A

 


 すぐ戻ってくるからと、言いながら頬にふれたいいかげんで優しい唇のこと、きっと死ぬまで忘れない。
 彼は戻ってこなかった。冷ややかな永遠の存在を教えて、それだけ残して、シルバーから静かに立ち去った。言い訳はいくらでもつく、足下がぬかるんでいたのだろう、頭の打ちどころが悪かったのだろう、その人は不具だったのだから仕方なかろう、シルバーだってそのときその場にいれば同じようにした。だが、蕭条と霧雨に濡れた皮膚、不健康に血管の色を透かして青白く、今にも内側から破けそうな、またすでにいくらか硬直もはじまってさえいるその身体を前にして、彼女はすんでのところで自らの錯乱を抑えた。女の啜り泣き、警察があたふたと場を検証する足踏み、雨が街を洗う音、全てが遠かった。揺らぐことなく闊達で、晩年は老成したおだやかな目で妻をよく守った、この男。こんなところで、あえなく、失うことになろうとは。へたり込んだ姿勢から上半身だけを彼に傾け、血色の引いた唇に最後のキスを返したとき、ふと、彼の固く結ばれた右手に何かを予感した。開くと、硬い外皮に包まれた植物の小さな種がいくつか、傷ひとつなく守られていた。
 冬の漣が引き、トキワの森にも春がやってきた。
 庭はまさに盛りを迎え、どこもかしこも甘いにおいで満ち足りている。薄紫や白の芝桜、チューリップにすみれ、ヒヤシンスは花茎をおもたそうに擡げ、パンジーはベルベットのような花弁を愛らしく広げている。グラニーズボンネット……オダマギの優雅で華やかな装い。屋根の上までを桃色に彩るライラック、神経質な瓔珞百合のまだ固い蕾。ハナダイコン、勿忘草、ショウキウツギ。クラブアップルの灌木は小さな八重咲きの花をいっぱいにつけている。
 薄桃色の石楠花の群れからさっと顔をあげ、シルバーは彼女の庭の東から西までをかえりみた。庭は実に美しく、華やかで、いつ彼を迎えても何ら不足はないように思われた。これから春も深まれば、木柵を踏み越えてオドシシが石楠花の終わった花を食べにくる。夏になり、ナデシコヘリオトロープ、ペニチュア、クリンソウの間からベルガモットの赤い花がポツポツと咲きはじめ、その蜜を吸いにコラッタたちがマンネングサの影からやってくる。秋はクラブアップルが鈴なりに実をつけ、そうなれば森中のポケモンたちの格好の食糧だ。尽きることのない実は冬まで持ち越し、その間にシルバーは温室に行って椿やオレンジ、月桂樹を寡黙に育てるだろう。何ひとつ足りないものはないというのに、肝要の帰るものがいない。彼女はワンピースの裾が土に汚れるのもかまわず、石楠花の根のあたりにしゃがみ込み、そこに忘れられたみたいに咲く赤いアネモネをを眺めた。貞淑な花びらの輪郭、愛おしい紫のしべ、指先だけで軽く突くと、花の部分を錘に左右に振れる。彼女の繊細なまつ毛が、感慨を帯びて緩やかに上下する。
 母家の方で赤ん坊の泣き声がする。シルバーははっとなって立ち上がり、早足で庭を辞した。
 温室の脇にひっそりと扉を構える勝手口の錠を焦ったくはずし、吹き抜けの廊下から寝室に入る。九つ窓のほど近く、レースのカバーをかけたゆりかごのそばでは、赤ん坊のためのおもちゃを懸命に揺らしながら、マニューラ、どうやら随分手こずっているらしい。シルバーもベッドに近づき、ふかふかの毛布の中に寝かされた状態で、顔を真っ赤にし、手足をばたつかせて泣く子どもを見た。こういうとき、どうするのが正解なんだっけ……先に母親になった姉の指南をおぼろげになぞりながら、彼女はおそるおそるという表現がてきとうなくらい、手慣れない仕草で子どもを抱き上げた。