更におそろしく、息苦しくなる。膝に顔を埋める。くぐもった声でまりなに訴える。
「親弘に知られた、子どもがいるってこと、そうしたら……あいつは何も言わなかった、無表情で立ち尽くして、私はその顔が見たくなくて……どうしよう! まりな、親弘に嫌われたら私、もうどう生きていけばいいのかわからない!」
 彼だけが羅針盤だった。彼のやさしい言葉が、温かい手のひらが、抱きしめてくれる腕が、小銀の皮膚や骨や内臓に染み付いて、細胞のひとつ一つをすげ替えてきた。それらを一息に引き抜かれて、小銀はようやく、すかすかになってしまった自分を直視したのだ。依存性が強いからでしょ、それと同じで……かつてのまりなの言葉がよみがえる。
 煙草は肺機能を劣化させる。薬物は内臓や精神を破壊する。親弘は……冷酷な世間を渡り歩き、何からもその弱点を隠し通すための鋭い爪、氷の膜で覆った心を圧倒し、再起不能になるまで叩き潰した。いま、小銀はその清算にすっかり追い立てられていた。
「小銀……」
 ためらいを帯びたまりなの吐息がすぐそこで弾け、彼女に抱きしめられているような気分になって小銀は束の間の安息を得る。
「……もう、いいよ。帰ってきたら?」
「え」
「そうよ、日本に帰っておいでよ。それで赤ちゃんが生まれるまで私の家にいたらいいわ。わたし、きっとうまくやる。あなたのことも、赤ちゃんのことも大事にする」
「まりな……?」
「好き」
 目の前を落ちてゆく雨粒がとてもゆっくりとしたものに思えて、小銀は目を見張った。
 だがそれはほんの一瞬のことだった。瞬き一つののち、雨はふたたび蕭条として小銀を取り囲んでいた。桃色の小ぶりな花びらから溢れた水滴が、小銀の頬をやわらかく打った。
「あなたのことが好きなの」
 宝物を差し出すような声で、まりなは繰り返す。
「覚えてるかな。親弘が熱を出して学校を休んだとき、プリントを届けに行ったでしょ? クラス委員のわたしと、親弘の家に行き慣れていたあなた、一緒になったのはその程度の理由からだったわ。そのとき、わたしたちが来てるのに、すごい寝相で寝てるあの人を見たあなたが……いいえ、理由なんか関係ないわよね。いつのまにか、わたし、あなたに恋をしてました」
 覚えているとも。うららかな春の日、季節外れの風邪をこじらせて、親弘は一週間も学校を休んだ。担任ははじめ親弘と親しい小銀にプリントを届けるよう言いつけたが、コンプライアンスがどうとかで、すぐにまりながお目付役に指名された。
 記憶のもやが小銀を覆い、雨粒は、薄く壊れやすそうな桜吹雪に変わる。二人はほとんど会話もなく校門を出て、小銀の記憶を頼りに親弘の家を訪れ、インターホンを鳴らしても応答がなかったので、開けっぱなしの扉から中に入った。両親はなく、ただものすごく捻くれた寝相の親弘が、大量のペットボトルごみの中で寝こけていた。あまりにおかしくて二人で笑った。
 帰り道、そのことで二人は少しだけ盛り上がった。……吉野もそんなふうに笑うんだな、ちょっと意外だ……思えば、それがまりなと話した最初の時間だった。
「親弘のことだって大事よ。クラスメイトだもの。でもね、それ以上に、わたしの好きなあなたを……だめにしようとするあの人のこと、許せないの……身勝手だって笑う?」
「いや」
 小銀が首を振ると、長い髪から細かく水飛沫が散り、虹が立った。
「ありがとう」
 電話口でまりなが息を呑む。
「気持ちには応えられない。私は私から親弘を拭いきれない。親弘がいなければ、私も私ではないんだ。でも、まりなが私を好きでいてくれてよかった」
「小銀」
「私も。まりなのこと、大好きだから。親弘がいちばんで、おまえは二番めだ。な……身勝手同士、お似合いだろ」
「……ばかね。なに本気にしてるの。冗談に決まってるでしょ……」
 まりなの泣き笑いが瞼裏の海に浮かび上がる。小銀は目を閉じて耳を澄ます、彼女の息遣い、亡羊の嘆、押し殺された小さな嗚咽まで、聞き漏らすまいとして耳を澄ます。

 ——わりいけど、夢で終わらせる気はさらさらねえよ
 現実の喧噪から遠く、意識の奥底、感じやすく繊細な部分で、彼の声を聞く。
 ——聞かせろ。お前はどうしたい?

 小銀の母は、彼女が二歳になるころにはすでに亡き人だったはずだが、夢の中では、五歳の小銀が高熱を出して母の介抱を受けていた。蝋燭のかすかな灯りの中で、ポーランド産の上等な羽毛布団に埋もれ、すぐぬるくなるタオルをひっきりなしにかえてもらいながら、熱っぽさに喘いだ。母の指先が頬に当たるのにすら、冷たい、と悲鳴をあげる。心細さのあまり涙が滲んでくる。
「よし、よし、泣かないことよ。あなたはあたしとあのひとの娘なのですからね、心を強く持って、ほら、タオルが落ちてしまうわ……」
 母は子どもに向ける甘やかな声で小銀をあやした。しかし、発熱に伴う鼻水や頭痛、耳鳴りが、幼い彼女を徹底的にいじめ抜くのだった。
 と、そこで、扉の開くがちゃりという音が、母と娘の間の静謐を破った。小銀はそちらに顔を向けて、一体誰が入ってきたものかと目を凝らしたが、高熱のために視界がかすみ、それはままならなかった。黒く大きな影が、のっぺりと、スツールに腰掛ける母の上に落ちるのがわかる。スパイスの効いた香水の匂いが、快く鼻腔に広がった。
「あなた」
「様子はどうだ」
「ううん……ずっと熱が下がらないの。きっとあたしに似たのね……いやだわ、こんな、こんなで失うことになったら」
 母は神経の細い人だった、らしい。驚きのあまり文字通り卒倒したり、雨が降るとふさぎ込んで一日中ベッドに潜ったりしているような人、というのは、誰の談だったろう。
 影は小銀の上にも静かに降り掛かり、小銀の汗ばむ額に触れた。その手があまりにもやさしいものだったので、小銀は驚きながらも……それが当然であるとも感じていて、そうした違和感をみな腹の中に下した上で、こう口にしていた。
「お父さん」
 舌ったらずで、ほとんど掠れ切った呼びかけだったが、影はきちんと反応を返した。手のひらを滑らせ、頬の輪郭を確かめて、眉間の皺をほぐすようにくすぐった。それから、
「小銀」
「おと、……さ……」
「大丈夫だ、おまえはおれのただ一人の子なのだから。さ、安心して休みなさい」
 その声があまりにも、やすらぎに満ちた響きだったので……小銀はみるみるうちに深みへと沈んでゆくのだった、深く、深く、もっと熱く激る領域へ、意識は発熱のあまり朧になり、あるいは知覚した覚えのない親の愛情というものに揺さぶられ、やがて個の輪郭すら曖昧になってゆく。
「小銀!」
 ——名を呼ばれて、彼女の意識は再び浮上した。
 身体は激しい熱に覆われたままだったが、少し様子が違った。彼女は生まれたままの姿で、脚を左右に開き恥部を晒した状態で、くしゃくしゃのシーツの上に横たわっていた。膣口はもう十分すぎるほどに潤み、小指の先ほどの陰核もまるまると勃起して、小さな容積の中にはち切れんばかりの欲望を溜め込んでいた。それをおもちゃにするように弄るのは親弘の人差し指だ。伸びた爪の先がむき出しになった芯の部分にチョンと触れ、それだけで小銀は大袈裟なほど背中を反らして歓喜した。
「親弘、はやく……」
「かわいー、小銀、エロい顔してんぜ」
 腰を振り、身を捩って解放を訴える小銀を、愉悦に唇を歪めて親弘が見下す。欠けて段のついた爪に容赦無くつつかれ続けて、小銀はさらに激しく泣き叫んだ。
「な、オマンコって言え。言ったらいれてやる」
 親弘が、降って沸いた思いつきを考えなしに呟いた。
「は……」
「つか言うまでいれねえ。一生いれねえから」
「ば、ばかを言うな、おまえ……」
「俺は本気だぜ」
 悔しくて、恥ずかしくて、歯噛みしながら目を逸らす小銀である。卑劣で、残酷で、愛しい親弘。意地の悪い笑い方が誰よりも美しい親弘。
「誰が言うか」
「へえ? お前、我慢できんのか」
「おまえ、親弘……」
 睨みつけてやればやるほど、勝ち誇ったように彼は口角を吊り上げるのだった。
「なんとでも言いやがれ、俺は今最高に気分がいいんだ」
 言いながら小銀の腰をつかみ、むき出しになった陰茎を擦り付けてくる。濡れた入口を迫り出した部分や浮き上がった血管などが自由気ままに刺激し、焦れ切った肉体が悲鳴をあげる。小銀は唇をかみしめて堪えた。誇りまで捨てさせられてはたまらない……しかし、親弘は余裕ぶって鼻歌など歌い始める始末だ。この遅漏、鬼畜野郎、罵倒は気の抜けた空気になって鼻から抜けてゆくばかりである。
「お前よ、強情張るなよ。たった一言言うだけだろ? ふんじばって無理矢理言わせてもいいんだぜ」
「う……いやだっ」
「このくそばか、おりゃっ」
「い、っひ!」
 ことさらに強く押し付けられて、小銀は堪えきれず悲鳴を上げた。太い。硬い。脈打っている。ああ、だめだ、親弘に侵食される、窒息させられる。熱い。熱い。熱い。
「おまんこ! いれ、いれろ、ちかひろっ、は、やく……おまんこにいれて!」
 ついに叫んだ。そうしたら、親弘はしてやったりとばかりに不敵に笑い、一息に奥までを踏破して、子宮口を半ば押し上げるような形で静止した。開発された尿道から何かがだらしなく漏れる。脳でシナプスが引きちぎられていくような感じがする。誇りなんてもう、あってないようなものだ。
 彼はゆるく腰を動かし、その度に先が食い込んで小銀を狂わせた。太い指が震える掌に絡み、しっかと握りしめた。
「な、俺のこと好きか。好きだろ? 言って……、言え、言えっ」
「……っ、す、すき、ちかひろ……」
「俺のだ。俺の……俺の小銀……!」
 熱くて熱くて、触れた指先から蕩けあいそうだ。

 

   Isha ——イシャーウ、星飛ぶ

 夢から覚めて、今生まれたばかりの気分だ。
 瞼の裏で、薔薇の花を透かして見るような朝の光を感じ取り、緩慢に覚醒に漕ぎ着けた。清潔なパジャマに着替えて、小銀は矢崎邸客間のベッドの上にいた。かすかなみじろぎにも、枕からアロマの香りがたつ。雨上がりの湿気を帯びた風が半開きの窓から入ってきて、額の上にぱらぱらと広がる前髪を巻き上げる。
 ベッドのそばに腰掛けていた矢崎夫人は、小銀の目覚めを確かめるや否や勢いよく立ち上がって、何か言葉を詰まらせ……その繊細な掌で、小銀の頬を打った。
「あなた自身はおろか、お腹の赤ちゃんまで危険に晒す軽率な行動でした。反省なさい」
 おぼろな意識では何をされたかということについてすぐに知覚することができず、小銀はただ呆然とするばかりだ。遅れて、打たれた場所から焼け付くような痛みが広がり、咄嗟に頬をおさまえた。夫人を見上げる。透き通る虹彩を涙の膜が覆い、張力を離れたぶんが下瞼にぽろりとこぼれ落ちる。泣いていた。
「昨日の雨の中で、あなた、膝を抱えて気を失っていたそうですよ。高熱でした。肺炎を起こしていたんです。肺炎は、胎児を流産に追い込む可能性もある非常に危険な病です。あるまじきことです。自分が、親弘さんの恋人である前に、母親なのだという自覚をお持ちなさい」
 彼女の涙に意識を洗われるようにして、昨日のことを思い出す。親弘に子どものことを話した。まりなの愛の告白を聞いた。親弘の冷たい目。通話特有のノイズを帯びたまりなの声。雨の音。愁傷。強い眠気。
「親弘は……!」
 慌てて飛び起きようとしたが、頭に強く鈍い痛みが走り、甲斐なく身を折ってうずくまった。逸る肩をそっと押しとどめられる。
「まだ起き上がらないで、熱が引いていないのですよ」
「親弘、親弘」
「親弘さんは出ています。彼のことはもっと強く叱りましたから、しばらくは顔も見せないでしょうね」
 そばに控えていたデヴァンが、彼の女主人に折り畳まれたハンカチを渡す。
「あなたを抱いて、うちに連れ帰ったのは親弘さんです。自分が雨に濡れるのもかまわず、あなたにひどい熱があると、自分たちの子どもが危険にさらされているのだと、そう訴えて、私たちに医者を呼ぶよう頼みました。あなたが眠っている間もずっとそばについて……私たちだって、胸が潰れるような思いでいたんですよ、でも彼の様子を見ていたらとてもそんなこと言えなかった。ひどく憔悴した様子でした。あなたたち二人に、いったい何があったのですか」
 言葉につまり、小銀は沈黙した。
 遠くから、子どもたちがはしゃぎ回る声が聞こえてくる。無邪気な鳥の囀り、棕櫚の葉の擦れあって立てるさわやかな音、時折、表通りで渋滞を起こす車両やバイクのクラクションも。
 夫人の可憐な声が語る親弘の姿に、目眩を起こしそうな思いだった。彼が言ったのか、小銀の腹の中で育ちつつある小さな命の原型を、自分の子どもだと? 彼の冷たい目と、頼もしく力強いその言葉を交互に顧みて、混乱し震えさえする指先を小銀は固く押さえつけた。逸ってはならない。余計な期待も不要だ。
「いいですか。レンテンアグンの医療機関ではどうしても限界があります。発熱が落ち着いたら、すぐ帰国して精密検査を受けなさい」
 硬質な口調とは裏腹に、至極優しい手つきで、夫人は小銀の身体を抱きしめた。