細く薄い黒髪、まるまるとして母親を見上げる金色の瞳、柔らかい素材の産衣に包まれたその子どもはたしかにシルバーが腹を痛めて産んだ赤ん坊だが、あまりにも父親の血が濃いので、生まれ変わりかもしれない、という心地が未だ抜けずにいた。抱き方は完璧にこなしたつもりなのに、何が気に食わないのか、子どもは再び声を上げて泣きはじめた。左右に揺すっても、手を握ってみても、泣くばかりで手に負えない。シルバーのワンピースの胸元をひっしと掴み、今にも引きちぎりそうな勢いだ。
 マニューラがいないと思ったら、書斎の扉を開けて出てきて、その後ろにはシルバーの父親が、草臥れた色のセーターを着て立っていた。彼は全て心得たとばかりにシルバーから子どもを受け取り、胸の上に乗せる形で縦抱きにし、その姿勢のまま静かに小さな背中を叩いた。大きな手のひら。途端に、子供はひたりと泣くのをやめ、祖父の気難しそうな顔を食い入るように見はじめた。もみじの葉を思わせる小さな手が、ひろい額や鷲鼻にぺたぺたと触った。
「乳をやりなさい」
 彼は落ち着き払った口ぶりで、シルバーに子どもの空腹を教えた。
 子どもが戻ってくる。ボタンを外し、かすかな胸の先を含ませると、子どもは慌てて乳を吸いはじめた。マニューラが緩く鳴きながら脚に抱きついてくる。その人が親として先達だということは、シルバーがこうして生きながらえている以上自明のことだというのに、なぜだか不思議な感慨を持ってして彼女は父親を見た。父親は目を伏せたまま、夢中で乳房に吸い付く子どもの小さな頭を撫で、おまえは赤ん坊の頃からあまり泣かない子だったと、低く穏やかな声で言った。
「だから俺はいつもおまえの代わりに神経を尖らせていた。おかげで、今となっては、赤ん坊が何を欲しがっているのか、顔色だけですぐにわかる」
「いつも同じだよ」
「同じなものか。空腹のときと、不愉快なとき、眠いとき、表情の使い方はまちまちだ。おまえもすぐにわかるようになる」
 乳を吸い終わり、子どもは自分で上手にげっぷした。

 おもにゴールドの意向で、結婚式は盛大に執り行われた。エンジュの、ホウオウを神と祀る神社の広大な敷地で、シルバーは仮面を被った孤独な子どもから世界で最も美しい花嫁になった。職人が細部にまでこだわって仕立てたこの上なく上等な打ち掛け、繊細な金細工をふんだんにあしらった髪どめ、小さな白い顔は三人がかりで化粧を施され、天上のものとも知れぬ麗しさだった。夫婦が通るところはどこもかしこも花と祝福で満ちて、人々の顔も喜色ばみ実に晴れやかだった。誰もが二人の未来に欠けのないことを予感した。
 だが、そのために、葬式は質素なものにせざるを得なかった。グリーンの厚意で借りられたトキワの小さな斎場で、参列者が棺に花を供えるだけの葬式をした。結婚式から一年も経っていなかった。図鑑所有者をはじめとする見知った顔が、仲間の不幸を嘆き、また美しい新妻を襲ったあまりに残酷な運命を憐れんだ。クリスはシルバーの隣でずっと嗚咽し、シルバーは何も言えず、彼女の肩を抱いたまま人の波の中に立ち尽くしていた。まだ若い彼の母親の抱く遺影の、眩しいほどの笑顔、ああ、あまりにも溌剌として、あまりにも情熱と愛に溢れすぎていた、無邪気な少年の顔を見せたかと思えば、クリスの前では行儀とてぐせの悪い中年男のように振る舞って遊び、シルバーのところへ帰ってくると、普段の彼を知る身からすると違和感を覚えるほど、誠実にこまごまと妻の身を案じてみせるのだった。