 退屈なベッドの上で過ごした。意識は明瞭であるのに、身体全体が熱く気だるさに包まれていて、思うように振る舞えないのがつらかった。
 昼ごろ、矢崎氏が、サラクという果物を持って見舞いにやってきた。茶色い蛇の鱗のような皮に度肝を抜かれ、激しく遠慮する小銀だったが、実際皮を剥けば出てきたのはニンニクのような形のごく普通の果実だった。独特の匂いがするものの、味もナッツのような香ばしさがあっておいしい。
 夢中で頬張り、時折種を出す小銀を、彼は柔和で純朴そうな目で見ていた。
「妻がすまないね」
 夫人が残していったスツールに腰掛け、矢崎氏はそう切り出した。
「彼女はなかなか子どものような人でね、僕が長く仕事に出ていると癇癪を起こすんだよ。嫌いな野菜はみんな僕の皿に移すし、雨の中フィールドワークに飛び出して風邪をひいたことだってある。でもね、きみにはああして思い切り怒ったんだ。さて、どうしてかな」
 小銀は首を横に振ることで否定の意を示す。
「僕らには子どもがない。妻は幼いころからとても病弱で、ある日身体を持ち崩した拍子に子宮の機能を失った。もちろん、僕もわかっていて彼女と結婚したのだし、それに関して不満はないよ。でも、お互いどことなく寂しさを持て余していた。そこに、親弘くんがきて、きみが来た。まだ未成熟で弱い子どもたちだ。
 妻はきみたちを愛してる。きみが痛ければ彼女も痛いし、きみが辛ければ彼女も辛いんだ。彼女は、いつか赤ちゃんを失ったかもしれないきみの代わりに、怒って、泣いたんだ」
「私も」先んじて言葉が飛び出した。そのことを恥じらいながら、小銀は言葉を継ぐ。「……百合子さんのこと、好き、です。その、変かもしれないけど……」
「変なことなんてないさ。聞いたらきっと喜ぶよ、彼女」
 さて、僕は不機嫌なお姫さまを宥めてこなきゃ、矢崎氏はそう言ってスツールから立った。
 彼が去ったあと、シーツにくるまりながら、わずかにふくらんだ腹の上に手を当ててみた。まだ話もしなければ動くこともない生き物だが、生きているのだということだけはわかるのだ。耳をすませれば、小さな胸の音が聞こえてくるような気がする。見ている夢がわかる気がする。ふいに泣きたいような気持ちになって、小銀は自分の肩を抱いた。自分は、この子を酷い目に遭わせた。
 親弘がどう思っていたとしても、彼が、彼女が小銀の子どもであることには変わりない。産み、育て、やがて巣立ってゆくまでそばにいる。たとえそれがどんなに大変な道のりであったとしても。

 こん、こん、という、何かを打つような音で、意識は再び浮上する。
 荘厳なテノールアザーンを唱えるのが聞こえてくるので、午後の礼拝、アスルが始まるのか、と思って瞼を開けた。仄暗い。もうすっかり日が沈んでいる。午後をすっかり寝過ごして、日没後の礼拝、マグリブが始まるころになってしまったようだ。この際朝まで眠ってしまおうと枕に顔を埋め、シーツをかぶり直したところで、またもあの軽やかな音が耳がらに飛び込んできた。
「なんなんだ、いったい!」
 存外に大きな声が出た。ベッドの上で跳ね起きてドアを睨む。が、すぐに音の出どころがドアではないと知れた。一際強く窓が打たれたからだ。
 まさか。おぼつかない足でなんとか立ち上がり、窓辺に駆け寄ってカーテンを引く。薄いガラスの向こう、小さな屋根のつっかかりに足をかけて、親弘が立っていた。
 二人は言葉もなく、しばらく見つめあっていた。親弘の瞳は、かなたへ引いてゆく残光のかけらを拾って鈍い赤に輝いている。青や紫の薄闇に全身を覆われて、それでも美しい目鼻立ちはしっかりと見て取れる。たとえ完全な闇の中にいたとしても、小銀は彼を見ただろう。彼の背後で空は徐徐に暗くなり、青紫から黄金へ、そして黒へと変化していった。光量が減るにつれて、彼以外の情報は意識からどんどん遠ざかっていって、取り戻すのが極めて困難になっていく気がした。暗闇に押し込まれ、言葉は凝縮される。ぽつんとともった宵の明星が、親弘が、不意に破顔した。
「よお」
「親弘……」
「なにぼけっとしてんだ、はやくここ開けろー」
 昨日だって聞いていたはずの親弘の声が、何年も忘れていた思い出のように愛おしく思われる。 
 思考もまとまらないまま鍵を開き、窓を押し上げると、彼は軽やかな所作で室内に降りた。
「ここ、二階だぞ」
「こまけえことは気にすんな。ほら、飲めよ」
 ジーンズの尻ポケットに無理やり突っ込んでいたらしいペットボトルが差し出される。水だ。困惑しながら受け取るものの、手が震えて蓋を開けることができない。親弘は、そんな小銀の手からペットボトルを取り上げると、代わりに蓋を開いて渡してくれた。
 インドネシアの硬質な水。口に含めば、乾いた口腔粘膜へにわかに染み渡り、小銀はたまらずため息をついていた。昼から何も飲んでいないのだ。
「あ、ありがとう」
「いいってことよ……おいおい、ふらついてんじゃねえか、天下の榊小銀が情けねえ」
「……おまえ、何しにきたんだ」
「見舞いに来たんだよ、当然だろ。彼氏なんだから——」
 腕を引かれ、広く頼もしい胸へと倒れ込む。じわりと、目の裏が熱くなる。スパイスの気配。汗の匂いとタバコの煙のほろ苦い香り。夕暮れの光の中で温められた皮膚のあたたかさ。
「百合ちゃん、ばかみてえに怖くてよ」
 耳のそばで囁かれる彼の声は夜の潮騒にも似て、小銀のささくれだった心を洗う。
「目えつり上げて俺に怒鳴るんだ。赤ん坊が死んだらどうする、手前はとんでもない愚か者だ、ってな。でもそれより参ったのはさ、めちゃくちゃ泣くんだよ、あの人。矢崎さんも医者のじじいもボーゼン。おもちゃ買ってもらえなくてごねる子どもよりタチわりい。あんまり泣くから俺、逆にめちゃくちゃ落ち着いてたっつーか」
 言葉に反して、小銀を抱く腕は震えていた。
「落ち着いて、そんで考えた。お前のこと、赤ん坊のこと、俺たちの未来のこと。そんで、俺なりにとりあえず答えを出したから、お前に……伝えたくて」
「親弘」
「その前に一つ聞かせろ。小銀、まだ俺のこと、好きか」
「舐めるな!」
 小銀はさっと顔を上げてそれに報いた。勢いよく身体を離すと、親弘の頬を思い切り打つ。
「愛してる……親弘」
 言い終わるより先に涙があふれた。
 頬を伝い、顎からこぼれて、涙は黄昏の中の星になる。恐れをたたえた唇がそれを拭い、目尻を軽く吸って、やがて……小銀の方から唇に触れた。たくましい腕に強く抱かれる。手のひらが、小銀の赤毛を静謐にいとおしむ。
 言葉は宙に浮き、風に攫われるだろう。空を満たした夜は、朝に塗り替えられるだろう。闇とともに眠れば、夢を見るだろう。いつでも目が覚めれば、光に満ちているだろう。地は天の秩序にしたがって粛々と運行され、星は悠久の時をこえいまも輝いている。親弘がそこにいる。
「俺だって」
 冷たい舌が、小銀の下唇を情け深くいたわる。
「俺だって愛してる。小銀……俺たちの赤ん坊……大事で大事でわけわかんなくなるくらいだ、足の先まで食っちまって、腹の中にしまってずっと隠してたいくらいだ。でも、俺は俺の弱さのためにお前を傷つけた」
 最後に、彼はぽつりと口にした。
「悪かった」

 親弘に抱かれ、二階の窓から外に飛び出した。彼の動物じみた運動神経が、屋根から一階窓の庇部分、そして地上への着地を難なく成し遂げた。悲鳴をあげかけた小銀の唇をねんごろな接吻で閉じてしまうことも忘れない。
 車庫にひっそりと停められていたのは、黒の車体に剥き出しのエキゾーストパイプが銀色にきらめく、古めかしい雰囲気のネイキッド・バイクだった。町で彼が乗り回していたハーレー、ふんぞり返った感じのクルーザーとは趣を異にするものだ。彼はシートを開けてフルフェイスのヘルメットを取り出し、小銀に寄越してきた。わざわざパンツスタイルに着替えさせたのはこのためかと、どこか浮いた思考を巡らせる。
「どこに行くつもりだ」
「まあ、それは着いてからのお楽しみってことで」
 親弘がハンドルを握る後ろに乗り込むと、彼はすぐにエンジンをかけ、グリップを思い切りひねって矢崎邸の庭を出た。
 見た目の寡黙さに反して、バイクはあっという間に速度を増し、小銀は振り落とされまいとして必死に親弘の背にしがみついた。屋台や露天で賑わう市街地をしばらく走ると、五本の車線を備えた、太い幹線道路に出る。他に並走するもののない中、親弘は遠慮なしにアクセルを開ける。
 すっかり残光の引いたとばりに無数の星がきらめく。二人もまた青い流星になる。スピードが快い。排気音に心が躍る。風の中で、いつしか小銀の涙は乾いていた。
「お前を最後に抱いた夜——」
 親弘の声は、耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうなほど小さく、頼りないものだった。
「電話がかかってきた。電話帳にお前と両親しか登録してないもんだから、お前に腕を貸していたそのとき、親が電話をかけてきたんだと思って嬉しかった。親父もお袋も仕事人間で、家には全然帰ってこないし、連絡も滅多によこさない、毎月口座に金が振り込まれるのでかろうじて生きてるってわかるくらいのもんだ。だから電話かかってきたそんとき、びっくりしたし、それはそれは嬉しかった。
 だが電話に出たのは親父でもお袋でもない、弁護士を名乗る男だった。そいつが俺にな……いらねえ、って言うんだ。何が? 俺がだよ。金子親弘さんですね、ご両親が離婚されることになりました、あなた、どちらからも扶養を拒否されているので、離婚裁判で親権を取り決めることになりますが、どう思いますか? って、こったよ」
 小銀はなにも言わなかった。彼の告白を聞きながら、その肩越しに、うっすらと微笑する横顔を見た。
「金が振り込まれるたびに愛されてるんだって思った。電話はいつも繋がらなかったけど、どこどこの国に行きてえ、ってメールを打ちゃ、必要な分だけ金が振り込まれる、愛情のなすことだって信じてた。なんてこたねえ、夢物語だぜ。親は俺のことなんか愛しちゃいねえんだ、金さえ寄越しときゃ大人しくしてる厄介者だって思われてたんだ、考えたらもうどうしようもなくて、マジで好きだと思ってたお前のことすら置いて、この国に来た。別にどこでもよかったさ、他に頼れる大人が百合ちゃんしかいなかったってだけで。
 小銀、お前が好きだよ。世界で一番愛してる。誓ってもいい。でも、怖い、いつか嘘になって、お前を愛せなくなるんじゃないかって、お前が愛してくれなくなるんじゃないかって……子どものことはもっと恐ろしい、うまく愛せなくて、俺のような思いをさせるかもしれないって、それなら子どもなんて一生いらねえ、お前だけいればいい、そう思ってたから……あのとき、言葉が出なかった。でも同じだけ嬉しかったんだ。ほんとだぜ。
 抱きしめてやればよかった。不安だったよな、お前、訳もわかんねえうちに孕まされて、一人で置いてかれてさ。ごめん。そんで、ほんとはこう言いたかったんだよ、ありがとう——自由の利かねえ身体で、こんな遠くまで俺を追いかけてきてくれて、俺との子どもを大事にしてくれて、まだ愛してるって言ってくれて。こんなん一生かけても返せねえよ、返しきれねえよ、な、小銀。小銀……愛してる。俺と」
 そこで言葉を切り、振り返った。強い意志をたたえた灰色の瞳に、遠く、南十字星を望む。
「——結婚しよう」
 時が止まる。

 ふしぎと、涙は出なかった。代わりに、胸の奥底から笑いの衝動が込み上げてきて、小銀は親弘の首に腕を回し、背を後ろに反らして呵呵した。風が髪を巻き上げる。星が尾を引き彗星になる。快哉。この瞬間のために生まれてきた。たった一言告げられるために、飛行機に乗り、足場の悪い道を踏みこえ、彼のところまでやってきた。
「おいこら、なに笑ってやがる。俺は本気で……」
「親弘、お前は、……お前はとんでもないろくでなしで、親にも愛されず捨てられて、態度は軽薄だし人の心もわからないし、おまけに救いようのない大馬鹿者だ」
「てめ、それ以上言ったら本気でぶつぞ」
「この調子では、もう地球上でお前の面倒を見られるのは私だけだな。仕方ないからそばにいてやる」
 ヘルメット越し、ライダーズ・ジャケットのやわらかな黒革が秘めやかに輝く、彼の背中に頬を押し当てる。熱い。まるで内側に太陽を飼っているみたいな身体だ。
「いやか?」
 誰も聞くもののない、果てしない星空と長い滑走路の中心で、小銀は親弘に聞いた。
「いやなもんか。望むところだぜ」
 親弘が答えた。