やれ食べる量が少ないやら睡眠時間が短いやらと、お節介なほど気を回してきて、そっけないふりでいると今度は彼のポケモンたちからブーイングを受ける。エイパムの尾に少量のウイスキーを含まされ、バクフーンにベッドへ運ばれて、布団から恨めしく見上げる彼の目のやさしいことと言ったら、他に比類なきほどだった。その男が、シルバーの知らぬところで、シルバーでない、誰とも知れぬ女を庇って死んだのだ。クリスを伴い、花を抱いてシルバーは棺に近づいた。死装束の胸ぐらを掴んで振り回してやろうかと思った。しかし、今にも息を吹き返しそうなほど生に肉薄した死に顔を眺めていたらそんな気も失せてしまって……喪失だけが彼女の中で明確だった、ゴールドは彼女の中であまりに大きくなりすぎた、それが無理やり引き抜かれて、残った心の空白を通る隙間風だけだった……彼女は息を詰めたまま冬薔薇のブーケをゴールドの胸元に置いた。クリスがはねた前髪を退けて、その額に親愛のキスを贈った。
 花向けが済んだあとは、めいめいに思い出の品や彼が好きなものを持ち寄って、それも棺の中に入れた。トレードマークになっていた赤いパーカー、スニーカー、ゴーグルやキャップ帽、ビリヤードのためのキュー、スケートボード、アイドル歌手のCD、サイン、いかり饅頭やフエンせんべいなど地元の名産品、賭け事のためのカードセット、オレンジリキュール、にじいろのはねのレプリカ、ピチューを模した蒔絵の万年筆、それからもちろんポケモン図鑑も。いよいよ棺を外に運び出すとなったとき、真っ黒なコートの男が暗がりから影のように現れて、カロスの貴腐ワインをボトルのままゴールドに寄越した。それを最後に棺は閉じられたが、彼を知るものたちはこの異邦からの来訪者を異様なものと扱い、その後も遠巻きに眺めるばかりだった。シルバーはそうは思わなかった。ゴールドは彼の義子なのだから。
 葬式が終わり、仲間内でしめやかに飲んだあと、シルバーは夜道でふたたび影に出会った。切れかけの白い電灯が並ぶコンクリートの道、その中途に、のっぽの影は立っていた。今度こそ彼女はそこに飛びつき、羊毛で作られた黒く分厚いコートの胸に頬を擦り寄せた。涙の代わりになにか取り止めもないことを話した。まだ誰にも打ち明けていないことだが、彼女はゴールドの子を妊娠していた。ひとりで、誰の助けもなく、子どもという未知のものを育てる自信が彼女にはなかった。影はその深みの中にシルバーの言葉をみな受け止め、太い腕で弱音ごと彼女を抱きしめた。シルバーが生涯で経験したどの抱擁よりも、力強く、胸が締め付けられるようなものだった。彼の娘もまた、永遠に失われた愛だけが照らす道を歩むさだめだったのだ。
「お父さん——」
「つらいか」
「つらくない。ただ寒いだけだ」
 娘の答えを聞いて、彼がどう思ったか知れない。だが確実に老いが彼の純粋な悪の資質を鈍らせた。彼は震える娘を丁寧な手つきで離し、薄い肩にふれ、腕までを撫で下ろすころに、決意をはっきりとその胸に固めていた。
「シルバー、一緒に暮らそう」
 重々しく押しこもった声が耳元でそう囁いたかと思えば、ふと意識の表層に光が差して、浅い眠りから現実へとシルバーを押し流した。夢うつつにシルバーが瞼を開けたとき、白いリネンのカーテンは夕暮れの淡いオレンジ色に軽やかにひるがえり、子どもはゆりかごの中で盛んに泣いていた。はっと身体を起こし、ベッドでブランケットをかぶって我が身は、あれから少し眠っていたのだと知った。腹の辺りでマニューラが寝こけているのを起こさないように、音をたてずにブランケットから抜け出す。