 バイクは、インドネシア独立を象徴する巨大なオベリスクパルテノン神殿を模した白亜の国立博物館を通り過ぎ、堀に囲まれた公園の敷地に入った。棕櫚や背の低い椰子が並ぶ道を低速で走ると、やがて右手にコバルトブルーの石を嵌め込んだ金字の立て看板が目に入る。インドネシア語と、這う蛇のようなアラビア文字で何か書かれている。親弘の肩越しに行く手を見ると、古代ギリシアの神殿を思わせる無数の柱と、星と三日月を組み合わせたイスラムの象徴的な装飾、白亜のドーム、ミナレットと呼ばれるのっぽの塔を備えた建築物が見えてきた。それが金やエメラルドのライトアップを施され真夜中の天下に幻想的に聳え立っていた。モスクだ、それもとんでもなく巨大な。時刻は深夜帯にさしかかり、広い敷地の中に人っ子一人見当たらないのが奇妙だが、それにしても、小銀はこの地に想いを寄せる信者たちの息遣いを首の後ろで確かに感じていた。
 親弘は正面駐車場、小柄なタマリンドのそばにバイクを停めると、ヘルメットを脱いでこのモスクを見上げた。長身の彼でさえ首を大きく反らさなければ天辺を確かめることができないほど、モスクは巨大だった。現代建築の奇抜さを十全に発揮しながらも、古典的なビザンティン建築を確かに踏襲した、荘厳で美しいモスク。「イスティクラル・モスク」、緩慢に瞬きを繰り返しながら、親弘がつぶやいた。「お前がインドネシアに来たら、絶対に連れて行こうと思ってた」
「きれいだ」
 親弘のそばに寄り添い、小銀もまた、月明かりにきらめくイスラムのシンボルを見上げた。
 陽が落ちているとはいえまだ湿気の多い南国の空気があたりに充満していたが、親弘はジャケットを脱ぐと、剥き出しになった小銀の肩にそっと覆い掛けてくれた。彼の匂いがする。袖口に軽く鼻を押しつけて吸い込むと、彼はちょっと照れたように肩をすくめて、小銀の腰を優しく引き寄せた。こめかみにキスが降ってきたかと思えば、思い切り吸われて意図しない声が出た。
 入場時間はもう終わっているというので、彼の案内で裏口から入った。東南アジア最大のイスラムの聖地は、これまた奇妙なことに、異教徒に対して裏の門をいとも簡単に開放した。警備もなく、木製のくたびれた靴箱が雑に置かれているのみである。靴を脱ぎ、裸足で入場すると、すぐに広大な中庭・サハンに出る。長い長い回廊に三方を囲まれた、茶色の煉瓦を敷き詰めただけの広場だが、足を進めるごとに冷たく厳かな気配が皮膚を通って全身を満たしてゆくのが確かにわかるのだった。恐れにも似た畏怖を抱き、小銀はますます親弘のそばについて歩いた。
「理不尽なことが多すぎるんだよな」
 ゆるやかな大気の移動に前髪をかき乱されながら、親弘はひとりごちる。
「俺のこと、デヴァンのこと、おまえの母さんのこと……イスラムの親の間に生まれたこの国の大多数の人間どものことも、俺にとっちゃそうだ。男は家を守れ、女は従順でいろ、馬鹿みてえだろ。でも実際その星の下に生まれたからにゃ、人生はそれだけなんだ。たった一つだ。誰かに哀れまれる筋合なんかねえ、俺たちは、それを正しいと思って生きてるんだからよ……」
 正面にモスク本体である礼拝堂が見える。無数の石柱の間をつなぐようにして、さまざまな形の四角形を組み合わせて作られた金属製の幾何学模様が施されている。その足下から中に入ると、小銀はいよいよ深い感慨に打たれた。内部は暗く、耳が痛くなるほどに静かだが、広大だった。余すことなく敷き詰められた、目にもけざやかな真紅のカーペット。純白の石の壁、天井近くに几帳面に並ぶ無数の小窓。正円のドームを泰然として支える十本の柱。三角形を組んだような形でドームを支える柱は中の光を微かに反射して、その一本一本が宇宙を満たす星の代わりになった。
 親弘が指先を絡めてきて、二人は手を繋いだ。吐く息すら震えていた。鷹揚にアーチを描くミフラーブの前で膝をつく。
「すんません、こんな時間に。今日は俺の彼女を連れてきました」
 言いながら、彼は両手と額を床につけた。小銀も慌てて彼の真似をする。
「あんたが本当にいるものかどうか、俺にはわかりません。いるんなら早よ助けろやって、そう思ったこともあります。でも、俺の大切な人たちが、あんたのところで喜んで祈ってるので、俺はうれしいです。あんたのためにあいつらがなすこと、話す言葉、作るものが美しいので、俺はうれしいです。あいつらがあんたを大切にしてるので、俺もあんたが大事です。いつもありがとう」
 親弘の祈りはイスラムの礼拝の作法を丸切り無視したとんでもないものだったが、朗々として、高いドームの天辺にどこまでも響いた。手のひらが燃えるように熱い。
「こいつは、偏屈だし、臆病だし、俺の傷を的確に抉ってくるいやなやつですけど、俺の大事な、たったひとりの女の子です。あんたが俺の大切な人たちを大事にしてるように、こいつのことも大事にしてやってください。そんで、俺たちの子ども、小さい赤ん坊のことも……お願いします。ああ、そうともさ、二人のためなら、俺はなんだってできるんだ……」

 かれはアッラー、ただひとりのお方。
 アッラーは、だれのことも必要としない。
 アッラーはだれかを産むことも、だれかから生まれることもしない。
 かれはアッラー、比類なきお方。

 廊下ほどの広さしかない部屋の、ほとんどの面積を占有するダブルベッド、そこに二人なだれるようにして倒れこんだ。もうなにものも二人を阻むことなどできない。車のクラクションの音も、壊れかけた室外機のファンが回る音も、照明の暗さも、なにもかも問題にならない。シャツの合わせを器用に開かれ、顕になった鎖骨のくぼみの影を、親弘の唇が音を立てて啜った。
「いれねえ、いれねえから、確かめさせろ」
 彼の声だけで固くとがった乳頭を揉むように吸われる。破けそうなほど薄い、病的に白い皮膚を圧迫する肋骨、その出っ張りを宥めるようにまさぐられる。ついにすべてのボタンが外され、晒された身重の腹……三か月めに差しかかり、かすかに膨らんできた腹を見て、彼は感無量とばかりに深く呼吸した。
「触っていいか」
「うん」
 首肯すると、硬い手のひらがふくらみに確かめるように触れ、ためつすがめつ、撫でたり、つついたり、軽くつねったりする。小銀が痛がって身を捩ると、とたんに臆病な子どもの顔になって、ああ、と吐息した。
「いるんだな、ほんとによ……」
 まだ滑らかに腹筋の線を残す腹をなぞり、彼は小銀の臍を探り当てる。優しく引っ掻かれてあえやかな声が漏れる。
 親弘は小銀の両脚をつかみ、股の間に顔を埋めて、夜泣きする膣口に鼻先を近づけた。何度もキスをして、舌で舐めて、頬ずりした。陰核を歯で擦られたさいには錯乱も頂点に達し、彼の頭を脚で押さえつけ、短い髪に手を入れてかき乱しながら何度も何度も彼の名を呼んだ。具体的なタイミングを知覚できずとも、幾度となく絶頂していることはたしかだった。
 曖昧になってゆく意識の奥底で、膣肉が彼の人差し指を受け入れたと知った。音を立てて抜き差しを繰り返しながら、熱っぽくおぼつかない声で、彼が喚いた。
「あちい、やらかい、いれたら最高に気持ちいいだろうな……小銀、愛してる……ああくそ、いれてえ、畜生、いれてえ、早くいれてえよ」
 ふと、その眦から、涙が一粒、音もなくこぼれた。

 

   Fajr ——ファジュル、薄明

 はじめて彼の双眸と向き合った、その日のことははっきりと覚えている。
 去年の六月のことだ。学内で毎年恒例の英語スピーチコンテストが開催され、他の出場者に大差をつけて親弘が優勝した。それまで、クラスメイトのほとんどの間で共有されていた彼の印象は、留年寸前の落第生、体育以外はてんでダメ、絵に描いたようなバカキャラ、というところだったから、その快挙は少なからず皆を驚かせた。
 長い話を終えて頭を下げた彼を、スタンディングオベーションで絶賛する生徒たちの中で、小銀はすっかり放心しきって指を動かすことすらままならなかった。朗々として、聴衆の緊張すら強いた低い彼の声に、底知れぬ孤独が薫っていることを、ホールの照明が作り出すかすかな薄闇の中で小銀はたしかに嗅ぎ取っていた。埃の積もった、行き場のない黒橡の孤独が、住み着く先を探して一斉に放たれたという感じだった。そして小銀はたしかにそれを受け取った。薄い胸の中に大切に仕舞い込んでいた。
 鳴り止まぬ拍手に包まれながら壇上を降りる親弘が、ふと、小銀を見る。そのまなざしが一閃、小銀の心臓を突き通り、まばゆいばかりの光を放って、やがて背中でほろほろと霧散した。彼女は立ち上がり、今もなお拍手を送る同級生たちの波を抜けてホールを飛び出し、楽屋口に走った。果たして、親弘はそこにいた。言葉もなく近づき——手を握られ、腰を引き寄せられて、ささくれ立った唇の皮膚に、生まれてはじめて接吻を許した。六月の霧雨がしとしとと、若い二人の肌を濡らす。このとき、二人は会話はおろか、視線をかわし合ったこともなかった。命にも数えられない物質だった頃を除けばほとんど初対面だった。
 彼は小銀の肩をほとんど強引に抱くようにしてその場から浚った。肩で息をするほどに神経を昂らせ、全身がわざとらしく思えるほど震えていた。耳を押し付けられた形になった彼の胸のあたり、きっちりと留められた学生服のむこうで、彼の全身は冷たい汗に濡れていた。
 彼のかびくさいベッドの上で血を流した。小銀は清くなくなり、親弘も、少年の透明な蛹を脱ぎ捨てて一人の男になった。皮膚の薄いところを容赦なく歯で抉られ、背中に回された腕が内臓を圧迫し、瞳が、暗がりの中でもはっきりと己の意志をたたえたその瞳が、子どもの小銀が抱えていたつまらない妄執を粉々に打ち砕いた。小銀も彼の喉仏に噛み付いたが、皮がめくれて、ピンク色の粘膜を剥き出しにしただけだった。その上から必死に舐めて唾液を染み込ませた。ベッドの上から、脱衣所、風呂場、汗を流してからキッチン、洗面台の上、少しの水を飲んでふたたびベッド、夜明けにはベランダに出た。遠く郵便配達のバイクの音を聞きながら、喉が枯れるまで彼の名前を叫んだ。
「俺、親弘っていうんだけど」
 薄明。手入れされないまますっかり枯れ果てた花のプランターに座り込み、裸のままの彼が言う。親弘と小銀の、事実上初めての会話である。
「あんた、サカキコキン」
「小銀だ」
「あんまやわっこくねえ、おっぱいないし。女ってより痩せた男って感じ」
「女のように扱われるのは不愉快だ。女の身体、女の髪、女の制服、みなこの町で生きていくためのていの良い種別でしかない。私が望んだものじゃない」
「でも、声。好き」
「はあ?」
「お前が俺のこと呼ぶ声。すげー好き、好み。そそる」
「帰る」
 生まれたままの姿で立ち上がると、ちょうど、彼の家の前で犬を散歩させていた男と目があった。慎ましやかな乳房も、白い肌を埋め尽くす夥しい数のあざも、無毛の恥部も、全て男の前に晒されていた。男が目を逸らす。犬が吠える。憤る小銀の腕を引きよせ、まあ待てよ、親弘は腕の中に彼女の痩躯を閉じ込めた。……小銀、
「行くな」
「……離せよ」
「決めてんだ、やるなら全部自分のためにすんだって……誰かのためとか何かのためとか俺には恥ずかしくて言えねえ……でもよ、いま、お前のそばにいたいって、お前の力になりたいって思ってる俺はなんだ? 理性とか精神とかそんなのなしに、夢見心地にお前を欲しがる俺はいったいなんだ? 知りてえんだ、気になるんだ、それがさ……わけとかねえ、言葉になんかなんねえよ……」
「夢は覚めるものだ。ひととき楽しむことができればそれで十分だ」
「わりいけど、夢で終わらせる気はさらさらねえよ」
 暁の光が差しそめて、親弘の瞳に金色の絶望が光る。わけもなくきれいだと思った。
「聞かせろ。お前はどうしたい?」

 ——あのとき、自分は何を言い返したのだったか。微睡のさざなみが引き、小銀は、一度は得たはずのその答えを忘れた。
 倦怠感に飽和しながらゆったりと半身を起こせば、薄いシーツが肩から滑り落ち、小銀の痩せた身体を朝の光の中に晒した。鎖骨から乳房、臍の周りを、小さなあざがびっしりと覆っていた。乳頭には血液が凝固することで作られたかさぶたができている。爪でいじくるとすぐに血が滲んだ。昨夜、親弘が噛んだ跡だった。
 親弘はシャツにパンツ、几帳面にベルトまで締めたまま、筋肉質な腕を小銀の腰に回したまま眠っている。存外に長いまつ毛が、頬に青白く繊細な影を落としている。寝癖のついた短い髪を優しく撫でつけ、耳をくすぐると、彼は子どものようにむずがった。その時、小銀は頭の上から爪先までをすっかり満たされた気分になって、興奮のために汗ばむ手で、彼の子を孕んだ腹の辺りにその頭を抱き寄せた。髪がちくちくと皮膚に刺さって痒い。小銀は小さく声を立てて笑いながら、しばらく彼の頭を抱いていた。
「……なーに笑ってんだよ」
 眠そうにしぱしぱと瞬きをして、親弘が小銀の顔を見上げる。そのまなざしがまだどこかぼんやりしているのが嬉しくて、小銀は彼に覆いかぶさり、その髪に顔を埋めて思うまま匂いをかいだ。
「俺は犬かよ」
「おはよう、親弘」
「おう……」
 まだ何か言い募ろうとする彼を、唇同士を触れ合わせることで遮る。触れるだけで終わらせるつもりが、親弘の両腕が伸びてきて小銀の首を固定し、その中に深く入り込んできた。小銀は薄く目を閉じてそれに報いた。ざらざらした舌の先が歯をなぞり、上顎をくすぐり、口の中をくまなく探ってくる。
 吐く息すら絡む距離で、親弘の目が小銀を見ている。くっきりとした二重まぶた、スッと通った鼻梁、耳の前で気ままに跳ねるもみあげ、ささくれだらけの肉厚な唇。精悍な眉、よく磨かれた白い歯。彼の顔はどこかエキゾチックな情緒があって美しい。どこもかしこも愛おしい。キスの終わりに、小銀は彼の太い首の脇に歯を立て、思い切り吸い上げた。みるみるうちに血が集まってきてあざができる。
「寝ぼけてないで早く起きろ。もう出る」
「んだよ、まだ五時だろ……もちっと寝かせろよ」
「早く帰らないとおふたりが心配するだろう」
 後頭部を軽くはたくと、彼は眉を思い切り寄せて抗議した。
「昨日の今日ですっかり快調だなてめえ。もっぺん泣かすぞ」
「バレて百合子さんに叱られるのはおまえだぞ」
 神妙な空気で睨み合う。かと思えば、出し抜けに親弘が再び小銀の首を引き寄せ、軽く触れるだけのキスを浴びせた。にたりと不敵に笑いながら、彼はようやくベッドから這い出て、床に脱ぎ捨ててそのままのジャケットを羽織った。
「叱られたって別にかまやしねえよ、今日の俺は最強だからな」
「どういう理屈だ、ばか」
 呆れながらも、小銀の胸に去来するのはこの上ない安堵なのだった。親弘のそばにいてこそ、小銀はようやく生きているという実感を得られるのだ。しかしそれを素直に口に出すのは悔しくて、小銀は気楽に鼻歌なんて歌いはじめる彼の背中を見ていた。