 あれからシルバーは一人であの子どもを産んだ。まだ雪もちらつく初春、二日に渡る難産で、町から呼んだ産婆はシルバーの身体をあれこれ検分して、母親が大事なら子どもはお諦めなさいと言った。それでもシルバーは頑として首を縦に振らなかった。まだ羊水にまみれたままの子どもをはじめて抱いたときもうこれで死んでもいいと思った。しかし、一ヶ月を子どもとともに過ごし、どうしたことだろう、彼女の胸には不安の残り滓がわずかに澱むばかりである。
 子どもは前かけを唾液や鼻水でべとべとに汚してわめいた。おむつをかえ、乳を含ませて、しばらくはそれで黙っていたが、腹も膨れるとふたたび気ままに泣き出した。シルバーの胸まで伸びた赤毛はぐいぐい引っ張られ、繊細な乳房の皮膚も歯で強く齧られて血が滲んだ。ついに髪を一束むしり取られたとき彼女はこの生き物との合理的なやり取りをあきらめた。産衣を厚手のものに着替えさせ、なおも泣く子どもを抱きかかえて寝室を出る。勝手口で野歩き用のブーツを履き、片手間に錠をおろせば、森全体を吹く湿った風がシルバーの前髪を吹き上げた。花の中にはもう閉じて頭を垂れたものも見られ、家に重たく覆いかぶさる無数の葉の向こうには、薄紫色の夕暮の空に細い月が浮かんでいる。シルバーはすこしの逡巡ののち、一度家に立ち戻り、黒のチェスターコートを羽織ってから今度こそ庭へ出た。花は赤ん坊の泣き声に不平も言わず、静かに従順に女主人を迎えた。夜の森は殺風景にすぎるから、少し派手なくらいの色がいい、でも癇癪ついでにこの子がむしってしまわない大きさの……あざやかなオレンジ色のエピデンドラムを一房切り落とす。芍薬の植え込みをかき分け、植え替えをしようと思ってそのままにしてあったデイジーの鉢植え、もう長らく使われていない様子の古井戸をよぎって、母子と花は森の薄暗がりと同質のものになった。
 トキワの森カントージョウト一帯ではよく見られるブナを中心とした原生林で、ほかにもウワジロモミ、ミズナラ、ウリハダカエデ、ヒッコリーなど、多種の樹木が低く枝を広げている。ブナは保水力が高く、また森の深い部分には湖があることもあって、この辺りはやや湿地帯、そうでなくとも腐葉土でいつも湿っている。その決して良くない足場、ブナの根の絡んだ土壌を、子どもを抱えたまま、サンダル一つで進んだ。子どもはいつの間に泣くのをやめ、大人しくシルバーの肩に顎を載せて、揺れるエピデンドラムの花房を掴もうと手をさかんに動かしている。
 細い小川をまたいですぐのところに、春楡の幼木に隠されるようにしてひっそりと、茂みの奥に通じる抜け穴が口を開けている。身をかがめて潜ると、木を組んだだけの簡素な作りの墓標と、それを中心に草木のひらけた場所に出る。つい二週間前にもシルバーが花を活けた花瓶には、みずみずしく露をいただいて、大輪の白薔薇が一輪咲いていた。ここはゴールドの墓だ……新妻が彼を弔うためだけに、遺灰を少しばかり持ち帰って作った慰霊の処。
「おまえのお父さんだ」
 しずまりかえった、ポケモンたちの足音ひとつしない天然の霊廟にあって、父親の墓を眺める子どもの顔すら静謐だった。まるまるとした赤ん坊の横顔は至ってあどけなく、その鼻梁の小さな突っかかりや、膨れたくちびるに、シルバーはなにか夫に対しとてもひどいことをしている気になってこうべをたれた。ゴールド、夭折、あまりにもふにあいな二つの単語を、自然につなげることができずいまはひどく苦しい。
 エピデンドラムを薔薇の隣に挿す。それだけで墓の雰囲気が少し明るくなったような気がして、引き攣る唇でシルバーは微笑んた。