 二人は六時にはホテルをチェックアウトし、特に渋滞にも巻き込まれることなく朝の道路を快適に遡行したものの、高速に乗る頃には親弘のスマホに着信があった。矢崎夫人だ。小銀の様子を見にきた彼女は、空のベッドと、開け放たれた窓から全てを察したらしかった。バイクが矢崎邸の庭に入るや否や冠を曲げた様子の彼女が出てきて、病人を連れ回すとは、あなた、どういう神経をしているんですか、と、細身に似合わぬ大声で親弘を叱った。
「まあまあ、二人とも無事に戻ってきたんだから良いじゃないか」矢崎氏がそう嗜めるまで、夫人の説教は三十分ほど続いた。
 四人で朝食を取ったあと、夫人が彼女の書斎に小銀を呼び寄せた。
 書斎は二階の一番奥、陽の当たらない北向きの部屋だった。ノックをして中に入るとすぐ、古い紙のどこか懐かしい匂いが鼻腔に潜り込んできた。とにかく本や資料ばかりなのだ。壁一面に据え付けられた棚に収まった分厚いハードカバー、アジア風の模様の施されたカーペットを埋め尽くす資料、ファイル、重厚なマホガニーの事務机にうずたかく積まれた文庫本。それも、部屋にただ一つの窓から差し込む光に晒されないよう、細心の注意を払って配置されている。夫人は、上等な革張りのデスクチェアに背筋を伸ばして座り、子猫を膝に抱いた状態で小銀に向かい合った。
「その様子だと、親弘さんと仲直りできたみたいですね」
 彼女が首を傾げて微笑むと、緩く編まれた長い髪が肉の薄い肩口を滑り、胸元へこぼれる。
「はい。その、結婚することになりました」
「ほんとうに? おめでとうございます。お式にはぜひ私たちのことも呼んでくださいね」
「ありがとうございます」
 小銀が慣れない礼の姿勢をとると、彼女は鈴を転がすような声で笑った。
「それじゃあ、もう余計な心配は無用ですね。十三時発成田空港行きの航空券を取ってあります。体調が悪化しないうちに荷物をまとめてお帰りなさい」
「そうします。百合子さんには、親弘ともども迷惑ばかりかけて……すみませんでした」
「いいのですよ。手のかかる子どもが二人できたみたいで、私も楽しかったんですから」
 彼女のたおやかな手が小銀を手招いた。小銀は、床の資料を踏んだり倒したりしないように注意を払いながら、慎重に彼女に近づいた。
「寂しくなります」
 デスクチェアに腰掛けたままの彼女の腕が、小銀の腰にゆるく回る。柔らかく繊細そうな頬がふくらんだ腹に寄せられ、細い指が、背骨の通るあたりを労わるように撫でた。さながら、遠くへ我が子を送らんとする母親の抱擁だった。胸が熱くなる。小銀も、彼女の小さな頭をつとめて柔らかく抱き寄せた。
「連絡します。手紙も書きます」
「当然です、何かあったらすぐに報告しなさい」
「はい。……百合子さん」
「なあに」
「本当にありがとうございました。私も、お母さんができたみたいで嬉しかったです」
「まあ……」
 彼女が顔を上げて小銀を見た。驚きのあまり見開かれた瞳はにわかに潤みを帯び、張力を離れたぶんが大粒の涙になって白い瞼へとこぼれた。涙は頬の上で光を反射してきらきらと輝く。歔欷に顔を歪めることも声を上げることもなく、あまりにも繊細に、あまりにも美しく、彼女は泣いた。額に涙が落ちてきて、子猫が不思議そうに瞬きをする。
「嬉しい」涙に洗われ、彼女の声は曇りなく、どこまでも透き通ったものと感じられた。「夢だったの。いつか、お母さんって、呼んでもらいたかったの……」
 航空券を受け取り、小銀は一度客間に戻って荷物を支度した。インドネシアに来て最初の日に着ていたシャツ、二日目、レースのサマードレス、三日目にずぶ濡れにしたホットパンツ……みな洗濯され丁寧に畳まれてスツールの上に積んであった。親弘が買ってくれたおもちゃの指輪も、ベッドサイドチェストの上にハンカチに包まれた状態で置いてある。小銀はしばらく逡巡したのち、それもまとめてキャリーケースの中に詰め込んだ。
 着ていた服はビニールの中に放り込んで、黒のハイネックノースリーブに、デニムのホットパンツを身につけた。髪は後頭部の高い位置でポニーテールにして、剥き出しになった耳たぶには揺れもののイヤリングをつけた。小銀のしなやかな痩躯が映える、露出の多いファッション。またしばらく会えなくなる親弘の記憶に、最も美しい姿で残りたいのだ。

 重たいキャリーケースを抱え、吹き抜けの階段から応接間に降りた小銀を矢崎夫妻が迎えた。柄物の手ぬぐいで包んだ弁当を差し出して夫人は、飛行機の中でお腹が空いたら食べなさい、と言う。
「家に帰るまでが旅行ですからね。絶対に気を抜かないこと」
「はい」
「エチケット袋も入れておきました。悪阻がひどくなった時にお使いなさい。もちろん、妊娠中に無理は禁物です、具合が悪い時はまた改めて手配しますから搭乗を見送ることも考えなさい。短期滞在なら空港のすぐそばにあるアナラ・エアポート・ホテルが便利ですよ」
「はい」
「それから……」夫人は言葉を詰まらせ、ふたたび目をいっぱいに潤ませた。「……どうか無事で。元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
 懸命に微笑みを保とうとするも、あえなく顔を覆い、彼女はとうとう泣き出してしまった。後から後から溢れる涙が、彼女の優美な手のひら、滑らかな腕を伝った。小銀もつられて泣きそうになる。唇を噛んでなんとか堪える。矢崎氏は黙ったまま妻の肩を引き寄せ、胸の辺りに小さな頭をそっと抱いた。
「困ったことがあれば、いつでも僕たちを頼ってね。ここは君の家でもあるんだから」
 言葉が出なかった。なんの繋がりもない他人に、ここまで心を寄せてくれる二人の存在が嬉しかった。
 三人で抱擁したのを最後に、夫妻に礼を言って別れた。
 外に出ると、正午を過ぎ、すっかり茹で上がった熱帯の空気が小銀の顔に押し寄せてきた。土は熱されて陽炎を産み、日陰を求めて矢崎邸の庭に逃げ込んだ鳥たちがけたたましく鳴いている。青々とした空には雲ひとつ浮かんでいない。小銀は思わず顔を顰めて手のひらで額に庇を作ったが、庭で直射日光を浴びる親弘は平然として子どもたちに取り囲まれていた。見覚えのある顔ぶれ、路地裏に住む子どもたちだ。
「Kak, apa kau akan ke Jepang?」
「Aku akan merindukanmu」
 こいつらお前がいなくなるの寂しいってさ、ポーチから降りてくる小銀に気づいて、親弘が破顔する。
「親弘」
「ん?」
「翻訳して彼らに伝えてくれないか。ありがとう、また会いにくると」
 親弘の腕に寄り添い、子どもたちを見渡す。彼らがいなければきっと本懐を成就することができなかった旅だ。親弘はウインクでそれに応え、子どもたちに向き直って、現地語で何か言った。
「Dia berkata, terima kasih, dia akan ke sini lagi」
 子どもたちの間から歓声が上がる。
「Datang lagi!」
「Selamat atas pernikahan Anda!」
「Mari kita bermain lebih banyak lagi kali ini!」
 背に張り付かれ、足にしがみつかれながら、二人はデヴァンがつけたアルファードになんとか乗り込んだ。

 下道と高速を巧みに使い分けて渋滞を回避しながら、デヴァンは二人をスカルノハッタ国際空港第三ターミナルに運んだ。
 彼との別れは存外淡白にすんだ。『また近いうちにお会いしましょう』彼はそう言って、左ハンドルの運転席から軽く手を振っただけだった。彼にも何か話しておくことがあったはずなのに、つれなくも、サイドガラスはとっとと閉められてしまう。彼は一度併設駐車場に車を入れ、そこで親弘の戻りを待つことにしたらしい。
 スカルノハッタ国際空港は、明るい時間帯ということもあるだろうが、それを抜きにしても初日に見たものとは全く違う建物のように思われた。三つあるターミナルビルの中でも最も新しい第三ターミナルは、巨大な全面ガラス張りの壁から差し込む日光で、幾何学模様の印象的な天井もよく磨かれた石の床も明るく照らされている。人々も心なしかうきうきとした表情で、チェックインカウンターが無数に並ぶ広大な空間を早足で歩いている。
 無事航空券のチェックインを終えた後は、出国審査所手前の丸亀製麺で昼食をとることにした。海外諸国ではマルガメ・ウドンと名を冠して営業しているこの店は、インドネシア国内で非常に高いシェアを誇り、独自のメニュー展開で国民の人気を博しているのだという。たしかに、二人が見上げるメニュー表の中には、日本で見られるベーシックなうどんの他にも、カルボナーラ・ウドンやバイタン・ウドンなど見慣れない種類のものがあった。かけ放題コーナーに至っては、ネギや天かすのほかにサンバルと呼ばれる香辛料まで置かれていた。インドネシア人の客たちはみな、そのサンバルを麺が覆い隠されるほどかけて食べるのだ。見ているだけでも唾液が止まらなくなり、二人は慌てて目を逸らした。結局、親弘はカツカレー・ウドン、小銀はニクウドンを注文し、ネギと天かすのみをトッピングして食べた。
 食事を終えてふと壁の時計を見ると、出国手続きの受付終了時刻が間近に迫っていた。
 店を出た二人は、至極ゆっくりとした足取りで、言葉もなく、出国ゲートを目指した。親弘が小銀の左手を握り、小銀はその手を強く握り返した。人々が会話したり歩いたりする音で空港内は騒がしかったが、二人はまるで途方もなく静かな、音のない空間に放り出されたような気分で、ただお互いの息遣いだけを確かめながら歩いた。
 もうすぐ、二人は離れ離れになってしまう。せっかく想いを確かめて、本当の幸福を知ったところなのに、小銀は飛行機に乗って海の向こうにゆき、またいつ会えるともわからない。離れたくない。そばにいたい。身を引き裂かれるような思いで、それでも小銀は何も言わなかった。親弘はきっと近いうちに小銀のもとへやってくるし、そうしたらもう二度と離れることはないのだ。
「な、日本帰ったら、お前どうすんの」
 警備員が二人、両側を固めるようにして立つ出国ゲート前で、ふと親弘がこんなことを聞いた。
「そうだな。まずはおまえとの結婚、それから子どもがいるのだということを、お父さんに打ち明けてみようと思う」
「げ。親父さんって、榊のおっさんのことだろ?」
「ああ。実はまだ伝えられていないんだ。怖くて……結婚前に子どもができたなんて言ったら殺されてしまうかもしれないから。でも、たとえ殺されても伝えるんだ、おまえと子どもと三人で幸せになりたいって……」
「簡単に命はりやがんな。絶対生きて待ってろ、すぐ迎えに行くから」
「うん」
 そんな冗談を飛ばしながら、別れの時を惜しむ。親弘の快活な笑顔が嬉しくて、愛おしくて、寂しくて、小銀は肩を落として俯く。
「小銀」
 はしなく、親弘が小銀の名前を呼んだ。
「最後に一ついいか」
 彼は握ったままの小銀の左手を肩の高さまで持ち上げると、華奢な骨格を覆うすべらかな白い皮膚を、小ぶりで可愛らしいつま先を、指の腹で優しく愛しんだ。くすぐったいからやめろ、小銀が手を引っ込めようとしても、彼はますます強く握りしめて離さない。
「お前が向こうで戦うなら、俺はここで戦う。あのろくでなしの親どもにも、向き合ってやる、そんで慰謝料死ぬほどふんだくってやる。俺はもう降りない。ガキみてえにお前の愛情を疑ったり、不安のために大事なことを隠したりしない。お前がむけてくれる気持ちに、信頼に、全力で応えてみせる」
「親弘」
「これは誓いだ。俺の、生涯をかけた誓いだ。そのしるしに……これ、受け取ってくれ」
 そう言って彼はポケットから小さな箱を取り出した。上等そうな青いベルベットを張った、手のひらに収まるくらいのサイズの小箱。親弘と、箱を交互に見比べて、小銀ははっと息を呑んだ。箱を受け取り、開けていいか尋ねると、彼は神妙な面持ちで小さく首肯する。震える指でそっと開いてみる。中に入っていたのは……細身のプラチナリングを台座にして、ティアドロップ型のブルーダイヤモンドが上品にきらめく、シンプルなデザインの指輪だった。本物だ。
 ずるい。ずるい。えも言われぬ感慨が胸を満たしたかと思うと、小銀本人も知覚しないわずかな時間の間に、見開いた目から涙があふれてきた。彼の前ではもう泣くまいと、そう思って愛しさも寂しさも今まで我慢していたというのに。指でおさまえても涙は止まらず、頬を伝って顎の先から滴り落ちる。嗚咽を抑えることができず、しゃくり上げながら親弘を見上げると、彼もまたうっすらと涙ぐんでいた。
 彼が指輪をつまみあげ、小銀の左手薬指に恭しくはめた。ぴったりと肌に吸い付くように収まった指輪は、親弘の手の温もりを帯びてじんわりと熱かった。
「……ゆめを……みているのかな」
 有り余る幸福のために掠れた声で、小銀はうわごとを呟く。
「夢なんかじゃないさ」
 親弘が笑った。

 飛行機が高度を上げるにつれて、展望デッキに立って手を振る親弘も、スカルノハッタ国際空港も、高層ビルの並び立つジャカルタ中心部も、みな急速に遠ざかってゆく。見えなくなる。広大なジャワ島のほんの一部になる。
 しかし小銀はもう泣かなかった。親弘がくれた指輪、最後のキスの記憶が、彼女の心を内側から温めてくれるから。
 果てしない雲海の上、真っ白に洗いざらされた雲が反射した光が、小銀の薬指のブルーダイヤモンドにきらめいた。小銀はそれを見てすっかり満足し、やがて瞼を伏せ、微かに微笑んだ。ブランケットをかぶってリクライニングシートに肩を預けると、ほどなくして、彼女の意識は眠りの漣にのまれ、青色の濃い沖合へと流されていった。